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ロシア連邦 ロシアレンポウ

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デジタル大辞泉の解説

ロシア‐れんぽう〔‐レンパウ〕【ロシア連邦】

中央ロシア丘陵あたりからシベリアにかけてユーラシア北部を占める連邦国。首都モスクワ。住民はスラブロシア人を主とするが多くの少数民族を含み、共和国、自治管区などさまざまな構成主体からなる連邦形式をとる。1917年ソ連邦を構成する共和国の一として成立、ロシア‐ソビエト社会主義連邦共和国と称した。1991年ソ連邦の解体により独立し、改称。人口1億3939万(2010)。大ロシア。
[補説]ロシア連邦の22共和国
アドゥイゲアルタイイングーシウドムルトカバルダバルカルカラチャイチェルケスカルムイクカレリア北オセチアクリムコミサハダゲスタンタタールスタンチェチェンチュバシトゥバハカシアバシコルトスタンブリヤートマリエルモルドビア

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監修:松村明
編集委員:池上秋彦、金田弘、杉崎一雄、鈴木丹士郎、中嶋尚、林巨樹、飛田良文
編集協力:曽根脩
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世界大百科事典 第2版の解説

ロシアれんぽう【ロシア連邦 Rossiiskaya Federatsiya】

正式名称=ロシア連邦Rossiiskaya Federatsiya∥Russian Federation面積=1707万5400km2人口(1996)=1億4798万人首都=モスクワMoskva(日本との時差=-6時間)主要言語=ロシア語通貨=ルーブルRubl'ロシア連邦は,ソビエト連邦の一部だった〈ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国〉の後身である。〈ロシア連邦〉への改称は1991年12月に決定され,92年4月の憲法改正で確認された。

出典|株式会社日立ソリューションズ・クリエイト
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大辞林 第三版の解説

ロシアれんぽう【ロシア連邦】

出典|三省堂
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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

ロシア連邦
ろしあれんぽう
Russian Federation英語
Российская Федератсия Rossiyskaya Federatsiya ロシア語

総論


 ユーラシア大陸の北東部に位置する世界最大の面積をもつ共和国。大西洋、北極海、太平洋に面する。面積は1709.8242万平方キロメートル、人口1億4200万(2008)、1億4250万(2014)。日本の45倍以上の国土を有するが、人口はそれほど違いはない。首都はモスクワで人口1050万(2008)、1151万(2011)。北西部の都市サンクト・ペテルブルグとともに特別市である。この二つの特別市と、共和国、州、地方(クライ)、自治州、自治管区などあわせて83の連邦構成主体がある(2015年時点)。ユーラシア大陸の約3分の1を占め、ヨーロッパ東部とアジア北部に広がる。国土の4分の3はシベリア、極東地方であるが、そこの人口は5分の1程度しかない。アジアへの拡大は、1552年イワン4世(雷帝)がカザン・ハン国を征服してからで、その後日本が鎖国しているうちに太平洋に達したのである。
 1917年の革命前のロシア帝国は、カフカス(コーカサス)、中央アジアなど広大な植民地・従属地域を統合していた。それらの地域は西欧諸国の場合と異なって本国と植民地が陸続きであり、行政官だけでなく多くのロシア人農民・労働者が移住していた。革命後は全域をソビエト社会主義共和国連邦(ソビエト連邦、ソ連)として統合したが、ロシア連邦共和国はその構成主体としてもっとも大きく、人口はほぼ半分であった。ソ連解体後ロシア連邦共和国の正式名称はロシア連邦(またはロシア)となった。その名が示すように、共和国などからなる連邦制をとっているが、プーチンが大統領のときに7連邦管区が設置され中央権力が強化された。
 ロシア人は帝政期(帝政ロシア)、ロシア正教によって統合されていたが、ソ連時代はマルクス・レーニン主義がそれにかわった。社会主義を放棄した今日、ふたたびロシア正教がよりどころとなってきている。中央部に住むロシア第2の民族であるタタール人はムスリム(イスラム教徒)が多いが、ロシア人と共存している。[木村英亮]

