飯島村(読み)いいじまむら

日本歴史地名大系 「飯島村」の解説

飯島村
いいじまむら

[現在地名]戸塚区飯島町

東は小菅谷こすがや村、南は笠間かさま村、西は金井かない村・田谷たや村・長尾台ながおだい村・戸塚とづか宿、北は長沼ながぬま村・下倉田しもくらだ村に接する。北東の高田たかだ山は下倉田村と長沼村に続き、南は大丸だいまる山に延びる。西に柏尾かしお川が流れ、南にいたち川が流れる。南に飯盛いいもり山があり、南方のへび山に連なる。鎌倉道が村内中央を通る。

建武二年(一三三五)三月一八日の新阿弥陀堂供僧以下料田坪付注文(県史三)によると、三位律師実修分田二町のうちに「五段飯嶋」とあり、証菩提しようぼだい寺新阿弥陀堂の供僧の料田があった。天文五年(一五三六)九月一五日の玉縄たまなわ(現鎌倉市)城主北条綱成の奉行木村某証文(同書)によると「飯島木部分」のうちにある鎌倉円覚寺塔頭雲頂うんちよう庵領三貫八〇〇文の諸公事が免除されている。


飯島村
いいじまむら

[現在地名]白川村飯島

しよう川左岸にあり、北部の下田しもだは枝村。白川街道が通り、鳩谷はとがや荻町おぎまち両村とともに白川郷の中心部にあり、古来大郷だいごうとよばれた地域(斐太後風土記)。東方対岸にしま村および荻町村の枝村、西方は卒塔婆そとば峠越で馬狩まがり村。高山別院照蓮しようれん(現高山市)の前身である嘉念坊道場があった。黒川西教くろかわさいきよう(現朝日村)の永正一二年(一五一五)本願寺実如下付の方便法身尊像裏書に「飛州照蓮寺門徒白川郷飯島村願主宗周」とある。天正一六年(一五八八)中野なかの(現荘川村)の照蓮寺が金森長近の高山城下に移る際、条件の一つとして飯島屋敷二〇〇文が寄進されている(同一五年八月四日「石徹白長澄寄進状」石徹白徳郎文書)


飯島村
いいじまむら

[現在地名]秋田市飯島、土崎港北つちざきみなときた三丁目・同四丁目・同六丁目、飯島緑丘いいじまみどりがおか町・同美砂みさご町・同松根西まつねにし町・同松根東まつねひがし町・同文京ぶんきよう町・同長野中ながのなか町・同長野本ながのほん町、港北新こうほくしん町・同松野まつの

相染新田そうぜんしんでん村の北に続き、村の東方を羽州街道が縦貫する。高清水たかしみず寺内てらうち台地の北方延長部、一〇メートル内外の砂丘砂に覆われた微高地に位置する。文禄五年(一五九六)の秋田実季知行宛行状(秋田藩家蔵文書)に飯島村の名がみえる。

正保四年(一六四七)の出羽一国絵図に七三〇石とある。享保一五年(一七三〇)の「六郡郡邑記」に「飯島村 四十二軒」とあり、支郷の島崎しまさき村四軒、飯岡いいおか村七軒、堀川ほりかわ村一一軒、水尻みなしり村二四軒は元禄四年(一六九一)の開村。


飯島村
いいじまむら

[現在地名]平塚市飯島

南方を金目かなめ川が流れ、東は寺田縄てらだな村、西は片岡かたおか村、北は矢崎やさき村、南は広川ひろかわ村に接する。用水は寺田縄村の用水を中溝なかみぞ堰・寺田縄てらだな圦樋から引く。金目川堤上を西方へ曾屋そや(波多野道)が通る。小田原衆所領役帳に関兵部丞「買得廿貫七百五拾文 中郡飯島元大藤知行」とある。

元禄一〇年(一六九七)旗本鵜殿二氏・小河領の三給。文政一一年(一八二八)旗本鵜殿・小河領と小田原藩領の三給。


飯島村
はしまむら

[現在地名]安来市飯島町

安来町・安来村の西、伯太はくた川左岸に位置する。古代には中海が当地辺りまで入り込んでいたと考えられており、「出雲国風土記」意宇おう郡条に記される(「椿・比佐木・多年木・蕨・薺頭蒿あり」と説明される)は、現在の権現ごんげん(一八・七メートル)をさすという。正保国絵図には吉田よしだ川を合せたのちの伯太川河口左岸に村名が記される。元禄十年出雲国郷帳によると高八一三石余、うち永荒が一九六石余あり残高六一七石余。


