1956年にフランスから独立した王国。人口約3745万人。国王モハメド6世に強い権限がある。公用語はアラビア語とベルベル語で、フランス語も広く通じる。最大都市は中部カサブランカ。中部マラケシュや北部フェスの旧市街などが世界遺産に登録されている。鉱物資源が豊富な西サハラの領有権を主張し、独立派と対立。2020年にはトランプ前米政権の仲介でイスラエルとの国交正常化に合意し、米政権はモロッコの西サハラ領有権を承認した。(共同)
更新日:
出典 共同通信社 共同通信ニュース用語解説共同通信ニュース用語解説について 情報
アフリカ北西部にある王国。ジブラルタル海峡を挟んでスペインの対岸に位置する。東部、南東部はアルジェリア、南西部は西サハラと接する。モロッコの名は、最初のマグレブ統一王国であるムラービト朝の都マラケシュに由来する。正称はal-Mamlaka al-Mahribīyaで「西の王国」を意味し、現アラウィ王朝は17世紀以来の歴史をもつ。面積44万6550平方キロメートル、人口3050万6000(2006年推計)、3199万(2009年推計)。ヨーロッパやマグレブ地方とサハラ砂漠以南の地域を結び、地中海と大西洋をつなぐ位置にあり、古くから要衝地として注目されてきた。首都はラバト(人口170万5000。2007)。ベルベル、イスラム(イスラーム)、イベリアの各文化を基層とし、そのうえに近代ヨーロッパ文化が重なった独特の文化をもつ。観光、農業と輸出量世界第1位の燐(りん)鉱石の生産が主産業である。1975年以来西サハラ併合問題が長期化し、戦費が国の財政を圧迫している。
[藤井宏志]
北アフリカを東西に走るアトラス山脈は、西高東低で、モロッコでもっとも高くなる。このためモロッコでは3000メートルを超す山並みがみられ、最高峰のトゥブカル山は標高4165メートルである。アトラス山脈はこの国では、地中海沿岸のリフ山脈、北東から南西に連なる中アトラス山脈、高アトラス(オート・アトラス)山脈、アンティ・アトラス山脈の四つに分かれる。中アトラス山脈と高アトラス山脈の北麓(ほくろく)は、メセタとよぶ高原から大西洋沿岸の平野へとしだいに低くなる。セブ川、ウムエルビア川、スース川などが流れ、国を代表する農業地域になっている。アンティ・アトラス山脈の南麓はサハラ砂漠の一部をなす。岩石砂漠が広がり山麓や谷にはオアシスがある。なおアトラス山脈は6500万年前、アフリカプレートが北上してユーラシアプレートに衝突して生じた新期造山帯のため、モロッコでは地震が比較的多い。
一般に北から南へ行くにしたがって年降水量が少なくなり、気候はアガディールとウジダを結ぶ線を境に、大きく二つに分けられる。この線より北は、夏は乾燥するが冬降雨がある地中海性気候を示す。年降水量は200~800ミリメートルであるが、リフ山脈や高山の大西洋側斜面では800ミリメートル以上に達する。このため山地を水源とする河川は比較的水量に恵まれている。これに対して南側は年降水量200ミリメートル以下の乾燥気候で、ステップ気候からしだいに砂漠気候となる。気温についてみると、海岸部では冬は温和で夏は比較的過ごしやすい。とくに南部沿岸はカナリア海流(寒流)のため夏は涼しい。一方、内陸部は寒暖の差が大きく、冬は低温、夏は高温となる。また高山では冬冠雪し、夏も雪が残る所があるが、春にはサハラからシロッコとよぶ熱風が吹き出し、山麓ではフェーン現象のため高温となる所もある。
[藤井宏志]
モロッコは大西洋沿岸地域、アトラス山脈地域、東部地域、南部サハラ地域と大きく四つの地域に分けられる。大西洋沿岸地域はリフ山脈、中アトラス山脈、高アトラス山脈に囲まれ、海岸平野と高原からなる。この国でもっとも豊かな地域で、農業、工業が発達し、人口も集中している。海岸部には首都ラバトをはじめカサブランカ、サフィなど近代的都市が並び、鉄道や道路の整備も進んでいる。セブ川流域のセブ平野、ラルブ平野や、南のシャウィア平野、ドゥッカラ平野が広がり、植民地時代ヨーロッパ人が多数入植した。小麦、米、柑橘(かんきつ)類、野菜などが栽培される。海岸平野と高原の境には、マラケシュ、メクネス、フェズなどの古都が立地し多くの観光客が訪れる。南の高原では牧畜が行われる。
アトラス山脈地域は、リフ、中アトラス、高アトラス、アンティ・アトラスの諸山脈を含む。ベルベル系住民が多く住み、オリーブ、コルクガシの樹木栽培とヒツジ、ヤギの牧畜を組み合わせた伝統的な農牧業を行っている。生業で人口を維持できず、都市への流出者や外国への出稼ぎ労働者が多い。
ムルヤ川以東のモロッコ東部地域は、主として標高500メートル以上の高原からなる。雨が少なくかつては粗放な牧畜や伝統的な穀物栽培、製紙原料のアルファ草栽培が中心の貧困な地域であった。しかし近年ムルヤ川の水利開発が進み、トリフヤ平野では、灌漑(かんがい)による近代的な小麦、米、果樹、野菜、サトウキビの栽培が行われている。また鉛、亜鉛、マンガンなどの鉱産物の開発も進んでいる。
