塚原村(読み)つかはらむら

日本歴史地名大系 「塚原村」の解説

塚原村
つかはらむら

[現在地名]甲府市塚原町

下積翠寺しもせきすいじ村の西、あい川北西岸にある。村名は地内に多くの古墳があったことによるともいう。金峰きんぷ山へ至る御岳みたけ道のうち、当地からの登拝路は途中上帯那かみおびな村方面と下帯那村方面とに分れる。建武四年(一三三七)六月一三日の源持・平泰宗連署寄進状(大善寺文書)によれば、「塚原」と「小岡郷」にあった上野小七郎の旧領が大善だいぜん(現勝沼町)に寄進されている。同年七月一六日、南朝方の初鴈五郎に焼かれた同寺に鎌倉府執事斯波家長から塚原と小岡郷の田畠計六町余が将軍家御祈祷のために寄進された(「斯波家長寄進状」同文書)。これは源持らの寄進を安堵したものであろうか。この大善寺領となった塚原を当地に比定する説がある。

大永三年(一五二三)頃とも推定される年未詳七月二一日の武田信虎書状(恵運院文書)によれば塚原山・権現ごんげん山・鐘撞堂かねつきどう山が恵運えうん院に寄進された。天文二二年(一五五三)三月六日には塚原などの郷の人足押立公事などが免除されている(高白斎記)。元亀二年(一五七一)三月一〇日信玄の弟松尾信是(民部少輔)が死去、その遺領は子息を信是女と婚姻させることを条件に弟河窪信実に与えられた。ただし遺領のうち塚原郷は信是母松尾氏(信虎側室)と後室に堪忍分として渡された(「武田信玄判物」陽雲寺文書)。同一四日には塚原郷一〇貫文の地が信是母に安堵され(「武田信玄判物」広島県宇留島常造氏所蔵文書)、天正元年(一五七三)一二月二三日には勝頼から安堵されている(「武田勝頼判物」同文書)

塚原村
つかはらむら

[現在地名]喜多方市天満前てんまんまえ長内ながうち北原きたはら市道いちみち古寺ふるでら町西まちにし町北まちきた番帳面ばんちようめん長源段ちようげんだん七百刈ななひやくがり町田まちだ千刈せんがり千刈道上せんがりみちうえ千刈中道上せんがりなかみちうえ千刈道下せんがりみちした千刈新道下せんがりしんみちした太子堂たいしどう町田下まちだした下川原しもかわら中田なかた砂子田すなこだ五百刈ごひやくがり三百刈さんびやくがり向谷地むかいやち中谷地なかやち大道端おおみちばた一本木上いつぽんぎうえ一本木下いつぽんぎした大谷地おおやち

阿賀川支流のにごり川東岸に位置し、北東は小荒井こあらい村、東は清次袋せいじぶくろ村、南は太郎丸たろうまる村。小荒井組に属した。現在のJR喜多方駅構内、同駅前から西側一帯にあたり、地内の菅原神社にちなんで菅原すがわら町の俗称でよばれている。喜多方駅構内の長内遺跡からは弥生土器や石包丁などが出土している。

塚原村
つかはらむら

[現在地名]南足柄市塚原

西南に明神みようじんヶ岳(一一六九・一メートル)がそびえ、北東を要定ようさだ川・ほら川が、西北から南をかり川、南から東へ太刀洗たちあらい川が流れ、東は栢山かやま村・小台こだい(現小田原市)、西は宮城野みやぎの(現足柄下郡箱根町)、北は炭焼所すみやきしよ村と接し、北東部を甲州道が南北に通る。「風土記稿」によれば、村の東南に小田原から二里の一里塚があり、近くには高札場や伝馬の継立場もあった。

近世は小田原藩領。天正二〇年(一五九二)三月一三日の後藤真成手形(相州古文書)に「苅野庄塚原之郷」とみえる。寛永八年(一六三一)長泉ちようせん院鐘銘などによれば、古は岩原いわはら郷に属したという。寛永初期の小田原領西筋村々高ノ帳記載の村高一千三三七石余に対して、元禄郷帳は一千五六〇石余、天保郷帳は一千七七六石余に増加している。

塚原村
つかはらむら

[現在地名]茅野市塚原・なか

南はかみ川を境とし、東はさき村に接し、北は永明寺えいめいじ山に限られ、西は横内よこうち上原うえはら村に接する塚原扇状地の南部にある。東山道・鎌倉街道甲州道中大門だいもん(善光寺道)が通じ、古くから諏訪地方の交通の要路であった。塚原村の名は既に元禄九年(一六九六)の諏訪忠虎家中御蔵付帳(北川氏蔵)にみえ、安永六年(一七七七)の検地以後矢ヶ崎村から正式に独立分村した。村名の由来はこの地籍に姥塚うばつか大塚おおつか王経塚おうきようづか一本椹いつぽんざわら釜石かまいし古墳など、大塩おおしお牧をはじめ八ヶ岳の広大な西裾野に広がる官牧を管理したと思われる豪族の塚(古墳)が多いことによるという。

