精選版 日本国語大辞典 「キューバ」の意味・読み・例文・類語
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翻訳|Cuba
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基本情報
正式名称=キューバ共和国República de Cuba
面積=10万9886km2
人口(2010)=1124万人
首都=ハバナHavana(日本との時差=-14時間)
主要言語=スペイン語
通貨=キューバ・ペソCuban Peso
カリブ海にある社会主義の共和国。キューバはスペイン語の発音ではクーバである。クーバとは原住民がキューバ島を指していた呼名で,スペイン人も征服後それに従った。キューバは,本島と南西の海上に浮かぶピノス島Isla de Pinosおよび沿岸の小島やサンゴ礁から成り,西インド諸島では最大の島国で,北海道と九州を合わせた面積より,やや小さい。アメリカ合衆国のフロリダのキー・ウェストの南方160kmのところ,メキシコ湾の入口にまたがるように東西に横たわっており,島の東端のウィンドワード海峡はアメリカ東部とパナマ運河を結ぶ重要な航路となっている。〈カリブ海の赤い星〉として注目されている社会主義国キューバは,このように戦略上,商業上,重要なところに位置している。西インド諸島はアンティル(アンティーリャス)諸島とも呼ばれるが,キューバはその島の美観ゆえ古くから〈アンティルの真珠〉と称されてきた。
国土の約60%が低地となだらかな丘陵地帯から成り,残りが山岳地帯となっている。大きな山脈はいずれも東西に走り,最大の山脈は東部のマエストラ山脈Sierra Maestraで,ここにはキューバの最高峰トゥルキノ山Pico Turquino(標高2005m)がある。ほかにおもな山脈として,西部のオルガノス山脈Sierra de los Organos,ロサリオ山脈Sierra del Rosario,中部のエスカンブライ山脈Escambrayがある。河川は200以上ある。西部や中部のカマグエイ州を広く覆っている赤い粘土質の土壌はきわめて肥沃で,サトウキビの栽培にもっとも向いている。キューバは熱帯に位置しているにもかかわらず,一年中吹きつける貿易風の影響で,温帯ないし亜熱帯の気候をもち,乾季と雨季に分かれ,前者は11月から4月まで,後者は5月から10月まで続く。平均気温は夏が27℃,冬は21℃である。7月と8月はもっとも暑く,ハバナでは38℃に達することもある。山岳地帯の気候は概して涼しい。雨量は地域や年によって異なるが,低地の年間平均雨量は890~1400mmである。キューバはハリケーン・ベルトに位置しているため,しばしばハリケーンに襲われるが,1800年以来キューバを襲ったハリケーンのうち,もっとも破壊的であったのは1963年のハリケーン・フローラで,このときには4200人が死亡し,3万の家屋が崩壊した。ハリケーンやしばしば襲う干ばつによる被害がキューバの農業,ひいてはこの国の経済に及ぼす影響は軽視できない。キューバには,白砂とヤシの美しい海岸がたくさんあり,とくにマタンサス州にあるバラデロVaraderoの海岸は保養地として国際的に有名である。島の美観はこの国の貴重な観光資源となっている。
キューバは1492年コロンブスの第1回航海中に〈発見〉された。スペイン人による征服以前のキューバ島にはシボネイCiboneyesおよびタイノTainosもしくはアラワクArawaksと呼ばれた原住民がいたが,比較的低い発展段階にあった彼らは,1511年にこの島に到来したスペイン人のD.deベラスケスが率いる遠征隊によって征服され,その後スペイン人による虐待や,彼らがもたらした疫病により,ほぼ1世紀後にはほとんど絶滅してしまった。スペインの植民地キューバは金の採掘によって一時繁栄したが,金が枯渇し,さらにスペイン人の植民活動の重心が大陸のメキシコやペルーに移動するにつれて,早くも16世紀半ばには停滞期に入ってしまった。しかし,ハバナが大陸のスペイン植民地と本国との間の貿易の中継地となったため,全面的な衰退からは免れた。その後18世紀末までキューバは人口も少なく,経済的にもさして重要性をもたぬ,牧畜とタバコ,砂糖を生産する小農的な社会の植民地にとどまっていた。