南部サハラ地域は、高アトラス山脈南麓以南の地域をさす。国土の約3分の1を占めるが、雨が極端に少なく、南縁はサハラ砂漠の一部である。全般に遊牧、粗放的な牧畜、ナツメヤシ栽培などのオアシス農業が行われるが、高アトラス山脈南西麓のスース川下流では近代的な灌漑農業により果樹、野菜が栽培される。鉱産物では銅、コバルト、マンガンを産する。住民はベルベル人が多く、オアシスにはアフリカ系のハラティーン人も住む。オアシス都市のワルワザート・オアシス近辺は『グラディエーター』『アラビアのロレンス』などの映画ロケ地として有名になり、カスバ街道、赤い砂丘もあり、砂漠観光の中心地になっている。
[藤井宏志]
北アフリカは古くからベルベル人が主たる住民であったが、紀元前11世紀から紀元後7世紀まで、フェニキア、ギリシア、ローマ、バンダルといった地中海北側の異民族の支配を受けた。7世紀に侵入したアラブ人は、アラビア語とイスラム教(イスラーム)をもたらし、ベルベル人のなかに浸透し土着化した。こうしたなかからベルベル人の国家が誕生し、8世紀にはフェズを首都に、モロッコと西アルジェリアを版図とするイドリース朝が成立した。11~13世紀にかけて興ったムラービト朝とムワッヒド朝は、モロッコ、アルジェリア、チュニジアからイベリア半島までを支配下に置くマグレブ統一国家をつくりあげた。13世紀から15世紀初頭のマリーン朝はモロッコを支配域とし、この王朝の勢力範囲が、現在のこの国の領域としてほぼ固まった。ワッタース朝統治下の15世紀末、イベリア半島からイスラム勢力を駆逐したスペイン人、ポルトガル人は、続いて北アフリカに侵攻し、モロッコではアガディール、サフィを占領した。1510年フェズで誕生したサアード朝は、スペイン人、ポルトガル人を撃退し、他のマグレブ諸国と異なりオスマン帝国の支配下にも入らず、モロッコの独立を守った。そして16世紀には現在のモーリタニアを含む西スーダンのソンガイ王国を攻略して広い版図をもち、これが今日の大モロッコ主義の根拠となっている。1660年にはアラウィ朝が政権をとり、この王朝が現在まで続いている。
19世紀に入るとヨーロッパ諸国の帝国主義的圧力が強まり、モロッコは1845年タンジールのみを開港するという鎖国体制で対応した。しかしこれはまもなく崩れ、イギリス、スペイン、フランスと相次いで不平等な通商条約を結ぶことになった。国内では財政、軍制の近代化、産業開発が進められたが、それが財政危機と内乱を招き、かえって国力は弱まった。3国のうちイギリスはのちに手を引き、モロッコ事件(第一次世界大戦前に、モロッコをめぐってフランスとドイツの間に起きた二度にわたる国際紛争)で介入したドイツの野望も阻止され、最終的にモロッコはフランス、スペインに支配されることになった。1912年のフェズ条約で国土の大半がフランスの保護領となり、仏西条約で北部リフ地方はスペイン領となった。また1923年の取決めでタンジールは国際管理の自由港となった。植民地化に対する抵抗は激しい攘夷(じょうい)運動の形となり、アブデル・クリム指揮下のリフ戦争(1921~1926)に代表されるように、保護領となってからも続いた。第二次世界大戦末期からはスルタンを中心に独立運動が盛り上がり、フランスは一時スルタンを廃位して傀儡(かいらい)スルタンをたてた。しかし運動はいっそう激しくなり、1956年3月独立協定が結ばれ保護領条約は廃棄された。続いて同年4月にはスペイン地区、同年10月にはタンジール地区も主権を回復した。
独立の翌1957年スルタンは称号を国王(マリク)と改称してムハンマド5世を名のり、国名もモロッコ王国と改めた。1961年王が死去すると、皇太子ハッサン2世が後を継ぎ、1962年立憲君主制の憲法を制定した。ムハンマド5世は民族独立の父としてカリスマ性を有していたが、ハッサン2世の治世となると学生や労働者のデモが頻発し、1971年、1972年と王の暗殺未遂事件が相次いだ。こうしたなかでハッサン2世は1975年35万人を動員し、大モロッコ主義をかかげスペイン領西サハラへのサハラ大行進を行った。西サハラは大モロッコ主義と世界的な燐(りん)鉱石があることから長年モロッコが領有を主張していた地域で、大行進の結果、マドリード協定でスペイン軍の撤兵とモーリタニアとの分割併合が決定した。さらに1979年モーリタニアの領有権放棄によりモロッコが旧スペイン領西サハラ全域を支配している。西サハラ領有による威信高揚を背景に王制の危機はいちおう回避された。しかし、西サハラの独立を要求するポリサリオ戦線が、1976年サハラ・アラブ民主共和国の樹立を宣言し、激しい武装闘争を展開している。同共和国の承認国が急増したため、1984年モロッコはアフリカ統一機構(OAU)を脱退した。また膨大な戦費と不況のため経済状態は悪化し、1981年、1984年と物価暴動が起きた。1988年国連事務総長が西サハラの独立かモロッコの併合かを問う住民投票を提案したが、投票は延期された。1996年に至り、話合いの気運もみえ、1997年には投票実施に関する規制などで合意に達したが、投票の資格問題で決裂、ふたたび延期された。
1999年7月、38年にわたる長期間在位したハッサン2世が死去、皇太子のムハンマド6世が王位についた。
