旧中国に行われた官吏登用のための資格試験。科は科目で試験する学科目,挙は選挙で官吏を選抜挙用するの意。隋代から清代まで1300余年間行われた,中国の特殊な制度である。
三国以後南北朝までの中国は貴族制の時代で,政府の官吏の地位は門閥家に独占され,世襲化する傾向にあった。隋の文帝は北周に代わって中国の大半を支配すると,門閥家の特権を認めた九品官人法を廃し,個人の才能に従って官吏を登用するために科挙制を実施した。その年代は587年(開皇7)ころと考えられ,その2年後に南朝陳が滅び,科挙によって選抜された官吏が全国に派遣されることになった。従来科挙は次代煬帝(ようだい)の大業年間(605-618)に創始されたと考えられてきたが,これは誤りである。
唐は隋制を受け,科挙に秀才,進士,明経,明法その他の科目を設けた。秀才には政治上の意見などを問う策論を課するが,採点が厳しすぎて合格者がなくなり廃止された。進士には文才を試みるため詩賦を作らせるが,これは当時の貴族社会の嗜好に合致して,最も重んぜられた。これに反し経書の暗記力を試す明経,法律の条文およびその解釈を問う明法などはしだいに世人に疎まれて応募者も少なくなった。宋代に入って進士科のみが栄え,科挙と言えばもっぱら進士を指すようになり,その他の科目は一括して諸科と称して別扱いされた。ただし宋以後の進士試験には,詩賦,策論の上に経書の意義を問う経義が加わったので,実質的には前代の秀才,明経の両科をも兼ねたものとなった。唐代には地方の州から推薦された郷貢の進士と,国立学校の生徒とが,中央の礼部で行う貢挙を受けて通過すれば,進士及第という資格を与えられたが,宋ではさらにその上に天子がみずから行う殿試を加え,ここに州試,礼部試,殿試の3段階制が成立した。また科挙を3年に1回挙行する制度も宋代に始まって後世に踏襲された。宋代北方に興った遼・金は異民族であるにもかかわらず,唐制を模倣した科挙を行ったが,元代に入ると中国を統一した後も科挙を行わぬことが約40年続き,仁宗(在位1311-20)がようやく再開しても,モンゴル人を優待し,中国人を差別したはなはだ変則的な科挙であった。明清時代,科挙はいよいよ盛大になり,応募者があまりに多くなったので,これを制限するため,学校に在籍する監生・生員にのみ応ずるを許し,また幾重にも予備試験を課して振るい落しをはかった。
科挙の制度は時代が下るとともに形式が完備し,複雑化して清代に至って極まった。本来の科挙は各省で行う郷試,中央礼部が行う会試,最後に天子が宮中で行う殿試の3段階だけであるが,その前に地方学校の生員になるための入試として学校試を受けねばならず,これにも県試,府試,院試の3段階があった。県試は県の長官たる知県が行うもので,5回(5場)の連続した試験で,四書,五経,作詩,作文の力が試される。志願者は年齢のいかんを問わず童生と称せられ,県試を通ると府に赴き,知府が行う府試を受けるがその要領はほぼ県試に同じ。最後の院試は各省の学事を監督する大官,学政がその任期3年の間に必ず2回,省内の各府を巡回に来て行う試験である。これも4回の連続した試験で学科目も以前と同じ。ただ出題も採点も上にゆくほど厳しくなる。院試に合格すると,知府の命によって府学,または県学に配属されてその生員となる。生員は官吏に準ずる待遇を与えられ,特別の衣冠を着し,一般庶民と区別される。ただし生員は学校で授業を受ける義務なく,自宅で学習しておればよく,3年に1回,学政が府へ来て行う歳試を受け勤惰を試される。成績が悪ければ罰があり,連続優良なれば中央の大学に送ってその監生とされる。
監生,生員が科挙の第一段階たる郷試を受けるためには,その予備試験として,3年に1回,各省学政が府に来て行う科試に応じて学力十分なることを証明されなければならぬ。郷試は3年ごと,すなわち子,卯,午,酉の歳に各省首府の特設試験場たる貢院において行われる大試験で,試験官はとくに天子から派遣される正,副考官と地方から推薦された若干名の同考官とである。大なる省の貢院は受験生を入れる独房2万区を含む。受験生は連続3回この中に入り,そのたびに3日2晩を過ごし,四書,五経,詩,策論の問題に対して答案を書いて提出する。郷試の期日は旧暦8月中と定められ,9月中に成績の発表がある。答案はすべて係官によって朱筆を用い写し取って硃巻(しゆかん)とし,姓名の部分を封じて試験官のもとに届けられる。これを謄録,糊名と言う。同考官がまず予選を行い,その推薦した硃巻を正,副考官が審査して最後的な決定を下し,姓名を現して発表する。合格率は100人に1人以下になることもまれでなく,合格者は挙人と称せられ,生涯の資格となる。
