精選版 日本国語大辞典 「モロッコ」の意味・読み・例文・類語
モロッコ
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翻訳|Morocco
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基本情報
正式名称=モロッコ王国al-Mamlaka al-Maghribīya,Kingdom of Morocco
面積=44万6550km2(西サハラを除く)
人口(2010)=3185万人
首都=ラバトal-Rabāt(日本との時差=-9時間)
主要言語=アラビア語,ベルベル語
通貨=ディルハムDirham
北アフリカ(マグリブ地方)の独立国。
アフリカの北西端にあり,北は地中海,西は大西洋に面している。東はアルジェリアに接し,南は係争地域である西サハラを隔ててモーリタニアに連なっている。北から順にリーフ山地(最高点2452m),中部アトラス山脈(最高点3340m),オート・アトラス山脈(最高点4190m),アンティ・アトラス山脈(最高点3304m)と四つの山脈が東西に走っている。大西洋岸地方はガルブ平野ほかの平地があり,年間雨量800mmから600mmと気候にも恵まれているが,リーフ地方とアトラス地方は起伏の多い地形のために,南部地方は雨量が乏しいために,開発が進んでいない。
住民は他のマグリブ諸国と同様にベルベルが先住民であるが,7世紀以降アラブ化とイスラム化が進み,国民の大多数はムスリムであり,アラビア語を理解する。しかし,リーフ地方,アトラス地方,スース地方などの山地では,住民の多くがベルベル語を母語とし,独自の生活習慣を守っている。ベルベル系の比重は3割を超えるといわれるが,アラブ系との相違は母語の違いだけで形質上の特徴がはっきり異なっているわけではない。公用語はアラビア語。
イスラム世界の西端という地理的な条件から,他のマグリブ諸国のようにオスマン帝国の支配下に入らず,またヨーロッパ諸国の進出に対してもサード朝(1549-1659),アラウィー朝(1631-)の中央政府が抵抗して〈鎖国〉体制を守った。フランスによるアルジェリア征服以降列強の圧力が高まり,イギリス(1856),スペイン(1861),フランス(1863)が相次いで不平等な通商条約を押しつけてモロッコへの経済的侵略が始められた。それに対してムハンマド4世以下3代のスルタンのもとで行政・軍制の改革,産業開発などの近代化政策が実施されたが,それが財政危機と内乱を誘発し,かえって国力を弱めた。フランスほかの列強は互いに牽制しあったが,マドリード条約(1883)による上記3国の妥協,タンジール事件(1905)によるドイツの介入(モロッコ事件),アルヘシラス会議(1906)を経て,モロッコは,経済的には列強への門戸開放,政治的にはフランスとスペインへの従属を余儀なくされた。1912年のフェス条約によってモロッコはフランスの保護領になった。また北部地方は同年のフランス・スペイン条約でスペインの支配下に,タンジール(タンジャ)地区は23年の取決めで国際管理下に入った。
フランス,スペインは,アラウィー朝スルタンの名目的な地位を残したものの,それぞれ統監,高等弁務官を任命して実質的には植民地支配体制をしいた。フランス地区の初代統監はリヨテであり,武力による弾圧のかたわら,利益誘導による懐柔で旧支配者層を利用し,またアラブとベルベルの対立をあおる分割統治策をとった。北部のスペイン支配に対するリーフ戦争(1921-26)でスペイン・フランス連合軍に敗北した後,フランス人,スペイン人入植者が増加し,それぞれの地区で地方政治の実権を握り,本国と入植者による二重支配の体制が確立した。それとともに本国資本による経済開発が道路,鉄道,港湾施設などのインフラストラクチャーを中心にして進められ,また入植者による農業開発が行われた。モロッコ人の一部は商人や労働者として植民地経済に組み入れられたが,大半はその発展からまったく取り残されることになった。