[藤井宏志]
1962年立憲君主制の憲法が施行され、その後1970年と1972年に改正されたが、基本は変わらず国王の権限は強化された。国政の最高権威は国王にあり、君臨するだけでなく直接統治を行う。すなわち、首相、閣僚、公務員、裁判官、軍幹部の任免を行い、勅令で国会の解散、法律の公布、恩赦の授与を行うことができる。外交でも事前に国会に諮(はか)ることなく、条約に調印、批准できる。また国教のイスラム教上でも国王は信徒の長として最高権威者である。
立法機関は、上院と国民議会の二院制。上院は間接選挙で任期9年、国民議会は直接選挙で任期5年である。議員定数は325名。政党は複数政党制をとっており、社会民主党(PI)、正義発展党(PJD)、人民運動(MP)、独立国民連合(RNI)などがあり、批判勢力として社会進歩党(PPS)がある。一方、過激な政治集団もある。イスラム主義組織サラフィア・ジハディアによる連続爆弾テロが2003年5月に発生した。2004年3月スペインのマドリード列車爆破テロでも多数のモロッコ人が実行犯として逮捕された。2007年4月カサブランカのアメリカ領事館近くで自爆テロが起き、テロを計画したとしてイスラム政党、代替(だいたい)文明の事務局長などが逮捕され、同党の活動が停止された。行政の最高機関として内閣があり、首相、閣僚は国王が任免する。地方行政は、37の県とカサブランカなど五つの特別市がある。各県には県議会があり、議員は選挙で選ぶ。司法制度はフランスを手本として整えられ、地方裁判所、高等裁判所、最高裁判所があり、このほか公務員の汚職を裁く特別法廷、労使紛争のための調停法廷がある。
外交は、親米親西欧で、フランスの影響が強く、アメリカと基地協定を結んでいるが、ロシアとも文化協定などで関係を維持している。イスラエルをめぐる中東問題では穏健派で、サウジアラビアなどと親密である。アルジェリアとは西サハラ問題や国境紛争で対立関係にあり、リビアとは1984年両国の連邦化協定を結んだものの、1986年のイスラエル首相来訪で破棄された。前述したように西サハラ領有でアフリカ統一機構を脱退し、第三世界では孤立している。
軍隊は、アフリカ最強といわれ、総兵力は国王親衛隊を含め19万5800、うち陸軍17万5000、海軍7800、空軍1万3000。空軍はミラージュF1、F5、ヘリコプターなど多種多数の航空機をもつ。西サハラに派遣されている兵は12万といわれる。徴兵制が敷かれ、兵役は18か月である。
[藤井宏志]
モロッコは全体としては温和な気候と肥沃(ひよく)な土地に恵まれた農業国で、燐(りん)鉱石を中心とする豊かな鉱産国でもあり、石油・天然ガスの開発が進んでいる。また旧市街がユネスコの世界遺産に登録されているフェズ、メクネス、マラケシュなどの古都、タンジール、カサブランカなどの国際都市、サハラのオアシスなどの観光資源に恵まれた有数の観光国としても知られる。しかし経済構造のうえで、農業生産性の低さ、一次産品への依存という問題を抱えており、エネルギー資源は開発中である。加えて近年は人口急増による食糧輸入増、失業者増に悩んでいるが、経済の民営化、外国資本の導入を図って活性化し、EU(ヨーロッパ連合)加盟をもくろんでいる。1人当り国民総所得(GNI)は2580ドル(2008)とマグレブ3国(チュニジア、アルジェリア、モロッコ)ではもっとも低い。
農林・漁業は、就業者人口の43.3%(2006)を占める基幹産業であるが、国内総生産(GDP)に占める割合は12%(2006)で毎年低下している。農耕地は895万ヘクタールと国土の20.1%である。土地所有が偏っているため、農民は零細農、小作農が大部分を占める。農業形態は自給用穀物栽培を主とする伝統的な農業と、輸出用の果実、野菜栽培を中心とする近代的な農業の二つに分けられる。前者は天水依存による伝統的耕作方法で行われ、後者は、植民地時代ヨーロッパ人入植者が占有していた100万ヘクタールで展開されており、灌漑(かんがい)施設も整備されている。独立後ヨーロッパ人の農園は半分がモロッコ人所有となり、残りは国有化され、土地をもたない農民に分配されている。灌漑農地は53万ヘクタールであるが、100万ヘクタールにする計画である。主要作物生産高(2007)は、小麦158万トン、大麦76万トン、ジャガイモ144万トン、トマト124万トン、サトウキビ93万トン、オリーブ66万トン、オレンジ98万トン。主要家畜はウシ278万頭、ヒツジ1689万頭、ヤギ528万頭。食糧自給率は穀物で79%である。
漁業は、沿岸漁業が行われているだけであったが、大西洋岸沖が世界でも有数の好漁場で、1970年代より外国と提携して近代漁業が急速に発達した。イワシ、アジ、サバ、マグロ、タコなど年間89万トン(2007)を漁獲し、マグロ、タコのほかは主として缶詰に加工して輸出する。
