長興寺(読み)ちようこうじ

日本歴史地名大系 「長興寺」の解説

長興寺
ちようこうじ

[現在地名]いわき市好間町下好間 大舘

磐城平いわきたいら城の西、寺町である大舘おおだてにある。正式には長興禅寺と称し龍峰山と号し、臨済宗妙心寺派。本尊釈迦牟尼。明治一二年(一八七九)の火災によりすべての記録を焼失、わずかに残った同二年の奥州磐前郡平大舘長興寺本末由緒記によれば、開基不詳、開山痴鈍空性、建治元年(一二七五)の創建とある。宝暦一一年(一七六一)成立の「磐城枕友」は「御朱印地十石也、石階を登りて山上に寺あり方丈の側に十王堂あり、此寺は大覚禅師の高弟痴鈍和尚の開基にて茲者五百年に及へり、当時十七世の法灯を挑け、磐城四箇寺の随一なり一宗に一寺の長あり、臨済派には長興寺、曹洞派にて長源寺、真言宗にて薬王寺村の薬王寺、浄土にて山崎村の専称寺是なり」とある。

長興寺
ちようこうじ

[現在地名]九戸村長興寺 長興寺

国道三四〇号に面して山門があり、脇の大公孫樹は九戸政実の手植えと伝える。曹洞宗で、鳳朝山と号する。本尊聖観音。「南部根元記」などには長光寺・長久寺と誤記されることも多い。当地はもと九戸村と称したが、当寺が隆盛をみるに伴い、長興寺村に変わったという。寺伝では永正年間(一五〇四―二一)加賀金沢の宗徳寺恵善が奥州巡錫の途次、九戸信仲の請いにより同氏の菩提寺として創建したと伝える。末寺に陸奥鹿角かづの花輪はなわ(現秋田県鹿角市)長年ちようねん寺ほかがあったというが、近世には隣接する江刺家えさしか村の長徳ちようとく寺と伊保内いぼない村の円通えんつう(寺)のみ。天正一九年(一五九一)の九戸政実の乱に際して、当寺の察伝(薩天)が九戸城(現二戸市)に籠城した九戸方を説得して降伏に導いたと伝える(九戸軍談記)

長興寺
ちようこうじ

[現在地名]矢板市館ノ川 門前

川崎かわさき城跡の西にある。塩谷山天竜院と号し、曹洞宗。本尊は釈迦如来。縁起によれば、宇都宮業綱次男の塩谷朝業が正治―建仁年間(一一九九―一二〇四)塩谷川崎城を築城した頃に一宇を開創、朝業の法名長興信生にちなんで寺号としたという。承久二年(一二二〇)に出家した朝業はその著「信生法師集(宇都宮朝業日記)にみるように、浄土宗を深く信仰していた。寺伝では、正和(一三一二―一七)頃、塩谷秋綱が開基となり寺基を確立、寺領三〇〇石を寄進して塩谷氏の菩提寺としたという。長享年間(一四八七―八九)上野国碓氷うすい後閑ごかん(現群馬県安中市)長源ちようげん寺の要山玄的が入寺、曹洞宗に改宗し中興開山一世となり、時の年号から長享ちようきよう寺と改めた。

長興寺
ちようこうじ

[現在地名]榛原町中

勝間田かつまた川の左岸、建盞谷けんさがやにある。乾徳山と号し、曹洞宗。本尊は釈迦如来。宝徳元年(一四四九)の開創と伝え、大珍永を開山とする。開基は勝田(勝間田)十郎政次。天正一七年(一五八九)二月吉日の榛原郡勝間田中村長興寺領御縄水帳写(長興寺文書)によると寺領は二町四反半、山門内は一千四五二坪。慶長五年(一六〇〇)山内一豊から寺領三五石が寄進された(榛原郡誌)。翌六年安藤忠次からこの寺領を安堵され(同年一〇月二日「安藤忠次手形写」長興寺文書)伊奈忠次からも三五石の当所務を渡されている(年未詳一一月二九日「伊奈忠次書状」同文書)。年月日未詳の茶阿消息(同文書)にみえる「けんさがや」は当寺のことで、茶阿局(徳川家康側室)は当寺や能満のうまん(現吉田町)の寺領に対し朱印下付の斡旋を依頼している。