飯島村
いいじまむら

[現在地名]下館市飯島

江戸道(結城街道)に沿って位置し、東は神分かみわけ村。文明一〇年(一四七八)水谷勝氏が下館に築城後、同氏の支配地となり、同一三年に水谷氏下館城の守りとして結城口にあたる当村に石川監物を配した(下館市史)。江戸時代は寛永一九年―寛文三年(一六四二―六三)の在番時代を除き下館藩領で、元和九年(一六二三)の水野谷様御代下館領村々石高并名主名前控(中村家文書)に村高二一七・九〇一石とある。天保八年(一八三七)の常陸御国絵図御改之記(同文書)には「高弐百拾七石九斗壱合、高八拾九石六斗壱升三合・原地御新田延享三年御改、内高弐拾五石三斗九升八合・林金五郎様持添御新田、鎮守稲荷明神、家数八軒、馬四疋、石川近江守領分」とあり、元禄一五年(一七〇二)以降延享三年(一七四六)の間におよそ九石余の新田が開発され、うち二五石余の天領分は飯島新田とよばれた(各村旧高簿)


飯島村
いいじまむら

[現在地名]大洋村飯島

東は鹿島灘に面し、村の中央を鹿島(飯沼)街道が通る。天正一九年(一五九一)佐竹氏の一族東義久の知行地となり、文禄四年(一五九五)の中務大輔当知行目録(秋田県立図書館蔵)に「百九拾九石四斗五升 いい嶋」とある。江戸初期に旗本領となり、寛永一〇年(一六三三)の鹿島郡中高改帳によれば、村高一〇一石余で、大久保氏が支配した。元禄期(一六八八―一七〇四)の「常陸帯」には「鹿島の宮より、猶磯伝ひに、貝つ物拾ひ、海の水むすびて、嘗味ひなどしつつ、行く行く、日もやや落方に、飯島と云ふ里に至りて、賤が茅屋に宿を求めたり」と記され、また天保四年(一八三三)の「中居村凶作記」(大洋村史)には「八月一日 大風吹来たり早生稲は殆んど全滅す、家屋の被害多く、樹木の大木倒れ二百数十本に及ぶ」とあり、当村では八幡宮福相ふくそう院の大木が倒れ、風折の杉で京知釜きようちがまの地引船を造ったという。


飯島村
いいじまむら

[現在地名]諏訪市四賀しが 飯島

かみ川の下流沿いにあり、東は上川を隔てて神戸ごうど村、西に福島ふくじま村がある。白狐島びやつこじまなどとともに諏訪七島の一つに数えられる。中世には栗林くりばやし郷に含まれていたと考えられ、永禄三年(一五六〇)六月の武田信玄安堵状(矢島文書)には上社の権祝領として「七拾五貫四百文 北栗林庄飯嶋村」とみえている。

慶長一八年(一六一三)の信州諏訪郡高辻には「高三百九拾七石四斗壱升 飯島□」とあり、享保一八年(一七三三)書上の諏方藩一村限村地図(長野県庁蔵)には、ほぼ同高で、「家数六拾六軒 外寺一ケ所」と記されている。


飯島村
いいじまむら

[現在地名]川島町飯島

安塚やすづか村の北東にあり、西は上伊草かみいぐさ村、東は上狢かみむじな村など。田園簿では田高一一三石余・畑高二〇石余、川越藩領。寛文四年(一六六四)の河越領郷村高帳では高二一六石余、反別は田二一町八反余・畑六町七反余。ほかに開発地高三三石余(田三町三反余・畑一町余)があった。以後の領主の変遷は上伊草村に同じ。「風土記稿」によると家数三八、用水は中山なかやま用水を引いた。字榎戸えのきどには郷倉が置かれ、中山道桶川宿の加助郷を勤めていた(鈴木家文書)