しかし18世紀の末,隣のフランス領サン・ドマング(ハイチ)で奴隷反乱が起こり,その島の繁栄していた砂糖産業が壊滅したことや,アメリカ合衆国が独立してキューバの貿易相手として登場したこと,さらにキューバの開明的なクリオーリョcriollos(土着化したスペイン人)の地主階級が黒人奴隷の輸入自由化を求め,大規模な土地所有が可能になるよう本国政府に積極的に働きかけ,それらを実現したことなどによって,18世紀末から〈砂糖革命〉と呼ばれる大規模な奴隷制砂糖プランテーション産業が勃興した。さらに1840年代以降には鉄道や蒸気機関を導入するなどして砂糖産業はますます発展し,60年には早くも世界最大の砂糖生産地となった。19世紀の初めイスパノ・アメリカの地域は本国からの独立を達成したが,当時砂糖産業が順調に発展していたキューバでは独立に向けての組織的な動きは起こらなかった。1840年代には砂糖地主の中で同じ奴隷制国家であったアメリカ合衆国との合併を望む声が強まったが,南北戦争で合衆国が奴隷制を廃止したため,その望みは消え失せた。その後,キューバのクリオーリョたちは,本国政府に対して,本国人との政治的平等や貿易のいっそうの自由化を要求したが,本国政府がそれらを受け入れなかったため,68年についに独立に向かって武力で立ち上がった。〈10年戦争〉と呼ばれるこの戦争は,反乱軍が奴隷解放を行ったため奴隷解放戦争の性格を帯びていたが,キューバ人クリオーリョの内部が分裂していたなどの理由により,結局反乱軍は勝利できず,78年にサンホンZanjón協定を結んで戦争は終結した。〈10年戦争〉後,本国政府は奴隷解放に踏み切り,86年キューバの奴隷制は完全に廃止された。また,戦後砂糖産業の近代化と集中が進み,それに関連してキューバ砂糖業へのアメリカ資本の進出が始まった。
キューバ人はその後J.マルティの指導のもとで再び独立の準備を進めた。マルティは1892年にキューバ革命党を結成し,〈10年戦争〉の英雄であるゴメスMáximo Gómez将軍やマセオAntonio Maceo将軍の協力を得て95年にアメリカ合衆国からキューバに侵入し,再び独立戦争を開始した。キューバの情勢に重大な関心を払っていたアメリカ合衆国政府は,98年4月ついにキューバ人の側に立ってスペインと戦争を開始した(米西戦争)。戦争は短期間で終結し,同年12月パリで講和条約が結ばれ,キューバがスペインの支配から離れること,独立するまでアメリカの軍事占領下に置かれることが決められた。1902年5月キューバは独立したが,独立に際して制定された憲法にアメリカがキューバに対する干渉権や海軍基地提供の義務を明記した〈プラット修正〉条項を強引に押しつけたため,キューバは実際には半ば植民地の状態に置かれることになる。この条項に基づいてアメリカは翌年キューバとの間に条約を結び,キューバのグアンタナモとバイア・オンダに海軍基地を設置するとともに,その後キューバの内政に対してしばしば軍事力を用いて干渉した。
独立後キューバに対するアメリカの投資は増加し,その総額は独立前の約5000万ドルから1920年代末には約11億ドルに達し,アメリカ資本による支配は砂糖産業のみならず,金融,鉱山,鉄道,電力,電信,電話の部門に及んだ。キューバの経済は極度に砂糖に依存するモノカルチャー経済となり,工業など他の産業が発展しなかったため,経済は国際市場での砂糖価格の変化に左右される不安定なものになる。そのうえ,砂糖産業が収穫期とその時期以外の〈死の季節〉と呼ばれた農閑期をもつ季節産業であったため,多くの農民や労働者が困窮した。1920年代の末に始まった世界恐慌はキューバを直撃したため経済不況や社会不安が起こり,それを背景にして33年9月に革命が起こり民族主義的な政権が生まれたが,それもアメリカ政府の圧力などにより,わずか4ヵ月で崩壊した。アメリカ政府は34年にキューバと新条約を結び〈プラット修正〉を廃棄したが(グアンタナモの海軍基地の条項は残された),その後はアメリカによる軍事干渉の代りにキューバ軍,とくにその実力者であったF.バティスタを通じてキューバの秩序維持と安定にあたった。一方,アメリカは34年にキューバとの間に互恵通商条約を結ぶとともに砂糖輸入割当法を制定することによってキューバ糖の市場を安定させ,それによってキューバ経済を不況から回復させようと努めるが,これらの政策はキューバの対米従属をいっそう深めさせることになり,このような政治的・経済的な対米従属からの脱却を求めてキューバで革命が起こるのである。
→キューバ革命
キューバの国民の大部分は,スペイン系白人,アフリカ系黒人,若干の東洋人(中国人と日本人),およびこれらの人々の間の混血によって構成されている。革命後政府は人種上の区別を行わない立場から,国民の人種構成を明らかにしていない。ちなみに革命前の国勢調査(1953)は,白人73%,黒人12%,混血14%,黄色人0.3%としている。公用語はスペイン語で,すべての国民がスペイン語を用いている。宗教は社会主義国家の法律に違反しない範囲で許容されているが,ローマ・カトリック教は大きな影響力をもっておらず,教会も社会活動の中心とはなっていない。一部の人々の間ではアフロ・キューバ系の宗教であるサンテリーアSanteríaがいまだに信仰されている。
