馬場遺跡(読み)ばばいせき

日本歴史地名大系 「馬場遺跡」の解説

馬場遺跡
ばばいせき

[現在地名]足助町下平 馬場・竹ノ下

標高六八三・五メートルの炮烙ほうろく山の北麓、同五七一・八メートルの十明とみよう山の西麓にあたり、十明山西山麓から流れる二つの谷川に挟まれた段丘上に位置する。標高三四〇メートル。遺跡は段丘上の山寄りの地点、約一千平方メートルに及ぶ。後ろに山を背負い北西方向が開けている。

昭和五四年(一九七九)から五五年にかけての発掘で、縄文早期押型文土器の破片五百数十点を検出。押型文土器が集中するのは約二〇〇平方メートルの区域で、水田面下約一メートルに柱穴群と炉跡一基を検出。柱穴は径一五―二〇センチの小型で、六基の平地住居を含むと推定された。なかには間口が広く、奥行の狭い片屋根に近い屋根を想定させる柱穴群があり、そのうち第一号住居跡は間口二・五メートル・奥行一・八メートルだった。

馬場遺跡
ばばいせき

[現在地名]佐原市福田 馬場

南流する栗山くりやま川と北流する香西かさい川との分水嶺付近の台地上に位置する奈良・平安時代の集落遺跡。標高は三九メートル。浅い谷を隔てた同一台地上に所在する同時期の集落遺跡の中山なかやま遺跡と関連する遺跡と把握されている。昭和五七年(一九八二)に発掘調査が行われ、おもな遺構として竪穴住居跡四軒が検出された。出土遺物のなかに墨書土器四点があり、うち一点には体部外面に「鹿郷長鹿成里成里人」、底部外面に「子山谷」と記されていた。土器は九世紀前半頃のものとされる。「鹿郷長鹿成里成里人」の意味については、鹿郷長を香取郷長、鹿成里を姓、成里人を名と解して、下総国香取郡香取郷長である鹿成里成里人という人名と理解する見解がある。

馬場遺跡
ばばいせき

[現在地名]彦根市川瀬馬場町・日夏町・清崎町

宇曾うそ川と犬上いぬかみ川が形成した沖積平野(標高九三・五メートル)に立地。昭和五八年(一九八三)および同六三年の二次の発掘調査の結果、弥生時代中期のIII期後半―IV期にわたる集落遺跡であることが判明した。検出遺跡のうち特筆されるのは掘立柱建物(三五棟検出)に住居形式が限定される点である。平面プランは長方形をとるものが多く、大半が梁間一間という主柱穴配置をとる。

馬場遺跡
ばんばいせき

[現在地名]相川町北片辺 馬場

大佐渡海岸の中央部藻浦もうら崎の東へ流れ込む石花いしげ川河口から二〇〇メートルの左岸段丘斜面の砂丘上に立地。標高一四メートル。河口はラグーンであったとみえて、古代中世の遺物と丸木舟が出土するほか、海浜に古代製塩遺跡もある。昭和五七年(一九八二)に圃場整備事業による発掘が実施された。遺構は柱穴建築跡と祭祀の焼土床群・土壙二個である。柱穴は六二本出土したが、建替えがみられ構造ははっきりしない。遺物には馬歯・魚骨・製塩土器・小型壺・長頸壺・坏・甕・紡錘車・筒形有孔脚台・支柱があり、かまどをすえての神祭のあとである。土壙は六メートルに五メートル、深さ九〇センチの西洋皿形で、埋蔵品は立石・凹石・磨石・自然礫・炉壁片・小型製鉄器・鉄滓・可搬かまど・支柱・筒形有孔脚台・馬歯・鹿骨・焼骨・青銅製巡方と裏金の帯金具・すえられた大甕ほかの須恵器・土師器である。

馬場遺跡
ばばいせき

[現在地名]長岡京市馬場

向日むこう台地と神足こうたり台地との間、標高約二〇メートルの平地にある弥生時代の集落遺跡。台地の間を流れる小畑おばた川が形成した扇状地状をなし、東方の低湿地に比べてやや微高地をなしている。

昭和三七年(一九六二)頃工場などが建設された時、弥生土器・石鏃などが採集されて遺跡が発見された。発掘調査が実施されていないため、遺跡の性格などは不明であるが、周辺の調査で、東北二五〇メートルに古墳時代前期の土器を多量に含む溝状の遺構が検出され、西北二五〇メートルに古墳時代後期の土器包含層が発見されており、小畑川沿いの微高地を利用して、かなり早くから広範囲な集落が営まれていたことがわかる。

馬場遺跡
ばつぱいせき

[現在地名]南足柄市狩野

箱根外輪山明神みようじんヶ岳の泥流台地末端にある縄文後期の集落跡および墓地。遺跡の前面にはかり川が流れる。標高約四五メートル、狩川との比高八メートル。昭和四一年(一九六六)発掘が行われ、縄文後期堀之内式期の敷石住居跡、加曾利B期の竪穴住居跡、土壙墓などが発見された。

馬場遺跡
ばんばいせき

[現在地名]新城市竹広 馬場

市立東郷中学校運動場の南東隅の下方にあり、中位段丘に立地する。標高六八メートル。遺跡は豊川用水路幹線水路用地内に位置したため、昭和四〇年(一九六五)に発掘。平安時代後期の一辺約二・五メートルの小竪穴住居跡一つと住居跡内外から灰釉陶器・土師器・土錘が出土した。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報