大津村(読み)おおつむら

日本歴史地名大系 「大津村」の解説

大津村
おおつむら

[現在地名]高知市大津

土佐郡布師田ぬのしだ村の南にある大村で、長岡郡に属した。村の東南部に高天ヶ原たかまがはら山の小丘が広がる。西北部は国分こくぶ(布師田川)が、南部を舟入ふないれ川が西南流する。「土佐州郡志」には大津郷とあって、「東西四十町許南北十四町許、其地砂土」と記す。「和名抄」記載の大角おおつ郷の地に比定され、高天ヶ原山の北側中腹に弥生時代遺跡、東北麓には三ッ塚みつづか古墳群、そのほかに六郎山ろくろうやま古墳などがあり、早くから開かれた地であった。長岡郡に国府(現南国市)が設置されると、大津はその外港として重要な役割を果した。

土佐守として赴任した紀貫之は承平四年(九三四)土佐を離れるが、その「土佐日記」一二月二七日条に「おほつよりうらどをさしてこぎいづ」とみえる。この貫之が船出した大津をどこにあてるかには諸説がある。近世の大津村域とするには異説はないが「土佐日記地理弁」は「今ノ大津村ノ中ナル、鹿児崎ノ東北ニアタリテ、船戸ト称フ地アリ、コレイニシヘハ国府ヨリ出テ、乗船セラレシ所ナリトイヘリ」と記し、現舟入川左岸の舟戸ふなとの地に比定する。近年の研究では、当時の地形的条件などから舟戸の上流一キロほどの現在のせきとする説も出ているが、いずれも確証はない。また「土佐日記」同日条に「かこのさきといふところに、かみのはらから、またことひと、これかれさけなにともておひきて、いそにおりゐて、わかれがたきことをいふ」とあり、村内鹿児かこ(加古)で一時船を降り、見送りの人と別れの宴をしている。


大津村
おおつむら

[現在地名]中川なかがわ郡豊頃町大津元町おおつもとまち大津幸町おおつさいわいまち大津寿町おおつことぶきまち大津港町おおつみなとまち旅来たびこらい長節ちようぶし・大津・打内うつない、十勝郡浦幌うらほろ町字ウツナイ・字トイトツキ・字ヌタベット・字ラヱベツブト

明治初年(同二年八月から同六年の間)から明治三九年(一九〇六)まで存続した十勝郡の村。同郡長臼おさうす村の南東、大津川(現十勝川)の河口部に位置し、北は同郡鼈奴べつちやろ村、北東は同郡生剛おへこわし村・十勝村(現浦幌町)、西は当縁とうぶち郡当縁村に接し、南東は太平洋に面する。大津川は長臼・鼈奴両村境を南流し、ウツナイチャロでウツナイ川を分流し、大津市街の北東を流れて太平洋に注ぐ。太平洋岸には旧河道と砂嘴、海浜には小砂丘があり、当縁村との境界にかけて丘陵となる。近世はトカチ場所のうち。明治初年ヲホツナイなどを包含して村が成立。同二年九月から同四年八月まで十勝郡など四郡が駿河静岡藩支配地に割当てられた。静岡藩は当地に出張十勝会所、各郡に役宅を置いて藩士を常駐させ、支配地の調査と移民の世話にあたらせた。同年十勝会所に在勤していた藩士は一四人(「職員高附帳」蝦夷の灯)。同年の大津村の戸口はアイヌ三戸・一七人、うち男一〇・女七(同書)、支配地内に和人の永住人はなく、出稼人一四人、アイヌの三〇ヵ村の戸口は一七三戸・九八七人(男四八二・女五〇五)であった(「十勝国之内四郡静岡藩支配地取調書」豊頃町史)。同年の支配地四郡からの収入は計六千八七九両二分永二〇一文七分、これに対し支出金は職員俸給・役場維持経費、移住民への旅費などの諸経費支払など計四千四二五両で、ほかに諸物産の租税金五〇〇両が収納された(「金請払取調帳」蝦夷の灯)