キューバの社会は革命によって一変した。革命前に存在していた階級による貧富の差はなくなり,都市と農村の間に存在した発展の格差も是正されつつある。憲法によって労働の意欲がある者はすべて雇用が保障されており,老年退職者には年金が支給されている。教育と医療は無料で,革命後のこれらの分野の発展と普及は目覚ましい。1990年代に入って以来,キューバの経済・財政はきわめて厳しい状況にあるが,教育と医療の無料は堅持されている。革命前20%以上あった非識字率は今日ではほとんどゼロに近く,小・中・高等学校および大学に就学する者の数は革命前の77万人(1956)から356万人(1978)へと増加した。一方,病院の数も革命前の97(1958)から255(1974)へと増加し,この国の幼児死亡率1000人当り9.3(1993)というのは,ラテン・アメリカで最も低い数字である。革命前のキューバ,とくにハバナのような大都市では黒人に対する差別がなされていたが,今日ではこのような社会的差別は一掃されている。女性の地位も革命前とは比較にならぬほど向上し,社会のさまざまな分野での女性の進出は目覚ましい。大部分のキューバ人にとって大衆組織である革命防衛委員会(CDR)とキューバ婦人同盟(FMC,ともに1960創立)が日常的な社会活動の中心となっており,これらの組織はキューバ社会主義が民衆レベルで機能するうえで不可欠なものとなっている。
文化活動もその内容が革命に反しないかぎり自由に認められており,その枠組みのなかで文学,音楽,演劇,舞踊,出版などの分野で活発に行われている。作家のA.カルペンティエル,詩人のN.ギリェン,キューバ国立舞踊団を率いる女性舞踊家のアロンソAlicia Alonso(1921- )など国際的に著名な文化人を生んでいる。革命後スポーツは重視され,各地にスポーツ評議会が設けられて各種のスポーツが奨励されている。キューバではサッカーではなくて,野球が国民的スポーツである。
→ラテン・アメリカ音楽 →ラテン・アメリカ文学
キューバの政治は唯一の政党であるキューバ共産党(PCC)の指導のもとで,国家機構を通じて行われている。革命後のキューバでは最高指導者であるF.カストロを中心とした個人的色彩の強い政権により政治が行われてきたが,1970年代に入って個人指導から党による指導へと方針が改められるとともに,党の強化がはかられ,75年に第1回共産党大会が開かれて党による指導が明確に打ち出された。党には政治局,書記局,中央委員会が置かれたが,書記局は第4回党大会(1991)で廃止され,現在は政治局と中央委員会の構成員が党幹部を形成している。第5回党大会(1997)では中央委員の数が225名から150名へと大幅に削減されるとともに,政治局や中央委員会で若手の登用が積極的になされて注目された。また,第4回党大会では,共産党一党支配による社会主義を堅持しつつも,国政の民主化と社会主義のキューバ化を打ち出して,党員資格を従来のマルクス=レーニン主義者からキリスト教信者や愛国者にまで広げた。党員数は人口約1100万のうち約78万(1997)とされている。一方,1975年には革命後初めて憲法が制定され,翌年2月に国民投票の97.7%の支持を得て発布された。憲法は,キューバをすべての権力が労働者人民に属する社会主義国家と規定している。国家機構については,国会に相当するものとして,通常年2回開催される人民権力全国会議を設け,さらにこの会議の代議員の中から国家評議会の議員を選出すると規定している。国家評議会は人民権力全国会議が開催されていない期間それを代行するもので,その議長は国家元首であり,行政府の首長であり,革命軍の最高司令官である。政府に相当する最高行政機構として国家評議会議長,第一副議長や29名の各省大臣などから成る閣僚評議会がある。人民権力全国会議の下には現在14県ある各県および各地方自治体に人民権力会議が置かれ,選挙権をもつ16歳以上の男女がまず地方自治体の会議への代表を選び,その中から県の会議の代表,さらにそこから全国会議の代表を選ぶという全国的なヒエラルヒーの形をとっている。司法組織としては,最高人民裁判所を頂点に各県に裁判所が置かれている。大衆組織としてはキューバ労働者中央組織,革命防衛委員会,キューバ婦人同盟,全国小農連合,大学学生同盟がある。
