平将門(読み)タイラノマサカド

デジタル大辞泉 「平将門」の意味・読み・例文・類語

たいら‐の‐まさかど〔たひら‐〕【平将門】

[?~940]平安中期の武将。高望たかもちの孫。下総しもうさを本拠として土着豪族の伝統的勢力を継承、伯父国香を殺し、関東の最強豪族となった。下総猿島さしまに王城を営み、文武百官を置いて新皇と称したが、平貞盛藤原秀郷ふじわらのひでさとに攻められて敗死。
海音寺潮五郎の長編歴史小説。昭和29年(1954)から「経済産業新聞」に連載されたものが初出。単行本は、第一部「帰去来の巻」が昭和30年(1955)、第二部「乱離の巻」が昭和32年(1957)刊行。戦前・戦中の皇国史観により、逆臣として不当に評価されてきたの歴史的位置づけを正そうとした作品。
真山青果の戯曲。大正14年(1925)、雑誌「中央公論」1月号に掲載。昭和2年(1927)2月、井上正夫らが本郷座にて初演。

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精選版 日本国語大辞典 「平将門」の意味・読み・例文・類語

たいら‐の‐まさかど【平将門】

  1. 平安中期の武将。鎮守府将軍良将の子。下総を本拠として勢力をふるい、父の遺領問題などから承平五年(九三五)伯父国香らを殺し、天慶二年(九三九)「平将門の乱」を起こす。関八州の支配を企て、常陸・上野・下野の国府を攻略して、下総猿島(さしま)郡石井(いわい)郷(茨城県坂東市岩井)に王城を営み、新皇を自称。朝廷を模して文武百官を任命したが、平貞盛、藤原秀郷らに攻められ、翌三年猿島で敗死した。

たいらのまさかどたひらのまさかど【平将門】

  1. 戯曲。四幕五場。真山青果作。大正一四年(一九二五)発表。昭和二年(一九二七)東京本郷座初演。伯父国香、従弟貞盛らを殺したことによる平将門の苦悶(くもん)と、平家一門の策略、復讐(ふくしゅう)などを描く。

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改訂新版 世界大百科事典 「平将門」の意味・わかりやすい解説

平将門 (たいらのまさかど)
生没年:?-940(天慶3)

平安中期の武将。桓武平氏上総介平高望の孫。父は鎮守府将軍,良持あるいは良将と伝える。《尊卑分脈脱漏》によると,母は犬養春枝の娘。その行動は《将門記》に詳しい。若いころ上洛し藤原忠平に仕えたが,931年(承平1)〈女論〉により伯父の下総介良兼と争う。この〈女論〉には諸説あるが,良兼の娘は将門の妻として将門と同居しているので,この婚姻にかかわるものと推察される。将門は下総北部鬼怒川水系沼沢地帯の豊田,猿島(さしま)地方を地盤としていたが,935年,常陸西部の筑波山麓地帯に勢力をはる常陸大掾源護と平真樹との争いにまきこまれ,護の女婿であった平国香,良正,良兼らおじたちと戦うことになる。936年10月,源護の訴えにより京都に召喚,禁獄されるが,朱雀天皇元服の大赦による帰郷後,良兼らの軍に攻められて,のち一族間の紛争はいっそう激化した。939年(天慶2)春,武蔵国の権守興世王,介源経基と足立郡司判官代武蔵武芝との紛争の仲介に乗り出すが,これに失敗,経基に謀叛として訴えられた。この問題が解決されないうちに,同年11月に常陸の国衙を焼き払ったことから将門の行動は国家への反乱となり,将門は〈新皇〉と称して関東の分国化をめざす。しかし将門には独自の政治構想がなく,940年2月に藤原秀郷と国香の子平貞盛らに討たれ,梟首(きようしゆ)された。享年は《将門記》にはないが,後世の所伝には39歳とするものがある。

 将門は俠気に富んだ人物で,武芸によって身を立てようとしたつわものであったが,その領主としての性格をどうとらえるか,またその武力構成を中世の武士団との関連でどう位置づけるかには,多くの説がある。将門を私営田領主として中世の領主と区別する見解が強いが,その率いる伴類を農奴または農奴主として中世的性格を強調する説もある。また将門を鬼怒川はんらん原の開墾農場主とみる見解が強いが,最近ではその根拠地石井と鎌輪がともに兵部省の官牧を背後にもっていたことを重視し,官牧の牧司としてとらえ直そうとする見解が提出されている。

