〈書写本〉〈筆写本〉〈鈔本(しようほん)〉ともいい,刊本(または版本)すなわち印刷された書物に対し,手書きによって筆写された本のこと。彩色で飾ったものをとくに〈彩飾写本illuminated manuscript〉という。写本は筆者によって分類し,編著者自筆のものは〈自筆本〉または〈自筆稿本〉といい,自筆本から転写または再転写したものを〈転写本〉という。
日本における写本は,経典の書写,すなわち写経がおもなものであり,飛鳥時代から白鳳・天平時代にかけてさかんに行われた。また写本は,江戸時代以前(慶長,元和,寛永などの江戸時代初期を含める説もある)に写された場合は,とくに〈古写本(こしやほん)〉とよんで一般に珍重する。古写本は,のちの写本に比べて転写の回数が少なく,そのため本文中に誤脱が少ないであろうという期待,また江戸時代に発達した印刷術による版本を写したというおそれがないことなどから,古写本珍重は今日でも変わっていない。江戸時代後期以後に書写された本は,新写本とよばれるが,多くの場合,その価値が劣る。しかしこれらの呼称は,判断する人の主観に左右されやすく,使い方も一定しているとはいえない。
文献を見ながら書き写したいわゆる写本は〈謄写(とうしや)本〉〈見取書き〉などとよばれ,文献の字体を模倣しながら写した写本は〈模写本〉〈摹本(もほん)〉などとよばれる。模写本のうち文献を見ながら模写したものは〈臨本〉といい,また文献の上に雁皮紙(がんぴし)のような薄い紙を敷いて文献の字影をそのまま透き写しにした写本を,〈影写本〉〈透写(すきうつし)本〉〈敷写(しきうつし)本〉などとよぶ。名家の筆跡を透き写した場合,模造品でありながらよく原本と見誤られることがある。しかし今日では,影写本は,原本に接する機会が限られてきたため,利用価値が高くなり,研究機関で作製されることが多くなった(影写本は写真に比べて筆順・筆勢などがわかりやすく,長年月の保存にたえうるという利点がある)。なお,名家の書いた文字の輪郭だけを写し取った白抜きの文字を,籠字(かごじ),双鉤字(そうこうじ),飛白(ひはく)などとよぶこともある。天皇の筆写本を宸筆,宸翰,皇族の筆写本を御筆とよんで,特別に扱うこともある。日本では,中国に比べて印刷術の発達が遅いため,古文献のほとんどが写本の形で伝わっている。したがって転写の際に重なった幾人もの筆写者の誤脱があるため,文献の本文系統を確立する作業は,困難なものとなっている。
執筆者:益田 宗 日本人の手になる最古の現存古写本には聖徳太子自筆といわれる《法華経義疏》4巻(旧法隆寺蔵,御物)や,慶雲4年(707)7月26日の奥書のある《王勃集》零本,天平16年(744)10月3日の奥書のある,光明皇后自筆の《楽毅論》1巻,《杜家立成》1巻などがある。願経では,天武天皇14年(686)5月の教化僧宝林筆《金剛場陀羅尼(だらに)経(智識経)》を最古とし,国宝《皇侃礼記義疏》(早稲田大学図書館蔵)などがあり,いずれも〈白鳳経〉として知られている。なお,中国の古写経で日本に伝わるものはこれらよりはるかに古く,晋の元康6年(296)3月18日の奥書のある《諸仏要集経》(西本願寺蔵)や,西涼の建初7年(411)7月21日の奥書のある《妙法蓮華経》(西本願寺蔵)などがある。平安時代になると,木版印刷術が紹介され,書物の一部は印刷によって製作されたが,仏典その他の書写もひきつづき行われた。ことに経典は,信仰上から華麗をきわめた装飾経が多くつくられた。平泉の〈中尊寺経〉〈神護寺経〉などがあり,なかでも平清盛以下32人の平家一門が書写した《平家納経》32巻は,装丁,造本のりっぱなことで有名である。
西洋でも印刷術が発明される前の書物は,すべて手書きの写本であった。古代エジプトではパピルスに葦(あし)ペンで書写し,これを業とする写字生(書記)がおり,古代ギリシア・ローマではパーチメント(羊皮紙)やベラム(仔牛皮紙)に鳥の羽ペンで書写した。中世では,修道院内に写字室が設けられ,修道士たちが日課として毎日一定の時間,聖典の書写にしたがった。写字修道士は作業の前に十字を切り,神に祈りをささげてから仕事にとりかかり,作業中はいっさい無言で,ひとりが皮をなめし,つぎの人が軽石でこれをみがき,3人目の人が原本を書き写し,4番目の人が頭文字や飾りわくを描き,5番目の人はさし絵を描き,6番目の人は原本によって校正し,7番目の人は製本にしたがった。それは日本の写経司と似たところがあった。美しく装飾された写本は,日本の装飾経とおなじように〈彩飾写本〉とよばれ,今日でも珍重されている。現存する著名な写本のうち主要なものをあげると,〈パピルス・プリス〉(前2500年ころ。