鉱物資源は豊富で、とくに燐鉱石は確認埋蔵量が100億トンで世界一、生産量が866万トン(2007)で世界第2位、輸出量は世界第1位である。鉱石の生産、加工、販売はすべて王立燐鉱石公社が行っており、フリーブカ、ユスフィア、ベンゲリールが主要鉱山である。鉱石は直接西ヨーロッパ諸国に輸出されるものが多いが、国内加工比率を高める努力もなされている。燐鉱石以外にも鉛4万5000トン、マンガン3万1000トン、鉄鉱5000トン、石炭60万トン(2007)などがある。石油は、近年シンゲッティ油田で開発が進められ、2006年には石油1万トン、天然ガス3PJ(ペタジュール、原油換算7万1655トン)を産出し将来有望とされている。
工業の国内総生産に占める割合は30%(2004)である。おもな近代工業には、燐鉱石を加工する燐酸肥料工業があり、その加工工場がサフィに、またセメント、繊維、食品(オリーブ油、ぶどう酒、砂糖など)、石油精製などの工業拠点が各地にある。鉄鋼コンビナートもナドールにつくられた。近年、衣類など先進国の委託加工産業が増加している。伝統工芸としては皮革、彫金などがよく知られる。年間発電量は232億キロワット時(2006)で、火力発電が92.3%である。燐鉱石から抽出したウランを燃料に原子力発電所が計画されている。
主要輸出品目(2007)は、衣類(24.1%)、電気機械(14.0%)、魚貝類(9.0%)、野菜・果実(7.6%)、化学薬品(7.5%)などで、輸入品目は電気機械類(10.9%)、原油(10.2%)、一般機械(8.8%)、繊維と織物(7.3%)、自動車(6.7%)などである。主要輸出先はフランス(27.9%)、スペイン、イギリス、イタリア、輸入先はフランス(22.6%)、スペイン、アメリカである。貿易収支は独立以来恒常的に輸入超過で、1975年以降赤字幅が急激に拡大している。赤字分は観光収入、海外労働移民者の送金、外国援助・借款などで補う形をとっている。年間約788万人(2008)の観光客が訪れる。海外労働移民者の送金はヨーロッパへ出ている300万人などによる。しかし対外債務が2006年末で約145億9000万ドルに達し、国際収支の悪化は深刻である。
道路は、南部サハラ地域を除き幹線は整備され、バス交通が発達している。自動車保有台数は商業用、個人用あわせて185万台(2007)。鉄道は国営で、主要都市間および主要都市と鉱産地を結んでおり、貨物輸送も多い。海運は13の港があるが、カサブランカが取扱量の70%を占める。空運はムハンマド5世国際空港(カサブランカ)のほか10の国際級空港と50の軽飛行機用空港があり、政府出資の王立モロッコ航空と国内線専用の王立国内航空とが担当する。
[藤井宏志]
住民は、主としてアラブ人(65%)とベルベル人(35%)とからなり、ベルベル人はマスムーダ、サンハジャ、ゼナタの3部族に分かれる。このほかアフリカ系と12万人のヨーロッパ人がいる。公用語は正則アラビア語であるが、一般にはアラビア語方言が使われる。フランス語も広く通用し、北部ではスペイン語も使用される。またベルベル人の間ではベルベル語も使われる。国民の大部分は正統派のスンニー派イスラム教徒(ムスリム=イスラーム信者)で、少数だがキリスト教徒、ユダヤ教徒もいる。人口増加率は1.0%(2000~2006平均)と高く、政府は家族計画を進めている。平均寿命は男69.7歳、女74.4歳(2006)である。医療は、都市部では整備されてきたが、地方ではまだ不十分である。
基本的な学制は、小・中・高が5・4・3年で大学は4~6年である。小学校が義務教育で、就学率は男85%、女60%(1993)。大学はラバトのムハンマド5世大学など13校あり、学生数は23万。成人識字率は55.6%(2007)である。新聞には『ルマタン・デュ・サハラ』(フランス語)、『アル・アラム』(正則アラビア語)などがある。ラジオ、テレビは国営放送と民間放送とがある。ユネスコの世界遺産に、文化遺産として「フェズ旧市街」「マラケシュ旧市街」「アイット・ベン・ハドゥの集落」「古都メクネス」「ボルビリスの古代遺跡」「テトゥアン旧市街(旧名ティタウィン)」「エッサウィラのメディナ(旧名モガドール)」「マサガン(アル・ジャジーダ)のポルトガル都市」「ラバト:近代都市と歴史的都市が共存する首都」が登録されている。
[藤井宏志]
モロッコは同じ立憲君主国ということもあり親日的な国で、1987年(昭和62)4月皇太子(1999年国王に即位。ムハンマド6世)が来日、皇太子は1989年2月の昭和天皇の大喪の礼にも参列した。日本からは1996年5月と2000年6月の2回、高円(たかまど)宮夫妻が訪問している。日本は1967年より青年海外協力隊員を派遣しており、幅広い分野で国づくりに協力している。また経済協力として鉄道、水道、教育の面で援助を行い、1985年の干魃(かんばつ)時には食糧援助を行った。2008年度の日本との貿易は、日本への輸出額374億円、日本からの輸入額486億円である。日本へはタコ・マグロ(35.5%)、ガソリン、燐鉱石を輸出し、日本から自動車、機械などを輸入している。
[藤井宏志]
『宮治一雄著『アフリカ現代史Ⅴ 北アフリカ』(1978・山川出版社)』▽『新川雅子著『モロッコ』(1984・中東経済研究所)』▽『那谷敏郎著『紀行モロッコ史』(1984・新潮社)』▽『私市正年、佐藤健太郎編著『モロッコを知るための65章』(2007・明石書店)』
