モロッコ(国)(読み)もろっこ(英語表記)Kingdom of Morocco 英語

日本大百科全書(ニッポニカ) 「モロッコ(国)」の意味・わかりやすい解説

モロッコ(国)
もろっこ
Kingdom of Morocco 英語
al-Mamlaka al-Mahribīya アラビア語

アフリカ北西部にある王国。ジブラルタル海峡を挟んでスペインの対岸に位置する。東部、南東部はアルジェリア、南西部は西サハラと接する。モロッコの名は、最初のマグレブ統一王国であるムラービト朝の都マラケシュに由来する。正称はal-Mamlaka al-Mahribīyaで「西の王国」を意味し、現アラウィ王朝は17世紀以来の歴史をもつ。面積44万6550平方キロメートル、人口3050万6000(2006年推計)、3199万(2009年推計)。ヨーロッパやマグレブ地方とサハラ砂漠以南の地域を結び、地中海と大西洋をつなぐ位置にあり、古くから要衝地として注目されてきた。首都はラバト(人口170万5000。2007)。ベルベル、イスラム(イスラーム)、イベリアの各文化を基層とし、そのうえに近代ヨーロッパ文化が重なった独特の文化をもつ。観光、農業と輸出量世界第1位の燐(りん)鉱石の生産が主産業である。1975年以来西サハラ併合問題が長期化し、戦費が国の財政を圧迫している。

[藤井宏志]

自然

北アフリカを東西に走るアトラス山脈は、西高東低で、モロッコでもっとも高くなる。このためモロッコでは3000メートルを超す山並みがみられ、最高峰のトゥブカル山は標高4165メートルである。アトラス山脈はこの国では、地中海沿岸のリフ山脈、北東から南西に連なる中アトラス山脈、高アトラス(オート・アトラス)山脈、アンティ・アトラス山脈の四つに分かれる。中アトラス山脈と高アトラス山脈の北麓(ほくろく)は、メセタとよぶ高原から大西洋沿岸の平野へとしだいに低くなる。セブ川、ウムエルビア川、スース川などが流れ、国を代表する農業地域になっている。アンティ・アトラス山脈の南麓はサハラ砂漠の一部をなす。岩石砂漠が広がり山麓や谷にはオアシスがある。なおアトラス山脈は6500万年前、アフリカプレートが北上してユーラシアプレートに衝突して生じた新期造山帯のため、モロッコでは地震が比較的多い。

 一般に北から南へ行くにしたがって年降水量が少なくなり、気候はアガディールとウジダを結ぶ線を境に、大きく二つに分けられる。この線より北は、夏は乾燥するが冬降雨がある地中海性気候を示す。年降水量は200~800ミリメートルであるが、リフ山脈や高山の大西洋側斜面では800ミリメートル以上に達する。このため山地を水源とする河川は比較的水量に恵まれている。これに対して南側は年降水量200ミリメートル以下の乾燥気候で、ステップ気候からしだいに砂漠気候となる。気温についてみると、海岸部では冬は温和で夏は比較的過ごしやすい。とくに南部沿岸はカナリア海流(寒流)のため夏は涼しい。一方、内陸部は寒暖の差が大きく、冬は低温、夏は高温となる。また高山では冬冠雪し、夏も雪が残る所があるが、春にはサハラからシロッコとよぶ熱風が吹き出し、山麓ではフェーン現象のため高温となる所もある。

[藤井宏志]

地誌

モロッコは大西洋沿岸地域、アトラス山脈地域、東部地域、南部サハラ地域と大きく四つの地域に分けられる。大西洋沿岸地域はリフ山脈、中アトラス山脈、高アトラス山脈に囲まれ、海岸平野と高原からなる。この国でもっとも豊かな地域で、農業、工業が発達し、人口も集中している。海岸部には首都ラバトをはじめカサブランカ、サフィなど近代的都市が並び、鉄道や道路の整備も進んでいる。セブ川流域のセブ平野、ラルブ平野や、南のシャウィア平野、ドゥッカラ平野が広がり、植民地時代ヨーロッパ人が多数入植した。小麦、米、柑橘(かんきつ)類、野菜などが栽培される。海岸平野と高原の境には、マラケシュ、メクネス、フェズなどの古都が立地し多くの観光客が訪れる。南の高原では牧畜が行われる。