ルーブル美術館蔵),〈ハリス・パピルス〉(前13~前12世紀ころ。大英博物館蔵),〈アニのパピルス〉(前15~前14世紀ころ。大英博物館蔵),第2次世界大戦後パレスティナの死海付近で発見された,いわゆる〈死海写本〉,おなじく終戦後に発見された〈チェスター・ビーティ・パピリ〉(120-150)などがあり,さらに,〈コットン本創世記〉(4世紀ころ),〈バチカン写本〉〈シナイ写本〉(大英図書館蔵),《リンディスファーンの書》(大英図書館蔵),《ケルズの書》(ダブリン,トリニティ・カレッジ蔵),〈アレクサンドリア本〉(大英図書館蔵),《ロッサーノ福音書》(イタリア,ロッサーノ蔵),〈アルゲンティウス本〉(スウェーデン,ウプサラ大学蔵),〈アルキン本聖書〉(8世紀ころ。大英図書館蔵),《ベーオウルフ》(8世紀ころ),〈キャドモンの詩篇〉(10世紀ころ),〈聖マーガレットの福音書〉(11世紀ころ)などがある。これらの写本も,15世紀中期のドイツ人J.グーテンベルクの活版印刷術の発明とともに,しだいにその姿を消すにいたった。
→写本画 →本
執筆者:庄司 浅水
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
印刷された書物すなわち刊本に対し、手で書き写された本のこと。
[金子和正]
「書写本(しょしゃぼん)」「筆写本」「鈔本(しょうほん)(抄本)」などともいう。
写本には筆写の方法によってさまざまな呼び方がある。編著者自らが書いたものを「自筆本」、編著者以外の有名人が手書きしたものを「手写(しゅしゃ)本」、底本を横に置いて字体や行の移りまで忠実に模写したものを「臨写(りんしゃ)本」「臨摹(りんも)本」、底本の字体や行の移りなどは考慮せずに、内容だけを誤らぬように写したものを「見取書(みとりが)き」「謄写(とうしゃ)本」、底本の上に薄い紙を直接置いて、底本どおりに忠実に透き写したものを「影写(えいしゃ)本」などという。影写本には、細い筆で文字の輪郭を写し取り、その中を墨で埋める、いわゆる「双鉤填墨(そうこうてんぼく)」の方法をとったものもある。天皇の筆写本は「宸筆(しんぴつ)本」「宸翰(しんかん)本」、皇族の筆写本は「御筆(ぎょひつ)本」とよばれる。なお安土(あづち)桃山時代の文禄(ぶんろく)年間(1592~96)までの写本は、とくに「古写(こしゃ)本」〔江戸時代初期の慶長(けいちょう)・元和(げんな)(1596~1624)ころまでを含むという説もある〕と称され、珍重されている。
わが国における現存最古の写本は、聖徳太子筆と伝えられる『法華義疏(ほっけぎしょ)』4巻(宮内庁御物)であるが、これに続くものとしては686年(朱鳥1)の教化僧宝林筆の『金剛場陀羅尼経(こんごうじょうだらにきょう)』1巻(国宝)、706年(慶雲3)の『浄名玄論(じょうみょうげんろん)』巻6(国宝)、写経以外では707年の『王勃詩序(おうぼつしじょ)』(正倉院御物)が名高い。奈良時代における写本は写経が大部分を占め、国書、漢籍の類はごく少なかった。ことに天平(てんぴょう)年間(729~749)は写経事業が盛んで、官立の写経所で数多くの仏典が写経生によって書写された。平安時代には木版印刷による刊本も出たが、写本は引き続いて行われ、写経では紺紙金銀字(こんしきんぎんじ)の『中尊寺経』や平家一門の『平家納経』などがあり、とくに後者は美術的意匠を凝らした豪華な装飾経として有名である。国書、漢籍の写本作成は平安時代から本格的となる。現存する漢籍は約40種、国書は約150種、そのなかには西本願寺本『三十六人集』など優美な草仮名の写本も少なくない。鎌倉時代以降、刊本はますます盛んになったが、写本は依然として続けられていった。書写される国書、漢籍の種類も著しく多様となった。
写本の歴史のなかでとくに注目すべき点は、『日本書紀』『万葉集』『竹取物語』など、わが国の歴史や国文学の重要な古典は、慶長年間(1596~1615)から古活字版の形式で出版されるまでは、写本の形で伝えられてきた点である。
[金子和正]
マニュスクリプトmanuscript(略称MS, MSS)とはラテン語のmanu(手で)とscriptus(書かれた)から発生したことばで、「手で書かれた本」の意味である。
[高野 彰]
写本の書写をする人を写字生という。ギリシア・ローマ時代の書写作業は奴隷を使って大々的に行われたので、アレクサンドリア神殿の学寮には20万巻にも及ぶ巻子本(かんすぼん)が所蔵されていたといわれる。ところが中世になると写本作りはもっぱら僧院の書写室で細々と行われるようになり、書写は僧侶(そうりょ)の義務となった。しかし12世紀以降に大学が興隆してくると、写本作りが商売として成り立つようになり、パリのような大学町には書写を専業とする写字生が誕生したのであった。
