共同通信ニュース用語解説 「マケドニア」の解説
マケドニア
バルカン半島内陸の山岳地帯に位置する人口約208万人の小国。旧ユーゴスラビアから91年に独立した。マケドニア正教徒が多数派。少数派の最大勢力はイスラム教徒のアルバニア系住民で、隣国アルバニアに近いマケドニア西部を中心に居住する。(テトボ共同)
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翻訳|Macedonia
バルカン半島内陸の山岳地帯に位置する人口約208万人の小国。旧ユーゴスラビアから91年に独立した。マケドニア正教徒が多数派。少数派の最大勢力はイスラム教徒のアルバニア系住民で、隣国アルバニアに近いマケドニア西部を中心に居住する。(テトボ共同)
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ギリシア、ブルガリア、北マケドニア共和国(旧、マケドニア共和国)の3国にまたがるバルカン半島中央部の地方名。Macedoniaは英語綴(つづ)りで、現代ギリシア語ではMakedonia、ブルガリア語ではMakedoniya、マケドニア語ではMakedonija。
マケドニアは1913年、第二次バルカン戦争終結後にギリシア、ブルガリア、旧ユーゴスラビアの3国に分割されたが、それ以降、それぞれの国に領有された領域をエーゲ・マケドニア、ピリン・マケドニア、バルダル・マケドニアと称することがある。マケドニアという名称は、地理的な概念として用いられる場合と、「古代マケドニア王国」や「北マケドニア共和国」などのように政治的単位として用いられる場合とがある。これら両者の示す範囲は、かならずしも一致せず、政治的単位を示す場合でも、「古代マケドニア王国」と現在の「北マケドニア共和国」とは、同じマケドニアという呼称を用いてはいても、民族的にも言語的にも異なり、明確に区別して考えるべきである。
[大庭千恵子]
なお、「マケドニア共和国」は2019年1月に憲法上の国名を「北マケドニア共和国」に変更した。
[編集部 2019年6月18日]
地理的な概念としてのマケドニアMacedonia(英語表記)は、現在のギリシア北部地域、北マケドニア共和国、ブルガリア西南部のペートリッチ地方をさす。その自然の境界はギリシア領内のテルマイコス湾(エーゲ海)に流れ込むアリアクモン川流域に沿って、北マケドニア共和国とアルバニアとの国境をなすオフリド湖やビストラ山脈、同共和国とセルビアとの国境でもあるシャール山脈を経て東に向かい、ブルガリア領内のロドピ山脈からネストス川流域に至る。なお、このような地理的概念としての「マケドニア」が一般に知られるようになったのは、19世紀にオスマン帝国からバルカン諸国が独立する過程で、セルビア、ギリシア、ブルガリアの3国がこの地域の領有をめぐって相争う事態を招いたことによる。
[大庭千恵子]
政治的単位としてのマケドニアは、「古代マケドニア王国」や、ビザンティン帝国の「マケドニア朝」があげられる。これらは通常ギリシア語で表記される。本来マケドニアという名称の語源は古代マケドニア王国よりも古く、アリアクモン川流域に居住した一民族「マケドン」に由来するといわれている。紀元前7世紀から前2世紀にかけて存在した「古代マケドニア王国」の版図は、「ヘレニズム」ということばを生んだアレクサンドロス大王の東方遠征期を最大として、上記の地理的範囲よりも大きく東方へと開けている。また、ビザンティン帝国マケドニア朝(867~1057)は、11世紀前半にマケドニア地方を支配し、最盛期の版図はバルカン半島から小アジアを中心に、南イタリアとシリアを含んでいた。マケドニア朝は14世紀に至るまで第二次ブルガリア帝国とこの地域の領有をめぐって攻防を繰り返したが、一方ではレオン6世(在位886~912)とコンスタンティノス7世(在位913~959)の時代には、いわゆるマケドニア朝ルネサンスとよばれる文化が花開いた。しかし、こうしたマケドニアをめぐる歴史は長く忘却されており、これが西欧で再発見されたのは、15、16世紀のいわゆるルネサンスの時代であった。ただし、それは今日のような特定の政治的単位や地理的な概念を示すものではなく、古代マケドニア王国の生んだヘレニズム文化特有の精神風土への憧憬(しょうけい)であった。