基本情報
正式名称=モロッコ王国al-Mamlaka al-Maghribīya,Kingdom of Morocco
面積=44万6550km2(西サハラを除く)
人口(2010)=3185万人
首都=ラバトal-Rabāt(日本との時差=-9時間)
主要言語=アラビア語,ベルベル語
通貨=ディルハムDirham
北アフリカ(マグリブ地方)の独立国。
アフリカの北西端にあり,北は地中海,西は大西洋に面している。東はアルジェリアに接し,南は係争地域である西サハラを隔ててモーリタニアに連なっている。北から順にリーフ山地(最高点2452m),中部アトラス山脈(最高点3340m),オート・アトラス山脈(最高点4190m),アンティ・アトラス山脈(最高点3304m)と四つの山脈が東西に走っている。大西洋岸地方はガルブ平野ほかの平地があり,年間雨量800mmから600mmと気候にも恵まれているが,リーフ地方とアトラス地方は起伏の多い地形のために,南部地方は雨量が乏しいために,開発が進んでいない。
住民は他のマグリブ諸国と同様にベルベルが先住民であるが,7世紀以降アラブ化とイスラム化が進み,国民の大多数はムスリムであり,アラビア語を理解する。しかし,リーフ地方,アトラス地方,スース地方などの山地では,住民の多くがベルベル語を母語とし,独自の生活習慣を守っている。ベルベル系の比重は3割を超えるといわれるが,アラブ系との相違は母語の違いだけで形質上の特徴がはっきり異なっているわけではない。公用語はアラビア語。
イスラム世界の西端という地理的な条件から,他のマグリブ諸国のようにオスマン帝国の支配下に入らず,またヨーロッパ諸国の進出に対してもサード朝(1549-1659),アラウィー朝(1631-)の中央政府が抵抗して〈鎖国〉体制を守った。フランスによるアルジェリア征服以降列強の圧力が高まり,イギリス(1856),スペイン(1861),フランス(1863)が相次いで不平等な通商条約を押しつけてモロッコへの経済的侵略が始められた。それに対してムハンマド4世以下3代のスルタンのもとで行政・軍制の改革,産業開発などの近代化政策が実施されたが,それが財政危機と内乱を誘発し,かえって国力を弱めた。フランスほかの列強は互いに牽制しあったが,マドリード条約(1883)による上記3国の妥協,タンジール事件(1905)によるドイツの介入(モロッコ事件),アルヘシラス会議(1906)を経て,モロッコは,経済的には列強への門戸開放,政治的にはフランスとスペインへの従属を余儀なくされた。1912年のフェス条約によってモロッコはフランスの保護領になった。また北部地方は同年のフランス・スペイン条約でスペインの支配下に,タンジール(タンジャ)地区は23年の取決めで国際管理下に入った。
フランス,スペインは,アラウィー朝スルタンの名目的な地位を残したものの,それぞれ統監,高等弁務官を任命して実質的には植民地支配体制をしいた。フランス地区の初代統監はリヨテであり,武力による弾圧のかたわら,利益誘導による懐柔で旧支配者層を利用し,またアラブとベルベルの対立をあおる分割統治策をとった。北部のスペイン支配に対するリーフ戦争(1921-26)でスペイン・フランス連合軍に敗北した後,フランス人,スペイン人入植者が増加し,それぞれの地区で地方政治の実権を握り,本国と入植者による二重支配の体制が確立した。それとともに本国資本による経済開発が道路,鉄道,港湾施設などのインフラストラクチャーを中心にして進められ,また入植者による農業開発が行われた。モロッコ人の一部は商人や労働者として植民地経済に組み入れられたが,大半はその発展からまったく取り残されることになった。
外国の侵略への抵抗は武力を伴う激しい〈攘夷〉運動の形をとり,保護領になってからもアブド・アルカリームのリーフ戦争を代表例として継続された。30年代に入って武力抵抗が鎮圧されるとともに民族運動が盛んになった。中心になったのはフェスの商人とカサブランカやラバトの労働者であり,当初は植民地支配下でのモロッコ人の政治地位向上を求める運動であったが,やがて独立を目標とするようになり,44年にイスティクラールIstiqlāl(独立)党が結成された。第2次大戦後も植民地体制を維持しようとする植民地当局は,民族運動に弾圧を加え,53年にスルタン,ムハンマド5世を廃位して流刑地に送ったが,そのなかでかえって民族運動が盛り上がったので,ムハンマド5世の復位(1955)とモロッコの独立を認めざるをえなくなった。
56年3月の独立後,スペイン地区,タンジール地区におけるモロッコの主権も回復され,ムハンマド5世は翌57年にスルタンから王(マリク)と改称し,国名をモロッコ王国と改めて王政の基礎を固めた。それに対してイスティクラール党は民族運動の主導権を奪われ,58年には分裂して労働組合系の党員が人民勢力全国同盟(UNFP)を結成した。61年2月ムハンマド5世の逝去とともにハサン2世が即位し,翌62年に立憲王制の憲法を制定した。複数政党制が採用されてはいるが,国王は行政権と三軍への統帥権ばかりか国会が定める法令の拒否権ももち,国王に権力が集中している。国王は17世紀から続くアラウィー朝の正統な後継者であり,ムスリムの信徒の長(アミール・アルムーミニーン)としての宗教的権威をもち,さらに聖者として神の恩寵による超能力(バラカ)をもつと信じられている。