[高野 彰]
ギリシア・ローマ時代はパピルスが主要な書写材であったため、写本は巻子本の形をとっていた。巻子本は、書いたり読んだりしやすいように一定の幅の欄にくぎられていた。書写は通常は表面だけを使い、裏面まで使った「両面書き写本」の例は少ない。しかし羊皮紙や小牛の皮でつくったベラムが書写材の主流になると、写本は冊子体形式となり、この形は紙の時代になっても変わることはなかった。冊子体であるから両面書きであることはいうまでもないが、羊皮紙やベラムは材質がじょうぶなことから、使用済みの文字を削り落とし、再利用することがあった。これを「重ね書き写本」という。また写本のなかには『聖務日課書』や『時祷書(じとうしょ)』などのように、細密画で飾られていたり文字自体が彩色されていたりすることがある。細密画家とか彩色師が腕を競い合った写本を「彩色写本」という。
[高野 彰]
当初は碑文に彫るための書体から転用したアンシャル書体や、これに少し円みをつけた半アンシャル書体が使われた。その後、時代とか地域の特徴を加味して、『ケルズ本』や『リンディスファーン福音書(ふくいんしょ)』の島嶼(インシュラー)半アンシャル書体、フランスのカール大帝の治世に考案されたカロリンガ小文字書体、ゴシック書体、さらには古典主義の復興期に生まれた人文主義書体などが写本用の書体として使用された。
[高野 彰]
標題紙は刊本時代のくふうなので、巻子本形式はもちろんのこと、冊子体形式でも写本には標題紙は見当たらない。そのかわりに写字生は文章をインキピットincipit(ラテン語の「ここから始まる」)で始め、エクスプリキットexplicit(「ここで終わる」)で文章を閉じ、そのあとに著者名、書写日、写字生の名前を記した「奥書(コロフォン)」colophonを用意したのであった。
[高野 彰]
『川瀬一馬著『日本書誌学概説』増訂版(1972・講談社)』▽『反町茂雄著『日本の古典籍』(1984・八木書店)』▽『高野彰「形態からみた本の歴史」(『論集・図書館学研究の歩み 第5集 図書館資料の保存とその対策』所収・1985・日外アソシエーツ)』▽『F・G・ケニオン著、高津春繁訳『古代の書物』(岩波新書)』
出典 図書館情報学用語辞典 第4版図書館情報学用語辞典 第5版について 情報
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
出典 平凡社「普及版 字通」普及版 字通について 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
…テキスト(本文)につけて,明るく照らし出すものという意味で,図示し,彩飾する役割を持っている。イルミネーションは中世の写本の頭文字の飾りなどを指し,古代から現代にいたる挿絵を全体として示すにはイラストレーションの語を使う。写本画 イラストレーションの歴史は,15世紀半ばのグーテンベルクによる印刷術の発明以前(写本の時代)とそれ以後(活版本の時代)に分けられる。…
…書物は古代以来,粘土板,パピルス,羊皮紙,絹,それに紙など,さまざまな材料を用いて,筆写,印刷などの手段により,さまざまな形態で作られ,時間と空間の制約を超えて伝えられてきた。その間,印刷以前の時代にも,写本の生産,販売,仲介を行う本屋が発生したし,中世以降になると,中国,朝鮮,日本における木版印刷技術の進歩,ヨーロッパにおけるグーテンベルクの活版印刷術の開発によって,出版活動は盛んになったが,出版が不特定多数の読者に対して,見込生産と宣伝,販売を大量かつ積極的に行うという意味で,近代出版に脱皮するのは,社会の近代化の過程においてであり,とくに大衆社会の出現によってである。したがってイギリスで出版者(パブリッシャーpublisher)という言葉が定着したのは近々18世紀のことであり,それまでは本屋(ブックセラーbook‐seller,あるいはステーショナーstationer)と呼ばれるのが一般的であった。…
※「写本」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
「歓喜の歌」の合唱で知られ、聴力をほぼ失ったベートーベンが晩年に完成させた最後の交響曲。第4楽章にある合唱は人生の苦悩と喜び、全人類の兄弟愛をたたえたシラーの詩が基で欧州連合(EU)の歌にも指定され...
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