自然


国土・地勢
西部には東ヨーロッパ平原が広がりウラル山脈がアジアとの境をなしている。東ヨーロッパ平原はヨーロッパ・ロシアの大部分を占め、南はカフカス(コーカサス)山脈にいたる。北はバレンツ海、カレリア台地、コラ半島に及ぶ。平原中心部はボルガ川などの水源をなしており、石炭、石油、天然ガス、鉄鉱石、銅、マンガンなどの莫大(ばくだい)な埋蔵量をもっている。ウラル山脈より東にはオビ川を経てエニセイ川にいたる沼沢低地をなす西シベリア平原、レナ川にいたる中央シベリア高原、さらに太平洋岸まで南・東シベリア山地があり極東地方を形成する。ここには世界でもっとも深いバイカル湖がある。
 詳しくは「ソビエト連邦」の項目に譲るが、ソ連期に自然保護が行われたとはいえ、工業化に伴う廃ガス、廃水によってバイカル湖などの汚染、核開発による環境破壊の進行、また地球温暖化による永久凍土の広範な溶解がおこっている。
気候
黒海付近の西南端とウラジオストク近くの東南端を除き気候に大きい変化はなく、夏と冬の気温格差の大きさ、春秋の短さ、降雨の少なさ、風の強さを特徴とする大陸性気候が支配している。大部分は温帯に属しているが、1月の平均気温は0℃以下で、北東部にあるサハ(ヤクーチア)共和国のベルホヤンスク付近では-50℃以下に下がる。夏の平均気温は北極海沿岸で8℃、カフカス(コーカサス)の渓谷で20℃である。首都モスクワの年平均気温は5.3℃、最低気温は1月の-7.5℃、最高気温は7月の18.4℃、年降水量は705.3ミリメートルである。
植生・動物相
北部海岸地帯はツンドラ景観、その南にはタイガとよばれる広大な針葉樹林があり、それを東ではカラマツ、西ではシラカバ(シラカンバ)、モミの林地が縁どる。
 東ヨーロッパ平原中央部と東南ロシアは天然の混合林に、東ヨーロッパと西シベリア平原南部はステップに覆われ、黒土地帯では穀作が行われる。その南は半砂漠地帯を経てカスピ海、カフカス(コーカサス)山脈、アルタイ山脈に至る。
 北方海岸にはカモメ、アビ、ホッキョクグマ、ヒゲアザラシ、セイウチなどの北極種、ツンドラにはホッキョクギツネ、フクロウ、ホッキョクノウサギ、レミング、トナカイが生息し、北部のタイガにはヘラジカ、トナカイ、オオカミ、ヒグマ、オオヤマネコ、クロテン、リス、キツネ、クズリがみられる。より南の森林にはイノシシ、ミンク、シカ、沿海地方にはウスリートラ、ステップにはジリス、トビネズミ、ハムスター、ケナガイタチ、コサックギツネ、タカやワシ、ツルがいる。

行政区分


 プーチンは2000年に全国を7連邦管区に分け、大統領全権代表を配置した。これには連邦構成主体の行政首長選挙などに影響力を行使しようとするねらいがある。次に連邦管区別に構成主体である共和国等の名称を掲げる。構成主体数は合併政策によって2015年時点で83となっている。
連邦管区別(共和国、州等)構成主体の名称

●北西連邦管区(管区中心地 サンクト・ぺテルブルグ)11:サンクト・ペテルブルグ、カレリア共和国、コミ共和国、アルハンゲリスク州、ネネツ自治管区、ボログダ州、カリーニングラード州、ノブゴロド州、プスコフ州、ムルマンスク州、レニングラード州
●中央連邦管区(管区中心地 モスクワ)18:モスクワ、イバノボ州、ボロネジ州、ウラジーミル州、オルロフ州、カルーガ州、クルスク州、コストロマ州、スモレンスク州、タムボフ州、トベリ州、トゥーラ州、ヤロスラブリ州、ブリャンスク州、ベルゴロド州、モスクワ州、リペツク州、リャザン州
●南連邦管区(管区中心地 ロストフ・ナ・ドヌー)13:アドゥイゲア共和国、イングーシェチア共和国、カバルディノ・バルカル共和国、カラチャエボ・チェルケス共和国、カルムイキア共和国、北オセチア・アラニア共和国、ダゲスタン共和国、チェチェン共和国、クラスノダール地方、スタブロポリ地方、アストラハン州、ボルゴグラード州、ロストフ州
●沿ボルガ連邦管区(管区中心地 ニジニー・ノブゴロド)14:ウドムルト共和国、タタールスタン共和国、チュバシ共和国(チュバシア)、バシコルトスタン共和国、マリ・エル共和国、モルドビア共和国、ペルミ地方、ウリアノフスク州、オレンブルグ州、キーロフ州、サマラ州、サラトフ州、ニジェゴロド州、ペンザ州
●ウラル連邦管区(管区中心地 エカチェリンブルグ)6:クルガン州、スベルドロフスク州、チェリャビンスク州、チュメニ州、ハンティ・マンシ自治管区・ユグラ、ヤマロ・ネネツ自治管区
●シベリア連邦管区(管区中心地 ノボシビルスク)12:アルタイ共和国、トゥイバ共和国、ブリヤーチア共和国、ハカシア共和国、アルタイ地方、クラスノヤルスク地方、ザバイカル地方、イルクーツク州、ケメロボ州、オムスク州、トムスク州、ノボシビルスク州
●極東連邦管区(管区中心地 ハバロフスク)9:サハ共和国(ヤクーチア)、沿海地方、ハバロフスク地方、アムール州、カムチャツカ地方、マガダン州、サハリン州、ユダヤ人自治州、チュコト自治管区