大津村
おおつむら

[現在地名]甲府市大津町

高室たかむろ村の南東、現甲府市域の最南端に位置する。西をしぶ(現鎌田川)が流れ、対岸は極楽寺ごくらくじ(現玉穂町)。南は笛吹川が西に流れ、南流してきたあら川が合流する。笛吹川対岸は八代郡下曾根しもぞね(現中道町)と同郡高部たかべ(現豊富村)。家居は東隣の西下条にししもじよう村との境に南北に長く並ぶ。集落はもと笛吹川沿いの後藤ごとうの地にあったが、水害を避け慈恩じおん寺とともに現在地に移ったと伝える。「一蓮寺過去帳」には応永―永享(一三九四―一四四一)頃の七月二日供養の金阿弥陀仏に「大津堀川」の注記がある。また文安元年(一四四四)閏六月二九日供養の眼阿弥陀仏、同三年五月一九日供養の釈阿弥陀仏には大津、延徳四年(一四九二)七月二二日の合戦で討死した宣阿弥陀仏には大津芸州、同じく長阿弥陀仏は同(大津)弥七郎と記される。大津芸州は武田信成次男布施満春の次男満頼の子安芸守信清で、当地名を名乗り大津氏を称した。


大津村
おおつむら

[現在地名]福江市上大津町かみおおづちよう坂の上さかのうえ一丁目・下大津町しもおおづちよう

福江城下の南東に位置し、東部は海に臨む。北側の上大津の橘、南側の下大津のみずくぼ一本木いつぽんぎ天神崎てんじんざき江湖えごなど大津一帯は早くから開かれており、また五島で最古の創祀と伝える地主じぬし大神宮(五社神社)が鎮座する。嘉慶二年(一三八八)上大津に宇久勝がたつくち(竜ノ口城)を築き、岐宿きしく(現岐宿町)から移ってきたとされ、永正四年(一五〇七)の兵火で焼失したという。遺構は未詳。天正一六年(一五八八)宇久純玄が摂津兵庫ひようご灘で暴風に遭った際に住吉大明神(現住吉神社)に祈願したところ無事に航海が続けられたことから、翌年深江ふかえの大津にその分霊を勧請して一社を建てたと伝えるが、同八年のことともいう(「五島家代々記」五島編年史)


大津村
おおつむら

[現在地名]出雲市大津町・大津新崎町おおつしんざきまち

斐伊川左岸の平坦地にあり、西は今市いまいち村、北は中野なかの村、北西は朝倉あさくら村。国造出雲義孝に宛てた弘安元年(一二七八)九月四日の佐々木頼泰寄進状(千家家文書)に「塩冶郷内大津村壱町」とみえる。「大津」は大きな港の意味で、これよりかなり以前から斐伊川水運の要衝で、奥出雲と深くかかわっていたことは間違いない。したがって大津村の成立も、さらにさかのぼると思われる。塩冶えんや郷の支配に携わった佐々木頼泰はかなり早い段階で経済上の要地を掌握していたことになる。中世大津村には杵築大社(出雲大社)の神田のほか日御崎社(日御碕神社)鰐淵がくえん寺など近隣有力寺社の神田・寺田も存在した。寛正三年(一四六二)九月二五日の日御崎社神田打渡状(日御碕神社文書)によると「弐段 神東村、坪者多田曾田在」「壱段 萩原村、坪者三ノ坪」とともに、「合五段 大津村、坪者ほと原」とある。


大津村
おおつむら

[現在地名]北茨城市大津町、大津町きた町の一部

東と南は海岸線近くまで丘陵性台地が迫り、北東部の海岸は切立った海食台地が続く。北は平方ひらかた村。

常陸国赤浜妙法寺過去帳の弘治二年(一五五六)に「妙善霊大津八廿三村上四郎衛門母儀」とみえる。文禄四年(一五九五)岩城領検地目録(静嘉堂文庫蔵)には「弐百七拾三石四斗九升四合 (関本ノ内)大津村」とあり、同年の岩城領小物成目録(秋田県立図書館蔵)には「猟船六艘 壱貫八百文 丸木船七艘 壱貫五「十」(追書)文」とある。「水府志料」には「東西十町許、南北十町余、民屋三百五十一戸、(中略)四面皆他領ナリ、一村漁ヲ以テ第一ノ業トス」とある。


