法然寺(読み)ほうねんじ

精選版 日本国語大辞典 「法然寺」の意味・読み・例文・類語

ほうねん‐じホフネン‥【法然寺】

  1. 香川県高松市仏生山町にある浄土宗の寺。山号は仏生山。来迎院と号する。建永二年(一二〇七)配流された法然が滞在した小松荘の生福寺を前身とする。寛文八年(一六六八松平頼重建立同家菩提所

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日本歴史地名大系 「法然寺」の解説

法然寺
ほうねんじ

[現在地名]高松市仏生山町

浄土宗に属し、仏生山来迎院と号する。本尊阿弥陀如来。寛文一〇年(一六七〇)山の東側に高松藩松平家の菩提寺として建立された。雄山が山号の仏生ぶつしよう山にあたり、山頂には松平家代々の墓がある。建永二年(一二〇七)讃岐に流された法然が那珂なか小松こまつ庄に生福しようふく(跡地は現仲多度郡満濃町)を建立したが、天正年間(一五七三―九二)戦乱のために荒廃していたのを、初代藩主松平頼重が当地に移して法然寺とした。


法然寺
ほうねんじ

[現在地名]爾志郡乙部町字元町

ひめ(乙部川)河口の南、もと津花つばな(津鼻)と称された日本海を望む一角にある浄土宗寺院。山号清法山、本尊阿弥陀如来。昭和二年(一九二七)当地にあった西念さいねん寺が大蓮だいれん寺と合併して法然寺となる。

〔西念寺〕

「福山秘府」に正行しようぎよう(現松前町)末、浄方山西念寺とみえ、寛文一二年(一六七二)建立。一説には万治三年(一六六〇)建立ともいわれる。宝暦一一年(一七六一)の「御巡見使応答申合書」には万治三年頃から存在したとある。「寺院沿革誌」は正行寺末、創建年未詳とするが、古老の伝えでは慶長五年(一六〇〇)浄生が乙部村字津花を開墾して草堂を結んだという。


法然寺
ほうねんじ

[現在地名]右京区嵯峨天龍寺立石町

浄土宗。熊谷山と号し、本尊阿弥陀如来。昭和三九年(一九六四)京都市下京区中之なかの町から移転。寺伝によれば、建久三年(一一九二)の所領相論で敗れて出家し、蓮生房と称した熊谷直実が、同八年法然を開基としてにしき小路烏丸からすま(現京都市中京区)の地に一堂を建立したのに始まるという。正安年中(一二九九―一三〇二)には、阿弥陀仏に帰依して病気が平癒した深草天皇より「極楽殿」の勅額が下された(山州名跡志)。応仁の乱に類焼したが、足利義政により再建された。天正一九年(一五九一)豊臣秀吉の命で中之町に移転。


法然寺
ほうねんじ

[現在地名]久万町久万町 水口

万徳山口称くしよう院と号し、浄土宗知恩院派。本尊阿弥陀如来。寺伝によると建永二年(一二〇七)宗祖法然は土佐に配流されたが、やがて許され帰洛の途中久万町くままち村に留錫し念仏を布教したという。「予陽郡郷俚諺集」に「大除城主大野直(昌)菩提所也」、「伊予温故録」に「慶長年中加藤嘉明の家老佃十成創建す」とあるが(→入野村、当初の寺は現在地水口みずぐちより東の町なか(古寺ふるでらの地名残る)にあって焼失し、天和二年(一六八二)の春、山之内仰西(山田屋彦左衛門)らによってこの地に再建された(五代山田屋彦左衛門覚書)という。


法然寺
ほうねんじ

[現在地名]金沢市菊川二丁目

影向山と号し、浄土宗西山禅林寺派。本尊阿弥陀如来。貞享二年寺社由緒書上によると開基は屋誉貞雲で慶長八年(一六〇三)の創立。寺地は地子地で百姓ひやくしよう町にあったが享保一五年(一七三〇)現在地に移転。「金沢古蹟志」は寺記によるとして次のように記す。廓蓮社億誉貞運が慶長八年に創立、その後秀誉が住職の時、卯辰心蓮社住職との間で法要勤修の際の席次争いがあり、承応三年(一六五四)秀誉は辞職。


法然寺
ほうねんじ

[現在地名]常陸太田市東三町

市街地の中心部高台の東側に突出た崖の上にある。浄土宗系の単立寺院で、円覚山称名院と号する。本尊は阿弥陀如来。

寺伝によると、延元元年(一三三六)蓮勝房永慶が佐竹義篤の外護を受けて開創。永慶は佐竹義繁の五子で、元応二年(一三二〇)鎌倉佐介谷光明こうみよう寺の寂恵良暁に入門し、本宗六代の法灯を継いだ。のち佐竹・小田両家の合戦で寺は倒壊し無住となり、天文年中(一五三二―五五)田中越中守重氏が再建、常福じようふく寺一二世朱梅を請じ中興開山とした。


法然寺
ほうねんじ

[現在地名]海南市沖野々

沖野々おきののの南東部、貴志きし川を望む河岸段丘上にある。月光山勢至院と号し、浄土宗。本尊阿弥陀如来。「続風土記」は寛文記を引いて「永正元年の頃野上ノ荘中村に中殿といへる公文職の人あり、荘中の者と共に浄土宗を信仰す、因りて己の所持の地を寄捨し、邑人と共に一寺を創建し、これを法然寺といひ専蓮社永誉を以て開基とす」と記す。


法然寺
ほうねんじ

[現在地名]北条市北条 浜ノ内

本弘山と号し、浄土宗。本尊阿弥陀如来。

明治一一年(一八七八)の「伊予国風早郡地誌」に、山越やまごえ(現松山市)の長建寺末派、境内東西二三間二尺、南北二六間五尺四寸、面積六二五坪とみえる。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「法然寺」の意味・わかりやすい解説

法然寺
ほうねんじ

香川県高松市仏生山(ぶっしょうざん)町にある浄土宗の寺。仏生山来迎院(らいごういん)と号する。本尊は阿弥陀如来(あみだにょらい)。1207年(承元1)開創。法然上人(しょうにん)(源空)が念仏停止(ねんぶつちょうじ)により讃岐(さぬき)国小松荘(しょう)(香川県仲多度(なかたど)郡まんのう町)に流され、自刻の阿弥陀如来像を安置して生福寺を創建したのを起源とする。のち1668年(寛文8)高松藩主松平頼重が現在の地に寺基を移し、3年の年月をかけて伽藍(がらん)を造営し、寺号を法然寺と改め、松平歴代の菩提寺(ぼだいじ)および祈願所とした。江戸時代の寺領は300石。本堂は1907年(明治40)再建のもの。三仏堂は涅槃堂(ねはんどう)ともいい、寝釈迦(ねしゃか)を中心に、釈迦の死を悲しむ者たちの木彫があり、京都の清凉寺(せいりょうじ)の釈迦像(嵯峨(さが)の立釈迦)に対して讃岐の寝釈迦として知られている。旧暦2月14、15日に涅槃会(え)が行われる。寺宝は絹本着色十王像、紙本着色観音功徳図(かんのんくどくず)(ともに国重文)など数多い。

[清水 乞]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「法然寺」の意味・わかりやすい解説

法然寺
ほうねんじ

香川県高松市仏生山町にある浄土宗の寺。山号は仏生山来迎院。もと法然上人配流の地に生福寺を建立したが,のち寛文8 (1668) 年高松藩主松平頼重が当地に移して菩提寺として,寺号を法然寺とした。準本山。

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