民間において口頭で伝承されてきた定型的な言語表現の一つで,俚諺(りげん),俗諺ともいう。諺は本来〈言(こと)の技(わざ)〉の意味で,広く言語の技芸をさし,短い言葉で人を攻撃する言語の武器ともされていた。とくに諺は寸言であっても大きな教育的効果を有していた。巧みな諺で批評され,多勢のなかで自分一人が笑えぬ立場にたつことは,人並みを重んじた以前の村落社会では最も恥とされたのである。しかし,今日では諺は理屈をこえた巧みなたとえとして特別な効果をもつものに限定されている。こうした効果を高めるために,諺は形式からみれば簡潔で短い文句でできており,〈……のようだ〉〈……といって〉〈そういうことを……というのだ〉というように使われる。ただし,定型的な言語表現といっても絶対的基準があるわけではなく,その表現は柔軟性をもっている。
諺を内容からみれば,(1)他人を批判,攻撃する諺(〈蒟蒻(こんにやく)で石垣を築く〉〈紺屋の白袴〉〈医者の不養生〉など),(2)人生の機微を伝える教訓のための諺(〈祭より前の日〉〈出る杭は打たれる〉など),(3)実際上の知識を伝える教育のための諺(〈秋の夕焼け鎌をとげ〉〈うどの皮,大名にむかせろ〉など),(4)内容より表現を重視した遊戯的な諺(〈驚き,桃の木,山椒の木〉〈だんだん良くなる法華の太鼓〉など)に大別される。
個々の諺の意味については古来から議論が多い。たとえば,〈犬も歩けば棒に当たる〉という諺は,すでに江戸時代において,思いがけず禍に出会う意と,幸いに出会う意の両様に解釈されていた。このような意味の多様性は,(2)の人生の機微を伝える教訓的な諺に多く,逆に諺の魅力ともなっている。
諺の表現上の特徴は,次の三つの原理が単独または複合して構成されている。一つは抽象的なものを具体的なもので表現する〈比喩〉の原理である。たとえば,やせた人を〈蚊のすねの四つ割り〉とか〈紙撚(こより)の馬〉などという諺がその例で,諺を〈たとえ〉という土地もある。二つ目は〈対比〉の原理である。たとえば,〈朝雨と女の腕まくりはこわくない〉という諺は,朝雨も女の怒りもすぐにやむから恐るるに足らぬという意味であるが,一見すると結びつかぬ二つのものの間に共通点を見いだして対比させている点に奇抜さがある。三つ目は〈語呂(ごろ)〉の原理である。たとえば,〈亀の甲より年のこう〉〈短気は損気〉などは韻をふんでおり,また〈背に腹はかえられぬ〉〈死んだ子の年を数える〉〈渡る世間に鬼はない〉〈帯に短し,襷(たすき)に長し〉などはそれぞれ五五,五七,七五,七七調になっており語呂がよく耳に入りやすい。したがって,諺には和歌や川柳にその出典を求められるものも多く,諺の文学としての性格をよく示している。
なお,なぞのなかには諺と近い関係のものもある。たとえば,上記の〈朝雨と女の腕まくりはこわくない〉という諺は,〈朝雨とかけて女の腕まくりと解く,その心はどちらもこわくない〉というなぞに置きかえることができるのである。
執筆者:大嶋 善孝
中国では民間でいいならわされた語句の意味で,常言,俗語という言葉が用いられている。常言は日常の至言,俗語は民俗の語録で,この二つをあわせたものが本来の諺にあたるが,このほか教訓的な文句を格言,箴言,名言と呼び,いくらか文人的な既成の慣用句を成言と呼んでおり,これらにしても民俗から遠くはなれていない。また諧(かい)後感あるいは歇(けつ)後感といって,たとえば〈囲棋盤里下象棋(碁盤で将棋をさす)〉といえば,〈不対路数〉つまりまちがったやりくちを意味する下の句を暗示でとかせる一種のしゃれ言葉(歇後語)や,謎語も常言,俗語に重複している。今までの中国の常言,俗語の主題には,役人の横暴をうらむものがとくに多く,〈官吏はよいが管理はいやだ〉〈トラが去っても山がある。山がありゃまたトラがくる〉〈役所の門はお寺なみ,理非はどうでも金もってこい,金がなければおとといこい〉などがある。諺の形式においても中国の民族的特徴がよく現れており,語句の偶数的構成,誇張,数字(とくに誇張的数字)が好んで用いられる。