飯島村
いいじまむら

[現在地名]玉村町上飯島かみいいじま

日光例幣使街道に沿い、西は下新田しもしんでん村、北は福島ふくしま村、南は後箇ごか村、東は上茂木かみもぎ村。集落は日光例幣使街道沿いの新田と滝川たきがわ用水沿いの本村(本飯島)がある。天正七年(一五七九)宇津木左京亮は武田氏から「飯島半郷長井分」二五貫文など、二八一貫文を与えられている(同年一二月二八日「北条高広奉書」宇津木文書)。「寛文朱印留」に村名がみえ、前橋藩領。


飯島村
いいじまむら

[現在地名]吉川町飯島

半割はんわり村の南にあり、村の西を大場おおば川が流れる。慶長一九年(一六一四)一月の伊奈忠治開発手形(武州文書)に「二郷半の内飯島新田開之事」とみえ、平右衛門に対して、開墾の当年、畠は二年間無年貢とし、野銭がある者は本野銭を納めること、諸役不入とすることなどを記し、問題のない者は移住させ、必ず諸役免除とするので新田開発を進めて欲しい旨強調している。「風土記稿」によればこの右衛門は伊右衛門とともに埼玉郡飯島村(比企郡の誤りとすれば、現川島町)より来たという。


飯島村
いいじまむら

[現在地名]佐原市飯島

利根川右岸に位置し、北西は石納こくのう村、東はいわさき村。慶長四年(一五九九)の矢作領検地では検地高二三七石余(「部冊帳」伊能家文書)。元禄一三年(一七〇〇)頃の下総国各村級分では高八七石、幕府領と伊勢津藩領の相給で、享保四年(一七一九)当時の幕府領の反高二町五反余は新田分、津藩領八七石は本田分と考えられる(前掲部冊帳)


飯島村
いいじまむら

[現在地名]常澄村塩崎しおがさき

那珂川の右岸、鹿島街道の北にあり、東は小泉こいずみ村。「新編常陸国誌」には「中世飯島氏アリ、此地ヨリ起レリトゾ」と記される。近世は水戸藩領で、元禄郷帳に「飯嶋村」とみえる。天保一三年(一八四二)の検地のとき塩崎村へ合村した。「水府志料」によると戸数およそ一五。


飯島村
いいじまむら

[現在地名]伊勢崎市飯島町

利根川左岸にあり、全村平坦地で、東は下蓮沼しもはすぬま村、北は上蓮沼村、西・南は長沼ながぬま村。「寛文朱印留」に村名がみえ、前橋藩領。寛文郷帳では田方四石余・畑方一四〇石余。天保二年(一八三一)の伊勢崎領田畑寄(上岡文書)によれば新田ともで反別五町四反余、うち田方三反余・畑方六町一反余。ほかに新田九石余があったが、川欠けとなっており、耕地は畑三町余のみである。年貢は永二貫余のみ。家数二四、男五三・女五三。


飯島村
いいじまむら

[現在地名]越路町飯島

篠花ささばな村の北、西野にしの村の東。正保国絵図に三島郡「飯島村」高一八七石余がみえる。元和四年(一六一八)以後明治に至るまで長岡藩領。口碑によると、もとは信濃川右岸にあったが、寛政元年(一七八九)の信濃川大洪水にて田地を失い、一時近隣村に離散。天保七年(一八三六)七月の大洪水にも二六軒の集落のうち九軒が水没し、残りも流失。のち左岸の付洲へ一村移転して開墾を行ったという(明治一四年飯島村勢報告書)


飯島村
いいじまむら

[現在地名]永平寺町飯島

九頭竜くずりゆう川南岸に位置し、北の対岸は岩野いわの村、西は光明寺こうみようじ村、南を勝山街道が通る。慶長一一年(一六〇六)頃の越前国絵図では志比上しひかみ之庄内に含まれていたと思われる。村名は正保郷帳にみえ、田方一七〇石余・畠方一三六石余。


飯島村
いいじまむら

[現在地名]水戸市飯島町

水戸城下の南西に位置し、北境を東流する桜川で金谷かなや大塚おおつか両村に対する。地勢はおおむね平坦で、桜川沿いは低地をなす。中世は江戸氏、のち佐竹氏の領地となり、江戸時代には旗本領で、幕末には旗本斎藤氏の知行所であった(各村旧高簿)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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