歴史


ソ連の崩壊
ロシア革命の翌年1918年にロシア連邦共和国が成立し、1922年にはウクライナ、ザカフカス(トランスコーカシア)、ベロルシア(ベラルーシ)とともにソビエト連邦(ソ連)を結成した。
 1980年代後半、ソ連共産党書記長に選出されたゴルバチョフは、ペレストロイカ(改革)を進めるなかで1990年2月共産党の一党制を廃止し、3月にソ連人民代議員大会で新設のソ連大統領に選ばれた。ロシアでは5月のロシア人民代議員大会でエリツィンが最高会議議長に選ばれ、6月に最高会議が主権宣言を行った。エリツィンは7月のソ連共産党最後の第28回大会で離党した。
 1990年末から1991年初めにかけてバルト三国では分離独立を求める動きが激しくなり、ソ連軍が武力介入した。1991年3月連邦維持を問う国民投票が行われ、バルト諸国はボイコットしたが、投票者の76.4%が賛成した。しかし6月のロシア初の大統領選挙で圧勝したエリツィンは、8月の共産党保守派のクーデターの企てに対してゼネストを呼びかけて失敗させ、12月の独立国家共同体(CIS)の創設によってソ連を解体した。
エリツィンの時代
1992年1月、エリツィンは商品価格を全面的に自由化し市場経済への移行を開始したが、これによって引き起こされたインフレは1993年に入ってもおさまらず、国民の不満をバックにした最高会議の反エリツィン攻勢が強まった。1992年12月に就任したチェルノムイルジン首相は政策の手直しを試みたが、1993年9月エリツィンは最高会議の解散を強行し、ベーリードム(白い家・議会の建物)に立てこもって抵抗する最高会議支持派に砲撃を加えて屈服させた。12月エリツィンは大統領の権限を強化したロシア新憲法草案を国民投票にかけ、同時にこの憲法に基づく下院の選挙を行ったが、エリツィン支持の票は伸び悩み、ロシア民族主義勢力のジリノフスキーVladimir Volfovich Zhirinovskii(1946― )を党首とする自由民主党とジュガーノフを党首とするロシア共産党、および農業党が進出した。
 1996年の大統領選挙では、7月の決戦投票でエリツィンは第1回投票で4割を獲得したジュガーノフを破って勝ったが、心臓病など健康不安があり政情の不安定さは解消されなかった。1998年3月にチェルノムイルジンを解任した後、1999年8月までにキリエンコSergei Vladilenovich Kirienko(1962― )、プリマコフYevgenii Maksimovich Primakov(1929―2015)、ステパーシンSergei Vladimirovich Stepashin(1952― )と次々に首相の任免を繰り返した。
 1999年8月に首相に任命されたプーチンは、チェチェン共和国への軍事介入など「強いロシア」を演出し、同年12月9日投票の下院選挙で国民の支持を得て、10月に結成されたばかりの与党「統一」の勢力を大幅に伸ばした。共産党は第一党の座は守ったものの前回選挙(1995)時の勢いはなく、モスクワ市長ルシコフYurii Mikhailovich Luzhkov(1936― )と元首相プリマコフが組んだ反エリツィンの「祖国・全ロシア」も惨敗し、系列会派をあわせた「統一」グループが下院の最大勢力となった。
 エリツィンは1999年12月に突然辞任し、大統領代行に1952年生まれの若いプーチンを任命。プーチンは2000年3月の大統領選挙で圧勝した。エリツィンは2007年4月に没した。[木村英亮]
プーチン、メドベージェフの時代
プーチンは、大統領に就任してまもない2000年5月に全国を七つの連邦管区に分け大統領全権代表を任命、同年7月には州知事ら地方首長の解任制度や地方首長の兼職禁止を確定し大統領権限は著しく強化された。2003年12月の下院選挙では与党「統一」が圧勝した。ソ連時代の1975~1990年にKGB(国家保安委員会)で働き、エリツィン時代に後継機関FSB(連邦保安局)長官に任ぜられた経歴をもつプーチンは、政権に批判的なマスメディアを統制し、一部のオリガルヒ(寡頭実業家)を逮捕した。その一人、石油会社の社長であったホドルコフスキーMikhail Borisovich Khodorkovsky(1963― )は、2005年9月に懲役8年の刑が確定した。
 2004年3月の2回目の大統領選挙でプーチンは投票数の71.31%を得て再選、2位の共産党ハリトノフNikolai Mikhailovich Kharitonov(1948― )はわずか13.69%の得票率にすぎなかった。2007年12月の下院選挙では与党「統一ロシア」(2001年に与党の「統一」と中道連合「祖国・全ロシア」の統合によって成立)が3分の2以上の315議席を得て大勝した。
 その後石油価格の国際的高騰のなかで支持率を高めたが、大統領の連続3選は禁止されていたため、プーチンは2008年の大統領選挙でメドベージェフを事実上の後継に指名し、42歳のメドベージェフが当選して大統領職につき、プーチンは首相となった。メドベージェフは司法改革や軍改革を進め、プーチンも首相としてイニシアティブを発揮した。2012年の大統領選により、5月にプーチンが大統領に、メドベージェフが首相に就任した(なお、ロシアの建国から帝政時代、ソ連時代を通じたロシア通史については「ロシア史」を参照)。