大津村
おおつむら

[現在地名]豊橋市老津おいつ

城下しろした村の北、大崎おおさき村の南に続く三河湾岸の村。平安時代には国衙領で大津保とよばれ(建久已下古文書)、文治元年(一一八五)に伊勢神宮の神戸となった。大永八年(一五二八)戸田宗光寄進状(太平寺蔵)によると、太平たいへい寺領が存在したことがわかる。また天文一七年(一五四八)の今川義元寄進状(同寺蔵)にも「参河国渥美郡大津太平寺領」とある。同一八年の太平寺寺領目録(同寺蔵)によると太平寺領内大津郷の地名に、宮はさま・よこ枕・こんにう・みこかいと・南たうめき・竹之下などの地名がみえる。

近世に入り、慶長六年(一六〇一)から元和九年(一六二三)頃まで戸田清堅領、寛永四年(一六二七)から日田藩領、同九年から一一年まで幕府領、以後明治に至るまで吉田藩領。元禄一〇年(一六九七)の大津村差出帳(中村家文書)によると、田方九三四石余・畑方七二一石余、新切高一一八石余。


大津村
おおつむら

[現在地名]田鶴浜町大津

七尾西湾の入海に北面し、内浦街道が通る交通の要衝。東は深見ふかみ村、村の中央を南西方徳田とくだ(現志賀町)に水源を発する大津川が流れ、七尾西湾に注ぐ。入海は現在陸地化しているが、地名は七尾西湾内を運航する船の津であったことによるという(田鶴浜町史)。観応二年(一三五一)九月一六日、足利直義方の越中桃井直信勢に攻められて三引みびき保の赤蔵寺に立籠る吉見氏頼軍を救援するため、長秀信勢が大津の地から出撃した(同年九月日「長野家光軍忠状」得江文書)。これに先立つ貞和五年(一三四九)七―八月には、老体の得田素章に代わって一族の代官大津章広が、大和の南朝方討伐に赴く能登守護桃井兵部大輔の軍に従っている。


大津村
おおつむら

[現在地名]横須賀市大津町一―五丁目・馬堀まぼり町一―四丁目・池田いけだ町一―五丁目・根岸ねぎし町一―五丁目・馬堀海岸まぼりかいがん一―四丁目・桜が丘さくらがおか一―二丁目・浦上台うらがみだい一―四丁目

横須賀村から走水はしりみず村へ続く三浦半島東側の砂浜の海岸に面する大村。小田原衆所領役帳に高橋寄子十人「百五拾貫文 大津」とある。

近世初頭から船手頭であった旗本向井氏の知行所となり、後に旗本間宮氏ならびに武蔵川越藩領と相給になる。延享二年(一七四五)隣村公郷くごう村と漁場争いがあった(「漁猟境争論裁許状」県史九)


大津村
おおつむら

[現在地名]土佐清水市大津

かいかわ村の西南、大津川の河口とその流域を中心に展開する村で、古くは貝ノ川村に属して粟津あわづ村といった(南路志)元禄郷帳は大津村の項に「古者粟津村」と注し、元禄地払帳には粟津村とある。大津川の上流域にある与狩山よかりやま村は当村の枝郷。当地のかなえ崎は太平洋に臨む景勝の地として知られ、現在灯台がある。

天正一八年(一五九〇)の以南大津村地検帳によれば検地面積四町三反余、屋敷数七、うち居屋敷二。屋敷のうちには安楽寺が含まれ、ほかに天神がみえる。すべて小島民部大夫の給地。江戸時代には「土佐州郡志」が「大津村 東限貝野川村、西限小才角村、南接海、北限与狩山、東西四十町許南北二十町、戸凡二十四、其土黒多砂礫、有川流過村中」「大津浦東向 東西二十町南北同貝之川、戸凡二十余、有漁舟」と記すように、郷・浦に分れていたが庄屋は一人で両分を支配した。


大津村
おおつむら

[現在地名]荒川町大津

荒川左岸に位置し、北は鳥屋とりや村、西は金屋かなや村、東は村に接する。周辺には荒川の沖積土で形成された豊穣な耕地をかかえる。古くは入江・船着場があったといわれる。享保二年(一七一七)の村絵図(楽山堂蔵)によれば北方にあいぜ・長池・久助池に続いて荒川本流に通ずる古川が描かれる。中世には荒河あらかわ保内に含まれたらしい。また元亨三年(一三二三)八月七日の河村秀久譲状案(河村氏文書)にみえる荒河保内「まつやまおもて」「すけふち」は西方の古松山ふるまつやますけぶちに比定される。文禄(一五九二―九六)頃の瀬波郡絵図には「黒川分色部分おゝづ村 下 本納合百九石八斗 縄ノ高合四百四拾参石□斗七升四合 家合卅弐間」とある。