外国の侵略への抵抗は武力を伴う激しい〈攘夷〉運動の形をとり,保護領になってからもアブド・アルカリームのリーフ戦争を代表例として継続された。30年代に入って武力抵抗が鎮圧されるとともに民族運動が盛んになった。中心になったのはフェスの商人とカサブランカやラバトの労働者であり,当初は植民地支配下でのモロッコ人の政治地位向上を求める運動であったが,やがて独立を目標とするようになり,44年にイスティクラールIstiqlāl(独立)党が結成された。第2次大戦後も植民地体制を維持しようとする植民地当局は,民族運動に弾圧を加え,53年にスルタン,ムハンマド5世を廃位して流刑地に送ったが,そのなかでかえって民族運動が盛り上がったので,ムハンマド5世の復位(1955)とモロッコの独立を認めざるをえなくなった。
56年3月の独立後,スペイン地区,タンジール地区におけるモロッコの主権も回復され,ムハンマド5世は翌57年にスルタンから王(マリク)と改称し,国名をモロッコ王国と改めて王政の基礎を固めた。それに対してイスティクラール党は民族運動の主導権を奪われ,58年には分裂して労働組合系の党員が人民勢力全国同盟(UNFP)を結成した。61年2月ムハンマド5世の逝去とともにハサン2世が即位し,翌62年に立憲王制の憲法を制定した。複数政党制が採用されてはいるが,国王は行政権と三軍への統帥権ばかりか国会が定める法令の拒否権ももち,国王に権力が集中している。国王は17世紀から続くアラウィー朝の正統な後継者であり,ムスリムの信徒の長(アミール・アルムーミニーン)としての宗教的権威をもち,さらに聖者として神の恩寵による超能力(バラカ)をもつと信じられている。
国王の支配はこのように合法的・伝統的な正統性を背景にしているが,イスティクラール党などの野党勢力の反対と官僚機構の未成熟さから政治情勢を安定させることができず,65年に戒厳令を出し憲法を停止せざるをえなくなった。70年に新憲法を制定し,国会選挙で独立諸派(親国王派)が多数を占めたが,71年7月のクーデタ未遂事件,翌72年8月の国王暗殺未遂事件など王政はなかなか安定しなかった。それに対してハサン2世は,(1)72年2月の憲法改正と人民勢力全国同盟の弾圧による野党分断策,(2)外国人所有地(旧入植地)の国有化,企業のモロッコ化などの経済政策(後述),(3)スペイン領西サハラをめぐる対外強硬策を実施した。なかでも西サハラの解放は旧スペイン領のタルファ,イフニの回復に続く国民的課題として野党も支持した。モロッコは75年11月の動員総数約35万人というサハラ大行進によってスペインに圧力をかけ,翌年1月からモーリタニアとともに西サハラを分割領有し,79年8月にモーリタニア軍が撤退したあとは単独で占領を続けている。これは西サハラの独立を求めるポリサリオ戦線との武力対決,これを支持するアルジェリアとの緊張激化を長期にわたって招いたが,野党のイスティクラール党をはじめ,すべての政党は国王の西サハラ政策を支持し,王政の当面の危機は回避された。
76年以降,西サハラ領有による軍事支出増による財政危機とリン鉱石価格の下落による経済情勢の悪化で政情は再び不安定となり,70年以来行われなかった国会選挙を77年に実施した。選挙で独立諸派が多数を占めたにもかかわらず政情が安定しないのをみると,79年2月に元人民勢力全国同盟党員のマーティ・ブーアビドを首相に指名し,イスティクラール党からも閣僚を入閣させた。国王の義弟であるオスマン前首相ほかの独立諸派の有力閣僚が下野したから,新内閣は挙国一致内閣というよりも,野党への政権交代によって誕生したものであった。しかし83年12月になって再び独立諸派のオムラーニー内閣に交代したことからもわかるように,それは選挙を通じて民意が反映された結果ではなく,国王の意向によるものであった。野党勢力のなかでは傘下に民主労働連合(CDT)をもつ人民勢力社会主義同盟(DSFP)がしばしば国王の政策を批判するが,それすらも西サハラ問題では国王を支持している。したがって反政府勢力といえるのは,分裂した学生運動と,弾圧を恐れて文化活動に専念しているイスラム運動だけであるとみなされていたが,84年1月のリーフ地方各地で発生した大衆暴動は,王政を大きく揺すぶるところとなった。