郷試の行われた翌年の3月,北京の貢院において全国の挙人の希望者を集めて会試を行うが,その直前に挙人覆試が課せられる。これは人数を制限する意味をもつ。会試は連続3回の試験であること郷試とまったく同じであるが,試験官には天子が特に正考官1名,副考官3名,同考官18名を任命する。答案に糊名,謄録を行うことも郷試と同じ。合格者は300名くらいあるのを普通とする。合格者は貢士と称せられるが,これはすぐ後に殿試に応ずる者という意味の呼称で,恒久的な学位ではない。
殿試は会試直後の4月に宮中の保和殿で挙行される最後の大試験であるが,その直前に会試覆試なる小試験が行われる。その場所が保和殿であるのは,貢士をその場所になれさせておく目的がある。殿試は本来は天子がみずから行うべき建前であるから,その場で失態があってはならぬからである。しかし実際は天子が任命した読巻大臣8名が試験官である。問題は天子より下された策論であり,4月21日の当日に終わる。審査は数日ですみ,この時は落第者を出さないのが例である。4月25日宮中太和殿において盛大な発表の式があり,これを伝臚(でんろ),または唱名(しようめい)と言う。成績上位の第一甲3名に進士及第,続く第二甲若干名に進士出身,残りの第三甲全員に同進士出身の学位を賜るが,通じて進士と呼ばれる。第一甲の最上位は状元,2位が榜眼(ぼうがん),3位が探花と称せられ,最大の名誉とされる。この3名は直ちに翰林院で修撰,編修などの官を与えられるが,第二甲以下の新進士は翰林院が行う朝考なる試験を受け,主として文学の才能を試された後,上位の者は翰林院の庶吉士に採用されて勉強を続け,中位の者は中央政府に,下位の者は地方に官職を授けられる。
ふつうに科挙といえば,文官を登用するための文科挙を指すが,実はこれと並行して武官登用のための武科挙,略して武挙が唐代から始まり,以後引き続き挙行された。試験科目は学科のほかに武技を加える。しかし実際はいずれも中途半端で真の人材をえがたく,世人も武進士よりは,兵卒から身を起こし武功を立てて昇進した将軍のほうを尊敬した。
科挙は常に読書人社会における最大の関心事であったので,必然的に小説,戯曲などの題材となる。元曲《西廂記》の主人公は科挙を目ざして仏寺に勉学中の才子であり,南曲《琵琶記》の主人公は貧苦と闘いながら状元で及第した篤学の青年である。清代の小説《儒林外史》は科挙受験の描写から始まり,科挙を背景として成立した文人官僚社会の弊風を風刺する。このような純文学以外でも,唐・宋以降の歴史,伝記,政治論などの文章は,科挙の制度を知っていなければ理解できぬものが多い。
科挙制は近世のヨーロッパにおいて,最も公平な人材登用法として評判が良かったのに反し,本場の中国においては,その弊害の面が目だち,識者の中にはその廃止を唱える者が少なくなかった。19世紀以来,西洋勢力の東漸に対し,中国伝統文化の無力さが痛感されるとともに,西洋式の学校教育をもって科挙に替えようという議論が盛んとなり,1904年(光緒30)の科挙を最後として,以後この制度を廃止した。
もしも科挙が天子の独裁権力を高め,官僚群を確実に掌握することを目的としたならば,それはみごとに成功したと言える。しかしその反面,科挙に失敗した者が現状に不満を抱き,反体制の運動に走るのを止めることができなかった。民衆反乱の指導者,唐末の黄巣,清末太平天国の洪秀全は,いずれも科挙の失敗者であった。科挙は中国の伝統文化を民間に拡充し,知識階級の成立に貢献したことは疑いないが,ただその科目がすべて古典学の範囲を出なかったため,知識人の思想を回顧的ならしめ,新思想の出現を妨害する結果を招いたと言われる。中国文学史上に一時期を画する口語体の戯曲,雑劇が盛行して完成されたのが,科挙の停止が長く続いた元代であったことは偶然でない。