大津村
おおづむら

[現在地名]大津町大津

杉水すぎみず村の南東に位置し、阿蘇外輪の西麓台地が合志こうし台地へと続く付近にあたる。慶長九年(一六〇四)九月の検地帳によると、屋敷持一四人、分米八六九石六斗余。寛永一〇年(一六三三)の人畜改帳では大津組に属し、同帳は上大津かみおおづ村・下大津村・大津出分・大津付出シに分けられている。上大津村は戸数二〇・家数九八、人数九八、牛馬五七、居百姓分の高三四七石七斗余。持高をみると、七三石の庄屋を最高に、二〇石代三戸・一〇石代一三戸・一〇石以下三戸である。


大津村
おおつむら

明治三九年(一九〇六)から昭和三〇年(一九五五)まで存続した十勝郡の村。明治三九年四月十勝郡大津村・長臼おさうす村、鼈奴べつちやろ(現浦幌町)中川なかがわ旅来たぷこらい村、十勝郡十勝村(現同上)当縁とうぶち郡当縁村の一部(太平洋岸現大樹町内ホロカヤントウ沼と当縁川との中間にある高丘の中央を上り、生花苗沼川と当縁川との間にある分水嶺を越えて、中川郡境に至る以東)を加えた区域が合併、二級町村大津村が成立、旧各村はその大字となった。同年の戸数四四〇・人口一千九七九(男九六二・女一千一七)であった(道戸口表)。明治時代後期は十勝川流域開拓の拠点として繁栄したが、その後港湾や鉄道など交通機関の未整備から中心市街地としての機能を失い、農業(畑作・畜産)・漁業を基本産業とする地域に変わった。


大津村
おおづむら

[現在地名]志賀町大津

上野うわの村の北、日本海に面する村で集落は東の山際に位置し、海岸段丘上に耕地がある。大笹おおざさ村の人が地内「寺家敷」に移住したのに始まり、近世初頭に現在地に移ったと伝える(羽咋郡誌)。元和二年(一六一六)の高一六五石余、役棟七(「苦竹運上極」雄谷文書)正保郷帳の高も同じで、田八町七反余・畑二町二反余、免四ツ一歩三厘。寛文一〇年(一六七〇)の村御印の高一七一石、免四ツ七歩、小物成は山役七四匁・苦竹役八匁、鳥役二匁(出来)、猟船櫂役五匁(三箇国高物成帳)。天保年間(一八三〇―四四)の村明細によると家数二三(うち頭振八)・人数一〇五、馬一四、塩蔵二、稼は塩焼・苧・かりやす草刈・布。


大津村
おおつむら

[現在地名]松阪市大津町

東岸江ひがしきしえ村の南にあり、西は田原たわら村に接する。村域北西部を名古須なこす川が流れる。当村は中世には田原・久保くぼ垣鼻かいばな上川うえがわしも村・駅部田まやのへたの各村とともに神戸かんべ六郷に属していた。中世後期には北畠氏の支配下にあり、沢氏古文書(内閣文庫蔵)永正八年(一五一一)一一月一四日付、および永禄一一年(一五六八)一一月一一日付の人夫改等に「大津」「大つ」「すき」「スキ」といった地名がみえ、馬公事をはじめ、大つおいたて(追立)・スキ野伏役・大つイケハタ人夫役・大つ野伏役・スキ人夫役・大つ人夫役といった諸役が記されている。


大津村
おおつむら

[現在地名]いわき市山田町やまだまち

さめ川下流に山田川が合流する地点にあり、北西は林崎はやしざき村、南東は後田うしろだ村。菊多きくた郡に属した。近世の領主の変遷は大部分は磐城平藩領から寛永一一年(一六三四)以降泉藩領だが、窪田藩領から幕府領となった分もあり、不明な部分がある。幕末にはすべて泉藩領(旧高旧領取調帳)。文禄四年(一五九五)の四郡検地高目録では高六四三石余。慶長一三年(一六〇八)の岩城領分定納帳(内藤家文書)では高六〇六石余。