一方、マケドニア地方にスラブ人が居住し始めたのは6世紀以降であるが、スラブ語でマケドニアという名称が広く用いられるようになったのは、19世紀に入ってからである。それは、ロシア語による地理学の表記Македония/Makedoniyaに端を発する。
[大庭千恵子]
マケドニア問題は、狭義には19世紀末から20世紀初頭にかけて生じたマケドニア地域の領有をめぐる国際紛争をさし、いわゆる領土問題である。広義には現在のマケドニア問題に通じる民族問題である。
狭義のマケドニア問題は以下の展開をたどった。この地域は、ロシア・トルコ戦争の講和条約であるサン・ステファノ条約(1878)により大部分をブルガリアが領有したが、その直後にロシアの南下政策に反対するオーストリア・ハンガリーとイギリスの干渉で、オスマン帝国の領土に復された(ベルリン会議、1878)。問題は、オスマン帝国下のマケドニア地方の領有をめぐるバルカン諸国の抗争という面だけでなく、その帰属の決定に関する列強の介入により深刻化した側面をもつ。これ以後、マケドニアという名称は古代マケドニアから想起させる独自の精神風土よりはむしろ、この政治問題を抱えた地名を意味するものとして流布した。このように、列強の勢力範囲の拡大とバルカン諸国の独立が絡みあうなかで、住民の意志とは無関係に帰属が変更されるという、この地域の状況を「マケドニア問題」とよんだ。「マケドニア問題」は、1913年に第二次バルカン戦争の講和条約(ブカレスト条約)によってこの地域がギリシア、セルビア、ブルガリア間で分割されて終息する。ギリシアは、このマケドニア分割によって領土問題としての「マケドニア問題」は解決したという立場をとっている。ただし、このときの領土確定への不満はほかのバルカン諸国、とくにブルガリアにくすぶり、同国が第一次および第二次世界大戦に参戦する契機となった。
また、こうした領土問題としての展開のなかで、広義のマケドニア問題が発生することになった。この地域に居住するスラブ人が自分たちの民族意識の自覚を迫られることになり、ここで初めて、スラブ語でも「マケドニア地域に住む者」を意味する「マケドニア人Македонец/Makedonets」という表現が用いられるようになった。マケドニア共和国の主権の担い手である「マケドニア人」は、このスラブ人のことであり、古代マケドニア王国を想起させるギリシア系のマケドニア人とは関係がない。この事実が、新たな「マケドニア問題」を生むことになった。
スラブ人の「マケドニア人」は、第二次世界大戦を経て成立したユーゴスラビア連邦(旧ユーゴスラビア)において初めて、共和国の主権をになう固有の民族として承認された。従来、彼らは、セルビア人やブルガリア人、あるいはスラブ語を話すギリシア人とみなされていた。マケドニア共和国が独立した現在においても、ギリシアとブルガリアは、マケドニア共和国を国家としては承認しながらも、「マケドニア人」を民族としては認めない立場をとっている。ギリシアにとって、「マケドニア人」とは古代から続くギリシア系の民族でしかない。一方、ブルガリアにとって、マケドニア語はブルガリア語の一方言でしかないからである。とはいえ、マケドニア共和国をになう「マケドニア人」が、第二次世界大戦後60年を通じて「マケドニア人」としての民族意識を培ってきた面も看過しえない。つまり、現在の「マケドニア問題」は、往時にみられたような、地理的概念としてのマケドニアの帰属をめぐる外交問題から、その地域に住むスラブ人の民族意識をめぐる民族問題へと性格を変えてきたのである。当然、民族問題がマケドニア共和国と近隣諸国との関係に影響をもたざるをえず、問題をいっそう複雑にしている。