 新皇将門の関東支配は数ヵ月にすぎないが,中央派遣の受領を放逐したその行為は,とくに関東の民衆に大きな影響を与え,将門を英雄として仰ごうとする気分は年とともに強まった。10世紀末には将門の死後霊験譚が形成されはじめ,しだいに子孫説話も整えられて,12世紀に成立する《今昔物語集》では壬生良門,地蔵小院蔵念,如蔵尼などがその子孫とされている。中世には千葉氏とその一流の相馬氏には,将門の後継者とする説話が作られるが,これには妙見信仰が深くかかわっている。近世の文芸作品には将門伝説に取材したものが多く,ここにも江戸庶民の将門びいきの感情が認められる。将門をまつる社寺は関東一帯に分布しており,その墳墓と伝えられるものも少なくない。
執筆者:

将門は平貞盛,藤原秀郷の軍勢のため,石井営所の近くで討たれたが,《将門記》は,そのときにわかに神罰が下り,〈馬ハ風ノゴトク飛ブ歩ミヲ忘レ,人ハ梨老ガ術ヲ失ヒ〉,神鏑に射すくめられて死んだとしている。将門の死をこのように神異と結びつけてとらえようとする風潮は古く,たとえば《今昔物語集》には,山門の僧浄蔵が叡山の横川で将門調伏のため大威徳法を修したところ,灯明の上に武装した将門の姿があらわれ,人々が驚いて見上げると,流鏑の響きが東方を指して過ぎるのを聞いたとある。同様な調伏伝説や神異譚は,当時の史書や説話集に数多く伝えられているが,千葉県成田市の成田不動や栃木県足利市の鶏足寺などのように,関東地方の社寺の中には,これに類する伝えを今に残すところがかなりある。

 将門を中国の勇将李陵や養由になぞらえ,その武勇をたたえるという風は,《将門記》にもすでに見られたが,伝説の世界に登場する将門は,鋼鉄身で,つねに6人の影武者を従え,捕捉しがたい超人ぶりを発揮する。〈その有様殊に世の常ならず,身長(たけ)は七尺に余りて,五体は悉く鉄(くろがね)なり。左の御眼に瞳二つあり。将門に相も変らぬ人体同じく六人あり。されば何れを将門と見分けたる者は無かりけり〉。御伽草子《俵藤太物語》は,その超人ぶりをこのように描き出しているが,その不死身の巨人にも,ただ1ヵ所,こめかみだけが生身であるという弱点があり,愛妾の桔梗(ききよう)の前の裏切りによって,その秘密が敵方の俵藤太(藤原秀郷)に漏れ,あえなく討ちとられるという結末になっている。ギリシア神話アキレウスや北欧のジークフリートと同じかたちの伝承だが,将門が影武者6人を従えていたというのは,北斗七星の信仰(妙見信仰)とのかかわりの中で,この伝説がはぐくまれてきたことを示唆している。

 《将門記》は,その文末に,造悪の報いで地獄におちた将門が冥界から消息を寄せて,生存する妻子や兄弟に地獄の責め苦を訴えたという,興味深い巷説を載せているが,《太平記》や古活字本《平治物語》には,都で梟首された将門の首が瞑目せず,歯がみして復仇を誓ったという話が伝えられている。非業の死をとげた人々の怨恨が,怨霊となって世を悩ますという考えは,いわゆる御霊神としてこれを神にまつり,鎮魂慰撫する風習を生んだが,東京神田の神田神社,西多摩郡奥多摩町鳩の巣の将門神社,茨城県坂東市の旧岩井市の国王神社,千葉県佐倉市の将門明神,福島県相馬市の相馬神社など,関東から東北にかけての各地には,将門をまつる御霊社が広く分布している。

 先にあげた《俵藤太物語》もその一例だが,近世に入ると,将門にゆかりの深い東国が政治・文化の中心となったことから,将門への関心はいっそう深まり,将門伝説に題材をとった多くの文芸作品がつくられた。浄瑠璃《関八州繫馬(つなぎうま)》(近松門左衛門作),読本《善知鳥安方(うとうやすかた)忠義伝》(山東京伝作)は,その代表的なものである。
執筆者:

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「平将門」の意味・わかりやすい解説

平将門
たいらのまさかど
(?―940)