科挙制度は中国周辺の漢字を使用する諸国に伝わった。日本では728年(神亀5)初めて進士試験を行ったが,国情に適せず,やがて廃止された。朝鮮では高麗光宗の958年,初めて唐制に倣って科挙を始め,以後引き続き盛大に行われた。ベトナムでは,試験によって人材を登用したのは李氏大越(ダイベト)の仁宗の1086年に始まるが,それが科挙の形態をとるに至ったのは次の陳氏安南(チャン朝)からである。
中国では明末ころになると,科挙の弊害を告発する議論が盛んになるが,この制度を伝聞した西洋人はかえって科挙制度の中にはなはだ進歩的な要素があるのを認め,これを模倣すべきを唱える者が少なくなかった。18世紀ころまでの西洋では買官が公行していたからである。19世紀に入ってヨーロッパ各国が次々に文官登用試験を行うようになったのは,中国からの影響によると認められる。
執筆者:宮崎 市定
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中国で隋(ずい)の文帝の587年ごろから清(しん)朝末期の1904年まで行われた高級国家公務員資格の認定試験制度。普通、文帝の次の煬帝(ようだい)の時代に始まるとされるのは誤り。科挙とは科目による選挙の意味で、選挙とは官吏登用法のこと、科目とは試験に数種の学科目があることをいう。
[宮崎市定]
三国時代以後、九品官人(きゅうひんかんじん)法による官吏登用が行われ、これは選抜の標準を徳行に置くため主観的で情実が入りやすく、特権貴族階級に有利に行われたので、隋になって客観的で公平な試験により、もっぱら才能によって人を採用する科挙に切り換えたのである。唐初は秀才、明経(めいけい)、進士などの科目があり、秀才は政治学、明経は儒学、進士は文学であったが、しだいに進士だけが尊重され、そのなかから多くの名士が出た。宋(そう)代以後、諸科目の名を廃し、内容を統合して進士一科の名を残したが、依然として科挙と称せられた。
唐代の科挙は2段に分かれ、進士科ならば地方の州で予備試験を行い、通過した者は郷貢(きょうこう)、進士と称し、都に集まって、別に中央の学校から選抜された生徒とともに、礼部が行う貢挙(こうきょ)を受ける。貢挙を通過すると、ただちに進士及第の称号を受け、略して進士という。明経以下も同じである。進士は文部省にあたる礼部が与えた資格にすぎないので、彼らが実際に任官するときは、別に吏部が行う採用試験である詮試(せんし)を受けなければならなかった。しかし宋(そう)代には貢挙のあとに天子自ら行う殿試(でんし)が付加され、進士は天子の審査を経た者なので、吏部の試験は名目的なものとなった。元代は中国がモンゴル人の支配下にあり、科挙が一時停止されたが、仁宗(じんそう)の時代1315年に再興された。明(みん)、清に至っていっそう盛大に行われ、志願者があまり多数に上ったので、これを中央、地方の学校在籍者の、監生(かんせい)、生員(せいいん)に限ることとした。すると生員になるための入学試験、童試(どうし)が重要となり、あたかも科挙の予備試験の観を呈した。清代になり各段階の本試験のあとにさらに小試験が付加されて、いよいよ複雑となった。
[宮崎市定]
清代制度の大要を述べると、地方学校の入試である童試に応ずる者は年齢にかかわらず童生(どうせい)といい、特殊の賤業(せんぎょう)を除いて資格に制限がない。童試は3段に分かれ、第一段の県試は県の長官である知県が行い、5日かかって四書、五経、詩、賦(ふ)、論を試験し、最後に清朝の教育勅語である聖諭広訓(せいゆこうくん)の16条のなかの1条を謹写させた。第二段の知府が行う府試、第三段の学政が行う院試も、ほとんど同じである。学政とは一省の教育をつかさどる大官で、総督、巡撫(じゅんぶ)と肩を並べる権力をもつ。学政は3年の間に2回、管内の府を巡回して、府試の合格者に対し院試を行う。その合格者は府学、県学に配属されてその生員となる。学校には教授、教諭、訓導などの学官があるが、別に授業は行わない。生員は自学自習して勉学を怠らず、院試のたびごとに行われる学政の歳試(さいし)を受けなければならない。成績に従って賞罰があり、成績優秀な者は中央の太学(たいがく)へ籍を移される。生員は官吏に準ずる待遇を与えられ、同時に身分に恥じない行動を要求される。生員にして科挙に応じようとする者は、院試と同時に行われる科試(かし)を受けて学力の認定を得なければならない。
