愛知県中南部にある市。2006年1月旧岡崎市が額田(ぬかた)町を編入して成立した。人口37万2357(2010)。
岡崎市西部の旧市。岡崎平野の中心に位置する西三河地方の経済・文化・交通の中心都市。1916年市制。人口37万2479(2005)。縄文時代早期から矢作(やはぎ)川,乙(おと)川沿いに居住が営まれ,古くから水陸交通の要衝であったが,15世紀半ば岡崎城が築かれ,近世には5万石の城下町,岡崎,藤川は東海道の宿場町,矢作川の水陸貨物の中継河港町として栄えた。明治に入り,東海道線(1888開通)を忌避したため交通集落としての機能は衰えたが(ただし同年旧岡崎宿南方に岡崎線が開業),1923年に名古屋と豊橋を結ぶ愛知電鉄(現,名鉄名古屋本線)が開通して活況を取りもどした。工業は三河木綿の産地として知られるように古くから繊維工業を中心に展開してきた。特に農家の副業的零細経営を特色とするガラ紡は第2次世界大戦後の衣料難時代に最盛期を迎え全国の中心地となった。現在は東レに代表される化学繊維工業が主流である。しかし,工業の中心は昭和50年代以降自動車工業,化学工業に移ってきている。伝統工業として石工業,三河花火,八丁みそが有名。1970年ごろから人口が急増し,名古屋への通勤者も増えている。東名高速道路のインターチェンジがある。
執筆者:溝口 常俊
三河国額田郡の城下町。東海道の宿場町および矢作川水運の基地としても栄えた。古くは矢作宿と呼ばれ,室町時代に入ると連歌師の日記などに岡崎の地名が用いられている。矢作川と乙川(菅生川ともいう)の合流点の台地に中世末に岡崎城が築かれ,その後,徳川家康の祖父松平清康が安祥(あんじよう)城(安城)から岡崎に本拠を移して三河一国を領有し,家康もこの地で独立し,天下統一をめざした。家康の関東移封後,豊臣秀吉によって田中吉政が入封したが,関ヶ原の戦後は,本多,水野,松平,本多といずれも譜代大名が封ぜられて維新をむかえた。藩政の確立にともなって城下も整備されたが,東海道が俗に二七曲りといわれて屈折した形で城下を通り,それに沿って細長い形で城下町が形成された。東から投(なぐり)町,両町,伝馬町とつづき,籠田総門に入って籠田町,連尺町,横町,材木町,下肴町,田町,板屋町とつづき,松葉総門を出て松葉町へと通じた。また,街道の北側に久右衛門小路町,裏町,上肴町,能見町があり,南側に十王町,祐金町,六地蔵町,唐沢町があり,計19ヵ町であった。このうち人馬役を負担する役町が11ヵ町,ほかは年貢町であった。町政は町年寄,庄屋,組頭によっておこなわれ,年寄には連尺町の有力商人が任命された。寛政(1789-1801)ごろには宿町家数1626,人口6331,うち男3015,女3316であった。ほかに借屋・寺社250余があり,1858年(安政5)には,本陣3,脇本陣3,旅籠122,茶屋17,町医師8,商家624,職人362,農家494,明家42,寺院41,寺社領791,計2507軒とある。ほかに城郭を中心に武家屋敷があった。城下は東海道を往来する人々,周辺地域から集まった人々,また,寺院が多くその門前に町ができ,参拝に来る人々でにぎわいをみせた。また,町内も含めて木綿の栽培が盛んでその取引もおこなわれ,矢作川,乙川沿いには土場が置かれて交易も盛んであった。明治になって一時額田県の県庁所在地となったが,その後は西三河の中心都市として発達した。
執筆者:吉永 昭
岡崎市東部の旧町。旧額田郡所属。人口9103(2005)。矢作川支流の男(おと)川と乙(おと)川の流域,美濃三河高原の山地を占め,西は旧岡崎市に接する。米作と畜産のほかコンニャク,茶,シイタケの栽培,宮崎を中心に杉,ヒノキ材の生産が行われる。豊富にケイ石,形埜(かたの)に花コウ岩の採掘所がある。男川上流の闇刈(くらがり)渓谷は景勝地として知られ,南東隅の本宮(ほんぐう)山(789m)とともに県立自然公園に指定され,本宮山スカイライン(2006年無料開放)が通じる。臨済宗の名刹天恩寺の地蔵堂と山門は重要文化財。
執筆者:萩原 毅
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