 アトラス山脈地域は、リフ、中アトラス、高アトラス、アンティ・アトラスの諸山脈を含む。ベルベル系住民が多く住み、オリーブ、コルクガシの樹木栽培とヒツジ、ヤギの牧畜を組み合わせた伝統的な農牧業を行っている。生業で人口を維持できず、都市への流出者や外国への出稼ぎ労働者が多い。

 ムルヤ川以東のモロッコ東部地域は、主として標高500メートル以上の高原からなる。雨が少なくかつては粗放な牧畜や伝統的な穀物栽培、製紙原料のアルファ草栽培が中心の貧困な地域であった。しかし近年ムルヤ川の水利開発が進み、トリフヤ平野では、灌漑(かんがい)による近代的な小麦、米、果樹、野菜、サトウキビの栽培が行われている。また鉛、亜鉛、マンガンなどの鉱産物の開発も進んでいる。

 南部サハラ地域は、高アトラス山脈南麓以南の地域をさす。国土の約3分の1を占めるが、雨が極端に少なく、南縁はサハラ砂漠の一部である。全般に遊牧、粗放的な牧畜、ナツメヤシ栽培などのオアシス農業が行われるが、高アトラス山脈南西麓のスース川下流では近代的な灌漑農業により果樹、野菜が栽培される。鉱産物では銅、コバルト、マンガンを産する。住民はベルベル人が多く、オアシスにはアフリカ系のハラティーン人も住む。オアシス都市のワルワザート・オアシス近辺は『グラディエーター』『アラビアのロレンス』などの映画ロケ地として有名になり、カスバ街道、赤い砂丘もあり、砂漠観光の中心地になっている。

[藤井宏志]

歴史

北アフリカは古くからベルベル人が主たる住民であったが、紀元前11世紀から紀元後7世紀まで、フェニキア、ギリシア、ローマ、バンダルといった地中海北側の異民族の支配を受けた。7世紀に侵入したアラブ人は、アラビア語とイスラム教(イスラーム)をもたらし、ベルベル人のなかに浸透し土着化した。こうしたなかからベルベル人の国家が誕生し、8世紀にはフェズを首都に、モロッコと西アルジェリアを版図とするイドリース朝が成立した。11~13世紀にかけて興ったムラービト朝とムワッヒド朝は、モロッコ、アルジェリア、チュニジアからイベリア半島までを支配下に置くマグレブ統一国家をつくりあげた。13世紀から15世紀初頭のマリーン朝はモロッコを支配域とし、この王朝の勢力範囲が、現在のこの国の領域としてほぼ固まった。ワッタース朝統治下の15世紀末、イベリア半島からイスラム勢力を駆逐したスペイン人、ポルトガル人は、続いて北アフリカに侵攻し、モロッコではアガディール、サフィを占領した。1510年フェズで誕生したサアード朝は、スペイン人、ポルトガル人を撃退し、他のマグレブ諸国と異なりオスマン帝国の支配下にも入らず、モロッコの独立を守った。そして16世紀には現在のモーリタニアを含む西スーダンソンガイ王国を攻略して広い版図をもち、これが今日の大モロッコ主義の根拠となっている。1660年にはアラウィ朝が政権をとり、この王朝が現在まで続いている。

 19世紀に入るとヨーロッパ諸国の帝国主義的圧力が強まり、モロッコは1845年タンジールのみを開港するという鎖国体制で対応した。しかしこれはまもなく崩れ、イギリス、スペイン、フランスと相次いで不平等な通商条約を結ぶことになった。国内では財政、軍制の近代化、産業開発が進められたが、それが財政危機と内乱を招き、かえって国力は弱まった。3国のうちイギリスはのちに手を引き、モロッコ事件(第一次世界大戦前に、モロッコをめぐってフランスとドイツの間に起きた二度にわたる国際紛争)で介入したドイツの野望も阻止され、最終的にモロッコはフランス、スペインに支配されることになった。1912年のフェズ条約で国土の大半がフランスの保護領となり、仏西条約で北部リフ地方はスペイン領となった。また1923年の取決めでタンジールは国際管理の自由港となった。植民地化に対する抵抗は激しい攘夷(じょうい)運動の形となり、アブデル・クリム指揮下のリフ戦争(1921~1926)に代表されるように、保護領となってからも続いた。第二次世界大戦末期からはスルタンを中心に独立運動が盛り上がり、フランスは一時スルタンを廃位して傀儡(かいらい)スルタンをたてた。しかし運動はいっそう激しくなり、1956年3月独立協定が結ばれ保護領条約は廃棄された。続いて同年4月にはスペイン地区、同年10月にはタンジール地区も主権を回復した。

