綿糸を経(たて)および緯(よこ)糸に使用した織物の総称。棉織物とも書く。木綿織物,綿布とも呼び,白生地のほか,先染(さきぞめ)の縞・格子・絣(かすり)・紋織物,後染(あとぞめ)の絞(しぼり)・型染・木綿友禅・更紗など各種の染織素材となる。
綿糸は植物繊維の一つで,アオイ科の植物に属するゴシピウムGossypium綿属の種子を被包する白色繊維質の柔毛から得られる。植物の草皮や樹皮,葉皮から得られる繊維が比較的長繊維であるのに対し,綿は短繊維で,その紡績や製糸の方法は羊毛にきわめて類似する。特色は保温,耐久性,吸湿性において絹や麻にまさり,また他の植物繊維に比べて染料の吸着度が高く,絹につぐ染色の優位性が挙げられる。今日の化学繊維と比較しても吸湿性が抜群で,しかも静電気のおきない最も安全度の高い繊維との評価を得ている。そのため日常の衣類,下着,家具,台所用品などのほか,海難救助隊のライフ・ジャケットや宇宙服など特殊な目的をもつ衣料にも活用されている。
綿の種類はおよそ37種あり,このうち4種が衣料繊維に利用される。すなわち一般にアジアメンと称されるヘルバケウム種G.herbaceumとアルボレウム種G.arboreum,新大陸産のヒルスツム種G.hirsutumとバルバデンセ種G.barbadenseである。アジアメンは概して繊維が太く短いのを特徴とするが,新大陸産のものからは品種改良によりアプランドメンや,長繊維のカイトウメン(海島綿)がつくられている。この4種のうち古くインドから東方へ広がり,東南アジア,中国,朝鮮を経て日本に伝えられたのはアルボレウム種であるとされる。その伝播の時期は,中国南部や温暖な辺境地域へは紀元前後に伝わるが,長江(揚子江)流域一帯に広がるのは13世紀末の宋末から元初期,朝鮮へは高麗末期の1360年代に伝わり,日本ではさらに遅れて15世紀末から16世紀の初めに綿の栽培が行われるようになる。
→ワタ
インダス川流域のモヘンジョ・ダロからは前2500-前1500年と推定される木綿布の断片が発見されており,南アメリカのペルーのワカ・プリエタ遺跡においても,ほぼ同時代の木綿のレースが見いだされている。このように綿は,インドにおいても南アメリカにおいても非常に古くから利用されてきた。しかし綿糸を利用することと,これを素材としていかに美しく多様な織物を発達させるかということは異なる問題である。その意味でインドは綿織物の古さにおいても,多様さにおいても,他の国の追随を許さないすぐれたものを創造してきた。それらは多彩な更紗をはじめ,女性の指輪のなかを自由に通り抜けるほど薄く織り上げられたダッカのモスリンや,各種の縞や紋織物である。これらのうちのあるものは,紀元前にはエジプトへ,紀元後まもなくのころに西はローマへ,東は中国へと輸出されてきた。さらに各国の海外交渉が活発化した16世紀以降にはヨーロッパや日本へ輸出され,大きな影響を及ぼしている。
日本に本格的に木綿が伝えられたのは室町時代のことである。それ以前,古く奈良時代にも木綿が舶載されていたことは,正倉院に伝わる2,3の木綿の断片によって知られ,また平安時代初期の799年(延暦18)には崑崙人が三河に漂着して,その種子を伝えたと《日本後紀》に見える。しかしその種子はほどなく絶えたものらしく,平安期を通じて木綿の資料は残っていない。下って鎌倉時代になると黄緞(おうどん)(木綿と絹の交織)など渡来裂としての綿織物が若干認められる。室町時代に入ると,しだいに活発化した商船の往来によって各国の木綿が輸入されるようになる。最も早くは朝鮮からもたらされたもので,その交易の契機となったのは,倭寇に捕らえられた朝鮮人を送還するに際しての回贈品としてであった。交易が軌道にのると,特に朝鮮国内で正布(麻布)に替わって綿布が主として貨幣の役割を果たすようになった李朝第4代世宗(在位1418-50)の時代には,日本との貿易品としても木綿が最も多くなり,その現象は日本の要求もあって成宗(在位1469-94)の時代まで続いている。しかし天文年間(1532-55)の半ば以降に中国の華南地方から唐(から)木綿が輸入されるようになると,唐木綿の人気が高まり,これが朝鮮木綿をしだいに圧していった。僧侶や公家の日記に〈唐木綿〉の名が贈答品として散見されるのもこのころからである。また中国から舶載された綿織物には一般の需要に供される白木綿のほか,黄緞,間道(かんどう),綿錦なども含まれていた。近世初頭16~17世紀にはイギリスやオランダ船によってインド,東南アジアの綿布が各種もたらされ,日本近世の模様染や縞織などの発達を促した。