対外関係についてみると,西サハラ領有後のアルジェリアとの緊張が高まるなかで,OAU(アフリカ統一機構)で西サハラ独立を支持する国が次第に増大していき,モロッコは1984年にOAUからの脱退を余儀なくされた。89年2月のマグリブ連邦結成は西サハラ問題を棚上げして実現したものであるが,アルジェリア情勢の悪化とともに活動停止状態に入り現在に至っている。それに対してアラブ連盟では,モロッコは中東和平をめぐるアラブ諸国案(1982年のフェス憲章)の取りまとめや,エジプトの連盟復帰(1989年)などにおいて積極的な役割を果たした。
モロッコは耕地面積や雨量からみて,全体としては恵まれた農業条件をもっている。保護領化以前まで穀作(在来種の硬質コムギ)と牧畜(羊)が主であったが,入植民によって輸出向けのブドウ(醸造用),オレンジ,野菜(早場物)の栽培が導入され,リン鉱石とともに主要な輸出品になった。独立後入植民は引き揚げたが輸出向け農作物重視の方針は変わらず,人口増加と食生活の高度化のために穀物,砂糖,食肉,乳製品などを輸入しなければならなくなった。
漁業は沿岸漁業が行われているだけであったが,大西洋岸沖は世界でも有数の漁場であり,73年の領海70カイリ宣言以降,外国と提携して近代漁業が急速に発展した。エネルギー資源には恵まれていないが,リン,鉄,マンガンなどの鉱物資源が豊かで,とくにリン鉱石は埋蔵量210億tと世界でもアメリカ,ソ連に次ぐ資源をもち,最大のリン鉱石輸出国である。73年の石油価格引上げ後,リン鉱石価格も一挙に3倍に値上げし,輸出収入を増加させたが,その後世界不況の余波で輸出価格と輸出量がいずれも下落し,国民経済は大きな打撃を受けた。西サハラもリン鉱石資源が豊かであり,リン鉱石輸出市場におけるモロッコの影響力を増大させることも西サハラ併合の目的であったといわれる。
工業は在来の手工業しかなく,保護領下でも国内向けの食品加工業が発展したのみであったが,1960年代半ば以降,観光産業とともに輸出向けの軽工業(繊維工業)への重点投資が行われ,輸出総額の20%を超えるにいたった。しかし輸入超過が続いており,貿易額の赤字を観光収入,フランスや湾岸産油国への出稼ぎ労働者の送金,外国からの援助,借款で補っている。対外債務の増加で83年にはついに〈リスケジュール国(債務償還計画の繰延べ国)〉となった。西サハラへの軍事支出もその原因となっている。
モロッコは,マグリブ諸国のなかでも自由主義的経済政策を採っている国として知られているが,公共部門の比重が大きく,政府の経済的役割もかなり高い。独立時に国鉄ほかの公共事業を引き継ぎ,73年以降はすでに述べたように入植地の国有化,企業のモロッコ化(株式および役員ポストについてモロッコ人多数支配を義務づけた)を通じて,公共部門が増大した。王立リン鉱石公社(OCP),国立経済開発銀行(BNDE)などがその代表例であり,国王はそれらの最大の株主である。また第1次経済開発計画(1960-64)以降,モロッコでも6次にわたり経済計画が実施されており,これによって公共部門の投資計画が調整された。民間投資についてはガイドラインを示すだけであるが,輸出入や各種の許認可を通じて,民間企業への統制もかなり有効に行われている。
モロッコ社会は独立後,大きく分けて二つの変化を受けた。第1は入植した外国人(フランス人やスペイン人)に代わって,モロッコ人が政治・経済上の実権を握ったことであり,国王を頂点とする支配階層(地主,企業家,官僚),中間階層(公務員や私企業の中堅幹部)が形成されたことである。第2は1960年以降の経済開発によって地域格差,産業格差,社会格差がひろがったことである。国民の大多数を占める貧しい農民は,第1の変化の恩恵を受けず,第2の変化によって農村での生活基盤を失い,都市に流入して失業問題,住宅問題,交通問題などの都市問題を深刻化させた。一例をあげれば,経済の中心であるカサブランカの人口は,独立後の96万5000(1960)から230万(1980)へと急速に拡大した。この変化は都市の景観を一変させ,迷路のような旧市街と銀行やホテルが建ち並ぶビジネス街,その南側の住宅街,そして周辺地区に散在するバラック街の対照は目をみはるものがある。周辺地区の住民は農村から流入した新都市民であり,荷かつぎ人足やごみ拾いなどでその日暮しをしている。81年6月のカサブランカ暴動では,これらの新都市民が街頭に出てデモの先頭に立った。