キューバはこのような政治体制を社会主義的民主主義と呼んでいるが,実際の政策決定は,党の政治局,中央委員会,および国家評議会や閣僚評議会のいくつかを兼任する少数の指導者によってなされている。とりわけ,国家評議会議長,党第一書記,首相,軍の最高司令官を兼任し,国民の間で依然として大きな人気をもつF.カストロに絶大な権力と権威が集中している。しかし,近年は党の政治局や国家評議会の構成員による集団指導体制が強まっているとされ,とくに30代から50代の若手が新しい指導部を形成しつつある。カストロの後継者は彼の弟で,ナンバー・ツーの地位にある国家評議会第一副議長,第一副首相,党第二書記,革命軍事相のラウル・カストロRaúl Castro(1931- )とみなされている。キューバの軍部は陸海空約18万の兵力をもち,ラテン・アメリカでは最強の軍隊の部類に属している。軍部はまた,党の中央委員会や政治局や閣僚会議で将軍たちがその構成員となっていて,国内体制の強力な支柱となっている。
冷戦が終結し,ソ連・東欧の社会主義が崩壊するまで,キューバの対外政策は,ソ連・東欧社会主義諸国との緊密な同盟関係,アジア,アフリカ,ラテン・アメリカの社会主義政権や民族解放勢力との連帯と協力,および社会体制の異なる国家との間の平和共存という三つの柱を原則としていた。第三世界の民族解放闘争への積極的な支援としては,60年代にはラテン・アメリカ各地の左翼武装ゲリラ闘争を支援し,70年代にはアフリカ,中東へと活動分野を広げ,75年にはアンゴラ,78年にはエチオピアの各々の左翼政権を支援するため大規模な出兵を行った。70年代末から80年代にかけて,カリブ海のグレナダや中米のニカラグアの左翼政権と緊密に連帯した。79年9月には,ハバナで非同盟諸国首脳会議を開催し,その後3年間同会議の議長団を務め,第三世界諸国の間で指導的役割を果たした。
しかし,冷戦の終結とソ連・東欧社会主義の崩壊により同盟国でかつ主要貿易相手国を失い経済的苦境に陥ったキューバは,冷戦後一段と強まったアメリカ合衆国の経済封鎖のもとで,新たな国際的対応を迫られた。空前の経済不況からの脱出を最優先課題としたキューバは,国際社会での孤立化を避けるために,敵視政策を続けるアメリカ合衆国以外のあらゆる国との関係改善に努めるとともに,従来のイデオロギー的な対外政策を改めて経済外交に重点を置いた政策をとっている。国連や,イベロ・アメリカ諸国会議,カリブ海諸国連合などを舞台に,アメリカ合衆国の経済封鎖に対する反対や,発展途上国の権利の擁護,環境保護などを強く唱えている。国連総会でのアメリカの対キューバ経済封鎖に対する非難決議に賛成する国は年々増えているが,1997年の国連総会でその数は143ヵ国に達し,日本も初めて賛成の側にまわった。こうした中で,対米関係の改善がどこまで進むかがキューバ外交の注目点となっている。
キューバは1960年代後半にE.ゲバラの考えに基づいたところの平等主義を徹底化し,社会主義と共産主義を並行して建設するという,急進的な経済路線をとっていたが,70年代初めにその路線が失敗に帰するや,ソ連・東欧型の社会主義経済建設に沿った現実的な路線へと改め,72年にはコメコンに加入してソ連・東欧社会主義共同体の中に経済を組み入れることによってその安定と成長をはかった。80年代にラテン・アメリカ全般を襲った経済危機はキューバにもある程度の影響を及ぼし,80年代半ばにはそれまでの経済政策の弊害や綱紀の是正のため〈修正〉政策を打ち出した。80年代末から90年代初めに起こったソ連・東欧社会主義の崩壊は,貿易,投資,援助をこれらの国に依存していたキューバ経済に深刻な打撃を与えた。キューバの対外貿易の85%がこれらの国々との間の貿易であったためである。さらにアメリカ合衆国がとった対キューバ経済封鎖の強化(1992年のトリセリ法,96年のヘルムズ=バートン法)や,政府の対応策のまずさ,相次ぐ自然災害などがキューバ経済の悪化に拍車をかけた。平常時の89年から93年までの4年間に国内総生産は約40%減少し,輸入能力も92年には89年の48%にまで低下した。これらの結果,あらゆる日常生活品が不足して配給制となり,食料不足,都市の交通事情悪化,停電などで,深刻な事態となった。
それに対して政府は,一連の改革に着手した。中国,ベトナムで実施されていた積極的な対外開放政策に踏み切るとともに,93年には国民の米ドル所有の自由化,一定数の個人営業の許可,生産性の向上と独立採算制の導入を目ざした従来の国営農場の協同組合農場化,94年の農産物や工業製品の自由市場化など市場機能の導入をはかった。一方,ヨーロッパ,カナダ,メキシコなどの国々から観光産業などに対して多額の投資がなされた。これらの結果,キューバ経済は立ち直り始め,マイナスが続いた経済成長も94年には初めてプラスへと転じ,95年には5%の経済成長を記録した。経済改革は効果をあげつつあるが,その一方でこの国に新しい貧富の差を作り出したり,利己主義を育むなど新たな問題を生み出している。指導者たちは,今後競争原理の導入による経済の活性化と平等主義の維持という難しいバランスをとりながら経済政策を進めていかねばならないだろう。
