中国,唐朝の第6代皇帝。姓名李隆基。在位712-756年。睿宗の第3子として洛陽に生まれ,三郎の愛称で親しまれた。楚王さらには臨淄王に封ぜられたが,ときに祖母則天武后の治世であり,生母の竇(とう)氏(後に昭成順聖皇后を追贈)も武后の手で消される非運にあった。このいわゆる武周政権時代を終わり第4代中宗が復位したものの,中宗は710年(唐隆1)武后の故事にならおうとした皇后韋氏と娘の安楽公主によって毒殺される。李隆基はひそかに兵力を集め韋后親子とその一党を除き,父睿宗を復位させ,みずからは皇太子となった。712年(先天1)28歳で即位した玄宗は,対立する太平公主らを倒し年号を開元と改めると,姚崇,宋璟ら有能な人材を任用し,官界の粛清をはじめ内政刷新に着手した。721年(開元9),宇文融に行わせた括戸政策や土地兼併の処理,さらに地方行政制度の改革,府兵制にかわる募兵制の採用など,その積極策にはみるべきものが多く,極力外征をおさえつつ富国強兵につとめたかいあって,世に開元の治あるいは〈開元・天宝時代〉と称される華やかな時代を現出し,長安の都は繁栄の極に達した。
この盛世はしかし,新しい時代の到来という現実に対処しながらも,崩れゆく貴族社会への回帰,立て直しを志向する矛盾に満ちた政策,悪くいえば姑息な策を弄してバランスを保ったつかの間の輝きであったともいえる。唐末五代の王仁裕の《開元天宝遺事》が伝える華麗な宮廷生活,盛唐の詩人たちがうたいあげる長安の栄華にかくれて,農民の窮乏は深刻となり財政は逼迫しつつあった。過渡期の不安を象徴するかのように,中央では貴族出身の官僚と新興勢力である科挙出身官僚との対立が激しく,また募兵制の採用により各地に配置された節度使,とりわけ貴族出身の宰相李林甫が保身のために利用した異民族出身の節度使たちが勢力を拡大していた。その最強のものが平廬,范陽,河東の3節度使を兼ねた安禄山である。
だが玄宗はしだいに意欲を失い武恵妃さらに実子寿王の妃楊玉環(楊貴妃)を溺愛し,政治を顧みなくなり,管絃,宴遊にうつつをぬかすありさまであった。李林甫が死に,貴妃の縁につながる楊国忠が実権を握ると,不仲の安禄山は755年(天宝14)11月,君側の奸楊国忠を除くと称して兵を挙げ(安史の乱)洛陽をおとして帝位につき,さらに兵を派して長安に迫った。玄宗は蜀(四川省成都市)に逃れたが,貴妃と楊国忠は途中の馬嵬(ばかい)駅で殺された。翌年,朔方に逃れた粛宗が即位し,上皇となった玄宗は757年(至徳2)に長安へ帰り興慶宮に入った。けれども復辟を恐れる粛宗との間に不協和音が絶えず,また玄宗側近の高力士と粛宗側近の李輔国という宦官どうしの対立もあり,760年(上元1)には西内の甘露殿に移され,幽閉同然の余生をおくり2年後の4月,悶々のうちに世を去った。至道大聖大明孝皇帝と諡(おくりな)され,陵は泰陵(陝西省蒲城県北東金粟山)という。
執筆者:藤善 真澄
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中国、唐朝第6代皇帝(在位712~756)。本名は李(り)隆基。明皇(めいこう)とも称せられる。第2代太宗の死後、皇后、外戚(がいせき)、皇親、寵臣(ちょうしん)など皇帝側近の権勢と政争のため、政情不安定の時代が続いた。則天武后の周朝から唐朝が復活したのちも、中宗の皇后韋(い)氏一派が政権を握り、ついに帝を毒殺した。帝の甥(おい)にあたる臨淄(りんし)王隆基は音楽や書の妙手で、風采(ふうさい)の優れた貴公子であったが、710年クーデターを敢行して韋氏一派を倒し、父の旦(たん)を即位させた(睿宗(えいそう))。同時に彼も皇太子となり、やがて父帝の譲りを受けて帝位についた。翌年おばの太平公主の勢力を武力で一掃して、ここに皇帝を唯一最高の権力と仰ぐ統一政治を回復した。713年に始まる開元(かいげん)時代(~742)は、太宗の貞観の治(じょうがんのち)を手本とし、後世開元の治と称せられる。玄宗は、貞観時代の房玄齢(ぼうげんれい)・杜如晦(とじょかい)に比せられる名宰相姚崇(ようすう)・宋璟(そうえい)を信任して政治に励み、奢侈(しゃし)を禁じ、儒学を重んじ、密奏制度をやめ、冗官(じょうかん)や偽濫僧(ぎらんそう)(国家非公認の僧)を整理するなど、前代の悪弊を除き、公正な政治の再建に努めた。玄宗が自ら『孝経』に注を施したことは有名である。対外的にも、突厥(とっけつ)を圧服し、契丹(きったん)・奚(けい)両民族を帰順させるなど北辺の平和維持に成功、経済・文化の発展と相まって輝かしい平和と繁栄の時代が現出した。