国王の支配はこのように合法的・伝統的な正統性を背景にしているが,イスティクラール党などの野党勢力の反対と官僚機構の未成熟さから政治情勢を安定させることができず,65年に戒厳令を出し憲法を停止せざるをえなくなった。70年に新憲法を制定し,国会選挙で独立諸派(親国王派)が多数を占めたが,71年7月のクーデタ未遂事件,翌72年8月の国王暗殺未遂事件など王政はなかなか安定しなかった。それに対してハサン2世は,(1)72年2月の憲法改正と人民勢力全国同盟の弾圧による野党分断策,(2)外国人所有地(旧入植地)の国有化,企業のモロッコ化などの経済政策(後述),(3)スペイン領西サハラをめぐる対外強硬策を実施した。なかでも西サハラの解放は旧スペイン領のタルファ,イフニの回復に続く国民的課題として野党も支持した。モロッコは75年11月の動員総数約35万人というサハラ大行進によってスペインに圧力をかけ,翌年1月からモーリタニアとともに西サハラを分割領有し,79年8月にモーリタニア軍が撤退したあとは単独で占領を続けている。これは西サハラの独立を求めるポリサリオ戦線との武力対決,これを支持するアルジェリアとの緊張激化を長期にわたって招いたが,野党のイスティクラール党をはじめ,すべての政党は国王の西サハラ政策を支持し,王政の当面の危機は回避された。
76年以降,西サハラ領有による軍事支出増による財政危機とリン鉱石価格の下落による経済情勢の悪化で政情は再び不安定となり,70年以来行われなかった国会選挙を77年に実施した。選挙で独立諸派が多数を占めたにもかかわらず政情が安定しないのをみると,79年2月に元人民勢力全国同盟党員のマーティ・ブーアビドを首相に指名し,イスティクラール党からも閣僚を入閣させた。国王の義弟であるオスマン前首相ほかの独立諸派の有力閣僚が下野したから,新内閣は挙国一致内閣というよりも,野党への政権交代によって誕生したものであった。しかし83年12月になって再び独立諸派のオムラーニー内閣に交代したことからもわかるように,それは選挙を通じて民意が反映された結果ではなく,国王の意向によるものであった。野党勢力のなかでは傘下に民主労働連合(CDT)をもつ人民勢力社会主義同盟(DSFP)がしばしば国王の政策を批判するが,それすらも西サハラ問題では国王を支持している。したがって反政府勢力といえるのは,分裂した学生運動と,弾圧を恐れて文化活動に専念しているイスラム運動だけであるとみなされていたが,84年1月のリーフ地方各地で発生した大衆暴動は,王政を大きく揺すぶるところとなった。
対外関係についてみると,西サハラ領有後のアルジェリアとの緊張が高まるなかで,OAU(アフリカ統一機構)で西サハラ独立を支持する国が次第に増大していき,モロッコは1984年にOAUからの脱退を余儀なくされた。89年2月のマグリブ連邦結成は西サハラ問題を棚上げして実現したものであるが,アルジェリア情勢の悪化とともに活動停止状態に入り現在に至っている。それに対してアラブ連盟では,モロッコは中東和平をめぐるアラブ諸国案(1982年のフェス憲章)の取りまとめや,エジプトの連盟復帰(1989年)などにおいて積極的な役割を果たした。
モロッコは耕地面積や雨量からみて,全体としては恵まれた農業条件をもっている。保護領化以前まで穀作(在来種の硬質コムギ)と牧畜(羊)が主であったが,入植民によって輸出向けのブドウ(醸造用),オレンジ,野菜(早場物)の栽培が導入され,リン鉱石とともに主要な輸出品になった。独立後入植民は引き揚げたが輸出向け農作物重視の方針は変わらず,人口増加と食生活の高度化のために穀物,砂糖,食肉,乳製品などを輸入しなければならなくなった。
漁業は沿岸漁業が行われているだけであったが,大西洋岸沖は世界でも有数の漁場であり,73年の領海70カイリ宣言以降,外国と提携して近代漁業が急速に発展した。エネルギー資源には恵まれていないが,リン,鉄,マンガンなどの鉱物資源が豊かで,とくにリン鉱石は埋蔵量210億tと世界でもアメリカ,ソ連に次ぐ資源をもち,最大のリン鉱石輸出国である。73年の石油価格引上げ後,リン鉱石価格も一挙に3倍に値上げし,輸出収入を増加させたが,その後世界不況の余波で輸出価格と輸出量がいずれも下落し,国民経済は大きな打撃を受けた。西サハラもリン鉱石資源が豊かであり,リン鉱石輸出市場におけるモロッコの影響力を増大させることも西サハラ併合の目的であったといわれる。
工業は在来の手工業しかなく,保護領下でも国内向けの食品加工業が発展したのみであったが,1960年代半ば以降,観光産業とともに輸出向けの軽工業(繊維工業)への重点投資が行われ,輸出総額の20%を超えるにいたった。しかし輸入超過が続いており,貿易額の赤字を観光収入,フランスや湾岸産油国への出稼ぎ労働者の送金,外国からの援助,借款で補っている。対外債務の増加で83年にはついに〈リスケジュール国(債務償還計画の繰延べ国)〉となった。西サハラへの軍事支出もその原因となっている。
