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俳諧(はいかい)流派。松永貞徳(まつながていとく)を中心とする流派、もしくはその俳風をいう。寛永(かんえい)(1624~44)初年から延宝(えんぽう)(1673~81)初年にかけて約50年がその最盛期であるが、流派としては幕末まで及んでいる。貞徳は初め、俳諧を和歌や連歌に進むための一段階とする考え方を示していたが、俳諧の盛行とともに俳諧自体の文芸的な価値を認める態度をとり、「俳言(はいごん)を以(もっ)て賦(ふ)する連歌なり」と規定した。俗語や諺(ことわざ)あるいは漢語を「俳言」とし、この「俳言」を重視する貞門俳諧は、きわめてわかりやすく、広く庶民層に俳諧を普及させる役割を果たしたが、形式的な「俳言」の規定は、ことばの滑稽(こっけい)を追求するあまり、しだいに類型化を招き、陳腐で平板なものになり衰退した。貞門時代は三期に分けることができる。第一期は、寛永初年から承応(じょうおう)2年(1653)貞徳の死までで、『犬子(えのこ)集』の編集をめぐり重頼(しげより)と立圃(りゅうほ)の確執などあったが、総じて貞徳の指導のもとに、門下の結束が保たれた時期である。第二期は、門人同士が競い合い論書や撰集(せんしゅう)が多く出され、また地方俳壇の活発化など、貞門が拡大し多様化した寛文(かんぶん)(1661~73)末年までの時期。第三期は延宝末から天和(てんな)(1681~84)にかけて談林(だんりん)の台頭による貞門対談林の論争期である。俳人では、重頼、立圃、良徳(りょうとく)、西武(さいむ)、貞室(ていしつ)、季吟(きぎん)、安静(あんせい)の七俳仙や徳元(とくげん)、休甫(きゅうほ)、望一(もういつ)などがいる。撰集では『犬子集』『鷹筑波(たかつくば)集』『崑山(こんざん)集』『玉海(ぎょっかい)集』の四大撰集をはじめ、『誹諧初学抄』『新増犬筑波』『毛吹草(けふきぐさ)』などの作法書やその他さまざまな俳書が刊行された。
[雲英末雄]
『中村俊定著『貞門俳諧史』(『俳句講座1』所収・1959・明治書院)』
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…〈俳諧之事〉〈六義〉〈発句之切字〉等15項目にわたり,俳諧の作法・規範を説いた論書。師の貞室から独立した著者が,貞徳没後の俳壇に地歩を築くため,門人に伝授すべき経典として著した書であるが,談林俳諧の隆盛にともない,貞門正統の規範を世に示すべく公刊した。74年芭蕉もその伝授を受けた。…
…書名は《犬筑波(いぬつくば)集》に対するもの。貞徳が30年来批点を施した発句,付句(つけく)を西武に編集せしめた書で,貞徳直門の俳人300余が名を連ね,事実上本書が貞門の第1撰集である。四季別分類法をとらず完成を急いだ様子がうかがわれるのは,1638年序・45年(正保2)刊の重頼撰《毛吹草(けふきぐさ)》との先陣争いによるか。…
…しかし真の意味の俳論は,文芸の一ジャンルとして確立された〈俳諧之連歌〉の論でなければならない。 貞門においては,松永貞徳の〈十首式目歌〉(1628成立)を嚆矢(こうし)として85部の俳論が書かれた。俳諧の文学的確立に当たっていたため式目作法に関するものが圧倒的に多く,また連歌との区別が〈俳言〉の有無に求められたため語彙季寄(きよせ)の類も多く出されたが,俳諧の盛んになるにともない付合(つけあい)技法論も活発に行われるに至った。…
※「貞門」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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