政治・外交・防衛


ロシア連邦の政治の特質
ロシア連邦は、北ユーラシアの4分の3にあたる広大な地域で、永久凍土地帯がかなりの面積を占める、厳しい自然のなかにある多民族の国である。このような条件の下で統一を守るため政治は帝政時代から中央集権的であった。
 ソ連時代、マルクス・レーニン主義に基づく共産党の一党制が73年間続いたが、その崩壊後エリツィン大統領の下で一転して自由主義を基調とすることになり、秘密警察KGBも解体された。政治的混乱のなかで1993年に大統領の権限を強めた新憲法が制定され、政治の主導権はエリツィンと強い結びつきをもつ寡頭実業家(オリガルヒ)の手に移った。国民の間に貧富の格差が開いて貧困層が増加し、高齢者を中心にソ連時代へのノスタルジアが強まった。
 1999年にエリツィンが退任してプーチンが大統領となると、大統領の経済に対する支配、地方に対する支配が著しく強化された。
政治制度
1993年12月の国民投票で採択された憲法によって三権分立の複数政党制となった。特別市、共和国、地方、州、自治州、自治管区あわせて83の主体(2015年時点)から構成される共和国である。
 大統領は直接選挙で選ばれ、国家元首であるとともに軍の最高司令官であり、国の内外基本方針を決定する。大統領令を公布し、憲法や大統領令に矛盾する政府決定を廃止できる。下院の同意を得て首相を任命、内閣の総辞職を決定し、下院を解散できる。任期は6年で連続2期まで、被選挙権は35歳以上である。
 議会は上院(連邦院)と下院(国家院、ドゥーマ)の二院制で、上院の任期は連邦構成主体首長および議会ごとに異なるがおおむね4~5年、下院は5年である。上院の議席はロシア連邦の83の構成主体の立法機関(議会)と行政機関(行政府)から1名ずつ選出される代議員で構成される。下院は450議席ですべて比例代表制によって選ばれる。下院が採択し上院が承認を拒否した法律は下院の再投票で3分の2以上が賛成すれば採択される。
外交
ペレストロイカが進められたゴルバチョフ政権下には、アメリカとの軍縮の交渉が進み冷戦は終わりはじめていたが、ソ連解体と社会主義体制の放棄によって欧米諸国とのイデオロギー的な対立はなくなった。東欧諸国はCOMECON(コメコン)(経済相互援助会議。ロシア語ではСЭВ(セフ))を解体して欧米に接近し、旧ソ連構成諸国も外交の対象となった。
 エリツィンは欧米との協調路線をとり、1997年3月フィンランド・ヘルシンキでのアメリカ大統領クリントンとの首脳会談で関係緊密化を条件にNATO(北大西洋条約機構)の拡大を承認し、6月にはサミットのメンバーとなった(2014年3月より参加停止)。
 プーチンの、2001年に起きたアメリカ同時多発テロ事件への対応は実際的なもので、対米協調路線を進め、2002年5月戦略攻撃兵器削減条約(モスクワ条約)に調印、11月にはバルト三国のNATO加盟を黙認した。ベトナムのカムラン湾基地、キューバのルルデス偵察基地からも撤収した。しかし、2003年のイラク戦争を境に対米関係は冷却し、CIS(独立国家共同体)各国のEU(ヨーロッパ連合)への統合やイラン政策をめぐって摩擦が生まれ、CIS内のウクライナ、ジョージア(グルジア)など親欧米諸国に圧力を加えている。2007年12月にはアメリカのミサイル防衛(MD)システムの東欧配備に対抗してヨーロッパ通常戦力条約(CFE)の履行を停止した。この間2006年7月サンクト・ペテルブルグでサミットを開いた。また、外国首脳との活発な相互訪問、電話会談による外交を行っている。中国とは、2001年7月、1980年に失効した中ソ友好同盟相互援助条約にかわる中ロ善隣友好協力条約に調印、2005年6月に未確定であった東部国境画定に最終合意した(東部国境補足協定)。
 メドベージェフは2008年に中国を訪問し、戦略的パートナー関係強化で一致、アメリカを牽制(けんせい)する共同声明を行った。同年訪問したインドでは原発建設に合意した。アメリカとは2009年のオバマ大統領就任とともに核軍縮、ミサイル防衛システム配備について新展開が期待される。[木村英亮]
防衛
冷戦終結と財政難のため、国防予算はソ連時代に比べ大幅に縮小されたが、依然として軍事大国である。
 ソ連解体にあたって、核装備はCIS諸国に配分された。非核宣言したウクライナ、ベラルーシ、カザフスタンの核発射装置、移動式発射装置はロシアに移され、一部は破棄された。2002年のアメリカとの戦略攻撃兵器削減条約によって、配備済戦略核弾頭数は1770~2200発に削減されることになった。
 ロシア軍の兵力数は地上軍(陸軍)30万5000、海軍15万4000、空軍16万7000、その他内務省軍、国境警備軍など総兵力95万6000で、徴兵制から志願兵制(契約兵)に移りつつある。
 2001年6月には中国と中央アジア4か国(ウズベキスタン、カザフスタン、キルギス、タジキスタン)で、上海協力機構(SCO)を創設した。2007年8月に初の6か国合同軍事演習を実施、同時期にキルギスの首都ビシュケクで行われた首脳会議において安全保障における考え方やエネルギー分野での協力を盛り込んだ「ビシュケク宣言」を採択、団結を誇示した。

