伊賀(市)(読み)いが

日本大百科全書(ニッポニカ) 「伊賀(市)」の意味・わかりやすい解説

伊賀(市)
いが

三重県中西部にある市。2004年(平成16)上野市(うえのし)、阿山(あやま)郡の伊賀町、島ヶ原(しまがはら)村、阿山町大山田村(おおやまだむら)、名賀(なが)郡青山町(あおやまちょう)が合併して成立(阿山郡名賀郡は消滅)。北は滋賀県、西は京都府と奈良県に接する。

 北東部は鈴鹿山脈、南西部は大和高原、南東部を布引山地に囲まれた上野盆地柘植(つげ)川と服部(はっとり)川が西流し、盆地の北西部で北流してきた木津川に合流する。JR関西本線、草津線、近畿日本鉄道大阪線、伊賀鉄道、国道25号、163号、165号、368号、422号、名阪国道が通る。

 縄文時代の遺跡は木津川左岸に多い。北堀池遺跡は縄文晩期から鎌倉時代の複合遺跡で、古墳時代の水田跡が発見されている。右岸の城之越遺跡(じょうのこしいせき)(国指定史跡・名勝)では古墳時代の大規模な湧水祭儀遺構が検出された。古墳は多数が分布する。佐那具(さなぐ)町の御墓山古墳(みはかやまこふん)(国指定史跡)は5世紀初頭の前方後円墳で、全長約190メートルの県下最大級の墳丘をもつ。前方後円墳鳴塚(なるづか)古墳の近辺には約100基の円墳が集中する。

 古代には北部を東海道が通った。南部は伊勢への参宮道が通り、阿保(あお)に聖武天皇東国行幸の頓宮が設けられた。伊賀国府の国庁(跡地は国指定史跡)は柘植川右岸の段丘上に置かれ、服部川左岸の西明寺(さいみょうじ)地区には国分寺跡・国分尼寺(長楽山廃寺)跡(いずれも国指定史跡)がある。荘園は南都大安寺領、元興寺領や、東大寺領北杣(きたそま)などが知られる。中世は神宮領、山城石清水八幡宮領、南都興福寺領などがあった。

 1608年(慶長13)藤堂高虎が伊勢国の津に入部、交通の要衝に位置する上野城(城址は国指定史跡)を改修して城代家老を置き大坂への備えとした。上野は城下町として発展をみる。北部を大和と東海道関宿(現、亀山市)を結ぶ奈良街道(大和街道)が通り、島ヶ原宿、佐那具宿、伊勢国に隣接する上柘植(かみつげ)宿があった。伊勢参りが盛んになると、阿保や参宮道(初瀬街道)最大の難所である青山峠西側の伊勢地(いせじ)(現、伊勢路(いせじ))が宿場として賑(にぎ)わった。近江国信楽(しがらき)(現、滋賀県甲賀市)に接する丸柱(まるはしら)は良質の陶土を産し、江戸中期には藩の援助で伊賀焼が再興された。

 森林面積は6割を超え、スギ、ヒノキなどを産する。農業は酒米を含むコメ、コムギ、ダイズ、バレイショ、タマネギ、キウリ、ナタネなどのほか、ブドウや洋ランなどを栽培。畜産は肉用牛(伊賀牛)、ブタ(伊賀豚)で知られる。耐火性の高い木節(きぶし)粘土、珪砂なども産出する。伊賀組紐(くみひも)、伊賀焼は国の伝統的工芸品に指定される。名阪国道の開通による繊維、電気などの工場進出もめざましい。

 俳人松尾芭蕉は当地の出身で、関連する史跡も多い。上野公園(上野城跡)には1942年(昭和17)に芭蕉生誕300年を記念して、建立された俳聖殿(設計伊東忠太。国指定重要文化財)があり、旧城下には伊賀上野にゆかりの草庵、芭蕉五庵のうち、唯一現存する蓑虫庵(みのむしあん)などがある。旧上野城下の総鎮守であった菅原神社の秋祭(上野天神祭)で催されるダンジリ行事は国指定重要無形民俗文化財で、ユネスコの無形文化遺産に登録。旧崇広堂(国指定史跡)は文政年間(1818~1830)に津の藩校有造館の支校として設けられた。室町前期の建立と考えられる観菩提寺(正月堂と別称される)の本堂、楼門は国の重要文化財。北部は鈴鹿国定公園、南東部は室生赤目青山国定公園(むろうあかめあおやまこくていこうえん)に含まれる。面積558.23平方キロメートル、人口8万8766(2020)。

[編集部]


出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

今日のキーワード

青天の霹靂

《陸游「九月四日鶏未鳴起作」から。晴れ渡った空に突然起こる雷の意》急に起きる変動・大事件。また、突然うけた衝撃。[補説]「晴天の霹靂」と書くのは誤り。[類語]突発的・発作的・反射的・突然・ひょっこり・...

青天の霹靂の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android