[大庭千恵子]
歴史時代のマケドニアの中心勢力となったマケドニア人の祖先は、初めマケドニア南部、アリアクモン川上流に居住、紀元前1100年ごろより北進し、アイガイを首都と定め、マケドニア王家(アルゲアス家を意味するアルゲアダイまたはテーメノス家を意味するテーメニダイとよばれた)の支配するところとなった。初代の王ペルディッカス1世は前7世紀前半の人である。なお、ドーリス人の侵入後、数世紀にわたりイリリア人やトラキア人、その他さまざまな民族の侵入を受け、マケドニア人は混血民族を形成することになった。彼らのことばは言語学的にどう分類すべきか定説はないが、ギリシア語の一派とする説が今日有力である。とくにギリシアの学者たちが強力に主張しており、マケドニア語の帰属をめぐる論争は言語と民族問題が緊密な関係にあることを示すよい例である。
前5世紀、アレクサンドロス1世やペルディッカス2世はペルシア戦争やペロポネソス戦争の混乱に乗じ巧みに勢力拡張に努めた。また、ギリシア人から「バルバロイ」(夷狄(いてき))と軽蔑(けいべつ)されていたが、とくにアルケラオス王以後ギリシア文化の輸入に努めた。フィリッポス2世(在位前359~前336)のころには軍事的にも経済的にもギリシア世界の最有力国となった。彼の息子アレクサンドロス大王は全ギリシアを制覇したのち、東方遠征を行い、ペルシア帝国を征服し東西にまたがる世界帝国(アレクサンドロス帝国)を現出させた。こうした政治状況はギリシア文化とオリエント文化を融合させ、特色あるヘレニズム文化を生み出す契機となったが、マケドニアは文化的に指導的役割を果たすことはなかった。
この大帝国も未完のまま紀元前323年にアレクサンドロス大王が没すると、まもなく後継者たち(ディアドコイ)が帝国内に群雄割拠し、文化的均質性は維持されたものの政治的統一はただちに瓦解(がかい)し、マケドニアは東方進出のローマにあえなく服属(前168)、続いて前146年にはその属州となった。ローマ帝国の東西分裂(後395)後は東ローマ領として存続した。紀元後6世紀ごろより漸次スラブ人が移住し、中世にはブルガリアやセルビア王国に服属した。その後、14世紀バルカン半島に進出してきたオスマン帝国の領地となり、以後500年以上にわたりトルコの支配を受けた。
19世紀になり、トルコの衰退と国民主義の動きに呼応してバルカン半島でも民族自決、独立運動が激化すると、マケドニアもその渦中に巻き込まれていった。政治的対立のみか、民族、宗教、言語とあらゆる面で抗争が派生した。住民の多くはマケドニア人とはいえ、ギリシア人、アルバニア人、ルーマニア人、トルコ人等々もおり、宗教は、イスラム教、カトリック、ギリシア正教などが混在し、まさに民族、宗教のるつぼである。ちなみに、種々の野菜を組み合わせたサラダをマセドワーヌ(macédoine)とよぶのは実にこの民族混在に由来する。1820年に勃発(ぼっぱつ)したトルコ支配からの解放を目ざすギリシアの独立戦争と独立達成は近代バルカン半島の民族対立の始まりを象徴する事件であり、1877年から1878年にかけてのロシア・トルコ戦争(露土戦争)はこうした対立を激化させる大きな契機となった。この戦争の勝利国ロシアは戦後締結したサン・ステファノ条約でマケドニアを含む大ブルガリア公国の建国をトルコに承認させた。しかし、これもベルリン会議で破棄されマケドニアはトルコに返還された。以後、マケドニア領有争いはバルカン問題の中心的課題となり、今日なお政情不安の一因となっている。