キューバの産業は,砂糖,タバコ,コーヒー,かんきつ類,牧畜などの農牧産業と,ニッケル等の鉱業,それに食品加工,繊維,肥料,セメント,造船,エレクトロニクス,製鉄など広い分野にわたる工業,エビなどの漁業であったが,近年,観光産業やバイオテクノロジー産業がこの国の新たな戦略産業として急速に発展している。なかでも観光産業の発展は目ざましく,この国を訪れる観光客の数は92年の54万人から97年には100万人をこえた。観光による収入も10億ドルをこえて,外貨収入は砂糖産業を抜いて第1となっている。これに対して砂糖産業は経済危機以前の840万t(1989)から,93年には420万t,95年には330万tへと下落をたどっており,砂糖産業の回復が重要な課題となっている。ソ連・東欧社会主義の崩壊で石油の供給源を失ったキューバは,外国の援助で自国の油田開発政策を進めており,必ずしも良質のものではないようだが年産100万tをこえる原油を生産している。キューバの貿易相手国は,かつてのソ連・東欧からカナダ,スペイン,フランスなどヨーロッパ諸国や中国,メキシコ,ロシアへと拡散している。
執筆者:加茂 雄三
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
西インド諸島のなかで最大の島であるキューバ島とその周囲にある約1500のサンゴ礁の小島群からなる国。正式名称はキューバ共和国República de Cuba。北海道に秋田県と岩手県を足したほどの面積11万0861平方キロメートルの国土に、人口1124万(2006年推計)、1125万(2010年推計)が住む。首都はハバナで、人口は215万(2008年推計)。1961年に社会主義宣言をして以来「カリブ海に浮かぶ赤い島」ともよばれ、2012年時点でもその体制を維持している。
[国本伊代]
キューバ島は、南北の幅が70~200キロメートル、東西の長さ(全長)が1263キロメートルの全体的に平坦な土地の細長い島で、海岸線は入り江に富みサンゴ礁に囲まれている。北部は幅300キロメートルのフロリダ海峡によってアメリカのフロリダ半島と、北東部はオールド・バハマ海峡によってバハマと、東部はウィンドワード海峡によってイスパニョーラ島(ハイチとドミニカ共和国がある)と、南東はケイマン海峡によってジャマイカ島と向き合い、西部海岸はメキシコ湾流の流れるユカタン海峡によってメキシコのユカタン半島と隔てられている。かつてユカタン半島からフロリダ半島にかけて陸続きの石灰岩台地の一部であったキューバ島は、浸食が進んで国土の4分の3が標高100メートル以下の平坦地と緩やかな傾斜地である。国土の4分の1を占める山地は、東から西へかけてオリエンタル(東部山系)、セントラル(中部山系)、オクシデンタル(西部山系)という三つの異なる山系からなる。東部山系は、シエラ・マエストラ山脈とその他の山地群によって構成され、同国の最高峰トゥルキーノ山(2005メートル)が位置する。北斜面は緩やかで、島の北岸に連なる山地群との間に広がるカウト川流域の中央低地は主要な農業地域となっている。シエラ・マエストラ山脈は環太平洋造山帯に属しており、地震の多発地帯でもあるが、急斜面の南岸にはサンティアゴ・デ・キューバやグアンタナモの溺(おぼ)れ谷からなる天然の良港がある。中央部山系はトリ=ダド山脈を中心にして高度の低い山地群からなる。西部山系はおもにオルガノス山脈、ロサリオ山脈によって構成されている。この山系は石灰岩からなり、カルスト地形が目だつ。オルガノス山脈の名称は、侵食作用で削り取られたのちに残された丘がパイプ・オルガンに似ていることに由来する。河川は、石灰岩台地の地形に特有な小河川が多い。最長の川はシエラ・マエストラ山脈に源を発するカウト川(250キロメートル)で、東岸のグアカナヤボ湾に流入する。
キューバ島は北緯20度と北回帰線の間に位置し、気候は熱帯性で8月の平均気温は27.1℃、もっとも低い1月の平均気温は21.6℃で、貿易風の影響により比較的しのぎやすい。降水量は北西部で年間2000ミリメートル、残りの地域は1000~1500ミリメートルで、シエラ・マエストラ山脈の陰になるグアンタナモがもっとも少ない。雨期は5月から10月で、雨期とほぼ一致して5月から11月にかけてハリケーンに襲われ、とくに北西部はしばしば大きな被害を被っている。
[国本伊代]
コロンブスの西インド諸島到達以前のキューバ島には先住民タイノ人とシボネイ人が生活していた。その人口規模は約30万と推定されている。しかしスペイン人による植民活動が始まると、過酷な強制労働とスペイン人が持ち込んだ未体験の病気のために、先住民は急激に人口を減らした。100年後の16世紀末までにこれらの先住民はほぼ絶滅し、労働力としてアフリカから黒人奴隷が導入された。植民地時代を通じてハバナはスペインとアメリカ大陸を結ぶ貿易ルートの中継港として重要な機能を果たしたが、貴金属資源のなかった島自体の開発はほとんど進まず、主要な砂糖生産地としてキューバ島が急速に開発されるのは19世紀になってからである。
