上杉氏(読み)うえすぎうじ

改訂新版 世界大百科事典 「上杉氏」の意味・わかりやすい解説

上杉氏 (うえすぎうじ)

中近世の武家。勧修寺(かじゆうじ)流藤原氏の出自で,鎌倉時代に重房が丹波国何鹿郡上杉荘を領して以後上杉氏を称した。重房は1252年(建長4)宗尊親王の東下に従い,鎌倉に住した。足利氏との婚姻関係が生じ,とくに重房の孫清子が足利貞氏に嫁して尊氏・直義を生んだことから,一族は高(こう)氏と並ぶ重臣として遇された。南北朝内乱の初期には,上杉憲顕足利直義の信任を得て幕府の関東支配の基礎をきずいた。観応の擾乱(じようらん)後の1363年(正平18・貞治2)に憲顕がふたたび関東管領に就任して以降,上杉氏の一族が代々関東管領を世襲した。上杉氏は,憲顕のころ山内(やまのうち),扇谷(おうぎがやつ),宅間(たくま),犬懸(いぬかけ)の4家に分かれ,それぞれ族的発展をとげた。山内家から分かれた越後守護上杉家もあった。このうち宅間家ははやくに勢力を失い,犬懸家も氏憲のときに鎌倉公方足利持氏に反抗して滅亡し,一貫して勢力を有したのは山内家である。上杉氏は関東管領のみならず武蔵,伊豆,上野などの守護を歴任し,その間任国の国人や一揆などを組織して領国支配をすすめた。そうした力を背景に,上杉憲実は足利持氏の専制化に抗して幕府と協調し,ついに持氏を敗死に追いやった。この永享の乱は,1482年(文明14)まで続いた。その前後から山内家と扇谷家の上杉氏内部の対立が生じ,またそれぞれの内部でも長尾氏や太田氏という家宰が権力を増大し,長尾景春上杉顕定に対する反乱のような事態さえ生じていた。両家の対立は,長享の大乱に始まり,以後武蔵,相模の各地で衝突した。この抗争は山内家の勝利に帰したが,その間に両家の対立の間隙を縫って新興勢力の後北条氏が上杉氏の武相の基盤を掘り崩して勢力を拡大しつつあった。1546年(天文15)の河越城の戦山内憲政,扇谷朝定は連合して北条氏康と戦ったが敗れ,朝定は敗死,憲政は越後長尾氏のもとに逃れた。憲政の意を奉じた長尾景虎は,60年(永禄3)暮れ以降南下し,旧上杉氏の基盤を背景に後北条氏勢力と大規模な戦闘を繰り広げた。翌年には憲政は,鎌倉の鶴岡八幡宮で景虎に関東管領と上杉氏の名跡を譲った。景虎は,上杉政虎(のちに輝虎,謙信)と称し,その後も南下を繰り返し,後北条氏勢力と戦った。謙信は,越後春日山城を根拠に北陸一帯に及ぶ大名領国支配を展開した。78年(天正6)3月の謙信の死にともない,その跡をめぐって景虎(北条氏康の子)と景勝(長尾政景の子)の対立(御館(おたて)の乱)がおこり,景勝が勝って上杉氏を襲封した。景勝は全国統一を進める豊臣秀吉に服属し,五大老の一人に選ばれ会津若松で120万石を領したが,関ヶ原の戦で西軍に属したため,出羽米沢30万石に減封された。上杉氏は,その後1664年(寛文4)15万石に半減され,1866年(慶応2)3万石を加封されたが,戊辰戦争により14万7000石に減封された。維新後伯爵。
米沢藩
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山形県米沢市の上杉家(旧米沢藩主)に伝来した古文書。大別すると(1)越後国主時代の中世文書と初期藩主関係文書,(2)米沢藩時代の近世文書,(3)家中諸士の系譜,(4)絵図等,となるが,狭義には(1)のみをさすこともある。(1)は元和年間(1615-24)から整理が始められ寛文・延宝期(1661-81)には目録も作成されて,上杉家の重書とされており,寛政年間(1789-1801)には現在の整理,保管形態ができあがった。この中世文書は1000余点あるが,その伝来をみると,ほんらい越後上杉家のものでないものも含まれている。とくに謙信が国主の座についた1548年(天文17)以前のもの約400点のうち270余点は長尾氏関係のもので,上杉氏伝来のものは130余点にすぎない。しかも関東管領山内上杉氏伝来のものが120点で,上杉氏関係はほとんどが管領家伝来文書である。これが越後上杉家に伝わったのは52年,関東管領上杉憲政が後北条氏の圧力に抗しきれず,越後の長尾景虎(謙信)をたよって亡命してきた際越後にもたらされ,名跡を謙信に譲った際に伝来文書も譲ったことによるのであろう。長尾氏関係文書270余点では守護代家の伝来文書は約半数にとどまり,残り半数は古志の長尾氏の伝来文書である。古志長尾氏の文書が上杉家に伝来するのは,古志長尾氏に入ってのち国主となった謙信を通じて上杉家のものとなったか,御館の乱で景勝に抗した古志長尾氏出身の景信(越の十郎)が滅亡したのち景勝に伝えられたかのいずれかである。謙信以後の資料は景勝をへて定勝以降までのものもふくまれるが,なかには謙信,景勝などが差し出したものが相当数あり,これはのちに家中などから集めたものであろう。これらの文書は上杉家に到来した当時そのままの原形が残されていることは注目すべきで,文化財的にも,古文書学の対象としても貴重である。(4)の慶長二年越後国絵図(郡絵図)と称されるものは岩船郡頸城郡の東部しか現存しないが,秀吉が全国から徴した郡絵図の現物として,他に例のない貴重な文化財であり,ともに重要文化財の指定をうけている。《大日本古文書》家わけ第12〈上杉家文書之一~三〉,《新潟県史》資料編3中世1に(1)を収録,(2)のうち上杉家の正式記録とされる《上杉家御年譜》は米沢温故会から刊行。