一方,室町から桃山時代を経る間に,日本における綿生産は急速に発達した。木綿が舶載され始めてわずか200年後の慶長年間(1596-1615)には,イギリスの商館員ウィリアム・アダムズが〈当国には木綿多きがゆえに金巾およびカンバイヤ織物の需要なし〉〈キャラコおよびその他の此種の商品は此国に棉や棉製品の産額多きをもって甚だ廉価なり〉と記している(《慶元イギリス書翰》)。こうして江戸時代以降には完全に従来の麻を圧して,庶民の衣料として定着するようになる。栽培地も温暖な九州地方から三河,伊勢,大和,河内などに広がり(〈ワタ〉の項の別欄[近世日本の綿作]を参照),特に伊勢,大和,河内で主産される晒(さらし)木綿は良質であるとして,京都や江戸にゆきわたった。また糸染や模様染を施した各種の綿織物も生産されるようになり,なかでも久留米や伊予の絣,小倉の袴(はかま)地や縮緬(ちりめん),有松や鳴海の木綿絞,江戸の中型(ちゆうがた)染などは著名である。また,各地方の民家でつくられる自家用品にも縞,格子,絣などさまざまに意匠をこらしたものが製作され,その用途も多岐にわたった。なお日本における綿織物の工業的生産については,〈綿織物業〉の項を参照されたい。
執筆者:小笠原 小枝
綿布は後漢のころから中国にも知られ,南北朝時代にかけて種々の名称で文献に見えるが,すべて外国の産物であった。中国内地における綿花栽培は,唐代に東南アジアから華南地方に伝えられて始まった。広西から広東,福建へとひろまり,元初には長江下流域にも及んだ。同じく元初には中央アジアから陝西地方にも伝えられた。元・明両王朝の奨励によって,明代には綿花栽培と綿布生産はほぼ全国に普及し,明初においてすでに北辺の軍士に対して毎年百数十万疋の綿布を支給するなど,綿布生産がかなりの量に達していたことが知られる。この支給綿布は,華北各省の綿花栽培農家が自給生産したものを,租税の代納品として徴収したものであった。他方華南では,伝来が古くて紡織技術も進んでいたけれども,綿花の産量が少ないため綿布生産も少なく,やはり商品化はあまり進んでいなかった。このように事情の異なる南北の境界に当たる長江下流の松江府を中心として,商品生産としての綿織物が明代に発展した。
松江では元代に海南島から進んだ紡織技術が伝えられ,ある程度の商品生産が行われていたが,明代になって重税・重租に苦しむ零細農家の副業としての綿織物が急速に普及した。それとともに原料綿が不足し,華北各地から大量の綿花を移入するようになった。その結果,松江で生産された綿布は全国に売られるようになり,華北の綿作農家も綿布の自給をやめて,松江綿布を購入するようになった。なお松江地方における綿織物業普及の過程では,1433年(宣徳8)の銀および綿布による一部租税代納の公認をはじめ,租税銀納の進展が綿布の商品化を促進したと思われる。
松江地方における綿織物生産は,分業化して綿花から種子を取り除く軋核(あつかく),糸を紡ぐ紡績および織布の3工程が,それぞれ独立に営まれており,その主要な担い手が零細農家であったため,小資本を短期間に回転する必要があった。そのため商業資本が各工程間に介在し,強い支配力をもっていた。ただし織布工程については,松江,上海などの都市に専業の機戸があり,数台まれに十数台の織機を置いて男子を含む労働者を雇用し,主として高級綿布を生産していた。また綿布の加工については染色は染坊,踹布(たんぷ)すなわちつや出しには踹坊とよばれる作業場があり,前者は蕪湖,後者は蘇州などの都市がその中心地であった。