モロッコは,マグリブ諸国のなかでも自由主義的経済政策を採っている国として知られているが,公共部門の比重が大きく,政府の経済的役割もかなり高い。独立時に国鉄ほかの公共事業を引き継ぎ,73年以降はすでに述べたように入植地の国有化,企業のモロッコ化(株式および役員ポストについてモロッコ人多数支配を義務づけた)を通じて,公共部門が増大した。王立リン鉱石公社(OCP),国立経済開発銀行(BNDE)などがその代表例であり,国王はそれらの最大の株主である。また第1次経済開発計画(1960-64)以降,モロッコでも6次にわたり経済計画が実施されており,これによって公共部門の投資計画が調整された。民間投資についてはガイドラインを示すだけであるが,輸出入や各種の許認可を通じて,民間企業への統制もかなり有効に行われている。
モロッコ社会は独立後,大きく分けて二つの変化を受けた。第1は入植した外国人(フランス人やスペイン人)に代わって,モロッコ人が政治・経済上の実権を握ったことであり,国王を頂点とする支配階層(地主,企業家,官僚),中間階層(公務員や私企業の中堅幹部)が形成されたことである。第2は1960年以降の経済開発によって地域格差,産業格差,社会格差がひろがったことである。国民の大多数を占める貧しい農民は,第1の変化の恩恵を受けず,第2の変化によって農村での生活基盤を失い,都市に流入して失業問題,住宅問題,交通問題などの都市問題を深刻化させた。一例をあげれば,経済の中心であるカサブランカの人口は,独立後の96万5000(1960)から230万(1980)へと急速に拡大した。この変化は都市の景観を一変させ,迷路のような旧市街と銀行やホテルが建ち並ぶビジネス街,その南側の住宅街,そして周辺地区に散在するバラック街の対照は目をみはるものがある。周辺地区の住民は農村から流入した新都市民であり,荷かつぎ人足やごみ拾いなどでその日暮しをしている。81年6月のカサブランカ暴動では,これらの新都市民が街頭に出てデモの先頭に立った。
都市では,経済開発とともに青少年の非行,婦人の職場進出などが保守的なモロッコ社会でも顕在化した現象となったが,イスラム運動の復興も注目される。モロッコのイスラムはスンナ派に属するが,もともと民間信仰と結びついた神秘主義教団(タリーカ)の役割が強く,国王がバラカをもつという信仰もその表れである。イスラム運動は,体制の中に取り込まれて活力を失った正統派イスラムと,民間信仰に迎合して呪術儀式になった神秘主義イスラムという二つの傾向への批判に基づくものであり,新都市民の間で急速に普及し勢力を拡大した。政府の弾圧を避けるために,文化サークルやスポーツ・クラブの形をとっているが,コーランの解釈や空手,合気道の訓練が行われているといわれ,政府は警戒を強めている。
文化の面では,他のマグリブ諸国と同様にアラビア語の標準語と方言のギャップ,ベルベル語さらにはフランス語などの多言語使用に伴う言語問題があり,教育制度の改革と結びついてしばしば政治問題になる。ベルベル系住民を代表する政党〈人民運動(MP)〉があるが,ベルベル問題が先鋭な形で問題になることは比較的少なかった。しかし84年1月の北部地方の都市暴動は,地域格差と同時にベルベル問題を表面化させたともいわれている。ベルベル系住民はリーフ地方,スース地方などの後進地域に住んでいるからである。ベルベル系住民による分離独立運動に発展する可能性はないが,90年代に入ってモロッコの基層文化としてのベルベル語やベルベル文化の復権を求める動きが顕在化している。
モロッコの歴史はチュニジアと同じくベルベルが定着した先史時代に始まった。古代にはフェニキア人やローマ人が植民市を建設したが,沿岸だけで内陸には影響が浸透しなかった。7世紀のアラブ・イスラム軍の征服以降,アラブ化とイスラム化が始まり,9世紀にはシーア派のイドリース朝(789-926)が興った。11世紀から13世紀にかけて興ったムラービト朝とムワッヒド朝は,現在のモロッコだけでなく,イベリア半島からアルジェリア,チュニジアまで版図をひろげた。その後,マリーン朝(1196-1465),ワッタースWaṭṭās朝(1472-1549)を経て,オスマン帝国の勃興期に入るが,モロッコは他のマグリブ諸国と異なってその支配下に入らなかった。それぞれ16世紀と17世紀に興ったサード朝とアラウィー朝は,いずれも国王が預言者ムハンマドの血筋を引くこと(シャリーフ)を正統性の根拠としており,まとめてシャリーフ朝と呼ぶことがある。アラウィー朝の下で19世紀半ばからヨーロッパ諸国の進出が本格化し,1912年にはフランスの保護領となった。56年に独立した後もムハンマド5世,ハサン2世らアラウィー朝の治世が続いている。なお,植民地支配以前の歴史,社会については,〈マグリブ〉の項目も参照されたい。
執筆者:宮治 一雄