第一次バルカン戦争(1912)後、ようやくトルコの支配を脱却したのもつかの間、翌1913年マケドニアの帰属問題をめぐり第二次バルカン戦争が勃発し、「マケドニア人のためのマケドニア」を掲げて1893年に結成された「内部マケドニア革命組織」の意に反してブルガリア、ギリシア、セルビアに割譲された(ブカレスト条約)。この3分割体制は、変更をうけながらも第一次世界大戦後のヌイイ条約により確定したが、国境紛争はその後も続くことになる。第二次世界大戦中の一時、ほぼ全マケドニアがナチス・ドイツの同盟国ブルガリアの支配下に置かれたり、大戦直後にはソ連を指導者とするコミンフォルムが独立国家マケドニアの建国を擁護したが、1947年以後はブルガリア、ギリシア、ユーゴスラビアに分割所属し、その後の歴史を歩むことになる。
このうち、民族史上初めて独立を確保し、ユーゴスラビア社会主義連邦共和国に帰属したマケドニア共和国は、1980年連邦共和国大統領チトーの死に始まる内乱と国家解体の動乱のなか、さらに第二次世界大戦後の冷戦体制崩壊途上の1991年9月、マケドニア共和国独立宣言を出し、11月には憲法を制定して独立国家への一歩を進めた。しかし、国民の20%を超えるアルバニア人は民族自決を主張しているうえに、対外関係をみると、同じくマケドニアとよばれる地方をもつギリシアと国号や国旗をめぐり対立した。ギリシアはマケドニアの国号を拒否、住民を称するときにマケドニア人ではなく南スラブ人とかスコピエ人等の呼称を用いているうえに、1994年には経済封鎖を加え、ヨーロッパ安定の視点からユーゴ内戦の解決に腐心するEU(ヨーロッパ連合)諸国に承認しないように働きかけた。1993年4月の国連加盟においても、マケドニア共和国ではなくマケドニア旧ユーゴスラビア共和国Former Yugoslav Republic of Macedoniaという暫定的国名で承認された。なお、日本が承認したのは、同年12月で、翌1994年の3月に両国の外交関係が樹立された。さらにマケドニア共和国が採用した太陽をあしらった国旗に対しても、これは古代マケドニア王朝の家紋であるとギリシアは異議をとなえた。マケドニア共和国がギリシアの要求をいれて国旗を改め、ギリシアのマケドニア州に対する領土要求を憲法条項から削除する一方、ギリシアはマケドニア共和国を国家として承認し、経済制裁を解除するとの暫定合意に達したのは1995年である。しかし、国名マケドニアをどうするかの問題は依然として未解決で、内外ともにマケドニアの前途は多難である。1999年NATO(北大西洋条約機構)軍のユーゴ空爆のときも、マケドニアはアルバニア人難民受入れに慎重な態度をとり、かつ受入れ後も突如難民を移動させるなど、近隣諸国にたいするこの国の複雑な立場の一端がかいまみられた。
[真下英信]
2018年6月、ギリシアとの間で「北マケドニア共和国」を国名とする合意が結ばれた。翌2019年1月には憲法上の国名が変更され、同年2月に国連にも認められて公式に「北マケドニア共和国」が使用されるようになった。
[編集部 2019年6月18日]
『木戸蓊著『バルカン現代史』(1977・山川出版社)』▽『C&B・ジェラヴィチ著、原野美代子訳『バルカン史』(1982・恒文社)』▽『スティーヴン・クリソルド編、田中一生・柴宜弘・高田敏明共訳『ユーゴスラヴィア史』(1993・恒文社)』▽『徳永彰作著『モザイク国家ユーゴスラビアの悲劇』(1995・筑摩書房)』▽『柴宜弘編『バルカン史』(1998・山川出版社)』▽『柴宜弘著『ユーゴスラヴィア現代史』(岩波新書)』