経済・産業


ロシア連邦成立後の経済概況
エリツィン政権下の1992年1月、副首相ガイダルYegor Gaidar(1956―2009)の下で価格の全面的自由化、補助金の大幅削減、国有企業の民営化・私有化を柱とする「ショック療法」による市場経済化、社会主義から資本主義への転換が行われた。同年7月には改革の重点を企業の民営化・私有化に移し、10月に全国民に有価証券化した民営化小切手(バウチャー)を交付し、12月から国有大企業の株式会社化を始めた。消費者物価はこの年のうちに26倍となり、工業生産、投資は急激に低下し、貧富の格差が拡大、年金生活は成り立たなくなった。1980年代後半のルーブルの公定レートは1ルーブル=1.1~1.8ドルであったが、1992年末には450ルーブル=1ドルに暴落した。富の国外流失が始まり、経済政策の主導権は首相のチェルノムイルジンに移った。
 1993年にエリツィンは政策を若干手直しし、9月下旬議会の解散を強行したが、12月の新議会選挙では大統領支持派は敗北した。旧企業長のものとなった株式会社の生産は低下し続け、分割されないまま民営化された旧国営企業間の競争は実現できず、軍事工業は国有のままであった。多くの企業はソ連時代の共産党幹部であるノーメンクラツーラやマフィア組織、欧米資本に横奪、買収され、オリガルヒ(寡頭実業家)のものとなった。
 1998年には5月、8月と為替(かわせ)、国債、株式のトリプル安にみまわれて、ルーブルの切下げ、対外債務を繰延べせざるをえなくなり、インフレの再燃によって通貨・金融危機が生じた。IMF(国際通貨基金)路線に基づく自由化政策の破綻(はたん)が明らかになり、政府による経済統制と国内産業育成への一定の方向転換が行われた。
 2000~2008年、プーチン大統領は、石油・天然ガス価格の大幅な上昇と切下げられたルーブルによる巨額の外貨収入、経済コントロール強化と徴税率向上によって得た資金を財政に使って高い経済成長を達成した。国内総生産(GDP)は1991年を100とすると、1998年には60.5に落ちたが2007年には110.7となった。1994年に申請した世界貿易機関(WTO)加盟に向けては、2006年にアメリカとの二国間交渉が終了した段階である。また、エリツィン時代に台頭した有力なオリガルヒは逮捕あるいは亡命した。
 2008年に大統領の職についたメドベージェフは、技術革新と労働生産性向上、輸送などのインフラ整備によってエネルギー収入依存からの脱却を図っていたが、2008年9月以降グローバル金融危機の下で、石油価格下落の打撃を受けている。
ロシア連邦の産業

