デジタル大辞泉
「福岡市」の意味・読み・例文・類語
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福岡市
ふくおかし
面積:三四〇・〇三平方キロ
福岡県の北西部に位置する政令指定都市。中央区・博多区・東区・南区・城南区・早良区・西区の七区で構成され、博多区東公園に県庁が所在する。市域の北は博多湾を介して玄界灘に面し、離島の玄界島・小呂島(ともに西区)を含む。東は糟屋郡新宮町・久山町・粕屋町・志免町、南は大野城市・春日市・筑紫郡那珂川町・佐賀県神埼郡東脊振村・脊振村・三瀬村および同県佐賀郡富士町、西は前原市・糸島郡志摩町と接する。北東端に立花山(三六七・一メートル)、中央南部に油山(五九七メートル)、南に背振山(一〇五四・八メートル)・金山(九六七・二メートル)、西に高祖山(四一六・一メートル)などの山々がそびえる。島嶼部を除くと東西約二七・六キロ、南北約三一・九キロの地域からなる。海岸線は岩礁・砂洲・干潟など多様であるが、東流する対馬暖流の影響で各所に砂丘形成が著しい。那珂川町・佐賀県鳥栖市との境にある九千部山から北に延びる丘陵は春日丘陵を経て那珂・比恵の洪積台地に延びる。この台地の東側を御笠川、西側を那珂川が流れて博多湾に注ぐ。両河川の流域とも広く水田などが展開し、条里遺構もみられる。両河川の河口部には古代末以降発展する都市博多の市街地が形成される。油山から北に広がる低丘陵は樋井川水系の小河川に浸食されるが、沖積平野は狭く丘陵先端は博多湾に没する。博多湾に面する福崎丘陵上には古代に鴻臚館(現中央区)が置かれ、近世以降は福岡城と城下町が形成され、これが現在の福岡市街中心部となる。背振山・金山・高祖山の山麓に小規模な複合扇状地が形成され、集まった水流は室見川となり、北へ流れて博多湾に注ぐ。室見川流域も広く、水田には条里遺構がみられる。西部の西区今宿地区や糸島半島東部には大きな河川がなく、低丘陵と砂丘、後背地に干潟があり、近世には干拓が行われた。今日の福岡市は博多・福岡市街を中心に博多湾全体で港湾開発が進められ、発展を続けている。博多港や福岡空港は多くの国際線をもち、今も東アジアの窓口の様相を保っている。鉄道には山陽・九州の接続点であるJR博多駅があり、新幹線・鹿児島本線・篠栗線が接続している。また都市部を中心に天神大牟田線などの西日本鉄道や市営地下鉄が運行している。道路は九州自動車道と連絡する福岡都市高速道路が環状・放射状に走り、南北に国道三号、東西に国道二〇一号・二〇二号が走り、南の佐賀県方面へは国道二六三号・三八五号が通る。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
福岡〔市〕
ふくおか
福岡県北西部,博多湾に面する市。県庁所在地で,九州の政治,経済,文化の中心でもある。1889年市制。1954年日佐村,田隈村の 2村,1955年香椎町,多々良町,那珂町の 3町,1960年和白町,金武村,1961年周船寺村,元岡村,北崎村の 3村,1971年志賀町をそれぞれ編入。1972年政令指定都市となり,東区,西区,南区,博多区,中央区の 5区が誕生。さらに 1975年西区が早良町を編入したのち 1982年行政府が再編されて,城南区と早良区が発足し 7区となった。福岡平野に位置し,中心市街地のうち那珂川以東は博多と称し,遣隋使,遣唐使の発着地,大宰府の外港として古くから繁栄。那珂川以西は慶長6(1601)年黒田長政が福崎(→平和台)に築城,城下を福岡と命名。以後,福岡藩 52万石の城下町として発展した。明治4(1871)年廃藩置県により福岡県庁設置。1889年博多と福岡が合併し福岡市となったが,博多駅の駅名はそのままで今日にいたる。市の中心は天神地区であるが,新幹線開通に伴う新博多駅の周辺地区には事務管理機能をもつ高層ビルが多い。食品,印刷,電機,機械,金属の諸工業や出版業などが発達している。