バルカン半島の中央部を占める山がちの地域。古代ギリシア語ではMakedonia,ラテン語ではMacedonia,現代ギリシア語ではMakedoníaと綴る。北限はシャール・プラニナ,スコピエ・ツルナ・ゴーラ,リラの諸山脈,東限はロドピ山脈,南限はエーゲ海,オリュンポス,ピンダスの諸山脈,西限はモクラニスカ・ゴーラ,コラバの諸山脈である。
マケドニアは現在はマケドニア共和国,ブルガリア,ギリシアにまたがり,約7万km2,400万以上の人が住む。そのうち最大多数はスラブ系マケドニア人で,マケドニア共和国に120万,ブルガリアに18万,ギリシアに10万が数えられるが,彼らを民族として認めているのはマケドニア共和国だけなため,他の2国は推定にすぎない。次いでギリシア人が多く,以下ブルガリア人,アルバニア人,トルコ人,アロム人(ジプシー),アルーマニア人(ブラフ)など。気候は盆地特有の温暖な大陸性で,沿岸地方はエーゲ海・地中海式である。おもな河川ではバルダル川(ギリシアではアクシオス川),ビストリツァ川,ストゥルマ川がエーゲ海へ,ツルニ・ドリム川がアドリア海へ注ぐ。おもな湖にオフリト湖,プレスパ湖,ドイラン湖,カストリア湖がある。
執筆者:田中 一生
古代マケドニアについてのヘロドトス,トゥキュディデスその他の歴史書では,この地方はアルゲアダイ,テメニダイと称される王家に征服されたという。アルゲアダイとはアルゴス出身,テメニダイとはテメノスの子孫という意味で,ともに王家がギリシアの半神ヘラクレスの後胤をもって任じていたことを示す。しかし現在の考古学,人名学の研究には,マケドニア王家が西方のイリュリア人,東方のトラキア人,小アジアのフリュギア人と関係が深かったことを立証しようとするものもある。王家の支配はおそらく前7世紀初めテルメ湾岸のアクシオス川とハリアクモン川の間の海岸に面する地方,いわゆる低地マケドニアを中心として成立したものであろう。西方の山地,いわゆる高地マケドニアの王族とは前5世紀にも同盟関係にあり,通婚政策がそのための有効かつ伝統的政策であった。
マケドニアがギリシア史に現れるのはペルシア戦争前後である。アミュンタス1世Amyntas Ⅰ(在位,?-前495ごろ)はペルシア帝国に服属していたが,その子アレクサンドロス1世Alexandros Ⅰ(在位,前495ころ-前450か440)は,ペルシアの敗退後ギリシア人と巧妙な交渉を行い,その子ペルディッカス2世Perdikkas Ⅱ(在位,前450か440-前413)は,ペロポネソス戦争の間アテナイとスパルタの戦争に巻き込まれながら勢力拡大に努めた。彼とその弟の女奴隷の間に生まれたアルケラオスArchelaos(在位,前413-前399)は父の嫡子を殺して王位に就いたが,彼は軍事体系の整備,首都のアイガイからペラへの移転,ギリシア文化の摂取・保護で知られる。彼の死後王位継承をめぐって国内は紛糾し,ギリシア人や周辺部族の介入もそれを複雑化したが,フィリッポス2世(在位,前359-前336)によってその兄ペルディッカス3世(在位,前365-前359)以来の王家の力が対内的にも対外的にも強化された。フィリッポス2世は兄の戦死後即位し,農地を開発して自由農民の生活を安定させ,彼らを長槍(サリッサ)を武器とする強力な歩兵兵団に組織・訓練し,小貴族から成る騎兵兵団と組み合わせて進んだ戦術を開発した。その歩兵をペゼタイロイ(歩兵ヘタイロイ),騎兵をヘタイロイと呼ぶ。ヘタイロイとは元来,〈友〉の意味で王とも同格の大貴族団の称号であった。この狭い範囲から一般自由民までヘタイロイ称号が拡大されたことは,全マケドニア人と王との関係の緊密化を示す。元来のヘタイロイは対外進出による土地や財産を媒介として王家の軍事・行政組織の基盤となった。彼はバルカン諸部族の鎮圧,カルキディケ半島とその付近をめぐるアテナイとの戦争(前357)や,デルフォイ神殿財をめぐるギリシアへの介入(前356)に成功した。ギリシアの反抗は結局アテナイ,テーバイを中心とするギリシア同盟軍のカイロネイアの戦での完敗となって終わる(前338)。次いで彼は,スパルタを除く全ギリシア国家の構成するギリシア連合とマケドニアの同盟軍の総司令官となったが,対ペルシア戦争遂行の緒につこうとしたとき私怨のため暗殺された(前336)。