諺の最短形式は4字で,たとえば〈文無定法(文に定法なし)〉〈夫倡(ふしよう)婦随〉などは完全な文であるが〈汗牛充棟(かんぎゆうじゆうとう)〉〈百戦百勝〉のように主題や,〈恒河沙数(ガンガーの砂の数ほど--数えきれぬこと)〉のように説明語がしばしば省略される。5字の諺は古典的な詩句と同形だが,文体は庶民的で,〈換湯不換薬(湯をかえて薬をかえぬ--不徹底な改革のこと)〉などがある。6字の諺は〈脱了褲子放屁(ズボンをはずしてオナラ)〉〈瞎猫拖死老鼠(めくらネコが死んだネズミをひく)〉のように詩に縁がないだけいっそう口語的であり,これに対して7字の諺は古典的な詩の1行とリズムが同じなので,用語は口語的でも文語的なはずみがついている。〈猫哭耗子仮慈悲(ネコがネズミの死をなげくのは,うそのなさけ)〉〈清官難断家務事(家事裁判は裁判官でもむずかしい)〉などがそれである。8字の諺は〈閻王好見,小鬼難当(ボスは話せるが子分がやっかい)〉〈上有天堂,下有蘇杭(上に天国,下に蘇杭--蘇州・杭州は地上の天国の意)〉のように4字の諺が対句になったもので,同様の10字は5字の諺の対句,14字は7字の対句である。〈各人自掃門前雪,莫管他人瓦上霜(自分の家の雪をはけ,よその雪など気に病むな)〉は後者の例である。
執筆者:魚返 善雄
ヨーロッパの社会はすでに長くキリスト教の感化のもとにあったから,行為の規範をしめす格言maximに聖書の章句が広く用いられた。これらの格言は,中世の修道院を中心として説教や修辞学の具に供され,ルネサンス以後は古典時代の諺も復活した。エラスムスの《格言集》は後者の語句を集めたもので1500年に出版されている。ヨーロッパの諺は日本のものにくらべて,聖書や賢人の言葉などの教訓的な諺がいちじるしいが,民間生活において生まれ,添削されてきた向上的,民俗的な諺もけっして少なくない。この種の諺には地方的特色が濃厚で,たとえばフランスでは〈卵をわらずにオムレツはできぬ〉という表現をとっている観念が,オランダでは〈ニシンが網にはいるまでは自分のニシンとはいえぬ〉となり,イタリアでは〈木の枝のカラスを売るな〉といわれる。釈迦(しやか)に説法の愚を説くのに,イギリス人は〈ニューカスルに石炭〉(ニューカスルは石炭の産地)といい,スペイン人は〈ムーア人の家でアラビア語をしゃべるな〉という。そのほか〈日曜うまれの病みしらず〉(フランス),〈悪魔のうわさすれば悪魔が現れる〉(各国)のように民間信仰から生まれたもの,〈日の照るうちに干草つくれ〉(イギリス)のように地方特有の天候と産業とを扱ったもの,〈ハイデルベルクの酒,たるで大きいばかり〉(ドイツ)など,地方習俗の各面が諺の形式で現れている。また諺の大きな魅力である風刺を目的としたものも数多くあるが,イギリスでは〈悪魔の葬式,喪主こと欠かず〉〈一歩ゆずって鼻うごめかす〉〈6ペンスと女房なくせば6ペンスの損〉〈袋もからでは立たぬ〉,スペインでは〈悪党の行列に悪魔が十字をもつ〉〈ひとりの父は10人の子を養い,10人の子はひとりの父を養わず〉,フランスでは,〈医者を追いかけろ棺おけを追いかけろ〉,ドイツでは〈卵を飲んで殻をほどこす〉,スウェーデンでは〈尾をなでてやればネコ背をもたげ〉などが行われている。諺の形式は原文についてみなければならないが,スペインの諺〈真理verdadはつねに緑verdeなり〉は押韻によっており,イタリアの諺〈翻訳者traduttoriは反逆者traditori〉は押韻,簡潔,風刺の三つをそなえた好例である。
執筆者:滝沢 敏雄
諺は文字をもたないか,もっていてもそれに依存することが比較的小さい社会において,生活のなかで広くまた頻繁に用いられ,また重要な役割を果たしている。諺はいわば言語表現の粋であり,実際のコミュニケーションの場で重要なばかりではなく,機知や世界認識(経験的知識や知恵)の貯蔵庫でもあった。諺は,人々が社会的な場で,身近で具体的な事象を素材として行う文化創造の重要な一形態でもある。口論や嘲弄も,自己紹介や自賛も,教育もしばしば諺を用いて行われ,また諺を用いて機知や言語表現の巧妙さを競うゲームをもっている社会もある。