都市では,経済開発とともに青少年の非行,婦人の職場進出などが保守的なモロッコ社会でも顕在化した現象となったが,イスラム運動の復興も注目される。モロッコのイスラムはスンナ派に属するが,もともと民間信仰と結びついた神秘主義教団(タリーカ)の役割が強く,国王がバラカをもつという信仰もその表れである。イスラム運動は,体制の中に取り込まれて活力を失った正統派イスラムと,民間信仰に迎合して呪術儀式になった神秘主義イスラムという二つの傾向への批判に基づくものであり,新都市民の間で急速に普及し勢力を拡大した。政府の弾圧を避けるために,文化サークルやスポーツ・クラブの形をとっているが,コーランの解釈や空手,合気道の訓練が行われているといわれ,政府は警戒を強めている。
文化の面では,他のマグリブ諸国と同様にアラビア語の標準語と方言のギャップ,ベルベル語さらにはフランス語などの多言語使用に伴う言語問題があり,教育制度の改革と結びついてしばしば政治問題になる。ベルベル系住民を代表する政党〈人民運動(MP)〉があるが,ベルベル問題が先鋭な形で問題になることは比較的少なかった。しかし84年1月の北部地方の都市暴動は,地域格差と同時にベルベル問題を表面化させたともいわれている。ベルベル系住民はリーフ地方,スース地方などの後進地域に住んでいるからである。ベルベル系住民による分離独立運動に発展する可能性はないが,90年代に入ってモロッコの基層文化としてのベルベル語やベルベル文化の復権を求める動きが顕在化している。
モロッコの歴史はチュニジアと同じくベルベルが定着した先史時代に始まった。古代にはフェニキア人やローマ人が植民市を建設したが,沿岸だけで内陸には影響が浸透しなかった。7世紀のアラブ・イスラム軍の征服以降,アラブ化とイスラム化が始まり,9世紀にはシーア派のイドリース朝(789-926)が興った。11世紀から13世紀にかけて興ったムラービト朝とムワッヒド朝は,現在のモロッコだけでなく,イベリア半島からアルジェリア,チュニジアまで版図をひろげた。その後,マリーン朝(1196-1465),ワッタースWaṭṭās朝(1472-1549)を経て,オスマン帝国の勃興期に入るが,モロッコは他のマグリブ諸国と異なってその支配下に入らなかった。それぞれ16世紀と17世紀に興ったサード朝とアラウィー朝は,いずれも国王が預言者ムハンマドの血筋を引くこと(シャリーフ)を正統性の根拠としており,まとめてシャリーフ朝と呼ぶことがある。アラウィー朝の下で19世紀半ばからヨーロッパ諸国の進出が本格化し,1912年にはフランスの保護領となった。56年に独立した後もムハンマド5世,ハサン2世らアラウィー朝の治世が続いている。なお,植民地支配以前の歴史,社会については,〈マグリブ〉の項目も参照されたい。
執筆者:宮治 一雄
1930年製作のアメリカ映画。ジョゼフ・フォン・スタンバーグ監督作品。ドイツ映画《嘆きの天使》(1930)でスタンバーグ監督により発見され一躍スターになったマルレーネ・ディートリヒが,ハリウッドに〈輸入〉されて出演した初めてのアメリカ映画であり,〈ピグマリオンとガラテア〉にたとえられたスタンバーグ=ディートリヒコンビによる一連のハリウッド作品(1935年の《西班牙狂想曲》まで6本ある)の出発点となった。ドイツで上演されていた舞台劇《アミー・ジョリー--マラケシュからきた女》(1927)を原作とし,外人部隊の兵士とモロッコまで流れてきたキャバレーの歌手との絶望的なロマンスをエキゾティックにうたいあげたメロドラマだが,当時の〈シングル・トラック・システム〉という制限のなかで,必要な音声だけを巧みにとり入れた独創的な音響処理が高く評価された。なお,この作品は日本語のスーパー字幕が採用された最初の外国映画である。