エネルギー
エネルギー生産がロシア経済に占める割合は大きい。原油生産はサウジアラビアに次ぎ世界2位、天然ガスは埋蔵量、生産とも世界1位で、総輸出額の半分以上を石油、ガス、石油製品が占める。2000年以降、原油価格の上昇によって、輸出額は莫大(ばくだい)となったが、それはまたゆがみをももたらした。石油会社としては、ルクオイル、TNK・BP、スルグトネフチガス、ガスプロムネフチなど、天然ガスは大部分をガスプロムが扱う。石炭は小炭田が多く、需要先の電力、鉄鋼などの部門の不振のため半減した。2006年までにすべて民営化され、2007年の生産量は3億トンである。原子力発電も重要産業である。
工業
1994年の総生産は1990年の半分以下、軍需が7割を占める機械製作は3分の1、軽工業生産は4分の1に落ちた。これは国内需要の落ち込みと輸入品との競争に敗れたためで、生産投資は4分の1となった。比較的技術革新が行われていた兵器の輸出に活路をみいだそうとしているが、全体として設備が老朽化しており、とくに機械、建材、紙パルプ、軽工業の回復は遅れている。[木村英亮]
農林水産業
農業はソ連時代の経営形態であったコルホーズ(協同組合農業)、ソフホーズ(国営農場)の株式会社化や改編によって投資が急減し、生産が減退した。穀物生産は1992年の1億0690万トンから1995年には6350万トン、2006年7860万トンとなり、農産物輸入が増加した。とくに畜産は輸入に対抗できず、たとえば牛肉生産量は1990年5700万トンから2006年には2150万トンに減った。農民の収入が減ったため担い手の老齢化が進み、機械化水準は下がり、化学肥料の投入量は減っている。林業は、市場経済の下で、森林の造成・維持管理の条件が悪化し、森林資源の再生産が難しくなっている。
 水産物の漁獲高の半分以上はベーリング海、オホーツク海、日本海の北洋漁場からである。動物性タンパク質供給源として重要であるが、1人当りの消費量は少ない。ソ連崩壊後、漁獲は急減しているが、重要な外貨獲得源である。極東地域の水揚げが半分以上を占めるため、日本との協力が必要である。日ロ漁民による直接取引も行われている。
運輸業
エネルギー産業の発展に伴い、石油・天然ガスのパイプライン輸送が伸びている。鉄道は車両・軌道の老朽化が進み、それら設備の改善が課題となっているが輸送におけるシェアは高い。そのほか河川運輸も重要である。旅客輸送においては航空機が大きな役割を果たしている。なお、冬の厳しい自然条件と道路整備の遅れにより自動車運輸の発展は妨げられている。
商業・貿易
ソ連時代末期より進められた民営化によって国有セクターの比重はわずかとなった。ルイノク(市場)の役割も大きい。
 貿易額は輸出5220億ドル、輸入3232億ドル(2011)、おもな輸出品目は石油および石油製品、天然ガス、鉄鋼など、おもな輸入品目は機械・設備、自動車、食料品、医薬品など。おもな貿易相手国は中国、ドイツ、オランダ、ウクライナ、イタリア、ベラルーシ、トルコ、アメリカ、日本の順となっている。