19世紀初頭にスペイン植民地の各地で独立運動が起こり、次々と独立するなかで、キューバは19世紀末までスペインの支配下に置かれた。東に位置するイスパニョーラ島西部のフランス領サン・ドマング(現在のハイチ)が1804年に黒人国家として独立したことに脅威を覚えたキューバのクリオーリョ(植民地生まれのスペイン系白人)たちが独立運動に立ち上がらなかったこと、アメリカ大陸の植民地を次々と失ったスペインが最後の砦(とりで)としてキューバを厳重に管理支配したこと、重要な砂糖生産地であったサン・ドマングが独立によってその砂糖生産基盤を壊滅させたためキューバ島が一躍サン・ドマングにかわる砂糖生産地に成長したことなどが、キューバの独立を遅らせる原因となった。
クリオーリョたちは、本国から移住してきたスペイン人との平等な地位と自由を求めて、1864年に10年におよぶ第一次独立戦争を起こし、敗れた。1895年には第二次独立運動とよばれる新たな独立運動を展開し、1898年の米西戦争でスペインが敗北したことにより、キューバはアメリカの保護下で1902年にスペインからの独立を達成した。しかしその独立も、アメリカの政治的・軍事的干渉権を憲法上に挿入した(プラット修正条項)、アメリカの保護国としての独立であった。すでに19世紀なかばにアメリカ資本が進出していたが、独立後のアメリカ資本のキューバ進出はあらゆる分野に及び、キューバ経済を支配した。
莫大(ばくだい)なアメリカ資本の投下によって鉄道と道路が建設され、キューバ経済の中心であったサトウキビの生産地帯が20世紀初頭のハバナ周辺からキューバ島の中央部へと拡大し、さらに南東部山岳地帯にまで及び、砂糖モノカルチュア(単一作物生産)経済とアメリカ市場に依存した経済構造ができあがった。同時にアメリカ資本と結び付いた少数の寡頭勢力が富を独占する、貧富の格差の大きい社会をつくりあげた。
1930年代の世界恐慌の混乱期に台頭し、アメリカによるキューバ支配の要(かなめ)となった将軍フルヘンシオ・バチスタの独裁政治は、やがて1950年代に入ってフィデル・カストロたちの激しい反政府運動とゲリラ活動を誕生させた。カストロの率いたゲリラ勢力は幅広い民衆による抵抗運動の支援を受けて1959年1月1日にバチスタ独裁政権打倒に成功した(キューバ革命)。新政権は1961年に社会主義宣言を採択した。その後のキューバは社会主義体制の下で改革に取り組み、ソ連・東欧の社会主義諸国との結びつきを強めた。この間の1962年にソ連のミサイル基地の国内建設を認め、米ソの対立関係が核戦争寸前にまで発展するキューバ・ミサイル危機(キューバ危機)が起こった。その後1989年の東欧諸国の社会主義体制の崩壊と1991年のソ連邦の解体によって、貿易の85%をこれらの旧社会主義諸国に依存していたキューバ経済は極度の経済不況に陥った。しかし社会主義体制を保持しながらも1990年代なかば以降は経済の自由化政策によって経済活動の一部に外国資本を導入し、私有企業と個人の営農を認めるに至っている。2008年2月にはフィデル・カストロが国家評議会議長を退任、弟のラウル・カストロの議長就任により、フィデル・カストロ主導による革命が目ざした「平等主義の原則」は「生産性と生活の質の向上」へと大きく変わろうとしている。2011年4月の共産党大会でフィデル・カストロが共産党第1書記長を辞任し、後任にラウル・カストロが指名され、非効率な国営部門の縮小と民間企業の拡大による経済の立て直しを目ざして、成果主義と一部市場主義経済を取り入れる経済改革が打ち出された。
[国本伊代]
現行憲法は1976年に公布されたものである(1992年改正)。立法権は、有権者による直接選挙によって選出された代議員(定員614名)によって構成される人民権力全国議会にある。任期は5年、通常議会は年2回、選挙権は16歳以上、被選挙権は18歳以上である。この人民権力全国議会は、その代議員のなかから31名の国家評議会議員を選出する。立法、行政、司法の三権は分立しており、国家評議会はこの三権の調整・指導を行う国家最高機関で、その議長は国家元首・政府首長・軍最高司令官を兼任する最高指導者である。行政権は、人民権力全国議会が指名し、国家元首によって任命された閣僚会議にある。その構成員は、議長、第一副議長、副議長数名および各国家委員会議長と各省大臣である。司法権は、最高人民裁判所および法律で定められたその他の裁判所によって行使される。