越後上杉氏は,戦国大名としてその統治のために一定の法令,分国法を制定しなかった大名である。施策や判決などは個別に発布され,多く条目の形をとった(上杉家条目と総称)。謙信期のおもなものには,1560年(永禄3)府内町に出された11ヵ条の条目,翌年魚沼郡の上田,妻有両荘に発した徳政令,64年柏崎町に出された制札などがあり,外征による新領地の統治策を示したものに77年(天正5)の能登国制札がある。条目は大名から直接出されず,家臣たちが連署する形をとり,次代の景勝期には執政直江兼続(かねつぐ)から令達された場合が多い。
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百科事典マイペディア 「上杉氏」の意味・わかりやすい解説

上杉氏【うえすぎうじ】

勧修寺(かじゅうじ)流藤原氏。本領は丹波国上杉荘。祖は上杉重房。南北朝時代以後関東管領(かんれい)を世襲し,越後・上野(こうずけ)などの守護職をもち,扇谷(おうぎがやつ),詫間(たくま),犬懸(いぬかけ),山内(やまのうち)の四家に分かれ,関東の名族として繁栄した。16世紀には衰え,最後に残った山内家ものち小田原北条氏に圧迫され,越後の長尾景虎(謙信)に管領職と家名を譲った。→上杉憲実上杉謙信
→関連項目足利荘安国寺上杉清子上杉憲顕小山田荘鎌倉公方鎌倉府川越城高家信太荘新潟[県]平井城船木田荘山内荘