社会・文化


ロシア連邦の社会構造の特徴
ソ連崩壊は社会構造に大きな変動をもたらした。ソ連社会では、コルホーズ農民を別として国民は国有企業勤務員であったので、一律の給与表によって仕事と賃金が定められていた。教育、医療は無料で、住居費や光熱費、交通費などは低く、老人には年金が支払われ、最低限の生活は保障されていた。しかし、ノーメンクラツーラ(共産党幹部)を頂点とする一種の階層社会が形成されていた。
 社会主義体制の崩壊は経済秩序の崩壊をも伴い、賃金の低下、大量の失業者を生んだ。社会は流動化し、経営者・資本家と労働者に分裂し、富裕層と貧困層の経済格差が拡大した。エリツィン期にはオリガルヒ(寡頭実業家)が跋扈(ばっこ)し、プーチン期になるとシロビキ(治安機関出身者)の企業支配が強まった。
社会階層と生活
旧体制(ソ連)崩壊後、国民の貨幣所得の伸びは物価上昇から大幅に遅れ、全体として貧困化した。母子、多子、障害者、失業者、高齢者世帯のほかに、賃金を得て働く層にも貧困が広がった。最低賃金は最低生活費の5分の1程度となり、老齢年金は生活費をまかなえなくなった。貨幣所得のうち賃金の割合が減り、企業活動や配当、賃貸料収入が増加した。
 10段階区分での最低・最高分位の所得格差は、ソ連崩壊直後の1992年には8倍であったが2003年には14倍を超えた。2%の富裕層が個人貯蓄の半分を占め、40%はまったく貯蓄をもたないという状態となった。短期に日本より甚だしい格差社会となったのである。部門別にみると、石油採掘などの部門、金融、情報サービス、運輸などでは大幅な上昇があったが、農業部門は半分以下となり、商業、教育、文化など女性の多い職場ではさらに低くなった。
 家計消費支出のうち食料品の割合は、とくに低所得世帯では大きい。ビデオ、パソコン、乗用車など耐久消費財の保有は増加しつつある。住宅はソ連期には7割弱が国有または自治体所有であったが、現在では70%が私有となっている。医療サービスは強制医療保険制度による無料医療が建前であるが、財政基盤の弱さによる地域格差が生じている。
住民・民族
人口は1億4200万(2008)であるが、ロシア連邦の詳しい人口調査が行われた2002年には1億4527万(男性6767万、女性7760万)であった。諸民族が混住する都市人口の比重は1926年の18%から1959年の52%、1989年の73%と増加した。2002年も73%である。
 1989年当時、ロシア以外の共和国に住んでいたロシア人は3709万で、ロシア人全体の17%であったが、ソ連解体によって相当数がロシアに移住した。カザフスタンを例にあげると、ロシア人623万のうち、2000年までに116万がロシアに純移住した。それにもかかわらず、ロシアの人口が減っているのは、出生率が低いことを示している。そのため子供の比率が低い。この点は日本と同じであるが、現在のロシア男性の平均寿命が60歳以下となっているため、老人の比率は日本ほど高くない。人口はロシアのなかでは、ヨーロッパ地域に集中している。
 ロシア連邦には100以上の民族が住んでいるが、圧倒的多数をロシア人が占める。1989年の人口調査では81.5%である。次に多いのはタタール人で3.8%、タタール人を含む6民族が10.2%を占めたが、それはウクライナ人、ベラルーシ(ベロルシア)人のスラブ系民族、タタール人、バシキール人、チュバシ人、モルドビン(モルドバ)人である。その他の民族の人口は10万以下である。少数民族は21の共和国のほか、自治管区などに居住している。しかしそれらの地域の大部分においてもロシア人がもっとも多い。
 タタール人の人口は665万(1989)でソ連内では7番目に人口が多い民族であったが、周囲をロシアに囲まれており分離できないという理由で自治共和国であった。宗教はイスラム教徒が多いが、現在はロシア連邦内のタタールスタン共和国内に居住し、同じくらいの人口を占めるロシア人と平和的に共存している。北カフカスのチェチェン共和国は分離独立を望んで武力闘争を行い、軍事的に抑圧された。
教育
初等・中等教育制度は、7歳入学で11年制であったが、現在6歳入学で12年制に移行中である。1~4学年は初級教程、5~10年は中級教程、11~12年は理系・文系に分かれる後期教程である。義務教育年限はこの12年となる。高等教育施設(日本の大学にあたる)は、通信教育校もふくめ約1000校である。
 高学歴化はペレストロイカの動機の一つであったが、ソ連崩壊後の経済的破綻(はたん)によって教員の給与水準の低下や未払い、学校の建物、設備の老朽化が目だっている。ソ連期にはすべての学校が国立であったが、現在では私立学校が増加している。1992年のロシア連邦教育法で、個人の自由な発達を最高価値とするという方針がうたわれたが、それまでの価値観が急に崩れたため教員の権威は落ち、未成年の喫煙、飲酒、性の乱れ、少年犯罪が増加した。
 また、経済危機によって高等教育、研究者養成が困難となり、研究条件も悪化したため、研究者の他分野の転出、海外への流出がおこっている。研究の自由の確保と財政的保証が課題である。
宗教
ソ連時代、信仰の自由は憲法で定められていたが、布教活動は許されなかったのに対し、無神論宣伝は無制限であった。それにもかかわらず、ロシア正教をはじめとする宗教・宗派は根強く信者を維持していた。ペレストロイカ期の1990年に新しい宗教法が採択され、宗教活動に対する制約はまったくなくなった。その後の共産党支配の崩壊によって社会的規制も少なくなり、また思想的混乱状況のなかで宗教が力をもってきている。ロシア正教会の信者は7500万人と推定されており、政府が肩入れしている。総主教アレクシー2世は2008年12月死去、2009年1月キリル1世が後を継いだ。
 仏教はバイカル湖の東のブリヤーチア共和国を中心とする地域、カスピ海北西部のカルムイキア共和国で強く、北カフカスやタタールスタンにはムスリム(イスラム教徒)も多い。さまざまな新興宗教、外来宗教の信者も増えている。[木村英亮]
マスコミ
1986年ウクライナ(当時はソ連の構成共和国)で起きたチェルノブイリ原子力発電所の事故は、グラスノスチ(情報公開)への画期となった。1990年8月のマスメディア法の施行によって検閲が廃止され、10月の新宗教法採択、刑法改正などによって言論に対する規制はなくなった。
 しかしソ連解体後ロシア政府は、財政補助や紙の割当て、人事権を通じて統制を加え、テレビ放送局の許認可を通じて反政府的言論活動を規制した。マスメディアの独立を守るための法的保障はなく、1996年の大統領選挙に際しては圧倒的なエリツィン寄りの報道が行われた。シロビキ(治安機関出身者)のプーチンが大統領となると、KGBの後身FSB(連邦保安局)の活動が強まり、国営2局を含む三大テレビはその統制下におかれ、新聞も支配された。また、体制に批判的なジャーナリストが脅迫を受け、ときには殺害されることもあり、ロシアの言論・報道の自由に対して懸念の声があがっている。おもな新聞には、論拠と事実、労働、コムソモリスカヤ・プラウダなどがある。[木村英亮]