平安中期の関東の武将。桓武(かんむ)平氏高望(たかもち)の孫。父は鎮守府将軍良持(よしもち)または良将(よしまさ)とも伝え、母を犬養春枝(いぬかいのはるえだ)の娘とするものもある。その行動は『将門記(しょうもんき)』に詳しい。下総(しもうさ)北部の豊田(とよだ)・猿島(さしま)(茨城県結城(ゆうき)・猿島郡地方)を地盤としていたが、若いころに上洛(じょうらく)して藤原忠平(ただひら)に仕えた。931年(承平1)、「女論」によって伯父の下総介良兼(しもうさのすけよしかね)と争った。この「女論」には諸説あるが、良兼の娘は将門の妻としてその家に同居しており、この婚姻にかかわるものであろう。935年以後、常陸(ひたち)(茨城県)西部の豪族常陸大掾(だいじょう)源護(まもる)と平直樹との争いに巻き込まれ、護の女婿であった国香(くにか)、良正、良兼らのおじと争う。翌年10月、源護の訴訟により京都に召喚されて禁獄。朱雀(すざく)天皇元服の大赦によって帰郷するが、良兼らに攻められて一族紛争は激化する。939年(天慶2)、武蔵(むさし)国の権守興世王(ごんのかみおきよのおう)・介(すけ)源経基(つねもと)と足立郡司判官代(あだちぐんじはんがんだい)武蔵武芝(たけしば)との紛争の調停に乗り出すが失敗、経基に謀反として訴えられる。この問題が未解決のうちに同年11月、常陸国府(茨城県石岡市)に出兵してこれを焼き払い、将門の行動は国家に対する反乱となる。将門は関東を制圧して受領(ずりょう)を追放、新皇と称して弟や同盟者を国司に任じ、関東自立の姿勢を示す。しかし940年2月、下野(しもつけ)の豪族藤原秀郷(ひでさと)と国香の子貞盛らの軍勢により、猿島の北山(嶋広山ともいう。茨城県坂東(ばんどう)市)で討たれた。

 将門は侠気(きょうき)に富む人物で、武芸によって身をたてる「兵(つわもの)」であったが、その領主としての性格や武力編成には多くの説がある。彼を私営田領主とし、その率いる「伴類(ばんるい)」を律令(りつりょう)公民の線上でとらえ、「同党」「従兵」などの領主間結合を重視する見解が強いが、伴類を農奴または農奴主としてその封建的性格を強調する説もある。また彼を鬼怒(きぬ)川氾濫(はんらん)原の開発農場主とみる見解がある一方、その根拠地の石井(いわい)(坂東市)、鎌輪(かまわ)(下妻(しもつま)市鎌庭(かまにわ))がともに兵部省の官牧を背後にもっていた事実を重視し、官牧の牧司としてとらえ直そうとする説も提出されている。

 新皇将門の関東支配はわずか数か月にすぎなかったが、中央派遣の受領を放逐したその行動はとくに東国の民衆の共感をよび、将門を英雄として仰ぐ気風は時代とともに強まる。10世紀末には将門の死後霊験譚(れいげんたん)が形成され、12世紀にはその子孫説話もつくられる。『今昔(こんじゃく)物語』には地蔵(じぞう)信仰と絡んだ蔵念・如蔵尼説話がみえ、中世になると千葉氏やその一族では、妙見(みょうけん)信仰と絡んで将門の後継者と自称する説も育てられていく。東京の神田神社、坂東市岩井の国王(こくおう)神社(将門の二女如蔵尼の創建と伝える)をはじめ、将門を祀(まつ)る社寺は関東に多い。

[福田豊彦]

『福田豊彦著『平将門の乱』(岩波新書)』『北山茂夫著『平将門』(1975・朝日新聞社)』『林陸朗著『史実・平将門』(1975・新人物往来社)』『梶原正昭・矢代和夫著『将門伝説』(1975・新読書社)』『赤城宗徳著『平将門』(1970・角川書店)』

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百科事典マイペディア 「平将門」の意味・わかりやすい解説

平将門【たいらのまさかど】

平安中期の武将。桓武(かんむ)平氏の出で,父は鎮守府(ちんじゅふ)将軍良持(よしもち)あるいは良将(よしまさ)と伝える。父の遺領を継ぎ下総(しもうさ)に勢力をふるった。しかし遺領をめぐる一族の紛争は絶えず,伯父国香(くにか)を殺したことから内乱に発展,平貞盛,藤原秀郷(ひでさと)らに討たれた。→承平・天慶の乱
→関連項目足柄関岩井[市]梟首鶏足寺坂迎え下総国将門記平国香平貞盛平氏源経基