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「上杉氏」の意味・わかりやすい解説

上杉氏
うえすぎうじ

鎌倉~江戸時代の武家。勧修寺流(かじゅうじりゅう)藤原氏。勧修寺高藤(たかふじ)13代の庶流重房(しげふさ)が丹波国(たんばのくに)何鹿(いかるが)郡上杉荘(うえすぎのしょう)(京都府綾部(あやべ)市)を与えられて以来、上杉氏を称する。重房は1252年(建長4)宗尊(むねたか)親王が鎌倉幕府6代将軍として下向するのに従い鎌倉に定住、その後関東の名族足利(あしかが)氏と婚姻を結び、しだいに発展していった。重房の子頼重(よりしげ)の長男重顕(しげあき)は扇谷(おうぎがやつ)家を開き、頼重の三男で家督を継いだ憲房(のりふさ)の子の代に至り、養子重能(しげよし)が詫間(たくま)家、次男憲藤(のりふじ)が犬懸(いぬかけ)家を開き、長男憲顕(のりあき)は山内(やまのうち)を称して4家となった。頼重の娘清子(きよこ)が足利貞氏(さだうじ)に嫁して尊氏(たかうじ)、直義(ただよし)を生んだことから足利氏に重用され、重顕の子朝定(ともさだ)(扇谷)は丹後(たんご)守護、尊氏の執事となり、憲顕(のりあき)は伊豆、上野(こうずけ)、越後(えちご)3国の守護に任じ、足利基氏(もとうじ)が鎌倉府を開くに及びその執事となった。以後、上杉諸家は交互に関東執事(のち管領(かんれい))を務めた。

 憲顕の子憲栄(のりひで)の流は越後国守護となり越後上杉と称したが、定実(さだざね)に至り嗣子(しし)のないままに断絶した。詫間は早く衰え、犬懸も氏憲(禅秀(ぜんしゅう))の代に関東公方(くぼう)足利持氏(もちうじ)、山内憲基(のりもと)に敵対し、1417年(応永24)滅亡した。のち関東の実権を握った山内、扇谷両上杉は、文明(ぶんめい)末年(15世紀末)ころから相互に抗争を続け、永正(えいしょう)年間(1504~21)北条氏が興るに及んで協力してこれに対抗したが、1546年(天文15)山内憲政(のりまさ)、扇谷朝定(ともさだ)(朝興(ともおき)の子)が北条氏康(うじやす)と武蔵(むさし)河越(かわごえ)城に戦い、朝定の敗死によって扇谷家は滅亡した。憲政もまた北条氏に抗しえず越後に走り、1561年(永禄4)関東管領職と上杉姓を越後守護代長尾景虎(ながおかげとら)(謙信(けんしん))に譲った。上杉氏を継いだ謙信は北陸から関東に及ぶ領土を築き、その跡を受けた甥(おい)景勝(かげかつ)は豊臣秀吉(とよとみひでよし)に従って五大老に列し、1598年(慶長3)会津120万石を与えられて春日山(かすがやま)から若松に移った。1600年徳川家康に抗し関ヶ原の戦いの口火を切ったが敗れ、翌年出羽(でわ)米沢(よねざわ)30万石に移され、1664年(寛文4)綱勝(つなかつ)の末期(まつご)養子を許されて綱憲(つなのり)(吉良義央(きらよしなか)の長男)が襲封するに際し15万石に削封され、以後幕末に及ぶ。明治期に伯爵を授けられた。

[小林清治]


