天徳寺(読み)テントクジ

デジタル大辞泉 「天徳寺」の意味・読み・例文・類語

てんとく‐じ【天徳寺】

《江戸芝西久保巴町の天徳寺の門前で売っていたところから》紙を外被として中にわらを入れた粗末なふとん。かみぶすま。

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精選版 日本国語大辞典 「天徳寺」の意味・読み・例文・類語

てんとく‐じ【天徳寺】

  1. [ 1 ] 東京都港区芝西久保巴町にある浄土宗の寺。山号は光明山。天文二年(一五三三)緑誉称念が創建。江戸時代は江戸四か寺の一つに数えられた。知恩院の末寺。
  2. [ 2 ] 〘 名詞 〙 ( [ 一 ]の門前で売っていたところから ) 紙を外被とした粗末な藁蒲団(わらぶとん)。かみぶすま。天徳寺開山の称念上人が苦行中に用いたものともいう。
    1. [初出の実例]「宿ではいつも天徳寺(テントクジ)(かぶっ)て寝るに」(出典:談義本銭湯新話(1754)三)

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日本歴史地名大系 「天徳寺」の解説

天徳寺
てんとくじ

[現在地名]港区虎ノ門三丁目

光明山和合院と号し、浄土宗。本尊は釈迦如来。江戸時代は浄土宗江戸四ヵ寺の一(寺社書上・「港区史」)。江戸三十三ヵ所の二〇番札所にも数えられている(江戸砂子拾遺・東都歳事記)。天文二年(一五三三)紅葉もみじ(現千代田区)辺りに開創し、当初は天地庵と唱えたという。開山は称念だが、師である周仰(増上寺七世)を開山とし、自らは二世と称している。


天徳寺
てんとくじ

[現在地名]鳥取市湯所町一丁目

江戸時代の湯所ゆところ村から円護寺えんごじ村へ越える坂道の登り口に位置する(鳥府志)。万年山と号し、曹洞宗。本尊釈迦如来。寺伝によれば、但馬国竹田たけだ(現兵庫県和田山町)にあった天台宗城福じようふく寺が、天文八年(一五三九)に移転したものといい、その際曹洞宗に改宗したとされる。また一説には天文の頃、鹿野しかの(現鹿野町)の郷士中原次郎左衛門久忠の次男梅萼永を住職とし、湯山ゆやま(現福部村)にあった天台宗の多年山長福寺を当地に移し、禅宗として万年山天徳寺と改称したのに始まるともいう(鳥府志)。曹洞宗専門僧堂として僧の育成を行い、「鳥府志」は檀家は在町合せて三千軒にも及んだと伝える。


天徳寺
てんとくじ

[現在地名]水戸市河和田町

岩間いわま道の南に位置し、河和田かわわだ城跡の一画にある。本堂の北西は土塁と空堀に囲まれ、東方の山門の左右にも土塁が残る。岱宗山と号し、曹洞宗。本尊は十一面観音。

「東茨城郡誌」に「元常磐村にありしもの、野州の大中寺の末にして、当寺八世盛庵全昌和尚の開山に係る。文禄二年八月佐竹義篤の創立にして慶長三年盛庵全昌開山す、慶長七年徳川家康公より朱印地として五十石を附せらる。寛文五年八月、八世尭翁恕学和尚遷化の後に至るや寺運大に衰頽したり。


天徳寺
てんとくじ

[現在地名]秋田市泉字三岳根

いずみ(天徳寺山)の麓にあり、境内には松の巨木が茂る。曹洞宗、万固山と号し、本尊は聖観音。藩主佐竹氏代々の菩提寺。

佐竹義仁の内室菩提のため、常陸太田(現茨城県太田市)の西山に建立、その内室を開基とした。佐竹氏の移封と同時に秋田に移る。最初は楢山ならやま(現金照寺山)にあったが、寛永元年(一六二四)火災に遭い、翌二年現在地に移った。寛永九年の佐竹義宣書状に、

<資料は省略されています>

とあり、曹洞宗寺院として最高の地位にあった。「寺院科被仰付事」(刑罰式)によれば、天徳寺は宝鏡ほうきよう院・一乗いちじよう院とともに仕置の手続を他の寺院とは異にし、寛永四年の窪田配分帳では寺領三〇〇石を受けている。


天徳寺
てんとくじ

[現在地名]弘前市新寺町

新寺しんてら町寺院街にあり、貞昌ていしよう寺もと境内北側、西光さいこう寺の西、徳増とくぞう寺の北に位置。大福山と号し、浄土宗。本尊は阿弥陀三尊。もと貞昌寺塔頭。

蓮門精舎旧詞(続浄土宗全書)によれば、天文年間(一五三二―五五)に建立され、はじめは臨済宗の寺であったという。慶長二年(一五九七)頃、退廃していた同寺を光蓮社良心が再興したという。寺伝によれば、はじめ田舎館いなかだて(現南津軽郡田舎館村)にあったが、大浦おおうら(現中津軽郡岩木町)へ移転、慶長年間弘前城下へ移ったとし、開基・開山は不詳とする。正徳元年(一七一一)の寺社領分限帳(市立弘前図書館蔵)では、二代藩主津軽信枚が慶長年間御目見を仰付け、代々御目見寺となり、慶安年間(一六四八―五二)現在地へ引越したとある。


