愛知県瀬戸市を中心として焼造された陶磁器の総称。その起源は古代末期にさかのぼる。古代,中世の瀬戸窯は東西11km,南北10kmの範囲に白瓷(しらし)窯9基,施釉陶窯201基,無釉の白瓷系陶器窯238基の存在が知られている(瓷器(しき))。古瀬戸(こせと)の発生については,1223年(貞応2)道元に随って入宋し陶法を修めた加藤景正(藤四郎)が帰国後,42年(仁治3)に瀬戸で窯を興したとする藤四郎伝説が流布しているが,その根拠は不明である。考古学的には,猿投(さなげ)窯の外延として11世紀に始まった瀬戸市南部の白瓷生産が12世紀に入って衰退し,無釉の白瓷系陶器(山茶碗)生産に転化し,12世紀末ごろ菱野地区で四耳壺,瓶子(へいし)などの施釉陶器を焼き始めたのが狭義の古瀬戸の始まりである。古瀬戸の製品は中国陶磁をまねた飲食器,調理具,貯蔵容器類で,13世紀には灰釉のみであったが14世紀には鉄釉を加え,天目茶碗,茶入などの生産も始められた。この時代には四耳壺,瓶子,仏花器,香炉などの宗教用具の生産が顕著であるが,15世紀に入ると碗,皿,鉢などの日常生活用具と茶陶の生産が優勢となった。
16世紀に入ると窖窯(あながま)から高火度焼成の大窯に転換し,中国明代の青磁,白磁,染付磁器を模倣したが,16世紀中葉に戦国の乱を避けて陶工たちが美濃入りをしたため衰微し,窯業の中心は美濃に移った。安土桃山時代の雅陶である志野,黄瀬戸,瀬戸黒,織部はほとんど美濃の製品である。1615年(元和1)その指導者古田織部の死を契機として美濃窯業は主役の座から離れ,幕藩体制下には灰釉,鉄釉,御深井(おふけ)釉を主とした大衆向けの日常雑器の生産地になった。1610年(慶長15)初代尾張藩主徳川義直は加藤唐三郎,仁兵衛を美濃の郷ノ木(土岐市)から赤津へ,新右衛門を水上(みずかみ)(瑞浪市)から品野へ召還して窯業の振興策をとった。また寛永年間(1624-44),名古屋城内の御深井丸の北東にある瀬戸山に窯を築き,唐三郎らを招いて焼かせたのが御深井焼である。江戸時代の瀬戸窯業を特色づけるものは美濃同様,灰釉,鉄釉を施した大衆向けの日常食器類であった。尾張藩は産業政策として永代轆轤(ろくろ)一挺の制をたて,さらに享保年間(1716-36)には一家一人制を設けて統制を行ったが,江戸中期以降しだいに衰微に向かった。
瀬戸の磁祖と仰がれる加藤民吉(1772-1824)が1804年(文化1)肥前に赴いて磁器の技法を学び,07年新製染付焼を瀬戸で開始するに及んで,磁器生産が急速に瀬戸・美濃一帯にひろがり,藩の保護政策を得て盛況を取り戻した。以後,幕末までに川本塐仙堂,加藤五助らの良工の手で技術改良が加えられ,また加藤春岱(しゆんたい)(1802-77)らの名工も出た。すでに1858年(安政5)ころから瀬戸,美濃において舶来洋食器を試作,海外雄飛を企図し始めていたが,明治維新によって藩政の庇護を失った陶業者は困窮に陥り,混乱をみるにいたった。しかし1872年(明治5)のウィーン万国博への参加を契機に,政府の陶磁器産業の振興策が動き始めた。その生産の大半を占めたのは輸出用の上絵磁器であり,国際競争力の点から安い日常食器生産の伝統をもつ瀬戸,美濃を背景に,名古屋を中心として窯業の近代化が進められた。1902年松村八次郎による石炭窯の完成で硬質陶器が生まれ,1904年には日本陶器の倒炎式丸窯の完成,機械化による量産体制の確立によって,近代化に一時期を画した。以後,瀬戸,美濃,名古屋は有田,京都を凌駕して飛躍的発展を遂げ,今日の陶磁器生産の基礎ができあがった。
→美濃焼
執筆者:楢崎 彰一
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愛知県瀬戸市一帯で焼かれた陶磁器の総称。日本の陶磁史の骨格をつくるとともに、製陶業の隆盛に大きな役割を果たしてきた重要な窯である。作陶の展開は、大きく中世と近現代とに二分され、二つの峰を形成している。