しかしその頂点は、時代の転換への道でもあった。開元後半期から次の天宝期(742~756)にかけて、律令政治は法的に整備される一方、官制・財政・兵制などあらゆる面で空洞化した。玄宗自身の政治姿勢も崩れ、李林甫(りりんぽ)などの寵臣を宰相としてこれに政治をゆだね、高力士らの宦官(かんがん)を重用した。精神面でも、儒教的理念から離れて道教の放逸な世界に傾倒し、公私の莫大(ばくだい)な費用の捻出(ねんしゅつ)のために民衆の収奪を事とする財務官僚を信任した。皇后王氏から武恵妃に心を移し、武氏の死後は息子の寿王から妃楊太真(ようたいしん)を奪って貴妃とした。白楽天の「長恨歌(ちょうごんか)」が歌うように、楊貴妃との愛欲の世界の陰には帝国の危機が進行していた。玄宗は貴妃の一族と称する楊国忠と、東北辺に胡漢(こかん)の傭兵(ようへい)の大軍団を擁する安禄山(あんろくざん)とを、いずれも信任した。内外二つの権勢はついに激突して安史の大乱となり、756年玄宗は長安を脱出、四川(しせん)に落ち延びた。その途中で楊貴妃を失い、皇太子(粛宗)に譲位して上皇となった。翌年、長安が奪回されて帰還したが、粛宗の腹心李輔国(ほこく)のため高力士ら側近を引き離され、太極宮に閉じ込められ失意のうちに没した。
[谷川道雄]
『礪波護著「唐中期の政治と社会」(『岩波講座 世界歴史5 古代5』所収・1970・岩波書店)』
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685~762(在位712~756)
唐の第6代皇帝。名は李隆基。韋后(いこう)を殺して父の睿宗(えいそう)を復位させ,その譲りを受けて即位した。唐朝中興の主。治世の前半は開元の治と呼ばれ,後半の天宝年間に至るまで平和と繁栄が続いたが,裏面では均田制の崩壊が進行していた。晩年楊貴妃を愛し,宰相楊国忠(ようこくちゅう),節度使安禄山(あんろくざん)らを信じて安史の乱を引き起こし,唐朝衰退のきっかけをつくった。
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…歴代の王朝も《孝経》を重視した。漢代にはその読誦を天下に奨励し,唐の玄宗は今日ももっともひろく行われる注釈を書くとともに,744年(天宝3)には家ごとに一本を備えるよう命じた。同様の勅令は,日本でも757年(天平宝字1)に出されている。…
…しかし,その後も武后の再来ともいえる中宗の皇后の韋氏(韋后)によって類似の政治が行われた。 このような政治の混乱を正し,〈貞観の治〉の再現をめざしてクーデタを起こしたのが,のちの玄宗であった。玄宗治世の前半が,年号にちなんで〈開元の治〉とたたえられているのに対し,武后と韋后という女性が権力を握った時代は,儒教に立脚する伝統的な史観から〈武韋の禍〉と称され非難の対象とされてきた。…
…唐代になると,帝室が厚く道教を保護したことや道教教理が一応の完成をみたこともあって,多量の道経を結集して経蔵を作ろうという機運が熟した。道教の熱心な信奉者であった玄宗は,開元年間(713‐741)に最初の《道蔵》を編纂させて《三洞瓊綱(けいこう)》と命名した。その数3744巻と伝えるが,安史の乱に散逸した。…
…役者,演劇の社会をいう。《旧唐書》音楽志,《新唐書》礼楽志によると,音律にくわしく,法曲を好んだ唐の玄宗は,太常寺坐部伎の子弟300人を選び,梨の木を植えた庭園でみずから教え,ひと声まちがっても聞き分けて必ず訂正したという。この楽工たちを,梨園の弟子とよんだのにはじまり,これからしだいに意味が転じ,明・清時代には役者,演劇の社会を指す言葉となった。…
※「玄宗」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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