塚原村
つかはらむら

[現在地名]上田市大字上野うえの

神科かみしな台地の北東部、かん川沿いから、東太郎ひがしたろう山東側山麓一帯の村。大別して村の北寄り東太郎山尾根先の戸石といし城南麓の伊勢山いせやまと、村の南寄り虚空蔵こくぞう山の南麓にある新屋あらやに分れている。東は神川を隔てて下原しもはら村(現小県郡真田町大字本原もとはら)、西は金剛寺こんごうじ村、南は長島ながしま村、北は曲尾まがりお村(現小県郡真田町大字傍陽そえひ)と境をなす。

新屋地籍の小字矢鼻やはなにある古墳群は「矢鼻の七つ塚」とよばれ、往古にはこのほか新屋の山麓一帯に数多くの古墳があったものと推定され、村名もこれによったものである。

塚原村
つかばらむら

[現在地名]日南町三吉みよし

北流する石見いわみ川左岸に位置し、同川に北東流する九塚くつか川が合流する。北は下石見村。享保元年(一七一六)郷村高辻帳は「ツカハラ」と訓ずる。当村の龍福りゆうふく寺背後は鬼塚おにづかとよばれ、村名はこの塚に由来するという(伯耆志)。拝領高は七四石余、本免は五ツ二分。文化一二年(一八一五)悪田浮加損米五斗を免ぜられている(三輪家文書)。幕末の六郡郷村生高竈付では生高七七石余、竈数七。「伯耆志」では林一四町余、家数七・人数三一。

塚原村
つかわらむら

[現在地名]湯布院町塚原

現湯布院町の北端、津房つぶさ川上流の雛戸ひなど川の流域に発達した高原の盆地に立地。由布ゆふ岳の北側で、西に立石たていし(一〇五八・九メートル)、北に雛戸山(八三〇・八メートル)、東に伽藍がらん(硫黄山、一〇四五・三メートル)うち(一二七五・四メートル)がそびえる。貞治三年(一三六四)二月日の大友氏時所領所職等注進状案(大友文書)由布院の並柳ゆふいんのなみやなぎ酒久里しゆくりなどとともに「塚原」がみえ、永徳三年(一三八三)七月一八日の大友親世所領所職等注進状案(同文書)にもみえる。

塚原村
つかばらむら

[現在地名]御殿場市塚原

山尾田やまおだ村の北に位置する。集落は本村と枝郷高畑たかばたけに分れ、村の北辺古沢ふるさわ村境をつつじ川が、南辺山尾田村境を大堀川が東へ流れる。寛永改高附帳では田高一〇三石余・畑高一一三石余。正保四年(一六四七)の検地帳(塚原区有文書、以下断りのない限り同文書)によれば、高三三八石余、反別は田方一五町二反余・畑方二七町八反余、名請人数三八。延宝八年(一六八〇)の村鑑では高三三八石余、家数二四、馬三六。

塚原村
つかはらむら

[現在地名]高槻市塚原一―六丁目・上土室かみはむろ五丁目・阿武野あぶの一丁目・塚原

宿名しゆくめ村の北西にあり、あぶ(阿武)山の南麓、安威あい川左岸に位置する。当地一帯には八十やそ塚とよばれた塚原古墳群が分布し、村名は塁々と連なる群集墳にちなむ。慶長一〇年(一六〇五)摂津国絵図には「塚原村」とみえ高六二石余。寛永―正保期(一六二四―四八)の摂津国高帳では九七石余、寛文二年(一六六二)には九五石余で(天保八年「郡秘録」三嶋家文書)、領主の変遷は氷室ひむろ村に同じ。元禄期(一六八八―一七〇四)の状況と推定される本光院様御代御領分惣名寄では人数八九・家数二一(高槻町誌)。天保期(一八三〇―四四)には綿作もみえる(郡秘録)

塚原村
つかはらむら

[現在地名]甲西町塚原

湯沢ゆざわ村の北に位置し、北から東は下市之瀬しもいちのせ(現櫛形町)、西は上野うえの(現同上)。慶長六年(一六〇一)の塚原村検地帳(県立図書館蔵)によると上田一町九反余・中田二町余・下田一町六反余・下々田九反余、上畑一町二反余・中畑一町余・下畑二町余・下々畑一町五反余、田畑計一二町四反余、ほかに弾正荒七反余・熊蔵荒四町五反余、屋敷数は二六、計九五九坪、ほかに除地三〇〇坪(富泉寺寺中。富泉寺は普仙院のことであろう)