東アフリカのケニア共和国に住むルオ族の社会にはパクルオク(自賛)とよばれる制度がある。各人は自賛名ともいうべき名前をもっていて,それは諺(的表現)を伴っている。集会で発言したり,妻方の親族と対面するような場合,彼らは〈私は煙の誰某だ。煙がたくさん出ているからといって,肉を料理しているとは限らない〉〈私は牛の誰某だ。蛙がいくら騒いでも牛は水を飲む〉といったような自己紹介をして,言い回しの洗練,諧謔を競う。自賛名に伴う表現が人々に評価され受け入れられれば,独立して諺として流布するようになる。
また諺はなぞともなりうる。一定の水準の言語能力と知恵とをもたないものにとっては,それは解くことのできないなぞとなる。この場合,諺は人々を機知や知識によって区別して,仲間意識を強化する役割を担うことにもなる。このような面から,政治的に抑圧されている人々の権力批判として諺的表現が隠然と流布する場合が少なくない。先のルオ族においても,彼らが異民族が牛耳っている政府に抑圧されていた時期には,ルオの楽師たちは,パクルオクをふんだんに盛り込んだ歌謡によって政治風刺を行っていた。
無文字社会の集団・結社では,固有の規範や知識が諺で表現される場合が少なくない。コンゴに住むレガ族の社会でかつて栄えた男子結社ブワミが保管し伝承していた知識や知恵は,数千におよぶ諺にこめられていた。たとえば〈1本の指ではどんなに器用な者も土くれ一つ拾えない(結社員の団結)〉〈ヤマアラシはバナナを開墾地では食べない(守秘義務)〉〈雨期の間中,歌って過ごしたカメレオンは,サイチョウのナイフ(大きなくちばし)を持たない(勤勉性)〉等々。結社内で昇進しようとする若者たちはこれらの諺に習熟しなければならず,またこの結社の加入儀礼や昇進儀礼のもっとも重要な部分は,200から300ほどの諺を歌い,それに合わせて踊ったり,それらの内容を開示する品々を並べたり,それらの品を用いて演劇的所作をしたりすることであった。
他の形式をもっては伝達しにくい内容を,諺をもって間接的に,ないしは婉曲に伝える例は広くみられる。コンゴ民主共和国のウォヨ族の女たちは,結婚するとき,嫁入り道具として,夫の食器に用いる木製のふたを多数,母や祖母からもらう。これらのふたには諺を表す彫刻がほどこしてあり,妻は夫に対して不満があるとき,遠回しにその内容を伝えることのできるこのふたを用いる。
執筆者:阿部 年晴
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
俚諺(りげん)、俗諺(ぞくげん)ともいい、古くから言い慣らわされ、日常生活の真理をうがった簡潔な表現。本来は「言(こと)の業(わざ)」で、ことばによる表現のすべてを意味したが、やがて「いろはかるた」にみられるような巧みなたとえに限定された。主として庶民生活の体験的な知恵から生み出されたものが多いが、古典に含まれた格言や故事などから出て、いつのまにか俗間に流布したものも含まれる。したがって格言との違いはさだかではない。諺の諺たるゆえんは、簡潔で語呂(ごろ)がよく、的確に人生のある一面を浮き彫りにしていることで、上手に使用すれば多大の効果をあげ、聞く人を感心させる反面、乱用すると嫌みになり、常套(じょうとう)語に堕する危険がある。
諺はその機能に応じて、批判的諺、教訓的諺、経験的諺、遊戯的諺に分けられる。批判的諺は、「馬鹿(ばか)の一つ覚え」「怠け者の節句働き」「井の中の蛙(かわず)」というように、話し相手の弱点をついて機先を制し、自分を有利に導くために用いられる。教訓的諺は、格言、箴言(しんげん)、金言とよばれるものに近い。
[船戸英夫]