天徳寺
てんとくじ

[現在地名]上中町天徳寺 吉野

吉野よしのにあり、寺後の山を宝篋ほうきよう山という。山号は宝篋山、高野山真言宗。本尊馬頭観音。「若州管内社寺由緒記」に載せる縁起によれば、養老二年(七一八)泰澄が自刻の馬頭観音坐像を宝篋山の中腹に安置したことに始まるといい、天暦九年(九五五)堂宇の建立に着手、天徳元年(九五七)本堂がなった。その後金堂・鐘楼・大門など七堂を整え、村上天皇より田二〇町を寄せられ、正治二年(一二〇〇)北条政子は頼朝のために法華堂を建立寄進したという。


天徳寺
てんとくじ

[現在地名]防府市大字下右田 片山

右田みぎたヶ岳の南麓にあり、曹洞宗。万年山と号し、本尊釈迦如来。

寺伝によれば、往古のこの地には寺名不詳の寺があり、その開基は常延という源氏の一族と伝える。本門の脇の銀杏樹の根に五輪塔があり、頼朝の墓という伝承もある。またこの常延は寺中の慶宗けいしゆう(のちに要持院と称す)に住み、江戸時代末には要持ようじ院にその木像があったともいう。

江戸時代に入り右田の地が毛利元倶に領知されるに及び、この寺を再興、もとの知行所熊毛くまげ三丘みつお(現熊毛町)より牌所を引き移し、寺名を元倶の父元政(右田毛利氏の祖)の法名天徳性真禅定門によって、天徳寺とした。


天徳寺
てんとくじ

[現在地名]築城町本庄

城井きい川左岸の山裾にある曹洞宗寺院。月光山と号し、本尊釈迦如来。貞和年間(一三四五―五〇)宇都宮頼房が創建、蔵山融沢が開基という(豊州志)。「豊国紀行」には「本庄村に天徳寺とて曹洞宗の寺あり。豊後泉福寺の末寺なり。是城井氏が菩提所なりと云。(中略)天徳寺の南高き所に城井が宅の跡有り。


天徳寺
てんとくじ

[現在地名]松山市御幸一丁目

山越やまごえの通称寺町てらまちにある名刹。江西山と号し、臨済宗妙心寺派。本尊釈迦牟尼仏。寺伝によると、後村上天皇の命により、大定聖応が道後どうご多幸山たこうやまに創建したという。また伊予の豪族河野通宣(刑部大輔)が堂宇を建立して、同氏の菩提寺とし、ここに隠退した(伊予二名集)といい、いまも通宣の画像を所蔵する。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「天徳寺」の意味・わかりやすい解説

天徳寺
てんとくじ

秋田市泉字三嶽根(みたけね)にある曹洞(そうとう)宗の寺。万固(ばんこ)山と号する。本尊は聖観音菩薩(しょうかんのんぼさつ)。寛正(かんしょう)年中(1460~66)太田城主佐竹右京大夫義人が夫人の追善供養(くよう)のため、独童を開山として常陸(ひたち)国太田(茨城県常陸太田市)に開創。1602年(慶長7)佐竹義宣(よしのぶ)が常陸より秋田に移封されたとき、天徳寺を楢山(ならやま)村(金照寺山)に移建し、佐竹家の菩提(ぼだい)寺とした。しかし1624年(寛永1)に炎上、翌年現在地に移建。総門・山門は1625年の移建時のものである。寺宝に十六羅漢像16幅、秋田藩佐竹氏主累代の肖像画12幅(いずれも県有形文化財)などがある。

[菅沼 晃]

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防府市歴史用語集 「天徳寺」の解説

天徳寺

 下右田にあるお寺で、鎌倉幕府ができた時に、全国に1つずつ、国が栄え、幕府が無事であるようにと祈って造らせたと言われています。また、今も残るイチョウの木はこの時に植えられたものだと言われています。当初は総受寺[そうじゅじ]と言いましたが、右田毛利[みぎたもうり]氏によって天徳寺に名前が変わっています。しかし、1870年の脱退騒動[だったいそうどう]によって焼けてしまいました。

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事典・日本の観光資源 「天徳寺」の解説

天徳寺(第20番)

(東京都港区)
昭和新撰江戸三十三札所」指定の観光名所。

出典 日外アソシエーツ「事典・日本の観光資源」事典・日本の観光資源について 情報

デジタル大辞泉プラス 「天徳寺」の解説

天徳寺

秋田県秋田市にある寺院。曹洞宗。秋田藩主・佐竹氏の菩提寺。佐竹家霊屋(たまや)、本堂などは国の重要文化財に指定。

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