塚原村
つかはらむら

[現在地名]西京区大枝おおえ〈塚原町・中山なかやま町・東新林ひがししんばやし町二丁目〉

小畑おばた川上流の唐櫃越からとごえ南斜面丘陵地に位置。北は御陵みささぎ、東は岡・長野新田、南は上里かみざと大原野おおはらの、西は長野新田・沓掛くつかけの各村に接し、山陰道が中央東西方向に横断する。

村名は村内の塚原群集墳や宇波多うはた陵など付近に陵墓・古墳の多いことからきたものと考えられるが確かではない。中世には塚原の名は現れないようである。

享保一四年(一七二九)の山城国高八郡村名帳では村高二四六・九石余、内訳は金光寺領一六三・四石余、北面衆一三人知行五二石余、禁裏御領七石余、同上山開二二石。

なお近世には毎年五月六日称念しようねん(西山派)で「おこない」が行われた。僧は関与せず、宮役が司会し、榊を床に立てて氏神を祭る。

塚原村
つかばるむら

[現在地名]国富町塚原

岩知野いわちの村の西、木脇きわき村の南に位置し、深年ふかどし川が本庄ほんじよう川と合流する沖積地に立地する。南は宮崎郡金崎かねざき(現宮崎市)。享禄四年(一五三一)六月一五日の大光寺領田畠川成検見注進目録(大光寺文書)によると、塚原ノ門のうち「池そへ畠二反」が川成として処理されているが、この塚原は当地のことか。差出者の作田重堅は文中で「御代官内衆余多参合候」と記しており、伊東氏領下の検注の結果を示すものであろう。

塚原村
つかはらむら

[現在地名]会津坂下町束原つかはら

北流する阿賀川左岸にあり、西は中茅津新なかかいづしん村・中茅津村。「新編会津風土記」に「此村天喜の頃より塚原と云しが、後転じて束原に作れり、寛文中にこれを復す」とある。「会津旧事雑考」所収天喜五年(一〇五七)六月三日の八幡宮神役目録に「萱津村塚原共矢鏑流馬としかへ」とある。江戸時代末期以降は束原となる。文禄三年(一五九四)の蒲生領高目録では高七二二石余。慶長一六年(一六一一)から越後街道が村の北部を通るようになり、阿賀川に板橋を架けて通行人から橋銭を徴収したという(会津坂下町史)。化政期には渡船場があり、対岸高久たかく(現会津若松市)に渡った(新編会津風土記)

塚原村
つかばらむら

[現在地名]小高町塚原

太平洋岸の小高川河口部に位置し、西は大井おおい村。北は松林の丘陵を隔てて堤谷つつみがい(現原町市)に接する。南に村上むらかみ浦があったが、現在は消滅。正保郷帳では田方四八三石余・畑方五一石余。明暦二年(一六五六)の高七五〇石余(相馬藩政史)。元禄郷帳によると高五三五石余。なお元禄検地高は八九八石余、ほかに新田二七石余がある(奥相志)。天明三年(一七八三)の家数八一、嘉永元年(一八四八)の家数四〇(検地石高収納戸口等調)。文久元年(一八六一)の家数四九(給人三・寺一、農家四五のうち新家一〇)・人数三四六、馬五〇。弘化四年(一八四七)に尊徳仕法が実施されている(以上「奥相志」)

塚原村
つかわらむら

[現在地名]城南町塚原

浜戸はまど川の左岸に形成された沖積平野とこの南に続く一〇―二五メートルの塚原台地とからなる。興国年間(一三四〇―四六)菊池武光(豊田十郎)豊田とよだ庄地頭職を得て、浜戸川に近い小木おぎに大明神社(現小木阿蘇神社)を建て、荘の鎮守とした。「郡村誌」に小木原おぎばる宮下みやのした北宮下きたみやのしたの字名を載せる。慶長国絵図に村名がみえる。廻江手永に属し、廻江手永略手鑑によると塚原村と西塚原にしつかわら村に分村し、各各に庄屋がいる。塚原は台地を占め、本村を核に五反ごたん中尾なかおの集落からなる。