松江綿布の支配的地位は,明末に北直隷粛寧県(河北省河間県)や山東の定陶県(荷沢県)などにも綿織物業が起こり,市場関係にいくらか変動があったものの清代後期まで継続し,18世紀には南京木綿の名で欧米にも知られるようになった。しかしこのころから綿布産地は湖北,広東,福建などにも広がり,土布(どふ)と称されたが,インド綿花を輸入して原料とし,アヘン戦争後も輸入綿布に対抗して存続した。しかし19世紀の末以後,近代的紡績業の発達を基盤とした輸入綿布や,日本の在華紡など内外の資本による国内紡績業の発展に押されて,急速に衰退した。
執筆者:岩見 宏
インドでは綿織物は紀元前すでに織られていた。インド綿布はペルシア,アラビア,東南アジアなど各地に運ばれ,15世紀末のインド航路発見以後はヨーロッパにまで広がった。薄地の繊細で美しい綿布は,17世紀末から18世紀にかけてヨーロッパに衣料革命ともいうべき変化をもたらした。ベンガル,コロマンデル海岸,グジャラート,マラバル海岸などで織られたキャラコやモスリンは,18世紀には東インド会社がイギリスに輸入した品目中最も重要な位置を占めた。イギリスは伝統産業である毛織物業を保護するため,実効はあがらなかったものの,18世紀初頭までにインド綿布の輸入,使用を制限,禁止する法律(キャラコ禁止法)を制定せざるをえなかった。しかし産業革命期のイギリス工場制綿業は,ランカシャー綿布を登場させ,1820年ころインドへの逆流現象を生ぜしめた。以後,急激に増大した綿布流入によって,19世紀後半インドの在来綿業は広範な解体と再編をせまられた。鉄道建設などによる交通革命,イギリス綿業を優遇する関税政策がこの解体過程を促進した。都市手工業であるダッカ綿業の衰退は顕著な例であった。
インド綿業の再編については,工場制綿業は,1854年C.N.ダーバル(パルシー教徒)のボンベイ紡績会社創立によって開始された。60年までに数個の工場が主にパルシー教徒の商業資本家によりボンベイに創立され,アフマダーバード,ショーラープル,カーンプル,カルカッタ,マドラスなどにも工場が建てられた。工場制綿業はインドにおける民族資本生成の始点をなした。しかしイギリス綿業との競争により,20世紀の初頭まで工場制綿業は20番手以下の太糸紡績が中心であり,中国市場に大きく依存していた。手織業は,30番手以上の細手の輸入糸を用い,薄地で高級なサリー,ドーティなどの生産と20番手以下太手の国産糸を用いた厚地綿布生産へと再編されていった。1910年ころ中国への綿糸輸出が激減し,工場制綿業は国内市場ならびに紡織に転換した。1905年に始まったスワデーシー運動はイギリス製品のボイコットを行い,工場制綿布の生産を促した。第1次大戦後には30番手以上の細糸(競争番手)生産が増加し,イギリス綿糸布の輸入代替が進行するとともに,M.K.ガンディーが奨励したチャルカー(手紡車)とカーディー(厚地手織綿布)はインド民族運動の象徴ともなった。この期にはまた工場制綿布の生産高が手織綿布の生産高を上まわり,両者の合計が輸入綿布量を越えた。
独立後一時期,インドは世界有数の工場制綿布輸出国となったが,農村の雇用創出の目的で手織業に政策の力点がおかれ,工場制綿業は設備の老朽化,労働争議等の問題に直面し,輸出高は減少するに至った。工場制綿布が全生産高に占める割合は低下傾向にある。
執筆者:河合 明宣
産業革命以前には,インド,中国,トルコ,ブラジルなどの綿花生産国が綿織物の主要な生産国であって,綿花を生産しない西ヨーロッパ諸国は,オランダやイギリスの東インド会社を通じて多量のインド綿布を輸入していた。インド産の色鮮やかに捺染されたキャラコはしだいに毛織物市場を侵食して,18世紀の西ヨーロッパにファッション革命をもたらした。キャラコの進出に刺激されて,イギリスでもランカシャー地方を中心に,ファスティアンと呼ばれる,経糸に麻糸,緯糸に綿糸を用いた交織織物の家内工業が興ったが,流行の波に乗って急増する需要を満たすことはできなかった。ところが18世紀後期に,イギリスでは紡績機や力織機の開発,水力に続く蒸気力の導入によって,綿工業は農村の家内工業から工場制工業に変わり,産業革命を代表する産業となった。生産性の向上によって生産コストは大幅に低下して,イギリス綿製品は本場のインド市場へも大量に輸出されるようになった。