 独立の翌1957年スルタンは称号を国王(マリク)と改称してムハンマド5世を名のり、国名もモロッコ王国と改めた。1961年王が死去すると、皇太子ハッサン2世が後を継ぎ、1962年立憲君主制の憲法を制定した。ムハンマド5世は民族独立の父としてカリスマ性を有していたが、ハッサン2世の治世となると学生や労働者のデモが頻発し、1971年、1972年と王の暗殺未遂事件が相次いだ。こうしたなかでハッサン2世は1975年35万人を動員し、大モロッコ主義をかかげスペイン領西サハラへのサハラ大行進を行った。西サハラは大モロッコ主義と世界的な燐(りん)鉱石があることから長年モロッコが領有を主張していた地域で、大行進の結果、マドリード協定でスペイン軍の撤兵とモーリタニアとの分割併合が決定した。さらに1979年モーリタニアの領有権放棄によりモロッコが旧スペイン領西サハラ全域を支配している。西サハラ領有による威信高揚を背景に王制の危機はいちおう回避された。しかし、西サハラの独立を要求するポリサリオ戦線が、1976年サハラ・アラブ民主共和国の樹立を宣言し、激しい武装闘争を展開している。同共和国の承認国が急増したため、1984年モロッコはアフリカ統一機構(OAU)を脱退した。また膨大な戦費と不況のため経済状態は悪化し、1981年、1984年と物価暴動が起きた。1988年国連事務総長が西サハラの独立かモロッコの併合かを問う住民投票を提案したが、投票は延期された。1996年に至り、話合いの気運もみえ、1997年には投票実施に関する規制などで合意に達したが、投票の資格問題で決裂、ふたたび延期された。

 1999年7月、38年にわたる長期間在位したハッサン2世が死去、皇太子のムハンマド6世が王位についた。

[藤井宏志]

政治

1962年立憲君主制の憲法が施行され、その後1970年と1972年に改正されたが、基本は変わらず国王の権限は強化された。国政の最高権威は国王にあり、君臨するだけでなく直接統治を行う。すなわち、首相、閣僚、公務員、裁判官、軍幹部の任免を行い、勅令で国会の解散、法律の公布、恩赦の授与を行うことができる。外交でも事前に国会に諮(はか)ることなく、条約に調印、批准できる。また国教のイスラム教上でも国王は信徒の長として最高権威者である。

 立法機関は、上院と国民議会の二院制。上院は間接選挙で任期9年、国民議会は直接選挙で任期5年である。議員定数は325名。政党は複数政党制をとっており、社会民主党(PI)、正義発展党(PJD)、人民運動(MP)、独立国民連合(RNI)などがあり、批判勢力として社会進歩党(PPS)がある。一方、過激な政治集団もある。イスラム主義組織サラフィア・ジハディアによる連続爆弾テロが2003年5月に発生した。2004年3月スペインのマドリード列車爆破テロでも多数のモロッコ人が実行犯として逮捕された。2007年4月カサブランカのアメリカ領事館近くで自爆テロが起き、テロを計画したとしてイスラム政党、代替(だいたい)文明の事務局長などが逮捕され、同党の活動が停止された。行政の最高機関として内閣があり、首相、閣僚は国王が任免する。地方行政は、37の県とカサブランカなど五つの特別市がある。各県には県議会があり、議員は選挙で選ぶ。司法制度はフランスを手本として整えられ、地方裁判所、高等裁判所、最高裁判所があり、このほか公務員の汚職を裁く特別法廷、労使紛争のための調停法廷がある。

 外交は、親米親西欧で、フランスの影響が強く、アメリカと基地協定を結んでいるが、ロシアとも文化協定などで関係を維持している。イスラエルをめぐる中東問題では穏健派で、サウジアラビアなどと親密である。アルジェリアとは西サハラ問題や国境紛争で対立関係にあり、リビアとは1984年両国の連邦化協定を結んだものの、1986年のイスラエル首相来訪で破棄された。前述したように西サハラ領有でアフリカ統一機構を脱退し、第三世界では孤立している。