彼の子アレクサンドロス大王(アレクサンドロス3世。在位,前336-前323)は父の死後王位をめぐり再び起こった内紛,ギリシアに起こった反マケドニア運動を鎮圧,父と同じくギリシア連合とマケドニア同盟軍総司令官として東征の途につき(前334),その間のマケドニア行政は王の登位に功のあった大貴族アンティパトロスにゆだねられた。
アレクサンドロス大王の死後,バビロンで行われた会議でマケドニア統治は従前と同じくアンティパトロスにゆだねられた。しかしその会議で,大王の異母兄弟フィリッポス3世,大王の遺子アレクサンドロス4世の事実上の摂政となった帝国宰相ペルディッカスの横死後,アンティパトロスが摂政役に就き,二人の王とともにマケドニアに戻った(前321)。彼の死後フィリッポス3世の妻エウリュディケEurydikēと幼いアレクサンドロス4世の祖母(すなわち大王の母)オリュンピアスが軍を率いて戦い,オリュンピアスはフィリッポス3世夫妻を殺害する(前316)。しかし彼女はアンティパトロスの子でマケドニア支配を狙うカッサンドロスKassandrosに殺され,カッサンドロスはさらにアレクサンドロス4世とその母をも殺し,アルゲアダイの男系は絶えた。そしてフィリッポス2世の娘テッサロニケTessalonikēと結婚していたカッサンドロスはマケドニア王と称するに至った(前304)。
彼の死後(前298)その子らの王位争いに乗じ,大王の遺将で最初に王号を称したアンティゴノス1世の子で,かつてアテナイをカッサンドロスと争ったデメトリオスがマケドニア人に推されて王となった(マケドニア王としてデメトリオス1世。在位,前294-前287)。彼はエペイロス(エピロス)王ピュロスとトラキア王リュシマコスの連合軍のため追われ,ピュロスはリュシマコスに追われた(前286ころ)。さらにリュシマコスがシリア王セレウコス1世と戦って死ぬと(前281),エジプト王プトレマイオス1世とアンティパトロスの娘の間に生まれたプトレマイオス・ケラウノスPtolemaios Keraunosがマケドニア人に王とされたが,彼はバルカン半島に侵入したケルト人との戦いで敗死した(前279)。そしてデメトリオスの子アンティゴノスがケルト人を撃破してアンティゴノス2世(在位,前276-前239)として登位し,マケドニアにアンティゴノス朝を確立した。彼は当時のギリシアの勢力,すなわちアカイア同盟,アイトリア同盟,その他のギリシア国家と和戦両様の策を以て応じ,それは次の2王にも継がれた。しかしフィリッポス5世(在位,前222か221-前179)はローマとの戦いに決定的な敗北を喫した(第2次マケドニア戦争)。またその子ペルセウスPerseus(在位,前179-前168)はローマの将軍アエミリウス・パウルスにピュドナの戦で敗れ(第3次マケドニア戦争),ここにマケドニア王国は滅亡した。
→アンティゴノス朝
執筆者:井上 一