長興寺
ちようこうじ

[現在地名]田原町大久保 岩下

大久保おおくぼ北端の山麓に、杉・檜の大樹に覆われる。雲竜山と号し、曹洞宗。境内二四五六・九坪の内に四周回廊をめぐらせた本殿に本尊釈迦牟尼如来を祀る。建治二年(一二七六)に後宇多天皇の祈願所として創建され、初めは大覚だいかく寺と称し天台宗であったが、のちに加治かじ恩中おんちゆうに移り臨済宗となった。応仁の乱当時廃滅しかけたが、文明一三年(一四八一)に春崗が住山して曹洞宗に改宗し、田原城主戸田宗光が寺領を寄進して再興した。「田原記」(愛知教育大学蔵)に「長興寺ハ昔加治村恩中ニ有之済家宗ニテ、戸田全久公一色七郎様ノ御菩提ニ宝童寺ノ塔ヲ引、寺ヲ大久保ニ移、門前五十貫目ヲ寄進並加治村清友名ヲ買付」とある。

長興寺
ちようこうじ

[現在地名]豊田市長興寺

集積山と号す。臨済宗東福寺派、本尊十一面観音。寺伝によると、建武二年(一三三五)挙母城主中条秀長によって開創され、東福寺開山法系の大陽義冲を請じて開山としたという。永禄一〇年(一五六七)信長によって焼かれたが、後に家臣余語正勝の手で再興され、信長の画像も寄贈された。元禄一〇年(一六九七)再び火災で多くの古文書を焼失したという。天文二三年(一五五四)の今川義元所領安堵状(長興寺蔵)に、

<資料は省略されています>

とあり、三三貫五〇〇文余の銭と米八石六斗八升の土地・山林などを寺領として安堵し、門前の在家三〇軒も旧来どおり棟別諸役を免除するとある。

長興寺
ちようこうじ

[現在地名]長岡市稽古町

稽古けいこ町の北西の角にある。曹洞宗、普巌山と号し、本尊釈迦牟尼仏。元和四年(一六一八)牧野忠成が長岡入封の際、上野国大胡おおご(現群馬県勢多郡大胡町)の曹洞宗長興寺開山天室恵鏡が随従して来て当寺を開いた。牧野家累代の帰依厚く、栄凉えいりよう寺・本妙ほんみよう寺とともに家老格の待遇を受けた。

長興寺
ちようこうじ

[現在地名]塩尻市大字洗馬 上組

曹洞宗。青松山と号す。本尊は釈迦如来。大永七年(一五二七)洗馬せば郷の地頭三村忠親の開基、越前国心月寺の高僧才応綜芸禅師を招いて開山とした。

三村氏は寺領三〇貫文を寄進、以後、武田氏及び歴代松本城主はこれを踏襲し、元和四年(一六一八)高遠領になり、保科氏・鳥居氏もまた前領主どおり寺領を寄進したが、慶安二年(一六四九)将軍徳川家光より寺領一五石の朱印状を受け、以後、代替りごとに朱印状を交付された。

長興寺
ちようこうじ

[現在地名]大館市十二所 下町

米代川南岸に位置し、十二所じゆうにしよ町西端部にある。曹洞宗で塩谷山と号し、本尊は釈迦如来。十二所の代官であった塩谷氏の菩提寺で、「郷村史略」に「塩谷氏牌所」とある。寛永六年(一六二九)に塩谷義綱が下野国塩谷しおや川崎かわさき(現栃木県矢板市)から移したという(大館市史)

長興寺
ちようこうじ

[現在地名]千代田村中志筑

曹洞宗、鳳林山瑞雲院と号し、本尊は釈迦牟尼仏。慶長七年(一六〇二)本堂氏移封時に出羽から移転と伝え、開基は竜山。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

デジタル大辞泉プラス 「長興寺」の解説

長興寺

愛知県豊田市にある寺院。臨済宗東福寺派。山号は集積山。本尊は十一面観音。1335年の開創と伝わる。狩野元秀作といわれる織田信長肖像画を保有(重文)。

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