日本の諺の多くは中国の古典や仏教の経典に由来し、「衣食足りて礼節を知る」「三界に家なし」のようなたぐいのものと、体験的な生活の知恵である「出る釘(くぎ)は打たれる」「早起きは三文の得」のような表現がある。しかし日本的な諺はどうしても保守的になり、危険を避けマイホーム主義的になるものが多く、「長いものには巻かれろ」とか、世知にたけて「地獄の沙汰(さた)も金次第」というようになる。経験的諺は前者にほぼ似るが、もっと農業や漁業に密接に関連したものが多く、四季や天候に関連して、「陽(ひなた)ごぼうに陰(かげ)なすび」と雨の多寡によってできる作物の違いをついたり、「貧乏秋刀魚(さんま)に福鰯(いわし)」とサンマが豊漁のときは農作は不作、イワシが豊漁のときは農作も豊年ということを表したりする。「朝富士に夕筑波(つくば)」という諺は、江戸での天気を的確に表現したものだが、この種の諺には迷信が入り込むことが多く、「戌(いぬ)の日に岩田帯」は、犬に安産が多いことにちなむ風習を表すが、「丙午(ひのえうま)の女は夫を食い殺す」となると弊害のほうが多くなる。
形式的には語呂のよさが第一であって、二息でいえる長さのものが多く、「雨降って地固まる」と五五調、「話上手(じょうず)の仕事下手(べた)」と七五調を用いたり、「地獄に仏」と極端な対比をしたり、「急がば回れ」と逆説的な表現を用いたりして強烈な印象を与えるものが多い。このような効果をねらうには、数字を用いて「一寸の虫にも五分の魂」というような表現をとったり、「地震、雷、火事、親父(おやじ)」のように語の並列によって印象を強めることが多い。
内容的には、一面の真理のみを伝えることが多く、そのため逆の真理を伝える諺が対(つい)をなす。たとえば、「好きこそものの上手なれ」に対しては「下手の横好き」「器用貧乏」などがあり、「渡る世間に鬼はない」に対しては「人を見たら泥棒と思え」がある。
格言となると襟を正して聞かなければならないような倫理的、道徳的なものが多いのに、諺となると日常生活のややもすればどろどろとしたものが含まれ、その点に強く興味をもつ人が多い。「隣の花は赤い」とか「隣に倉建つと腹たつ」「隣の宝を数える」などは西欧の諺「隣の芝生は青い」に等しく、「隣千金に替えん」とか「遠い親戚(しんせき)よりも近くの他人」というように、「向こう三軒両隣」をたいせつにしなければならない諺と裏腹になっている。この正反対の考え方が一つの緊張関係を生み、人間関係の複雑さを的確に表現している。よしんば諺には格言にみられるような格調の高さはないにせよ、下世話の知恵を軽やかに表現することによって、ともすればぎすぎすしがちな庶民の人間関係の、また日々の生活の潤滑油的な役割を果しているといえよう。
[船戸英夫]
西洋においては、聖書の「箴言(しんげん)」や「福音(ふくいん)書」に基づくもの、ギリシア・ローマの古典に由来するものが、ちょうどわが国において中国の古典からの格言が多いように、人口に膾炙(かいしゃ)しているが、同時に民衆の体験的な知恵や賢者のことばが言い伝えられている。16世紀のオランダの哲学者エラスムスが、『金言集』Adagiaを書き、イギリスではジョン・ヘイウッドが1546年に英語の諺集を編纂(へんさん)したこともあって、16、17世紀にとみに諺が日常生活において好まれるようになった。また同時代の劇作家シェークスピアの作品にも諺となる表現が多くみられ、それが民衆に喜ばれた。まさにProverbs are the wisdom of the streets.(諺は巷(ちまた)の知恵)にほかならない。
形式的にはやはり語呂のよさが珍重され、Never shoot, never hit.(撃たなければ当たらぬ――まかぬ種は生えぬ)というように対句を用いたり、As poor as a church mouse.(教会のネズミのように貧しい)というように比喩(ひゆ)を用いたり、Death defies the doctor.(死は医師を無視する)というように頭韻を用いたり、What soberness conceals, drunkenness reveals.(しらふでは隠せても、酔えば現れる)というように脚韻を踏んだりしている。
