日本歴史地名大系 「大津村」の解説
大津村
おおつむら
- 高知県:高知市
- 大津村
土佐郡
土佐守として赴任した紀貫之は承平四年(九三四)土佐を離れるが、その「土佐日記」一二月二七日条に「おほつよりうらどをさしてこぎいづ」とみえる。この貫之が船出した大津をどこにあてるかには諸説がある。近世の大津村域とするには異説はないが「土佐日記地理弁」は「今ノ大津村ノ中ナル、鹿児崎ノ東北ニアタリテ、船戸ト称フ地アリ、コレイニシヘハ国府ヨリ出テ、乗船セラレシ所ナリトイヘリ」と記し、現舟入川左岸の
大津村
おおつむら
明治初年(同二年八月から同六年の間)から明治三九年(一九〇六)まで存続した十勝郡の村。同郡
大津村
おおつむら
大津村
おおつむら
- 長崎県:福江市
- 大津村
福江城下の南東に位置し、東部は海に臨む。北側の上大津の橘、南側の下大津の
大津村
おおつむら
- 島根県:出雲市
- 大津村
斐伊川左岸の平坦地にあり、西は
大津村
おおつむら
大津村
おおつむら
- 愛知県:豊橋市
- 大津村
近世に入り、慶長六年(一六〇一)から元和九年(一六二三)頃まで戸田清堅領、寛永四年(一六二七)から日田藩領、同九年から一一年まで幕府領、以後明治に至るまで吉田藩領。元禄一〇年(一六九七)の大津村差出帳(中村家文書)によると、田方九三四石余・畑方七二一石余、新切高一一八石余。
大津村
おおつむら
七尾西湾の入海に北面し、内浦街道が通る交通の要衝。東は
大津村
おおつむら
- 神奈川県:横須賀市
- 大津村
横須賀村から
近世初頭から船手頭であった旗本向井氏の知行所となり、後に旗本間宮氏ならびに武蔵川越藩領と相給になる。延享二年(一七四五)隣村
大津村
おおつむら
- 高知県:土佐清水市
- 大津村
天正一八年(一五九〇)の以南大津村地検帳によれば検地面積四町三反余、屋敷数七、うち居屋敷二。屋敷のうちには安楽寺が含まれ、ほかに天神がみえる。すべて小島民部大夫の給地。江戸時代には「土佐州郡志」が「大津村 東限貝野川村、西限小才角村、南接海、北限与狩山、東西四十町許南北二十町、戸凡二十四、其土黒多砂礫、有川流過村中」「大津浦東向 東西二十町南北同貝之川、戸凡二十余、有漁舟」と記すように、郷・浦に分れていたが庄屋は一人で両分を支配した。
大津村
おおつむら
荒川左岸に位置し、北は
大津村
おおづむら
大津村
おおつむら
明治三九年(一九〇六)から昭和三〇年(一九五五)まで存続した十勝郡の村。明治三九年四月十勝郡大津村・
大津村
おおづむら
大津村
おおつむら
- 三重県:松阪市
- 大津村
大津村
おおつむら
大津村
おおつむら
大津村
おおつむら
大津村
おおつむら
大津村
おおづむら
大津村
おおつむら
大津村
おおつむら
- 島根県:浜田市
- 大津村
大津村
おおつむら
大津村
おおつむら
- 奈良県:五條市
- 大津村
吉野川南岸に所在。三箇院家抄(内閣文庫蔵大乗院文書)に「竜花院□庄 大津庄」がみえる。明応五年(一四九六)の坂合部殿証文(表野の田中家文書)に「坂合部郷殿際目之事(中略)表野村之中山ニ付而大津村と表野村と出入有之」などとみえ、
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報