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山川 日本史小辞典 改訂新版 「上杉氏」の解説

上杉氏
うえすぎし

中世~近世の武家。勧修寺(かじゅうじ)流藤原氏。重房のとき,丹波国上杉荘(現,京都府綾部市)を支配して上杉氏を称した。1252年(建長4)宗尊(むねたか)親王に従って鎌倉に下ったといわれる。重房の孫清子は足利貞氏に嫁いで尊氏・直義(ただよし)を生み,以来足利氏に重んじられ,室町幕府下では関東管領(かんれい)家として繁栄。一族は山内(やまのうち)・扇谷(おうぎがやつ)・犬懸(いぬかけ)・宅間(たくま)の4家にわかれた。宅間家はまもなく衰退,犬懸家も15世紀初めの上杉禅秀の乱により滅亡。同世紀半ば頃から扇谷家が台頭して宗家の山内家と対立。争乱をくり返すなか,両家は新興の後北条氏によってしだいに圧迫された。1546年(天文15)山内憲政・扇谷朝定(ともさだ)連合軍は武蔵国河越で北条氏康軍に敗れ,朝定は戦死,扇谷家は滅亡した。憲政も52年越後国へ逃亡,61年(永禄4)関東管領職と上杉姓を長尾景虎(上杉謙信)に譲り,山内家も滅んだ。謙信は越後国春日山城(現,新潟県上越市)を本拠に北陸の有力戦国大名となり,関東・信濃方面にもしばしば出兵。その死後,養子景勝は豊臣秀吉に従い,五大老となった。会津若松120万石を領有したが,関ケ原の戦で西軍に加わり,米沢藩30万石に減封。1664年(寛文4)さらに15万石に半減された。維新後,伯爵。「上杉家文書」を伝える。

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旺文社日本史事典 三訂版 「上杉氏」の解説

上杉氏
うえすぎし

室町時代より江戸時代に至る武家の名門
始祖重房は勧修寺流藤原氏の出身。鎌倉幕府皇族将軍となった宗尊親王に従って鎌倉に下り,のち武士となり,丹波(京都府)上杉庄を領し上杉氏と称した。その孫は足利氏に嫁し,尊氏・直義 (ただよし) の生母となった関係から,室町時代には鎌倉府の管領に任じられ,広く関東に勢力を広げた。一族は扇谷 (おうぎがやつ) ・詫間 (たくま) ・犬懸 (いぬがけ) ・山内 (やまのうち) の4家に分かれ,ことに扇谷・山内両家が栄えたが,後北条氏に敗れ,まず扇谷家が滅び,山内憲政 (のりまさ) も領国越後へのがれ,守護代長尾景虎(謙信)に上杉姓と管領職を譲った。謙信は越後を領する戦国大名として著名。その後養子景勝は豊臣秀吉に従い会津120万石を領したが,関ケ原の戦い(1600)で西軍に属し減封され,外様大名として米沢30万石を領した。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「上杉氏」の意味・わかりやすい解説

上杉氏
うえすぎうじ

藤原良門の子孫 (勧修寺流) 。重房のとき,鎌倉将軍宗尊親王の関東下向に供奉して武家となり,丹波国何鹿郡上杉荘を領して上杉を称した。重房の孫清子が足利貞氏に嫁し尊氏,直義を産み,以後足利氏に重用された。のち扇谷,詫間,犬懸,山内の4家に分れ,正平 18=貞治2 (1363) 年憲顕が足利基氏の執事として関東管領に補任されたのち交互に関東管領となった。室町時代末期には山内,扇谷が対立したが,天文 15 (1546) 年,山内憲政と扇谷朝定が連合して北条氏康と戦ったが敗れ,憲政は越後守護代長尾景虎 (→上杉謙信 ) に関東管領職と上杉姓を譲った。謙信の養子景勝は豊臣秀吉,徳川家康に仕え,子孫は出羽米沢藩主となり,明治にいたって伯爵。

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世界大百科事典(旧版)内の上杉氏の言及

【越後国】より

…憲顕はまた,越後守護職にも任じられ,その子孫が越後守護を継いだので,室町期を通じて越後は関東と深い関係をもち続けた。上杉氏の越後支配は,まず越後支配の中心である国府の掌握,国衙支配機構の掌握をてことして,鎌倉以来の守護領に加えて,南北朝内乱にさいして南朝方に立った武士の所領を没収したほか,国中に拡散していた国衙領を守護領にし,これをよりどころに,一国支配にのりだした。千屋(魚沼)郡国衙職,西古志三島之国衙,国衙内蒲原津および五十嵐保など,守護領のおおかたは国衙領であった。…

