デジタル大辞泉
「佐賀市」の意味・読み・例文・類語
出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例
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佐賀市
さがし
面積:一〇三・六九平方キロ
北は背振山地の山麓に接し、南は有明海の海岸線が一・六キロにわたる。東西一二・八〇キロ、南北一八・六五キロの菱形の市域。筑後川や嘉瀬川の沖積作用でできた佐賀平野の中心に位置するため、とくに南半の地盤は軟弱であり、有明海に面しては低平な干拓地が広がる。市の中心地である市役所付近が標高約四メートルである。背振山地の南斜面を流下する嘉瀬川などの豊富な水と肥沃な土壌によって米作中心の農業が行われている。農業災害は台風による高潮の害と洪水がおもなもので干害は比較的少ない。
地形的に、南北に山麓から海岸までの緩傾斜であるので、全時代にわたっての遺跡・遺物が北から南へ時代を追って分布している。
〔原始・古代〕
標高五メートルの線、すなわち高木瀬町大字東高木、鍋島町大字森田を結ぶ線が縄文中期の平均満潮位の線と考えられる。すなわち現在の市街地の大部分は潟地で、この等高線より以北に人々は生活していた。北部の久保泉・金立地域すなわち山麓地帯から平地への移行地帯に多くの遺跡が分布しており、石器および縄文式土器を出土しているが、金立町大門遺跡以外はまだ調査が十分でない。
なお弥生時代の初期には標高四メートルの等高線が居住圏の南限だったことが、石井・持丸などの弥生期の貝塚の線からも考えられ、これはほぼ現在の国道三四号・二六四号の付近である。すなわち旧佐賀城下町の中心付近が海岸線であったということになる。弥生時代の遺跡は水稲栽培の普及とともに山麓からやや平地に下った所に広く分布しており、縄文遺跡と同じく久保泉・金立地域に多い。久保泉町の櫟木遺跡からは銅戈鎔范が出土し、周辺には甕棺墓が多い。巨勢川・金立川の流域に遺跡が多く、川久保谷内・帯隈山周辺・西原・大門などに諸遺跡があるが、大門の南にある十本杉遺跡からは竪穴式住居も発見されている。
古墳時代にはいると、大陸からの文化や技術の流入を物語るものが多いが、平地の水田を眺望できる位置に多くの古墳が築造された。数では円墳が最も多いが、銚子塚古墳など平地に築造された典型的な前方後円墳もある。また久保泉の熊本山古墳では阿蘇溶岩をえぐり抜いた大型舟形石棺を出土。そのほか川久保の山王山古墳、関行丸古墳、線刻文様の装飾古墳である金立の西隈古墳がある。群集墳としては久保泉町西原の天神山古墳群、川久保古墳群、金立町の黒土原古墳群、乱斗山古墳群など横穴式石室をもつ小円墳群である。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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佐賀〔市〕
さが
佐賀県東部,佐賀平野のほぼ中央に位置する市。県庁所在地。脊振山地の南斜面に広がり,南は有明海に臨む。西部を嘉瀬川,南東部を筑後川が流れ,北と南東で福岡県に接する。 1889年市制。 1922年神野村,1954年西与賀村,嘉瀬村など 10村,1955年蓮池町の一部をそれぞれ編入。 2005年諸富町,大和町,富士町,三瀬村の4町村と合体。 2007年川副町,東与賀町,久保田町の3町を編入。中心市街地の佐賀には鎌倉時代から地頭龍造寺氏の居城があったが,慶長 12 (1607) 年以後は鍋島氏の城下町として発展。廃藩置県後,佐賀の乱を経て,1883年県庁所在地となり,行政,経済,文化の中心地となる。食料品,電機,繊維,木材,機械,鋳物,紙器など工場が多数造立。農村部は日本屈指の米作地帯で,低地一帯には湿地を掘り下げたクリークが分布し,特殊な農村景観をつくる。林業やノリの養殖も盛ん。北西部の熊ノ川温泉,古湯温泉が有名。川上峡付近には肥前国庁跡 (国指定史跡) や金立神社などある。また,佐賀城跡の城門をはじめとする国の重要文化財や,帯隈山神籠石 (おぶくまやまこうごいし) ,大隈重信旧宅,西隈古墳,銚子塚古墳などの国指定史跡があり,見どころが多い。エヒメアヤメ自生南限地帯,カササギの生息地,下合瀬の大カツラはいずれも国の天然記念物。北部は脊振北山県立自然公園,嘉瀬川上流の川上川周辺は川上金立県立自然公園,西部は天山県立自然公園に属する。 JR長崎本線,国道 34号線,208号線,263号線,264号線などが通じる交通の要地。中部に長崎自動車道の佐賀大和インターチェンジ,南部に佐賀空港がある。面積 431.84km2(境界未定)。人口 23万3301(2020)。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
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