塚原村
つかはらむら

[現在地名]梁川町粟野あわの

柳田やなぎだ村の北に位置し、東は梁川村、北は粟野村。前塚原まえつかはら後塚原うしろつかはらの集落からなり、村名は広い原の真ん中に塚があったことによると伝える(阿弥陀堂縁起)。一説には寛文(一六六一―七三)の頃、梁川村から分村して成立したといわれるが(信達二郡村誌)、戦国期には塚原郷の名がみえる。永正一二年(一五一五)一〇月四日の伊達稙宗安堵状案(伊達家文書)によれば、田手侍者が塚原郷のうち中の内・桃内・丹後内・真木の花・土器内などを安堵されている。古高新高帳では米沢藩領時代の古高二八七石余、幕府検地による新高二〇二石余。領主の変遷は享和三年(一八〇三)まで八幡やわた村と同じで、文化一一年(一八一四)三河刈谷藩領となり幕末に至る。

塚原村
つかはらむら

[現在地名]棚倉町塚原

ながれ村の西、久慈くじ川上流西岸、八溝やみぞ山地北端丘陵に立地。永禄一二年(一五六九)一一月三日の近津都々古別神社御頭目録(金沢文書)に、下手沢しもてざわ御頭に属して八槻の近津やつきのちかつ明神の神役を奉仕したなかに「流村内塚原」の「志やミ内」とみえる。当時は流村内に含まれていた。のち塚原は御頭屋の神役奉仕を難渋したが、結城白川氏は神役を奉仕させると八槻別当に約束している(年未詳正月二一日「斑目直基書状」八槻文書)。江戸時代の領主の変遷は伊野上いのかみ村と同じ。

塚原村
つかばらむら

[現在地名]武生市塚原町

府中町の西南、春日野かすがの谷口にある。慶長三年(一五九八)九月の越前府中郡在々高目録に村名がみえ、高四七五・八一石、先高三七六石余・出分九八石余が記される。正保郷帳によると田方三三三石余・畠方一四一石余。貞享三年(一六八六)福井藩領から幕府領となり、元禄一一年(一六九八)小浜藩領になった。貞享四年の南条郡々高反別本百姓雑家百姓男女人別改(「越前宗門帳」所収)によると、高持八軒・七五人、雑家二三軒・七八人。

塚原村
つかはらむら

[現在地名]不知火町高良こうら

東は高良こうら村、西は下長崎しもながさき村、南は亀尾かめお村、北は柏原かしわばら村に接し、東から西へ富岡とみおか往還が通じる。近世は松山手永に属した。「国誌」に和銅六年(七一三)勧請と伝える十五社じゆうごしや神社、村の東北部に俗に山伏塚とよぶ経塚が記される。

塚原村
つかはらむら

[現在地名]郡家町下坂おりさか

下坂村に接して所在する。拝領高は一〇六石余。本免五ツ一分。享保一九年(一七三四)の鈴木孫三郎所持本「因幡誌」によると高九八石、竈数六。安政五年(一八五八)の村々生高竈数取調帳では生高一一〇石余、竈数六。村内に山がなく肥草・牛馬飼草に不足するため、享保一八年下坂村などとともに禰宜谷ねぎだに(現鳥取市)への入会を願出て許された。

塚原村
つかはらむら

[現在地名]下館市塚原

勤行ごんぎよう小貝こかい両河川の間に位置し、東は成田なりた村。文明一〇年(一四七八)水谷勝氏が下館に築城後、同氏の支配地となる。江戸初期に下館藩領となり、元和九年(一六二三)の水野谷様御代下館領村々石高并名主名前控(中村家文書)と寛永一六年(一六三九)の下館領五万石村々石高牒(田宮家文書)に村高九二・七四六石とある。

塚原村
つかはらむら

[現在地名]君津市塚原

深井ふかい村の西方、小糸こいと川左岸に位置する。文禄三年(一五九四)上総国村高帳に村名がみえ、高一三一石。寛政五年(一七九三)の上総国村高帳では家数二四、旗本井上領。幕末も領主は同じ(旧高旧領取調帳)

塚原村
つかばるむら

[現在地名]竹田市菅生すごう

菅生台地のほぼ中央に位置する。正保・元禄・天保の各郷帳に村名がみえない。弘化物成帳では菅生組のうち、村位は中、免三ツ、田七斗余(八畝余)・畑六七石余(一二町二反余)・屋敷五斗余(五畝余)で、開田六斗余(一町二反余)、開畑はない。

塚原村
つかはらむら

[現在地名]矢板市木幡きばた

木幡村の南に位置する。村名は村内に多数あった古墳群にちなむともいう。元禄郷帳の高二二八石余、木幡村枝郷とあって木幡村からの分村。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

今日のキーワード

排外主義

外国人や外国の思想・文物・生活様式などを嫌ってしりぞけようとする考え方や立場。[類語]排他的・閉鎖的・人種主義・レイシズム・自己中・排斥・不寛容・村八分・擯斥ひんせき・疎外・爪弾き・指弾・排撃・仲間外...

排外主義の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android