日本との関係


 日本とソ連は1956年に共同宣言によって国交を回復したが、講和条約は「北方領土」が障害となっていまだに結ばれていない。日本では、初めのうちはソ連貿易専門の会社が雑貨や衣類を輸出し、木材や石炭を輸入していたが、やがて機械、船舶などを商社が扱うようになって本格化した。1966年からは日ソ経済合同会議が開かれ、「極東森林資源開発プロジェクト」をはじめとして、ウランゲリ港整備、チップ輸入、南ヤクート炭開発など、クレジット供与による大型プロジェクトが行われ、1970年代に入ると石油化学をはじめとするプラント輸出が続いた。
 ゴルバチョフの時代、日本にはペレストロイカ・ブームが起きたが、その後ロシアに対する関心は薄くなった。講和条約の問題はロシアに引き継がれ、ドイツ、韓国の積極的な経済的進出の姿勢に対して日本は慎重であった。
 ソ連は工業製品を自国でまかなう政策をとっていたが、ソ連解体後のロシアは日本から乗用車、建設用・鉱山用機械、バス・トラックなどを輸入した。輸出は原油、非鉄金属が第一で、次いでカニなどの水産物、木材などである。2005年のプーチン来日を機に貿易額は急伸し、2008年までに3倍となった。自動車や電子機器などの分野で、日本側のロシアへの直接投資も増えている。トヨタ自動車や日産自動車など大企業はすでに進出しているが、中小企業をふくめ、さらに幅を広げることが期待される。
 サハリン北東部大陸棚の石油・天然ガス開発事業(通称サハリンプロジェクト)のうち、サハリン1、サハリン2(番号は鉱区別につけられたもの)が生産段階に入っている。サハリン1は2006年から原油の日本への出荷が開始され、サハリン2の原油は2008年12月から出荷されている。2009年2月にはサハリン州南端プリゴドノエ港で日本企業が貢献したロシア最初の液化天然ガス(LNG)工場が稼動を始めた。東シベリアから太平洋岸方向へのパイプラインも建設中で、2008年には日本とロシア国営会社ロスネフチとの間で技術協力についての協定が結ばれた。
 日本との貿易額は輸出2兆6185億円、輸入9719億円(2014財務省貿易統計確定値)で、おもな輸出品目は石油・天然ガス・石油製品(76.2%)、非鉄金属(7.8%)、魚貝類(4.5%)、おもな輸入品目は自動車・輸送用機器(62.6%)、ゴム製品(5.4%)、建設用機械・鉱山用機械(3.7%)などとなっている。
 経済的なつながりとともに、空手や柔道などのスポーツが人気となり、村上春樹らの小説も読まれている。日本映画への関心も高く、2008年のモスクワ国際映画祭では北野武に特別功労賞が贈られた。このような文化交流によって国民のレベルでの相互理解を深めることも重要である。大都市には、すしや刺身の店もあり、沿海地方などでは日本語ブームも起きている。広島市とボルゴグラードの姉妹都市間交流などのような地域住民相互の地道な交流も望ましい。なお、帝政ロシア期からソ連崩壊までのロシアと日本の関係史は「日ロ関係」を参照のこと。[木村英亮]
『川端香男里他監修『ロシアを知る事典 新版』(2004・平凡社) ▽小松久男他編『中央ユーラシアを知る事典』(2005・平凡社) ▽田畑伸一郎編著『石油・ガスとロシア経済』(2008・北海道大学出版会) ▽酒井明司著『資源大国ロシアの実像』(2008・東洋書店)』

出典|小学館 日本大百科全書(ニッポニカ) この辞書の凡例を見る
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