日本歴史地名大系 「飯島村」の解説
飯島村
いいじまむら
東は
建武二年(一三三五)三月一八日の新阿弥陀堂供僧以下料田坪付注文(県史三)によると、三位律師実修分田二町のうちに「五段飯嶋」とあり、
飯島村
いいじまむら
飯島村
いいじまむら
正保四年(一六四七)の出羽一国絵図に七三〇石とある。享保一五年(一七三〇)の「六郡郡邑記」に「飯島村 四十二軒」とあり、支郷の
飯島村
いいじまむら
- 神奈川県:平塚市
- 飯島村
南方を
元禄一〇年(一六九七)旗本鵜殿二氏・小河領の三給。文政一一年(一八二八)旗本鵜殿・小河領と小田原藩領の三給。
飯島村
はしまむら
飯島村
いいじまむら
- 茨城県:下館市
- 飯島村
江戸道(結城街道)に沿って位置し、東は
飯島村
いいじまむら
東は鹿島灘に面し、村の中央を鹿島(飯沼)街道が通る。天正一九年(一五九一)佐竹氏の一族東義久の知行地となり、文禄四年(一五九五)の中務大輔当知行目録(秋田県立図書館蔵)に「百九拾九石四斗五升 いい嶋」とある。江戸初期に旗本領となり、寛永一〇年(一六三三)の鹿島郡中高改帳によれば、村高一〇一石余で、大久保氏が支配した。元禄期(一六八八―一七〇四)の「常陸帯」には「鹿島の宮より、猶磯伝ひに、貝つ物拾ひ、海の水むすびて、嘗味ひなどしつつ、行く行く、日もやや落方に、飯島と云ふ里に至りて、賤が茅屋に宿を求めたり」と記され、また天保四年(一八三三)の「中居村凶作記」(大洋村史)には「八月一日 大風吹来たり早生稲は殆んど全滅す、家屋の被害多く、樹木の大木倒れ二百数十本に及ぶ」とあり、当村では八幡宮・
飯島村
いいじまむら
- 長野県:諏訪市
- 飯島村
慶長一八年(一六一三)の信州諏訪郡高辻には「高三百九拾七石四斗壱升者 飯島□」とあり、享保一八年(一七三三)書上の諏方藩一村限村地図(長野県庁蔵)には、ほぼ同高で、「家数六拾六軒 外寺一ケ所」と記されている。
飯島村
いいじまむら
飯島村
いいじまむら
飯島村
いいじまむら
飯島村
いいじまむら
飯島村
いいじまむら
飯島村
いいじまむら
- 群馬県:伊勢崎市
- 飯島村
利根川左岸にあり、全村平坦地で、東は
飯島村
いいじまむら
飯島村
いいじまむら
飯島村
いいじまむら
- 茨城県:水戸市
- 飯島村
水戸城下の南西に位置し、北境を東流する桜川で
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報