【関東管領】より

…この関東管領二人制は,当時の幕府内部の尊氏と直義による二頭政治の地方的反映であった。高氏と上杉氏の関東管領二人制は,その後義詮に代わって基氏が鎌倉公方となっても続いた。観応の擾乱(じようらん)で直義勢力が滅亡し,その後将軍尊氏が鎌倉に居住したが,その間関東管領は設置されなかった。…

【上野国】より

…幕府に代わった後醍醐天皇の建武政府の中で,新田義貞は上野,播磨,越後の国司(守護兼帯)となり,六波羅探題を滅ぼした足利尊氏とともに,二大勢力の一方を形成したが,やがて尊氏と後醍醐天皇との対立が明確になると,天皇方(南朝)に属して各地を転戦し,38年(延元3∥暦応1)に越前藤島で戦死する。これに先んじて上野を制圧した足利方は,上杉憲房を上野守護に任じ,多くの武士は上杉氏に服し,義貞なき新田荘は新田義兼の女と足利義純の間に生まれた時兼を祖とする新田岩松氏によって継承された。一方,南北朝内乱の初期において,足利方の優位が決定的となった14世紀中葉に,足利氏内部に尊氏と直義を二つの頂点とする勢力の対立が起こり,51年(正平6∥観応2)観応の擾乱(じようらん)が起こる。…

【相模国(相摸国)】より

…鎌倉時代の武家政権の本拠地鎌倉には義詮がおかれ,関東10ヵ国(室町以降12ヵ国となる)を管轄する地方機関鎌倉府が成立した。相模国は政庁の所在地として重要視され,鎌倉公方足利氏と信頼関係にある上杉氏,三浦氏,一色氏等が守護をつとめた。永享の乱(1438‐39)で鎌倉公方足利持氏が将軍足利義教に討伐されたあと,相模国に勢力を張ったのは上杉氏であった。…

【信濃国】より

…なお小県郡の一土豪であった真田氏は,武田氏被官となり武田氏の領土拡大に伴い,小戦国大名として成長した。 武田氏の信濃制圧は越後の上杉氏にとっても脅威となり,53年以降上杉謙信の信濃国出陣が開始され,武田信玄との数度にわたる川中島の戦がおこった。61年(永禄4)の甲越両軍の総力戦は互角とされるが,合戦後謙信の信濃における根拠は飯山城(飯山市)周辺のみとなり,北信の大部分も武田氏の支配となった。…

【大名】より

…宗氏は1万石余であるが対馬1国を領有するし,朝鮮との外交関係があったので10万石格の国主の扱いを受けた。 これに准ずる大名,領地高の多い大名は,伊達氏(陸奥仙台62万石余),細川氏(肥後熊本54万石),鍋島氏(肥前佐賀35万石余),藤堂氏(伊勢安濃津32万石余),松平氏(越前福井32万石),有馬氏(筑後久留米21万石),佐竹氏(出羽秋田20万石余),松平氏(出雲松江18万石余),柳沢氏(大和郡山15万石余),上杉氏(出羽米沢15万石)の10家で,合計20家の国主大名が存在した。 ただし1ヵ国を領有する酒井氏(若狭12万石余で小浜に住する),松浦氏(壱岐等6万石余,肥前平戸),稲垣氏(志摩等3万石,鳥羽)の3家は,領地高が多くないので国主としない。…

【米沢[市]】より

…中世に長井氏の築城によって開け,戦国期には伊達氏の領国の中心地として城下町の原型が形成された。1601年(慶長6)上杉景勝が会津から移封されて以後明治まで約270年間にわたる上杉氏の統治が続いた。江戸中期の10代藩主上杉治憲(鷹山)が藩政改革の一環として藩士に奨励した織物業は,米沢城下在住の下級家臣による家内工業として発展し,明治以降〈米織〉の名で知られるようになった。…

※「上杉氏」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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