 軍隊は、アフリカ最強といわれ、総兵力は国王親衛隊を含め19万5800、うち陸軍17万5000、海軍7800、空軍1万3000。空軍はミラージュF1、F5、ヘリコプターなど多種多数の航空機をもつ。西サハラに派遣されている兵は12万といわれる。徴兵制が敷かれ、兵役は18か月である。

[藤井宏志]

経済

モロッコは全体としては温和な気候と肥沃(ひよく)な土地に恵まれた農業国で、燐(りん)鉱石を中心とする豊かな鉱産国でもあり、石油・天然ガスの開発が進んでいる。また旧市街がユネスコの世界遺産に登録されているフェズ、メクネス、マラケシュなどの古都、タンジール、カサブランカなどの国際都市、サハラのオアシスなどの観光資源に恵まれた有数の観光国としても知られる。しかし経済構造のうえで、農業生産性の低さ、一次産品への依存という問題を抱えており、エネルギー資源は開発中である。加えて近年は人口急増による食糧輸入増、失業者増に悩んでいるが、経済の民営化、外国資本の導入を図って活性化し、EU(ヨーロッパ連合)加盟をもくろんでいる。1人当り国民総所得(GNI)は2580ドル(2008)とマグレブ3国(チュニジア、アルジェリア、モロッコ)ではもっとも低い。

 農林・漁業は、就業者人口の43.3%(2006)を占める基幹産業であるが、国内総生産(GDP)に占める割合は12%(2006)で毎年低下している。農耕地は895万ヘクタールと国土の20.1%である。土地所有が偏っているため、農民は零細農、小作農が大部分を占める。農業形態は自給用穀物栽培を主とする伝統的な農業と、輸出用の果実、野菜栽培を中心とする近代的な農業の二つに分けられる。前者は天水依存による伝統的耕作方法で行われ、後者は、植民地時代ヨーロッパ人入植者が占有していた100万ヘクタールで展開されており、灌漑(かんがい)施設も整備されている。独立後ヨーロッパ人の農園は半分がモロッコ人所有となり、残りは国有化され、土地をもたない農民に分配されている。灌漑農地は53万ヘクタールであるが、100万ヘクタールにする計画である。主要作物生産高(2007)は、小麦158万トン、大麦76万トン、ジャガイモ144万トン、トマト124万トン、サトウキビ93万トン、オリーブ66万トン、オレンジ98万トン。主要家畜はウシ278万頭、ヒツジ1689万頭、ヤギ528万頭。食糧自給率は穀物で79%である。

 漁業は、沿岸漁業が行われているだけであったが、大西洋岸沖が世界でも有数の好漁場で、1970年代より外国と提携して近代漁業が急速に発達した。イワシ、アジ、サバ、マグロ、タコなど年間89万トン(2007)を漁獲し、マグロ、タコのほかは主として缶詰に加工して輸出する。

 鉱物資源は豊富で、とくに燐鉱石は確認埋蔵量が100億トンで世界一、生産量が866万トン(2007)で世界第2位、輸出量は世界第1位である。鉱石の生産、加工、販売はすべて王立燐鉱石公社が行っており、フリーブカ、ユスフィア、ベンゲリールが主要鉱山である。鉱石は直接西ヨーロッパ諸国に輸出されるものが多いが、国内加工比率を高める努力もなされている。燐鉱石以外にも鉛4万5000トン、マンガン3万1000トン、鉄鉱5000トン、石炭60万トン(2007)などがある。石油は、近年シンゲッティ油田で開発が進められ、2006年には石油1万トン、天然ガス3PJ(ペタジュール、原油換算7万1655トン)を産出し将来有望とされている。

 工業の国内総生産に占める割合は30%(2004)である。おもな近代工業には、燐鉱石を加工する燐酸肥料工業があり、その加工工場がサフィに、またセメント、繊維、食品(オリーブ油、ぶどう酒、砂糖など)、石油精製などの工業拠点が各地にある。鉄鋼コンビナートもナドールにつくられた。近年、衣類など先進国の委託加工産業が増加している。伝統工芸としては皮革、彫金などがよく知られる。年間発電量は232億キロワット時(2006)で、火力発電が92.3%である。燐鉱石から抽出したウランを燃料に原子力発電所が計画されている。