執筆者:柏倉 昌美
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アフリカ大陸の西北,地中海に面する王国。首都はラバト。戦略的に重要な地方であり,かつ鉱物資源に富んでいるところから,フランスは早くからこの領有に目をつけ,1899年のファショダ事件後の英仏の相互譲歩と1901年のフランス‐イタリア協定でフランスの勢力範囲と認められた。しかし同じく植民地を渇望するドイツは,日露戦争後の露仏同盟の弱体化につけこみ,05年,ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世がみずからモロッコに乗り込み,フランスを制して勢力圏を得ようとした。しかしドイツの企図は封じられ(モロッコ事件),結局フランスとスペインの事実上の植民地となった。第二次世界大戦後の56年,王国として独立。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
…近代における外人部隊もフランスのものが最も有名で,アルジェリアの占領に伴い,フランスは1831年に外人部隊légion étrangèreを創設してこれを派遣し,北アフリカに植民地を拡大していった。その後もフランスは逐次外人部隊を増強してマダガスカル,モロッコなどへも転戦させ,第2次世界大戦でも戦闘に参加させている。しかしインドシナ戦争(1946‐54)では仏連合軍の主力部隊として1万9000人の外人部隊が投入されたが,ディエンビエンフーの陥落(1954年5月)で大打撃を受け敗退した。…
…1925年,5000ドルに満たない資金を共同で調達した自主製作映画《救ひを求むる人々》の自然主義的な描写と,映像的な美しさがチャップリンに評価され,その口ききでユナイテッド・アーチスツの手で公開された。その後,ギャング映画の先駆けとなった《暗黒街》で注目され,続いてアメリカのサイレント映画末期の代表作の一つ《紐育の波止場》(1929)をつくり,ひき続いてドイツへ出かけて,〈スクリーン・エロティカ〉の古典となったUFA(ウーフア)社のトーキー第1作《嘆きの天使》でディートリヒにめぐりあい,彼女を連れてハリウッドに帰り,画期的な音声処理を示した《モロッコ》(1930)をはじめ6本のディートリヒ主演映画をつくる。その間に原作者のT.ドライサーを激怒させたという《アメリカの悲劇》(1931)などを撮り,〈光と影の叙情詩人〉といわれ,カメラを画家の筆あるいは詩人のペンのように使うと評されたが,ディートリヒとのかかわりを〈ピグマリオンとガラティア〉の関係にたとえられ,作品よりも主演女優を美化する自己陶酔的な傾向が強いとの批判を受け,私生活のスキャンダルもからんで《西班牙(スペイン)狂想曲》(1935)を最後にディートリヒとのコンビが解消され,〈映画作家〉としての一つの時代を終える。…
…はじめマックス・ラインハルトの演劇学校で学び,ドイツの雑誌でグレタ・ガルボと比較される人気女優になっていた1929年,スタンバーグに認められて《嘆きの天使》(1930)のローラ・ローラの役に抜擢(ばつてき)され,〈脚線美〉と〈退廃的な美貌〉で全世界の話題をさらった。パラマウントと契約してアメリカへ渡り,MGMのガルボのライバルとして売り出され,《モロッコ》(1930),《間諜X27》(1931),《上海特急》《ブロンド・ビーナス》(ともに1932),《恋のページェント》(1934),《西班牙(スペイン)狂想曲》(1935)と6本のスタンバーグ監督作品に出演した。スタンバーグは彼女を〈光と影〉の造形で〈美の化身〉に仕立てあげる。…
※「モロッコ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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