愛知県中央部、西三河(にしみかわ)地方の中心都市。徳川家康の生誕地として知られる。1916年(大正5)市制施行。1928年(昭和3)岡崎、美合(みあい)、男川(おとがわ)の3村、1955年(昭和30)福岡、岩津(いわづ)、矢作(やはぎ)の3町と、竜谷(りゅうがや)、藤川、山中、本宿(もとじゅく)、河合(かわい)、常磐(ときわ)の6村、1962年六ツ美(むつみ)町を編入。2003年(平成15)中核市に移行。2006年額田町(ぬかたちょう)を編入。JR東海道本線が通じ、愛知環状鉄道を分岐する。また、名古屋鉄道本線が通じ、名古屋へは約40分。道路は、東名高速道路(岡崎インターチェンジ)、新東名高速道路(岡崎東インターチェンジ)、国道1号、248号、301号、473号が走る。三河高原の南端に位置し、岡崎平野との接点にあり、矢作川、乙(おと)川、男川が市内を貫流。岡崎の名は地勢からつけられたらしく、山地の末端が市街中央に延び甲山(かぶとやま)(約65メートル)となり、岡と坂の多いのが特徴。岡崎城は三河守護代西郷稠頼(つぐより)が1455年(康正1)築き、のちに松平清康(きよやす)(家康の祖父)が入城し、市場も設けたという。しかし、本格的な城下町づくりは1590年(天正18)田中吉政(よしまさ)によってである。江戸時代には5万石の城下町、東海道五十三次の宿場町としてにぎわった。本多、水野、松平(松井)、本多の歴代城主は譜代(ふだい)大名で幕府の要職にもついた。明治初年、三河10藩が額田(ぬかた)県となり県庁は岡崎城内に置かれた。城跡はいま岡崎公園となっているが堀、石垣は当時のまま、東照公産湯(とうしょうこううぶゆ)の井、復原天守閣(1959)、「三河武士のやかた家康館」などもある。
中心部は1945年(昭和20)の戦災で大半が焼失、4年後には戦災復興モデル都市、現在は再開発事業が完成して、西三河全域の商業の中心となっている。工業は近代工業の繊維、化学、自動車工業と伝統工業の石材工業、花火、八丁(はっちょう)みそ、ガラ紡、特紡などの複合工業型となっており「石都(せきと)岡崎」の異名がある。史跡に富み、大平一里塚、真宮遺跡(しんぐういせき)、北野廃寺跡などは国指定史跡。また家康ゆかりの社寺としては大樹(だいじゅ)寺はじめ、伊賀八幡(はちまん)宮、六所(ろくしょ)神社、瀧山(たきさん)東照宮などがあり、大樹寺は徳川氏の菩提寺で松平8代の墓がある。祭りには瀧山寺鬼祭、家康行列などがあり、菅生(すごう)川(乙川の下流)畔の夏の夜の花火大会は有名。そのほか、岡崎市美術博物館、岡崎市美術館、おかざき世界子ども美術博物館、郷土館(建物は国指定重要文化財)などの文化施設があり、自然科学研究機構の岡崎共通研究施設、愛知学泉大学、愛知産業大学、人間環境大学、県立農業大学校など、教育・研究機関も多い。面積387.20平方キロメートル、人口38万4654(2020)。
[伊藤郷平]
『柴田顕正編『岡崎市史』10巻・別巻1(1926~1935・岡崎市)』▽『『新編岡崎市史』全20巻(1983~1993・岡崎市)』
京都市南東部、三条通以北、東大路通以東一帯の地。左京区に含まれる。平安末期には白河(しらかわ)法皇の造営になる院御所をはじめ、法勝寺(ほっしょうじ)など六勝寺(ろくしょうじ)の伽藍(がらん)が立ち並んでいたが、のち兵火によって焼失し、人家もまれであった。1895年(明治28)平安遷都1100年を記念して、平安京大内裏(だいだいり)を模して平安神宮が創建された。また1904年には内国勧業博覧会の会場跡地が岡崎公園となった。現在、府立図書館、市立美術館、国立近代美術館、市立動物園、京都市勧業館(みやこめっせ)、京都伝統産業ふれあい館、京都会館などがあり、京都市民の文化センターとなっている。
[織田武雄]
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出典 日外アソシエーツ「事典・日本の観光資源」事典・日本の観光資源について 情報
…村域の大半は山林である。榛名山麓の岡崎は近世の新田集落で,榛名湖から流下する沼尾川の水をひき,開田された。近年は渋川市をはじめ村外への通勤者が多い。…
…三河国碧海郡(現,愛知県岡崎市)の地名。矢作川渡河点として古代以来交通の要地であった。…
※「岡崎」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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