 主要輸出品目(2007)は、衣類(24.1%)、電気機械(14.0%)、魚貝類(9.0%)、野菜・果実(7.6%)、化学薬品(7.5%)などで、輸入品目は電気機械類(10.9%)、原油(10.2%)、一般機械(8.8%)、繊維と織物(7.3%)、自動車(6.7%)などである。主要輸出先はフランス(27.9%)、スペイン、イギリス、イタリア、輸入先はフランス(22.6%)、スペイン、アメリカである。貿易収支は独立以来恒常的に輸入超過で、1975年以降赤字幅が急激に拡大している。赤字分は観光収入、海外労働移民者の送金、外国援助・借款などで補う形をとっている。年間約788万人(2008)の観光客が訪れる。海外労働移民者の送金はヨーロッパへ出ている300万人などによる。しかし対外債務が2006年末で約145億9000万ドルに達し、国際収支の悪化は深刻である。

 道路は、南部サハラ地域を除き幹線は整備され、バス交通が発達している。自動車保有台数は商業用、個人用あわせて185万台(2007)。鉄道は国営で、主要都市間および主要都市と鉱産地を結んでおり、貨物輸送も多い。海運は13の港があるが、カサブランカが取扱量の70%を占める。空運はムハンマド5世国際空港(カサブランカ)のほか10の国際級空港と50の軽飛行機用空港があり、政府出資の王立モロッコ航空と国内線専用の王立国内航空とが担当する。

[藤井宏志]

社会・文化

住民は、主としてアラブ人(65%)とベルベル人(35%)とからなり、ベルベル人はマスムーダ、サンハジャ、ゼナタの3部族に分かれる。このほかアフリカ系と12万人のヨーロッパ人がいる。公用語は正則アラビア語であるが、一般にはアラビア語方言が使われる。フランス語も広く通用し、北部ではスペイン語も使用される。またベルベル人の間ではベルベル語も使われる。国民の大部分は正統派のスンニー派イスラム教徒(ムスリム=イスラーム信者)で、少数だがキリスト教徒、ユダヤ教徒もいる。人口増加率は1.0%(2000~2006平均)と高く、政府は家族計画を進めている。平均寿命は男69.7歳、女74.4歳(2006)である。医療は、都市部では整備されてきたが、地方ではまだ不十分である。

 基本的な学制は、小・中・高が5・4・3年で大学は4~6年である。小学校が義務教育で、就学率は男85%、女60%(1993)。大学はラバトのムハンマド5世大学など13校あり、学生数は23万。成人識字率は55.6%(2007)である。新聞には『ルマタン・デュ・サハラ』(フランス語)、『アル・アラム』(正則アラビア語)などがある。ラジオ、テレビは国営放送と民間放送とがある。ユネスコの世界遺産に、文化遺産として「フェズ旧市街」「マラケシュ旧市街」「アイット・ベン・ハドゥの集落」「古都メクネス」「ボルビリスの古代遺跡」「テトゥアン旧市街(旧名ティタウィン)」「エッサウィラのメディナ(旧名モガドール)」「マサガン(アル・ジャジーダ)のポルトガル都市」「ラバト:近代都市と歴史的都市が共存する首都」が登録されている。

[藤井宏志]

日本との関係

モロッコは同じ立憲君主国ということもあり親日的な国で、1987年(昭和62)4月皇太子(1999年国王に即位。ムハンマド6世)が来日、皇太子は1989年2月の昭和天皇の大喪の礼にも参列した。日本からは1996年5月と2000年6月の2回、高円(たかまど)宮夫妻が訪問している。日本は1967年より青年海外協力隊員を派遣しており、幅広い分野で国づくりに協力している。また経済協力として鉄道、水道、教育の面で援助を行い、1985年の干魃(かんばつ)時には食糧援助を行った。2008年度の日本との貿易は、日本への輸出額374億円、日本からの輸入額486億円である。日本へはタコ・マグロ(35.5%)、ガソリン、燐鉱石を輸出し、日本から自動車、機械などを輸入している。

[藤井宏志]

『宮治一雄著『アフリカ現代史Ⅴ 北アフリカ』(1978・山川出版社)』『新川雅子著『モロッコ』(1984・中東経済研究所)』『那谷敏郎著『紀行モロッコ史』(1984・新潮社)』『私市正年、佐藤健太郎編著『モロッコを知るための65章』(2007・明石書店)』


出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

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