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朝日日本歴史人物事典 「平将門」の解説

平将門

没年:天慶3.2.14(940.3.25)
生年:生年不詳
平安中期の武将。桓武平氏高望の孫で父は鎮守府将軍良将(一説に良持)。若いとき上京して一時期,摂関藤原忠平に仕えたこともあったが,志を得ず本拠地の下総国に戻って勢力を養い豊田,猿島,相馬の3郡(ともに茨城県)を支配した。承平5(935)年父の遺領の配分と女性問題をめぐって一族と争いを生じ,おじ国香やその姻戚の常陸(茨城県)の豪族源護 の子らを殺したことで,おじ良兼,良正や国香の子貞盛の攻撃を受けることになった。将門はこれを打ち負かしたが,護がこの事件を朝廷に訴え出たため召喚された。運よく恩赦に浴し許され帰国した。のちおじたちとの争いは激しさを加えたが,これを抑えこみ国司の抗争に介入した。天慶2(939)年武蔵国において権守の興世王,介(次官)の源経基と郡司の武蔵武芝との争いの調停に当たったが,経基によって朝廷に訴えられた。 その矢先,常陸国における国守藤原維幾と土豪藤原玄明の紛争で将門を頼ってきた玄明を庇護して国府を襲撃,官物を奪って放火し,この段階で国家に対する反乱とみなされた。将門は興世王にのせられ下野(栃木県),上野(群馬県),武蔵,相模(神奈川県)の諸国を配下におき,八幡大菩薩の神託を得たとして新皇と称して坂東八カ国の独立を宣言し,下総国猿島郡石井に王城の建設を始めた。しかし翌年,貞盛や下野国の押領使藤原秀郷らに滅ぼされた。事件後ほどなくしてできた『将門記』の語るところである。この承平・天慶の乱が貴族に与えた衝撃は大きく,のちの争乱で「宛も承平・天慶の乱のごとし」と引きあいに出されることが多い。侠気に富む行動に対して悪逆無道の人物という評価のある半面,国家の苛政に勇敢に反抗した英雄とのみかたもある。このことが各地に首塚など多くの遺跡を生むことにもなった。茨城県岩井市の国王神社に将門の木像がある。<参考文献>福田豊彦『平将門の乱』,林陸郎『史実平将門』,赤城宗徳『平将門』

(朧谷寿)

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「平将門」の解説

平将門
たいらのまさかど

?~940.2.-

平安中期の武将。良将(よしまさ)(良持とも)の子。母は犬養春枝(はるえだ)の女とされる。相馬小次郎と称する。下総国猿島郡・豊田郡などを本拠とする。上洛して藤原忠平に仕える。931年(承平元)女事により伯父良兼と争った。935年,源護(まもる)と平真樹(まさき)との争いで護の子らを討ち,伯父平国香(くにか)・良兼ら同族と対立し,国香を殺害。翌年朝廷に召喚され禁獄。大赦により帰国したが,その後同族間争いは激化した。939年(天慶2)武蔵国権守興世王(おきよおう)・介(すけ)源経基と足立郡司武蔵武芝(たけしば)との争いを調停しようとしたが失敗。常陸国の紛争にも介入,このほか関東諸国に出兵した。新皇と称し,弟などを国司に任命して関東の独立化をはかったが,国香の子貞盛や藤原秀郷らに討たれた。その経過は「将門記(しょうもんき)」に詳しい。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「平将門」の意味・わかりやすい解説

平将門
たいらのまさかど

[生]?
[没]天慶3(940).2.14. 下総,北山
平安時代中期の武将。鎮守府将軍良将の子。上京して藤原忠平に仕えたが,官途を得ず下総に帰った。前常陸大掾源護と争い,これに味方した叔父国香を殺し,国香の子貞盛に攻められたが,これを打ち破った。のち常陸国府を焼打ちし,下野,上野の国府を攻略して,新皇と号し,下総に王城を営み,文武百官を任命した。朝廷では,征東大将軍藤原忠文に討伐させたが,その軍の到着以前に,下野押領使藤原秀郷の助けを得た貞盛に殺された。死後,その霊は神田明神の将門社 (東京都千代田区) に祀られた。 (→承平・天慶の乱 )  

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「平将門」の解説

平将門 たいらの-まさかど

?-940 平安時代中期の武将。
平高望(たかもち)の孫。平良将(よしまさ)(良持とも)の子。下総(しもうさ)北部を本拠地として父の遺領争いなどから一族と抗争をくりかえしていたが,伯父の平国香(くにか)を殺害して抗争は内乱へと拡大。天慶(てんぎょう)2年常陸(ひたち),下野(しもつけ),上野(こうずけ)の国府を制圧し,みずから新皇と称し関東の独立をはかったが,藤原秀郷(ひでさと)と平貞盛に攻められ,3年2月14日敗死した。
【格言など】八国より始めて,兼ねて王城を虜領せむと欲す(「将門記」)