国や民族の違いによって、また文化や慣習の違いに応じて、表現は千差万別であるが、内容は同じようなことが少なくない。「羹(あつもの)に懲(こ)りて膾(なます)を吹く」は、フランスでは「熱湯で火傷(やけど)した猫は冷水を恐れる」、イギリスでは「火傷した子は火を恐れる」となるし、「坊主憎けりゃ袈裟(けさ)まで憎い」は、ラテン語や英語の「私を愛する人は私の犬をも愛する」と同工異曲であろう。「時は金(かね)なり」「沈黙は金(きん)」のような諺は万国共通である。イギリスの諺にはその国民性を反映して、いかに生きるべきかという処世術を扱ったものによいのが多く、ラテン系諸国の諺には軽妙で諧謔(かいぎゃく)に富んだものが目だち、ロシアの諺では寓話(ぐうわ)的なものがとりわけ愛好されている。
諺も時代や国によって意味が変化することがある。「転がり動く石には苔(こけ)がつかない」とは、ギリシア・ローマの時代からある古い諺で、たびたび居を移したり商売を変えたりする人は金持ちになれない、という意味に用いられてきたが、最近アメリカなどでは、「苔がつかない」ということをよい意味にとり、職を変えたり、積極的に動き回ることによって、金持ちになったりよい地位を得ることができる、と解釈する向きが強いようである。
また表現のうえでも、かつてはCare killed the cat.(心配は身の毒)という形で表現され、九つの命をもつという生命力に富んだ猫でさえ、心配ごとがあると死んでしまう、という意味を伝えていたが、現在ではCuriosity killed the cat.と、心配が好奇心に変えられて使われている。好奇心の旺盛(おうせい)な時代にふさわしい変化である。
[船戸英夫]
中国では、諺のことを普通、常語(じょうご)、俗語(ぞくご)といい、長い間人々の間で言い習わされてきた語句を意味する。常語というのは日常生活の至言のことで、俗語というのは民俗の語録のことであるが、このほかにも、教訓的な意味をもつ格言、箴言、名言や、慣用句の成言(せいげん)なども諺と共通している。中国の諺の内容の一つの特徴は、役人の横暴を批判したものが多いことである。「役人は贈り物をする者にはつらく当たらない」「官位が高くなると鼻息が荒くなる」「長く役人を勤めると自然に財産ができる」「役人の情けは紙より薄い」や、また、数字を織り込んだ諺も多く、「百里風俗を同じくせず」「万丈の高楼も地から始まる」などがある。
諺の字句の構成には一定の形式があり、4字、5字、6字、7字、8字、10字、14字がある。成語として用いられることが多いのは4字のもので「夫唱婦随(ふしょうふずい)」のように日本語に取り入れられているものもある。5字の諺、6字の諺は文語的な感じはしないが、7字の場合、漢詩の一句の調子と同じになるので、内容は口語でも語り口は文語調のはずみをもつ。「人怕出名 猪怕壮」(人は、ねたまれるから名声の高まるのを恐れ、豚はと畜されるから太るのを恐れる)。8字の諺は「眼見是実、耳聞是虚」(目で見たものは確かであるが、噂(うわさ)に聞いたことはあてにならない)というように、4字の語句が対句(ついく)になっている。同様に、10字の諺は5字の対句、14字の諺は7字の対句になっているのである。
[清水 純]
『『故事名言・由来・ことわざ総解説』(1993・自由国民社)』▽『大塚高信・高瀬省三編『英語ことわざ辞典』(1995・三省堂)』▽『『ことわざ大辞典 故事・俗信』(1982・小学館)』▽『『日英故事ことわざ辞典』(1994・北星堂書店)』
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
…謡言とも書く。中国において,謡とは,厳密に言えば楽器に合わせないで肉声に節をつけた短い歌であり,諺とは里俗の間の言い伝え,雑歌を意味し,ともに韻語であるが,広い意味で謡諺とは,ことわざを指す。ただし,民間で口誦された韻語で,古典から引用した故事,熟語とは本来異なったものである。…
※「諺」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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