マケドニアがローマの属州になったのは前146年である。内陸部はイリュリア人,トラキア人,沿岸部はギリシア人が定住していたが,ローマ人が征服して後はラテン文化が従来のギリシア文化にとってかわった。中心地はテッサロニキとストービであった。後395年にローマ帝国が東西に二分されると東ローマ,つまりビザンティン帝国領に編入された。ゴート族,フン族などの民族移動によって荒廃した後へ,6~7世紀スラブ系諸族が大量に到来し,テッサロニキを除くほぼ全域に住みついた。だが全体としてのまとまりはなく,容易に先住民族と混血したと考えられる。こうして内陸部は決定的にスラブ化し,8世紀までにはこの地がスクラウィニアと呼ばれるほどであった。
7世紀後半バルカン半島に定着したブルガール族は,スラブ人と融合して国家を形成し,シメオン1世の時代(在位893-927),エピロスを除くマケドニア全土を支配下におさめた。9世紀中葉からオフリトはスラブ文化の一大中心地となった。〈スラブの使徒〉キュリロスとメトディオスの弟子であるクリメント,ナウムNaumらが修道院に拠って数多くの子弟を養成し,スラブ語の文字と文献を大いに広めたからである。この大帝国はその後東西に分裂,西ブルガリアのみは生き延びて,サムイル帝時代(在位997-1014)にはプリレプ,オフリトに主都を置きオフリト教会を総主教座の地位まで高めた。1017年これもビザンティン帝国に奪還されたが,この地域はオフリト大主教座の管区内でかなりの自主独立を保ったのである。1186年,第2次ブルガリア帝国が成立し,一時は北部と中部マケドニアを包含したものの,1258年までには旧状に復した。第4回十字軍がコンスタンティノープルを落として(1204)後,テッサロニキにはラテン帝国が成立,マケドニア南部を治め,1223年後はギリシア人のエピロス帝国の一部となった。しかし46年にはまたもビザンティン領に戻った。
14世紀,北方のセルビア人はステファン・ドゥシャン王(在位1331-55)の下で絶頂期を迎える。彼はテッサロニキを除くマケドニアの全土をたちまち占領し,1346年にはスコピエで戴冠式を行ったほどであった。だが彼の死後,帝国領は分裂,多くの族長に分掌された。こうして弱体化した南スラブ諸族は1389年コソボの戦で大敗を喫し,マケドニアの地は92年ないし95年から完全にオスマン帝国の支配下に入る。テッサロニキも1423年ベネチアが取得したが,30年にはオスマン帝国の手に帰し,1912年まで5世紀にわたるオスマン帝国時代を迎えた。
14,15世紀,支配者とともにアナトリアのトルコ族も移住したことで民族構成はさらに複雑になった。彼らイスラム教徒は特権階級であり,改宗した大部分のアルバニア人と異なり,スラブ人キリスト教徒は半ば農奴の地位に甘んじた。これを不満とする一部の人は,山にたてこもり,オスマン帝国の徴税吏を襲い屋敷に放火をするなどの山賊行為を行った。ギリシア語ではクレフト,ブルガリア語ではハイドゥト,セルビア語ではハイドゥクと呼ばれる彼らは,同胞から義賊とみなされ庶民の人気を博した。彼らの冒険譚は,当時盛んとなった口承文芸によって今日に伝えられている。16,17世紀になると,これと並行して農民一揆もしばしば発生した。17,18世紀,オスマン帝国の中央権力が弱体化すると,アルバニア人の多いイオアニナのアリー・パシャ,ギリシア人の多いセレスのイスマイル・ベイİsmail Bey(?-1813)などは一種の専制国家をつくりあげた。スラブ人の間にも18世紀末から19世紀を通じて市民階級が登場し,民族的な自覚をもった行動がみられるようになる。ギリシア人の主教を排し,教会や学校へスラブ語を導入したり,1838年テッサロニキに初めてマケドニア語の印刷所をつくったり,オフリト大主教座を独立させたりしたことなどである。19世紀後半になると幾度か大規模な蜂起が発生し,1893年には〈マケドニア人のためのマケドニア〉を掲げたイムロ(IMRO。在内マケドニア人革命組織)も設立されるに至った。彼らの闘争は1903年のイリンデン蜂起(8月2日,聖イリンの日)とクルシェボ共和国の創設によって頂点に達したが,オスマン帝国軍の介入によって失敗した。08年,青年トルコがオスマン帝国を民主化する試みも短命に終わると,セルビア,ブルガリア,ツルナ・ゴーラ(モンテネグロ),ギリシアはオスマン帝国権力をバルカンから除去するために同盟を結んだ。こうして12年の第1次バルカン戦争に勝利した後,解放されたマケドニアの分割で各国が対立,翌年第2次バルカン戦争が行われた。