イギリスで開発された近代的な綿工業技術は,法令による制限措置にもかかわらず,機械の流出や移民を通じてヨーロッパ大陸やアメリカへ移植され,関税その他による政府の保護政策とあいまって,大陸ではナポレオン戦争後,アメリカでは第2次英米戦争後,急速に普及した。このような新技術の波及過程については,〈アメリカ綿工業の父〉と呼ばれたS.スレーターの話が有名である。彼は紡績機の構造に明るいイギリスの機械工であったが,アメリカに渡って,記憶をもとに1790年アメリカで最初のアークライト型綿工場を建設して,ニューイングランドにおける近代綿工業の発展に貢献した。繊維工業は近代工業の中でも発展途上国が模倣しやすい分野であったから,19世紀後期になるとインド,日本その他の国々でも工場生産が興ってきた。古い綿業国インドでは,ランカシャー製品の流入によって大打撃をうけたが,1854年ボンベイにイギリス製の機械をすえた近代工場が設立され,南北戦争中はアメリカにかわる原綿供給地となり,原綿の輸出によって獲得した豊かな資金に助けられて成長した。
ランカシャーの綿織物輸出は1882-84年には世界の82%を占めた。その後も輸出量は伸び続けてピーク時の1913年には70億ヤードに達したが,相対的な地位の低下は免れなかった。第1次大戦中,供給の中断によって多くの国々が自給度を高めたことや合成繊維の進出によって,綿織物の国際貿易はその後しだいに縮小した。ことに日本綿業の進出と保護関税によって,最大市場のインドで後退を迫られたことは,ランカシャーにとって決定的な打撃となったのである。
執筆者:荒井 政治
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綿糸を原料とした織物の総称で、綿布ともいう。生地(きじ)綿織物は生地糸で織ったままのもので、精練、漂白などの処理を施してない綿布である。黄褐色を呈し、小さく砕かれた綿実の殻などが付着した粗布(そふ)、細布(さいふ)、天竺(てんじく)など。加工綿織物には晒(さらし)綿布と色綿布がある。漂白するにはさらし粉が多く使われ、綿花に含まれている天然色素を抜き去り純白にする。色綿布は先染(さきぞ)め、後(あと)染め、捺染(なっせん)に分かれる。先染織物は織る前に糸染めされたもので、経緯(たてよこ)糸の一部または全部を染色した綿糸で織ったものである。経縞(たてじま)・緯(よこ)縞織物はだいたいにおいて先染めであり、絣(かすり)織物も先染織物である。一方、後染織物とは布の状態で染浴に浸して一色に染めたものであるから、無地織物ともいう。最後の捺染織物は模様を染め付けたプリントもので、外着用にはもっともよく用いられる。
また織物幅により小幅、広幅織物に分類される。わが国の和服用綿布は、一般に36センチメートル(鯨尺九寸五分)を標準として、着尺(きじゃく)物(小幅物)という。これに対して、シャツ地、洋服地などは、ヨーロッパ式の織物幅(広幅物)であり、通常、着尺の2~3倍(約76~114センチメートル)である。
[並木 覚]
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…紅茶がイギリス人の国民的飲料になったといいながら,茶も砂糖もイギリス本国には産しない。同じことは,綿織物についてもいえる。イギリスを世界一の強国に押し上げたのは産業革命であったが,その産業革命をリードした綿工業は,17世紀後半以来,東インド会社の最大の輸入品であったインド産綿布の国産化を狙った産業だったのである。…
…別糸で輪奈(わな)を作ったり,製織後その別糸の表面にナイフを入れてけばだたせたタオルやべっちん,ビロードなどがこれである。 織物は以上のように,基本的には組織の変化によって分類されるが,使用される糸の種類によって絹織物,綿織物,麻織物,毛織物,化合繊維織物などという。また製法,加工などによって生(き)織物,練(ねり)織物,縞織物,絣織物,あるいは紋織物などとすることもできる。…
※「綿織物」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
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