中世の瀬戸焼は俗に古瀬戸(こせと)とよばれるもので、13世紀前半に開窯した。これは平安時代に現在の名古屋市、日進市、三好町、東郷町など広範な地域に築かれた猿投(さなげ)窯の系譜を引くものであるが、開窯は加藤四郎左衛門景正(かげまさ)とする陶祖伝説は、瀬戸古窯の考古学研究成果とおおむね時期的には一致している。鎌倉時代には猿投窯以来の築窯技術と施釉(せゆう)法を用いて施釉陶を焼く唯一の窯として発展し、とくに中国から輸入された宋(そう)・元代の青磁・白磁・黄釉陶を倣製(ほうせい)して一頭地を抜く存在であった。製品はおもに飲食器、貯蔵用器、宗教用具などであるが、14世紀初頭になると、これも中国から招来された喫茶の風習に従って人気を集めた茶具を写し、それまでの灰釉に加えて鉄呈色の黒褐釉もくふうされ、その作域は一挙に拡大した。この時期が中世瀬戸焼の最盛期で、製品のほとんどは東日本に流布したが、初めてその一部が海外へ運ばれたことは陶芸史上画期的なできごととなった。
さらに14世紀中ごろ、室町時代に入ると、釉(うわぐすり)は透明度も増して安定し、それまでの粘土紐(ひも)成形法に加えてろくろ成形が導入され、碗(わん)・皿・鉢などの日用雑器のほか数多くの茶具が焼かれたが、出土品・伝世品を含めて優作には恵まれない。室町後期にはそれまでの窖窯(あながま)にかわる大窯が登場し、中国明(みん)代の陶器を倣製したが、この新形式の窯はむしろ美濃(みの)焼を活性化させる結果を生み、本家の瀬戸焼は衰微して俗に瀬戸山離散とよばれる凋落(ちょうらく)をみたとされる。当時の兵火を逃れて陶工たちが美濃入りしたとする説もあるが、このころ灰釉(かいゆう)から黄瀬戸釉が、また飴(あめ)釉から茶褐色の古瀬戸釉が生まれ、唐物(からもの)茶入れを写した瀬戸茶入れも現れるなど、実際には茶壺(ちゃつぼ)や茶入れを中心にした伝統的製陶の権威が守られ、この状態が17世紀まで貫かれたとの見方もできる。
鎌倉・室町時代の古瀬戸の陶技が「本業」とよばれるのに対し、江戸後期(19世紀)を迎えて復活した磁器づくりを「新製」という。その間、江戸中期(18世紀)の瀬戸窯の低迷は覆うべくもなく、とくにみるべき活動の形跡がない。起死回生の一打となったのは、磁祖と尊崇される加藤民吉(1772―1824)が1804年(文化1)から07年まで、磁器の製法を九州肥前(ひぜん)の諸窯で学び、帰郷して新生染付磁器製法をもたらしたことである。加えて藩の保護を得た瀬戸焼は急速に蘇生(そせい)し、染付が瀬戸の主流となって川本治兵衛(じひょうえ)(仙堂(そせんどう))、加藤春岱(しゅんたい)(1802―77)らの名工を生んだ。以後、明治維新による藩の庇護(ひご)喪失の混乱を乗り切った瀬戸窯は、1872年(明治5)のウィーン万国博覧会への出品を機に海外市場を開拓し、石炭窯や倒炎式丸窯などを開発して機械化を図り、量産体制を確立して、いわゆる「せともの」の語源となるほど、名実ともに製陶業の中心地となって現在に至っている。現代作家では加藤唐九郎が著名である。
[矢部良明]
『楢崎彰一・林屋晴三他編『日本陶磁全集9 瀬戸・美濃』(1976・中央公論社)』▽『楢崎彰一著『日本の美術43 瀬戸・備前・珠洲』(1976・小学館)』
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愛知県瀬戸市産の陶磁器。瀬戸には平安時代に猿投(さなげ)窯があり,鎌倉時代に北条氏得宗領にくみこまれたとされる頃,施釉陶器窯として基礎が固められた。1223年(貞応2)道元について陶祖加藤景正が中国に入り陶業を学んだという伝説は,鎌倉時代に発展したことを反映する。輸入中国陶磁の白磁写しを行い,14世紀前半には青磁や黒褐釉陶を写した。室町時代には,茶入・茶壺に力作を残し,安土桃山~江戸初期まで唐物茶入の写しで声価を高めた。江戸中期は低迷したが,後期に加藤民吉が磁器の製法を肥前国伊万里で学び,再び日本を代表する窯場に成長して今日に至る。
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