地方行政制度は、169の日本の市町村に相当する行政区(ムニシピオmunicipio)から住民の直接選挙によって選出される代議員によって構成される人民権力行政区会議、および14の県(プロビンシアprovincia)から行政区会議代議員によって選出される人民権力県議会からなる。任期はそれぞれ2年半と5年である。政党はキューバ共産党のみで、キューバの社会および国家において指導力を全面的に行使する。
外交政策の基調は、あらゆる国との平和共存、内政不干渉主義であるが、キューバ・ミサイル危機以降アメリカとの関係が急速に悪化し、1960年代から1980年代にかけて社会主義諸国との関係を強めた。とくにソ連との関係を緊密化して経済・軍事面でのソ連の援助が増大した。しかし、その後の東欧諸国とソ連の社会主義体制の崩壊によって、キューバは経済的に大きな打撃を受けた。ラテンアメリカ諸国との関係は、1962年ウルグアイのプンタ・デル・エステで開催された米州機構外相会議で同機構から除名され、1964年同会議でのキューバ経済封鎖強化措置決定後メキシコを除いて国交が断絶されたが、1970年代に入ってからラテンアメリカ諸国との国交が回復し、1975年8月には米州機構がキューバとの関係正常化を決定した。アメリカとの関係は、1973年2月ハイジャック防止協定が締結され、政府間の話し合いが可能であることが示されたが、キューバ軍の1975年のアンゴラ戦争および1977年のエチオピア・ソマリア戦争への参戦によりふたたび悪化し、1980年アメリカの移民制限法の公布を機に、約12万5000人のキューバ人がアメリカに亡命したことも両国間の関係悪化に拍車をかけた。アメリカによる経済封鎖は2012年2月時点でも続いている。
しかし、オバマ民主党政権下のアメリカは対キューバ制裁の一部を緩和し、在米キューバ人のキューバ渡航とドル送金制限を大幅に緩めた。2008年2月にフィデル・カストロから国家評議会議長の座を受け継いだラウル・カストロは、翌2009年に旧ソ連の崩壊後疎遠となっていたロシアを22年ぶりに訪問し、ラテンアメリカ諸国への浸透を図る中国とも関係を強めて、両国から巨額の経済支援を引き出した。また、対キューバ経済制裁を続けてきた欧州連合(EU)とも関係を正常化した。さらに、ベネズエラに代表されるラテンアメリカ地域に台頭した反米左派政権を擁する国々との関係を密にしている。
[栗原尚子・国本伊代]
19世紀から1980年代に至るまでキューバ経済の特徴であった砂糖に依存したモノカルチュア(単一作物生産)経済構造は、ソ連と東欧諸国の社会主義体制が崩壊したのちの1990年代なかば以降大きく変化している。革命後の社会主義計画経済の下で砂糖モノカルチュアからの脱却が図られて工業化が進められたが(第一次五か年計画)、急激な工業化政策は経済的混乱を引き起こし、1967年に始まった第二次五か年計画でふたたび砂糖を重視する政策がとられ、砂糖は輸出の70~80%台を占めた。旧ソ連が覇権国であった時代には、長期貿易協定と経済協力協定により、キューバの砂糖は国際価格より高い値段でソ連が買い入れ、同時に原油を国際価格より安くキューバに売り渡していた。加えてソ連はキューバに対し莫大な経済援助を30年にわたって継続してきた。同時に、2012年2月時点でも続いているアメリカの経済封鎖によってキューバはもっとも近い巨大な市場から切り離されてきた。このようにソ連および東欧諸国に極度に依存してきたキューバ経済は、ソ連・東欧諸国の社会主義体制の崩壊によって壊滅的な打撃を受け、物資不足は国民生活を破綻させた。しかし1993年以降に導入された新たな経済改革によって、国民の外貨所持が解禁され、自営業の一部許可や独立採算制に基づく協同組合制度が導入され、外資による観光資源開発が認められるなど、社会主義体制保持を明言しながらも、キューバ経済の構造は着実に変化しつつある。
近年は外資によって開発された観光産業が重要な地位を占めており、さらに21世紀に入るとニッケルをはじめとする鉱物資源が砂糖にかわる重要な輸出品となっている。世界有数の埋蔵量が確認されているニッケルは、ラテライト鉄鉱石から産出される二次的産物で、北東部のモア湾近くの鉱山で採掘される。
キューバ経済の激変の過程は、貿易の商品別輸出構成の変化に顕著に示されている。1980年代まで輸出総額の70%台を占めていた砂糖は1990年代に50%台へ、2000年には31%となり、2005年の統計では7%を占めるにすぎなくなっている。一方、1990年代後半から伸び始めた鉱物資源の輸出は21世紀に入ると大幅に増大し、2010年の統計では54.9%と第1位を占め、第2位の農産物(20.0%)を大きく上回った。輸入は工業製品と石油が全体のほぼ半分を占めているほか、年により食料の輸入も多い。貿易の国別輸入相手では、EU(21.8%)と中国(13.4%)が上位を占め、輸出相手ではベネズエラ(12.8%)とEU(9.8%)が上位を占めて、特定の国に極度に依存していない(2010)。輸出入とも社会主義体制崩壊前には旧ソ連が60%前後を占めていたのとは大きく変化している。