1930年製作のアメリカ映画。ジョゼフ・フォン・スタンバーグ監督作品。ドイツ映画《嘆きの天使》(1930)でスタンバーグ監督により発見され一躍スターになったマルレーネ・ディートリヒが,ハリウッドに〈輸入〉されて出演した初めてのアメリカ映画であり,〈ピグマリオンとガラテア〉にたとえられたスタンバーグ=ディートリヒコンビによる一連のハリウッド作品(1935年の《西班牙狂想曲》まで6本ある)の出発点となった。ドイツで上演されていた舞台劇《アミー・ジョリー--マラケシュからきた女》(1927)を原作とし,外人部隊の兵士とモロッコまで流れてきたキャバレーの歌手との絶望的なロマンスをエキゾティックにうたいあげたメロドラマだが,当時の〈シングル・トラック・システム〉という制限のなかで,必要な音声だけを巧みにとり入れた独創的な音響処理が高く評価された。なお,この作品は日本語のスーパー字幕が採用された最初の外国映画である。
執筆者:柏倉 昌美
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報
アフリカ大陸の西北,地中海に面する王国。首都はラバト。戦略的に重要な地方であり,かつ鉱物資源に富んでいるところから,フランスは早くからこの領有に目をつけ,1899年のファショダ事件後の英仏の相互譲歩と1901年のフランス‐イタリア協定でフランスの勢力範囲と認められた。しかし同じく植民地を渇望するドイツは,日露戦争後の露仏同盟の弱体化につけこみ,05年,ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世がみずからモロッコに乗り込み,フランスを制して勢力圏を得ようとした。しかしドイツの企図は封じられ(モロッコ事件),結局フランスとスペインの事実上の植民地となった。第二次世界大戦後の56年,王国として独立。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
…近代における外人部隊もフランスのものが最も有名で,アルジェリアの占領に伴い,フランスは1831年に外人部隊légion étrangèreを創設してこれを派遣し,北アフリカに植民地を拡大していった。その後もフランスは逐次外人部隊を増強してマダガスカル,モロッコなどへも転戦させ,第2次世界大戦でも戦闘に参加させている。しかしインドシナ戦争(1946‐54)では仏連合軍の主力部隊として1万9000人の外人部隊が投入されたが,ディエンビエンフーの陥落(1954年5月)で大打撃を受け敗退した。…
…1925年,5000ドルに満たない資金を共同で調達した自主製作映画《救ひを求むる人々》の自然主義的な描写と,映像的な美しさがチャップリンに評価され,その口ききでユナイテッド・アーチスツの手で公開された。その後,ギャング映画の先駆けとなった《暗黒街》で注目され,続いてアメリカのサイレント映画末期の代表作の一つ《紐育の波止場》(1929)をつくり,ひき続いてドイツへ出かけて,〈スクリーン・エロティカ〉の古典となったUFA(ウーフア)社のトーキー第1作《嘆きの天使》でディートリヒにめぐりあい,彼女を連れてハリウッドに帰り,画期的な音声処理を示した《モロッコ》(1930)をはじめ6本のディートリヒ主演映画をつくる。その間に原作者のT.ドライサーを激怒させたという《アメリカの悲劇》(1931)などを撮り,〈光と影の叙情詩人〉といわれ,カメラを画家の筆あるいは詩人のペンのように使うと評されたが,ディートリヒとのかかわりを〈ピグマリオンとガラティア〉の関係にたとえられ,作品よりも主演女優を美化する自己陶酔的な傾向が強いとの批判を受け,私生活のスキャンダルもからんで《西班牙(スペイン)狂想曲》(1935)を最後にディートリヒとのコンビが解消され,〈映画作家〉としての一つの時代を終える。…
…はじめマックス・ラインハルトの演劇学校で学び,ドイツの雑誌でグレタ・ガルボと比較される人気女優になっていた1929年,スタンバーグに認められて《嘆きの天使》(1930)のローラ・ローラの役に抜擢(ばつてき)され,〈脚線美〉と〈退廃的な美貌〉で全世界の話題をさらった。パラマウントと契約してアメリカへ渡り,MGMのガルボのライバルとして売り出され,《モロッコ》(1930),《間諜X27》(1931),《上海特急》《ブロンド・ビーナス》(ともに1932),《恋のページェント》(1934),《西班牙(スペイン)狂想曲》(1935)と6本のスタンバーグ監督作品に出演した。スタンバーグは彼女を〈光と影〉の造形で〈美の化身〉に仕立てあげる。…
※「モロッコ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
11/21 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新
10/29 小学館の図鑑NEO[新版]動物を追加
10/22 デジタル大辞泉を更新
10/22 デジタル大辞泉プラスを更新
10/1 共同通信ニュース用語解説を追加