[宮崎市定]
科挙の本試験は、郷試、会試、殿試の3段階に分かれ、郷試を通過すれば挙人の資格を与えられる。会試は唐・宋の名に従って貢挙とよばれることもあり、これに応ずるためには、その直前に挙人覆試(ふくし)の試験を受けて登録をしておかなければならない。さらに会試の本試験のあとに会試覆試があり、本試験の成績と照合して本人に相違ないことを確かめたのちに殿試に赴くことを許される。殿試を通過すれば進士という称号を受け、高級公務員に任用される資格を得る。進士合格発表式は宮中で天子親臨し百官が集まった前で盛大に挙行された。これを伝臚(でんろ)または唱名(しょうめい)という。いずれも姓名をよぶ意味で、成績順に名を三度ずつ呼び上げられる。首席を状元(じょうげん)、次席を榜眼(ぼうがん)、三席を探花(たんか)と称し、とくに大きな名誉を与えられた。状元からは宰相に上った者や、忠臣も少なからず出た。宋の文天祥(ぶんてんしょう)はその両者を兼ねた例である。小説、戯曲の主人公にもよく状元が登場する。
[宮崎市定]
科挙は哲人政治の理想に近く、官吏に高い教養を要求するのは甚だ進歩した制度であり、明末以来、西洋に紹介されて賞賛を博し、近代文明国における高等文官試験制度は中国の科挙の影響によるといわれる。しかし、その実際をみれば問題が多く、審査の不公平、受験者の不正手段がつねに論議された。政府は極力公平を期し、郷試、会試には、糊名(こめい)、謄録(とうろく)といい、答案の姓名の部分を糊(のり)で封じ、その全文を筆写したものを試験官に審査させたが、なお外部の非難を免れず、落第者のなかから反乱指導者が現れることもまれではない。清末に西洋文化が輸入されると、科挙は時勢にあわなくなり、学校教育にその地位を譲って廃止された。
[宮崎市定]
科挙は、中国の影響を受けることの深い朝鮮にも輸入され、958年以後継続実施された。日本の養老令(ようろうりょう)にも貢挙の規定があるが、当時まだ十分な知識層が存在しなかったので、数回形式的に実施されただけで消滅した。
[宮崎市定]
『宮崎市定著『科挙』(中公新書)』
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隋に始まり清末1905年までの約1300年間,中国の歴代王朝で続けられた官吏登用試験制度。その起源は三国魏から始まる九品中正(きゅうひんちゅうせい)制に求められるが,貴族制度と妥協し門閥偏重に陥る傾向があったので,598年中正官を廃止し,みずからの能力に応じて官吏を志願する道を平等に開くことになった。科挙制は隋唐では不徹底であったが,宋代には地方州の解試(かいし),中央の省試(しょうし),さらに皇帝みずからが臨席する殿試(でんし)の3段階の試験制度が整い,朱子学が科挙に採用されて体制が完成した。明清では科挙のほかに学校制度が合体し,さらに一層の発展をみた。皇帝に代わって徳治政治を代行する官吏は儒教的教養を備えていなければならず,その能力を判定するのがこの制度の目的であったため,この制度には知識が古典に偏重し実務に向かない伝統主義的官僚を輩出する欠点が内在していた。それゆえ清末になり近代改革に適合する人材養成の必要が生じると,しだいにその存在意義を失うことになった。
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…漢代では〈賦〉が盛んであったが,〈五言詩〉が成立すると,詩はしだいに文学の諸ジャンルの中で最も尊重されるようになり,その傾向は唐代に至って確定的となった。唐代では,詩が高級官僚資格試験である〈科挙〉の最重要科目とみなされたこともあって,詩作は官僚たらんとする知識人に必須の教養となったのである。宋代を代表する文学は〈詞〉であるとは,よく言われることであるが,それは〈詞〉が〈詩〉を圧倒したことを意味するものではない。…