大津村
おおつむら

[現在地名]作木村大津

伊賀和志いかわし村の東南、ごうの川北側に展開する村で、北は森山西もりやまにし村。「国郡志下調書出帳」によれば、往古は伊賀和志村と一村で河淵かわぶち村と称したという。同書出帳は村の様子を「山ノ形険敷、殊ニ岩小石等ノ地所故草木難生、肥草不自由ニ御座候、然共、郷中土地宜御座候故、作付出来立ハ相応ニ御座候、左スレハ村位中ノ村と被相考候」と記し、畠が一〇町三反余(高三三石余)に対し、田はわずかに二町三反余(高二六石余)で、村高も六七石余(同書出帳)と少ない。


大津村
おおつむら

[現在地名]豊田市豊松とよまつ町 大津

ともえ川の支流たき川の北にあり、下河内しもごうちから足助あすけ(現東加茂郡足助町)に通ずる外下山としもやま街道が通る。字下切しもきりには五輪塔二基がみられる。近世初めは幕府領、寛永四年(一六二七)奥殿藩領となり明治に至る。慶長九年(一六〇四)奉行辰巳藤右衛門による検地が実施された(松平町誌)


大津村
おおつむら

[現在地名]赤穂市大津

黒鉄くろがね(四三〇・九メートル)の南麓にあり、南は戸島とじま新田村。往昔は海面で「大津千軒釣井七つ」と伝える。備前街道が通り、北西の帆坂ほさか峠は播磨と備前との国境で、名称は峠から湾内の船帆が見えたことによるという。浅野長直が慶安三年(一六五〇)戸島新田村の造成にあたり、沼地を埋立て堤防を築き大津川を築造したと伝える。正保郷帳に村名がみえ田高一八二石余・畑高一八七石余。草山・塩浜・新田あり。天保郷帳によると高四五七石余。宝永三年(一七〇六)の指出帳では高四一〇石余・田畑四〇町余、日焼所で山水出水を用いる。


大津村
おおづむら

[現在地名]西山町大津

北は尾町おまち村、南は大崎おおさき村と甲田こうだ村の一部、東は三島さんとう田中たなか(現出雲崎町)と峰境、西は日本海沿岸で北国街道が通る。中央を大津川が西流し、北方と南方を二分して日本海に注ぐ。村の中ほどの八幡はちまんいり地内いかり田の地下二メートルに多くの貝類が発見された。いかり田はかつては漁師が船の碇を下ろした所と伝える。


大津村
おおつむら

[現在地名]富浦町大津

宮本みやもと村北方の岡本おかもと川流域に位置する。慶長二年(一五九七)の安房国検地高目録に村名がみえ、高三〇九石余、うち田方二〇〇石余。里見氏給人領。里見氏改易後の領主の変遷は天明二年(一七八二)まで多田良たたら村に同じ。同年旗本田沼領となり、天保一四年(一八四三)に至る(天明七年「居倉村山出入済口証文」吉田家文書、天保村高帳)。天保一四年以後嘉永六年(一八五三)までは再び多田良村と同様の変遷をたどるが、旧高旧領取調帳では船形藩領一六三石余・三上藩領一五四石余。


大津村
おおつむら

[現在地名]浜田市大金町おおがねちよう

姉金あねがね村の北に位置し、うや川が流れる。東は下有福しもありふく村、西は荒相あらわ村、北は宇屋川うやがわ村・高田たかだ(現江津市)。元和五年(一六一九)の古田領郷帳に村名がみえ、高五九石余、年貢高は田方二四石・畑方六石余。


大津村
おおつむら

[現在地名]諸富町大字徳富とくどみ上大津かみおおつ下大津しもおおつ

諸富津もろどみつの北部に位置する。古代の肥前国府は嘉瀬かせ川が背振山地から平野に出る谷口の左岸(現大和町)に営まれたが、国府が内陸にある場合近くの海岸に外港として国府津を置き大津と称することが多く、この大津もその例と思われる。


大津村
おおつむら

[現在地名]五條市大津おおづ

吉野川南岸に所在。三箇院家抄(内閣文庫蔵大乗院文書)に「竜花院□庄 大津庄」がみえる。明応五年(一四九六)の坂合部殿証文(表野の田中家文書)に「坂合部郷殿際目之事(中略)表野村之中山ニ付而大津村と表野村と出入有之」などとみえ、坂合部さかいべ郷に属し、「五條市史」所収の文禄二年(一五九三)の坂合部郷河南方検地帳に「合百卅三石五斗八升八合 内大豆四拾石五斗七升四合 大津村」とある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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