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旺文社日本史事典 三訂版 「平将門」の解説

平将門
たいらのまさかど

?〜940
平安前期の武将。高望の孫
良将 (よしまさ) の子。初め京都で藤原忠平に仕えたが,下総を本拠として父良将の遺領問題で一族と争い,935年に伯父国香を殺し,国司に反抗する土豪を助けて下野 (しもつけ) ・上野 (こうずけ) の国府を占拠。下総の猿島 (さしま) に王城を営み,みずから新皇と称した(承平・天慶の乱)。940年平貞盛・藤原秀郷らに襲われ敗死した。のち,神田明神などに祭られた。

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デジタル大辞泉プラス 「平将門」の解説

平将門

海音寺潮五郎の長編歴史小説。1955年刊行。「海と風と虹と」(1967)と合わせ、加藤剛主演のNHK大河ドラマ「風と雲と虹と」(1976)の原作となる。

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世界大百科事典(旧版)内の平将門の言及

【将門記】より

…〈まさかどき〉ともよむ。原名を《将門合戦状(まさかどかつせんじよう)》ともいい,10世紀中葉の承平・天慶年間に東国で起こった平将門の反乱事件(平将門の乱)を,その張本であった将門の行動を中心に叙述した作品。作者不詳。…

【新皇】より

平将門のこと。《将門記》によると,939年(天慶2)11月21日に常陸国府を制圧した将門は,12月19日に上野の国司を追放して国庁に入り,弟や従者を伊豆と関東諸国の受領(ずりよう)に任じたが,このとき八幡大菩薩の使と口ばしる昌伎から位記を授けられ〈新皇〉と称するようになる。…

【平将門の乱】より

…10世紀に関東で起きた反乱事件。同時に西海で起こった藤原純友の反乱とともに〈承平・天慶の乱〉,あるいは〈天慶の乱〉ともいう。下総北部を地盤としていた将門は,935年(承平5)以来,常陸西部に館をもつ一族の平国香平貞盛,良兼,良正らと合戦を繰り返していたが,939年(天慶2)11月に常陸国衙を略奪して焼き払い,国守藤原維幾らを捕らえた。この直接の原因としては,将門を頼って常陸から下総にのがれた藤原玄明を助けるため国軍と衝突することになったとする説と,国守維幾の子為憲が将門の仇敵貞盛と結んで将門を挑発したことに中心をおく説とが,ともに《将門記》にみえる。…

【俵藤太物語】より

…秀郷はみごとこれを退治し,女房から尽きることのない巻絹と米俵,思いのままの食物がわき出る鍋の3種の宝物を贈られ,竜宮に伴われて歓待を受け,鎧・太刀に赤銅の釣鐘を与えられ,秀郷はこの祇園精舎無常院の鐘を鋳移したという名鐘を三井寺に寄進し,寺では盛大な供養を行う(上巻)。下野にいた秀郷は,同国相馬の平将門(まさかど)を討つべき旨を上京して奏聞し,平貞盛も討手に加わり追討に赴くが,五体ことごとく金(かね)の将門を討つことはできない。秀郷は方便をめぐらし,いったん将門に奉公し,契りを交わした小宰相の局から影武者の秘密を教えられ,また耳の根だけが肉身(にくじん)であると知らされ,みごと将門を討つことができた(下巻)。…

【東国】より

…しかしすでに古墳時代,毛野(けぬ)氏などの自立的な勢力を生み出した東日本の社会は,律令国家の支配下にそのままとどまってはいなかった。9世紀後半以降,東国には〈僦馬(しゆうば)の党〉をはじめ大規模な〈群盗〉の蜂起が起こり,10世紀前半の承平・天慶の乱を通じて,平将門(たいらのまさかど)は京都の〈本天皇〉に対抗してみずから〈新皇〉と称し,坂東8ヵ国を基盤とする自立した国家を樹立したのである。この国家がごく短期間で崩壊したのち,武将たちは王朝国家の下にあって,東国土着の勢力との結びつきを強めつつその実力を蓄え,11世紀に入ると,東北にも独自な政権ないし小国家の生まれる兆しが現れてくる。…

※「平将門」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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