…試験は,人間の能力・資質の評価方法の一つである。その起源は,成人としての能力の有無をためすための通過儀礼(成人式)や,習得した技能の水準を徒弟,職人,親方などの身分・資格認定の条件とする徒弟制度などに求めることもできるが,現代社会における独自の社会制度としての試験の源流は,6世紀にはじまる中国の〈科挙〉にあるとするのが,ほぼ定説になっている。中国の科挙は,世襲貴族にかわる,業績(教養)にもとづいて選ばれた支配階級としての国家官僚の選抜試験制度である。…
…しかし時代が下るとともに,単に古い家系を誇るのみで,無教養な貴族が多く現れて,世人の軽視を招いた。隋代の科挙はこの弊を匡(ただ)すために開始されたもので,唐代に入ると世人は単なる貴族士大夫よりも,科挙出身の新士大夫を尊敬するようになった。宋代に入り科挙万能の世となり,士大夫とはもっぱら教養ある文化人を指すこと,高尚な趣味の画を士大夫画と呼ぶ用法に見らるるごとくである。…
…つづく太宗は,太祖の諸政策を継承するとともに,さらにいっそう強化して,宋朝の基盤をかためた。なかんずく,科挙の門をひろげて大量の知識人層を官僚に登用したことは,士大夫階級が政治,社会の指導層として進出する道を開くことになった。 宋朝は中国統一によって国内の平和と繁栄をもたらしたが,対外的にはつねに周辺の新興国家の圧迫をうけた。…
…やがて元の時代をへて明・清時代に入ると,南方優越の形勢は決定的となる。科挙における進士合格者の数,学者芸術家の数,税負担の額,すべて江蘇,浙江を頂点とする南方が圧倒的である。モンゴル民族の征服王朝たる元朝が南人に対して過酷であったことが,かえって南方士大夫の文化を発展させ精彩を与えることとなったという(内藤湖南)。…
…こうした官吏登用は隋代になって制度化された。それが〈科挙〉の制度であった。これは高等文官試験であり,情実によることなく,能力によって官吏を採用するというきわめて近代的な制度であった。…
…高麗初期の支配層を形成したのはこれらの豪族たちであり,統一新羅期の支配層の閉鎖性に比べると,はるかに広い基盤から成っていた。 高麗はやがて科挙制度を取り入れて,官僚制的な国家体制への傾斜を見せるが,科挙及第者であることが支配層になるための不可欠の条件となることはなく,豪族の系統をひく門閥貴族の力も依然として大きかった。ところが李朝時代になると事情が一変する。…
… 地方制度は,州県制(〈郡県制〉参照)であり,ときに郡ともよばれた州は数県からなり,全国はおよそ350の州と1550の県に分けられていた。なお,唐の官吏登用法は,隋に始まった秀才,明経,進士等の科目からなる科挙の制を受け継いだが,唐初には秀才科が廃絶してしまい,ついで則天武后が権力を握るや,文章の才ある人物を選ぶ進士科を尊重する方向を打ち出し,それまで正統と目されていた明経科の地位が低落してしまった。 唐初の律令体制は,7世紀末以後,つまり武韋時期を経過した時点で破綻しはじめた。…
…巡撫・巡按の派遣されたことは,直隷地方も各省と同じである。
[官僚の選抜]
官僚の選任については,中央に国子監があって官僚養成機関とされたが,これが実質的機能を果たしたのは初期だけであって,やはり科挙に合格した進士が,高級官僚としては圧倒的な地位を占めた。科挙について前代と変わった点は,郷試の受験資格として府州県に置かれた儒学の生員たることが求められ,したがって事実上儒学の入学試験が科挙の第1段階となったことと,地方試験たる郷試の合格者に与えられる挙人が固定した資格となり,進士に合格するのを待たず,挙人の資格で官界に入る者が出てきたことである。…
※「科挙」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
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