真宗寺(読み)しんしゆうじ

日本歴史地名大系 「真宗寺」の解説

真宗寺
しんしゆうじ

[現在地名]堺市神明町東三丁

土居どい川の西にあり、真宗大谷派、本尊阿弥陀如来。同派別格寺格の五箇寺の一。樫木屋かたぎや御堂とも称した。寺伝によると、足利義氏の四男祐氏が当地に来住し出家、道祐と称し天台僧として修行していたが、本願寺三世覚如に帰依し、延元二年(一三三七)一宇を建立したのが草創という。当時、覚如・存覚父子は大和、河内、摂津住吉神社(現住吉区)方面へ巡化しているので(存覚一期記)、道祐が真宗に帰依する機会があったと思われる。

寺蔵の親鸞上人絵伝裏書に「文明二年十月廿八日 摂州住吉郡境北庄山口中町 願主釈道見」とあり、当寺五世道顕(道見)が文明二年(一四七〇)一〇月、本願寺八世蓮如より同絵伝を下付されている。道顕は蓮如の有力門弟で、同年本堂を再建しているが、当時は「山口中町」(北中之町のことか)にあったことがわかる。その落慶法要には蓮如を請じている(本願寺通紀)。蓮如は同年六月には堺南さかいみなみ紺屋こんや道場円浄に自画絵像(現徳島市慈船寺蔵)を下付しているので、文明三年吉崎よしさき(現福井県坂井郡)で教化滞留する以前に堺で布教し門弟を育成していたことになる。道顕は同八年境内に蓮如のため一宇を建立し信証しんしよう院とした。

真宗寺
しんしゆうじ

[現在地名]飯山市大字常郷 大坪

常盤山真宗寺、西本願寺末。通称大坪真宗寺。国鉄飯山線戸狩とがり駅の北端、標高三一二メートルから高さ約二〇メートルの小丘の西側にあり、東は千曲川、北は今井いまい川(運上うんじよう川)、南は広井ひろい川。飯山盆地を一望に収める。現戸狩―野沢温泉のざわおんせん線道路に沿う。

寺記によれば、弘安九年(一二八六)常陸国布川の僧行善が高井郡牛出うしいで(現中野市)に一寺を建立、真宗寺と称し、天文二一年(一五五二)戸狩村に移転、更に寛永一三年(一六三六)現在地に移転したと伝える。牛出村より移転したので、牛出真宗寺ともいった。

寛永一三年の移転は、戸狩村の寺地が千曲川洪水に度度水入りとなったため、組頭孫右衛門など連名で寺地を寄進し、証文に「今度とかり真宗寺様、大坪村之内、寺をかと申所に、高の外、新地の所を山屋敷共に三方川きり、肝煎惣百姓より永代真宗寺様へ寄進仕候者也」と記している。

真宗寺
しんしゆうじ

[現在地名]びわ町益田

真宗大谷派、本尊阿弥陀如来。湖北十ヵ寺の一つで、増田山と号する。寺伝によれば本願寺覚如の頃の草創という。三郡寺院鑑(長浜授法寺蔵)には「寺号、覚如上人御免」とあり、「輿地志略」によれば寺地は増田右衛門尉屋敷跡という。開基以後の動向は不明だが、「天文日記」には北郡の直参坊主衆として番役勤仕(天文七年五月一八日・一〇年六月八日・一二年一一月四日・一六年九月四日・一八年七月一八日など)にしばしば姿をみせるほか、二月二日の実如命日の斎(同九年・一五―一七年)と一一月二八日の報恩講の斎(同一三年・一五年)に相伴している。

真宗寺
しんしゆうじ

[現在地名]苫小牧市幸町一丁目

苫小牧市街の中央部西寄り、国道三六号の北側に位置する浄土真宗本願寺派寺院。山号は一乗山、本尊は阿弥陀如来。明治一四年(一八八一)三月に龍谷山本願寺派説教所として現在のもと町にある中央ちゆうおう院東側に建立。檀家は勇払ゆうふつ白老しらおい・千歳三郡で一〇七戸(苫小牧町史)。非公式な説教所であったため四、五人の僧侶の出入りはあったが、住職が得られず、説教所時代が長かった。同二〇年に福井県吉田よしだ昌蔵しようぞう(現同県松岡町)の朝倉寛渓が函館の北海道教務所から勇払郡などの布教を命ぜられて苫小牧を訪れ、のち当寺初代住職となった。

真宗寺
しんしゆうじ

[現在地名]古川町三之町

荒城あらき川のみや川への落合にあり、朝光山と号し、浄土真宗本願寺派。本尊阿弥陀如来。「斐太後風土記」によれば、享徳年間(一四五二―五五)始祖祐念は白川照蓮しらかわしようれん(現高山別院)八世明誓の弟子となり、天文一一年(一五四二)二世明空が荻町おぎまち(現大野郡白川村)より古川下町したまちへ移し、五世了円のとき真宗寺の寺号を賜ったという。寺伝によれば、金森氏が町を増島ますしまに移したとき寺地を現在地に賜り、さらに材木五〇本・板一〇〇枚を寄進され、宝永三年(一七〇六)八世了心のとき西本願寺に転派したという。

真宗寺
しんしゆうじ

[現在地名]鯖江市鳥羽一丁目

橋立山と号し、浄土真宗本願寺派。本尊阿弥陀如来。初めは橋立はしたて(現鯖江市)にあった。開基を折立おりたて(現福井県美山町)の真宗高田派称名しようみよう寺と同じ佐々木盛綱(法名は法善坊光実)とすることからその分寺と考えられる。本願寺証如の「天文日記」天文七年(一五三八)五月二一日条に「就当番儀、橋立真宗寺如毎月樽到来」とみえ、当時すでに本願寺末となっている。天正三年(一五七五)一向一揆を平定した織田信長は本願寺派の寺院を高田派へ転派させようとしたが、同五年七月二九日の称名寺宛柴田勝家書状(称名寺蔵)に「橋立真宗寺之事、為当寺末寺坊跡内門徒、自先規其方進退無紛」とあり、称名寺の末寺であるということで一揆狩を免れている。

真宗寺
しんしゆうじ

[現在地名]飯山市大字飯山

安養山笠原院真宗寺。真宗西本願寺末。同寺所蔵の天正三年(一五七五)証如上人画像裏書に「勝願寺門徒本誓寺下越後国頸城郡笠原真宗寺」、慶長二年(一五九七)顕如上人画像裏書に「信州笠原本誓寺門徒越後国頸城郡真宗寺」とある。これによって真宗寺は本誓寺の門徒で、この頃越後にあったことが明らかである。寺伝に信濃国井上善勝の子善性が親鸞の弟子となり、家臣とともに下総国磯部いそべに六ヵ寺を創立、のち六ヵ寺とも信濃に移った。六ヵ寺の一つ本誓寺は高井郡笠原(現中野市)に移り、更に再び越後頸城郡に移った。

真宗寺
しんしゆうじ

[現在地名]紋別郡湧別町栄町

湧別川河口近くの右岸、湧別市街地にある。湧別原野基線五番地にあたる。北関山と号し、真宗大谷派。本尊阿弥陀如来。明治二八年(一八九五)本山京都東本願寺の命を受けた児門愍誠が湧別村に来て仮説教場を開設したが、その位置は定かでない。翌二九年現境内地の寄付を受けて五間×六間の説教場を造営し、三月に落成。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

事典・日本の観光資源 「真宗寺」の解説

真宗寺

(長野県飯山市)
信州の古寺百選」指定の観光名所。

出典 日外アソシエーツ「事典・日本の観光資源」事典・日本の観光資源について 情報