農村部では米作,野菜・果樹栽培,酪農,養鶏が行なわれる。また,漁港ではアジ,サバ,タチウオなどの水揚げが多い。伝統産業としては博多織,博多人形がよく知られる。香椎宮,筥崎宮,崇福寺,九州大学,元寇防塁跡,福岡(舞鶴)城跡,平和台総合運動場などの史跡,文化施設に富む。博多どんたくおよび国の重要無形民俗文化財で国際連合教育科学文化機関 UNESCOの世界無形遺産である博多祇園山笠は有名な祭り。山陽新幹線の終点で,九州自動車道が通り,福岡空港,博多港などがある。面積 343.46km2。人口 161万2392(2020)。
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福岡市
ふくおかのいち
中世、備前国福岡荘(しょう)にあった市。現在の岡山県瀬戸内市長船(おさふね)町福岡の地で、藤井(岡山市内)の東方7キロメートルほどの地点にあたるという。吉井川の河口に近く船の遡上(そじょう)も可能で、山陽道を控えて物資の集散地として栄えた。備前南部の農産物をはじめ備前刀(長船、福岡)、備前焼などが取引された。市のようすは『一遍上人絵伝(いっぺんしょうにんえでん)』(第4)福岡市の段に描かれ、次のような逸話が記されている。一遍が遊行(ゆぎょう)回国の途次、1276年(建治2)冬、備前国藤井で念仏を勧めていたおり、吉備津宮(きびつのみや)の神主の子息の妻が一遍の説法を聴聞して出家した。自発的な出家であったが、夫は大いに怒り、妻をたぶらかした一遍を殺そうと福岡市まで追跡し、大太刀(たち)を構えて一遍と対決する。しかし夫は逆に一遍の気迫にのまれて、やはり出家したというのである。
[広神 清]
『大橋俊雄著『時宗の成立と展開』(1973・吉川弘文館)』▽『今井雅晴著『時宗成立史の研究』(1981・吉川弘文館)』
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福岡市 (ふくおかのいち)
中世備前国福岡荘内に成立した市場。福岡荘は吉井川の河口に近く船の遡上が可能で,山陽道との交点に当たることから備前南部の物資集散の要衝となった。米,材木のほか,吉井,長船(おさふね),福岡の備前刀,香登(かがと),伊部(いんべ)の備前焼などの取引が行われ,その繁栄のようすは《一遍聖絵(いつぺんひじりえ)》や,今川了俊の《道ゆきぶり》にも描かれて,全国的にも著名な市であった。しかし,戦国末期に宇喜多直家が岡山城を築いたとき,その城下町に福岡市の商人を大量に移住させたこと,近世初頭の吉井川の大洪水で,潰滅的な打撃をうけたことが重なって衰亡した。往時の福岡市の中心地は,現在は吉井川の川原になっていると考えられる。
執筆者:石田 善人
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福岡市【ふくおかのいち】
備前国福岡荘の山陽道沿い,現岡山県瀬戸内市長船(おさふね)町に形成された中世の市。13世紀半ばには存在が確認される。1299年成立の《一遍上人絵伝》は,吉井川の河原に立ち並ぶ掘立小屋で,布・米・魚・鳥や備前焼の壺などを盛んに売買する様子を描く。南北朝期には街道有数の町場として発展したが,度重なる戦乱や吉井川の洪水で壊滅したといわれる。
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福岡市
ふくおかのいち
中世,備前国にあった市場。現在の岡山市東区一日市(ひといち)・瀬戸内市長船(おさふね)町。東西に山陽道が通り南北に吉井川が流れる水陸交通の要衝で,早くから市が開かれた。「一遍上人絵伝」には,この市で一遍一行が3人の武士と対峙する場面の周囲に,布・米・魚・備前壺などを売る掘立柱の店や吉井川をゆく小舟など,市のようすが詳細に描かれる。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報