ブカレスト条約の結果,マケドニアは,ほぼ現在にみられるようにブルガリア(ピリン・マケドニア),ユーゴスラビア(バルダル・マケドニア),ギリシア(エーゲ・マケドニア)の三つに分割され,これは19年のベルサイユ条約後も維持されたのである。第2次大戦が始まると,ドイツ,イタリア,ブルガリアのファシズム諸国がマケドニアをさらに分割,占領した。しかし41年10月11日,バルダル・マケドニアの人民は共産党に指導されてパルチザン闘争を展開,44年8月2日,反ファシズム・マケドニア人民解放会議がプロホル・プチンスキの修道院で開かれ,新生ユーゴスラビア民主主義連邦へ加入することを宣した。こうしてスラブ系マケドニア人としては史上初めて民族として承認され,共和国単位の独立をかちえたのである。ブルガリアのマケドニア人も戦後の一時期は民族として認められたが,その後ブルガリア人であると訂正されている。ギリシアでは,スラブ人として登録されマケドニア人としては取り扱われていない。
執筆者:田中 一生
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①〔古代〕ヘラスの北,トラキアの西に広がる一地域。ヘラスに侵入したドーリア人の一派が,前1100年頃ここに入って,マケドニア人の中核となり,アルガイダイまたはテメニダイと呼ばれる王家が支配した。ペルシア戦争時代からギリシア史に登場し,フィリポス2世の時代,前338年にヘラスを屈服させた。その子アレクサンドロス大王はアケメネス朝ペルシアを征服したが,彼の死後その遺領は分裂し,マケドニアにはアンティゴノス1世の開いたアンティゴノス朝が前276年に確立した。しかしこの王朝は前168年ピュドナの戦いの敗北により7代で滅亡し,前148年マケドニアはローマの属州となった。
②〔近現代〕1991年に旧ユーゴスラヴィアから独立した共和国。首都はスコピエ。アレクサンドロス大王の古代マケドニア王国の広大な領域の中心部分のみが,近代ではマケドニアととらえられる。6世紀後半に南スラヴ族がこの地域に定住。ビザンツ帝国,ブルガリア帝国,中世セルビア王国の支配を受け,15世紀にはオスマン帝国の統治下に置かれた。19世紀に入り,近隣のバルカン諸国がオスマン帝国から独立や自治を獲得するなかで,マケドニア地域は依然としてオスマン支配を受けた。しかもコソヴォ,ビトラ,テッサロニキの3ヴィラーエト(州)に行政区分されており,民族構成の多様なマケドニア住民の帰属意識は不分明であった。そのため,近隣のギリシア,ブルガリア,セルビアとヨーロッパ列強の利害が絡み,マケドニア問題が先鋭化した。1913年の第2次バルカン戦争で,マケドニアは戦勝国のギリシア,セルビアと敗戦国のブルガリアの3国で分割された。第一次世界大戦後,セルビア領マケドニアはユーゴスラヴィア王国の領域に組み込まれ,第二次世界大戦後の社会主義ユーゴスラヴィア連邦のもとで一共和国となり,マケドニア語とマケドニア文化の確立が図られた。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
「北マケドニア」のページをご覧ください。
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