[国本伊代]
全住民の約60%がムラトー(スペイン系白人と黒人の混血)、約25%がスペイン系白人、約15%が黒人、ほかにメスティソ(白人と先住民の混血)が少数いる。公用語はスペイン語である。
革命で政府がもっとも力を注いできた教育は大きな成果をあげ、とくに農村部で高かった非識字者の一掃が図られた。2010年の統計によると、15歳以上の人口の識字率は97.8%と高い。義務教育は9年間で、教育は大学まで無料である。
教育に次いで大きな成果をあげたのは社会保障制度で、とりわけ医療費が無料であることである。しかし、国民生活は全般的に耐乏状態にあり、生活の切り詰めが長く続き、物資は配給券による購入で、配給物資は安いが、供給はかならずしも十分でなく、店の前には長い列がつくられる。同時に、新しい経済政策の下で革命が撲滅したはずの貧富の格差が生じ始めている。
文化的には、スペインとアフリカの影響を強く受け、芸術のなかではキューバ音楽がとくに知られる。ユーロ・キューバン音楽(ハバネラ)やアフロ・キューバン音楽(ルンバ、マンボ、チャチャチャ)があり、後者の『ラ・マラゲーニャ』『シボネイ』などは世界的に有名である。これらの音楽に象徴されるように、キューバ人はラテンアメリカ的気質を共有し、キューバの社会主義は「陽気な社会主義」ともいわれている。最大の娯楽は映画で、さらに政府が振興に力を入れているサッカー、バレーボール、野球に熱中する。宗教は、国民の大部分がカトリック教徒であり、教会は反革命的活動をしないことを条件に布教が認められている。
[国本伊代]
日本との外交関係は、1929年(昭和4)に国交を樹立し、翌1930年に日本がキューバに公使館を設置し、1957年(昭和32)には大使館に昇格、キューバも1931年在日公使館を設置し、のちに大使館を置いている。1959年キューバ革命成立直後に日本はカストロ政権を承認した。アメリカが経済封鎖を続けるなかで、日本はキューバとの貿易関係を保持したが、日本はキューバにとって輸出入とも主要相手国となっていない。キューバから日本への輸出は魚貝類が突出しており、ほかにタバコ、コーヒー、ニッケルなどがある。日本からの輸入は医療機器類が約半分を占める。
[国本伊代]
キューバではユネスコ(国連教育科学文化機関)により「オールド・ハバナとその要塞群」(1982年)、「トリニダードとロス・インヘニオス渓谷」(1988年)、「サンティアゴ・デ・キューバのサン・ペドロ・デ・ラ・ロカ城」(1997年)、「ビニャーレス渓谷」(1999年)、「キューバ南東部のコーヒー農園発祥地の景観」(2000年)、「シエンフエゴスの都市歴史地区」(2005年)、「カマグエイの歴史地区」(2008年)が世界遺産の文化遺産(世界文化遺産)に登録され、また「グランマ号上陸記念国立公園」(1999年)、「アレハンドロ・デ・フンボルト国立公園」(2001年)が世界遺産の自然遺産(世界自然遺産)に登録されている。
[編集部]
『エリック・ウィリアムズ著、川北稔訳『コロンブスからカストロまで――カリブ海域史、1492~1969(Ⅰ、Ⅱ)』(1978・岩波書店)』▽『モレノ・フラヒナル著、本間宏之訳『砂糖大国キューバの形成――製糖所の発達と社会・経済・文化』(1994・エルコ)』▽『加茂雄三著『地中海からカリブ海へ』(1996・平凡社)』
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現地音ではクーバ。カリブ海の大アンティル諸島西端に位置する島国。先住民の大部分はアラワク系だったが,1492年にコロンブスらが接触し,1511年にスペイン人による征服と植民が始まると,ほとんど絶滅した。18世紀後半以降,アフリカ人の奴隷制による砂糖プランテーションが拡大し,19世紀に他のスペイン領植民地が独立した後もその支配下にとどまった。1868年から始まった「十年戦争」に続いて,95年に始まった第2次独立戦争では,98年にアメリカが介入しアメリカ‐スペイン戦争となった。アメリカによる占領ののち,1902年にキューバ共和国として独立。その後アメリカがプラット修正により干渉権を行使してしばしば介入し,不安定な政局と独裁体制が続いた。カストロの指揮したキューバ革命により59年に革命政権が成立し,ソ連寄りの体制をしいた。91年のソ連崩壊後は,新たな世界情勢への対応が模索されている。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
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