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江戸幕府第15代、最後の将軍。水戸藩主徳川斉昭(なりあき)の第7子で幼名七郎麿(しちろうまろ)、または昭致(あきむね)。字(あざな)は子邦、刑部卿(ぎょうぶきょう)を名のる。天保(てんぽう)8年9月29日、小石川の江戸藩邸に生まれる。水戸弘道(こうどう)館で学んだのち、1847年(弘化4)一橋(ひとつばし)家を継いで慶喜と改名した。
ペリー来航後、将軍継嗣(けいし)問題で改革派雄藩の松平慶永(まつだいらよしなが)ら一橋派に推され、南紀派の推す徳川慶福(よしとみ)(家茂(いえもち))と争ったが、1858年(安政5)4月井伊直弼(いいなおすけ)が突如、大老職に就任したあと、慶福を世子に決定したため敗れた。また勅許を待たずに日米修好通商条約に調印したことに対し、慶喜は、実父徳川斉昭、尾張(おわり)藩主徳川慶勝(よしかつ)らとともに不時登城して大老を詰責したために、登城を止められ、翌年の安政(あんせい)の大獄で隠居謹慎の処分を受けた。しかし、1860年(万延1)井伊直弼が桜田門外に暗殺されてのち、幕政の宥和(ゆうわ)方針によって謹慎を解かれ、さらに1862年(文久2)勅使大原重徳(おおはらしげとみ)と島津久光(しまづひさみつ)が東下して幕政改革を迫った際に、勅旨により、一橋家の再相続を許され、同時に将軍後見職に任ぜられた。
かくて事態は一変し、慶喜は、政事総裁職についた松平慶永(よしなが)とともに幕政の頂点にたつことになったが、改革は難航した。1863年、朝廷の攘夷(じょうい)督促に対して自ら開国を説くべく上洛(じょうらく)して朝廷と折衝したが、かえって尊攘派勢力の工作によって攘夷期日を5月と約束させられて江戸に帰った。同年八月十八日の政変により、京都から尊攘派が排除されると再度上洛し、松平容保(まつだいらかたもり)、同慶永、山内豊信(やまうちとよしげ)、伊達宗城(だてむねなり)とともに、朝議参与を命じられた。しかし、あくまで幕府中心の改革を主張する慶喜は他の参与と対立し、参与会議も失敗に終わる。1864年、慶喜は参与と将軍後見職を辞任して禁裏守衛総督につき、禁門(きんもん)の変に活躍、翌1866年(慶応2)の第二次長州征伐で東軍が敗戦を重ねるうち、家茂(いえもち)が死去したため、12月、第15代将軍職を継いだ。
フランスと結んで洋式軍制改革を行い、幕府の制度も改革して成果をあげたが、大勢挽回(ばんかい)はならず、1867年10月、討幕の密勅が下ると同時に大政を奉還した。なおも諸藩連合の政治体制のなかで徳川氏の権力を維持することを策したが、12月、討幕派に動かされた朝議が王政復古を宣し、年が明けると鳥羽(とば)・伏見(ふしみ)の戦いにおいて幕府軍は大敗した。慶喜は海路江戸に帰還し、フランス公使ロッシュらの再挙の勧めを拒否して上野寛永寺(かんえいじ)に移り、謹慎の意を表した。江戸開城後は水戸で謹慎し、新政府の命によって徳川宗家の家督を田安亀之助(たやすかめのすけ)(家達(いえさと))に譲り、駿府(すんぷ)に移った。1869年(明治2)謹慎を許され、のち公爵に列した。大正2年11月22日没。
[井上勝生]
『渋沢栄一著、藤井貞文解説『徳川慶喜公伝』全4巻(平凡社・東洋文庫)』▽『渋沢栄一編、大久保利謙校訂『昔夢会筆記――徳川慶喜公回想談』(平凡社・東洋文庫)』
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(井上勲)
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江戸幕府15代将軍。烈公斉昭(なりあき)を父として水戸徳川家に生まれたが,12代将軍家慶(いえよし)に見込まれて1847年(弘化4)一橋家を相続した。家慶には実子の家祥(家定)を廃して,慶喜に後を継がせるつもりがあったと想像される。しかしその措置を講ずる余裕がないままペリー来航の恐慌状態下に家慶が死ぬと,13代将軍となった家定の後嗣をめぐって大きな政争が起こり,慶喜は改革派の大名や幕臣から能力ある将軍候補として推され,保守血統主義派にかつがれた紀州の慶福(よしとみ)(家茂)と対立関係に入った(将軍継嗣問題)。この政争は家定の意志と井伊直弼の登場とによって紀州派が勝利し,慶喜は安政の大獄の一環として隠居謹慎の処分を受けた。62年(文久2)島津久光に擁されて東下した勅使大原重徳が慶喜を将軍後見職とするよう要求し,慶喜は一橋家を再相続したうえで64年(元治1)まで家茂の後見職を務めたが,10代後半に達した将軍との仲はうまくいかないことが多かった。64年滞京中に京都朝廷から直接に禁裏守衛総督に任命され,同年の禁門の変では防御側の総指揮をとったが,江戸の幕府主流から見ると目ざわりな存在で,老中が武力で江戸に連れ戻そうとして失敗したこともある。65年(慶応1)に家茂が辞表を書いたときには,その文中で皮肉をこめて後任に慶喜を推薦した。
66年家茂の死で15代将軍となったが京都を離れることができないまま江戸の幕政改革を指揮して,その手腕には倒幕派を恐怖させるものがあった。しかし67年10月には大政奉還という屈折した作戦をとることを余儀なくされ,12月には王政復古クーデタで大坂城へ退き,68年(明治1)1月の鳥羽・伏見の戦で敗北して江戸へ戻り,権力を放棄し,謹慎生活に入った。長く静岡で暮らしたが97年東京に帰住し,1902年家達(いえさと)が相続している徳川公爵家とは別に公爵を授けられ,08年には勲一等旭日大綬章を受けた。明治国家が慶喜の大政奉還を評価する歴史解釈をとったことの現れである。
執筆者:松浦 玲
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1837.9.29~1913.11.22
江戸幕府15代将軍(在職1866.12.5~67.12.12)。父は水戸藩主の斉昭(なりあき)。母は貞芳院。幼名七郎麿。はじめ昭致。1847年(弘化4)御三卿一橋家を相続。53年(嘉永6)将軍に就任した13代家定は病弱で,将軍継嗣が重大な政治問題に発展。慶喜を擁する一橋派と和歌山藩主徳川慶福(よしとみ)を推す南紀派との対立が激化。また日米修好通商条約の勅許問題も絡んで複雑な政治状況を呈した。58年(安政5)南紀派の井伊直弼(なおすけ)が大老に就任,無勅許の条約調印を断行し,慶福を14代将軍家茂(いえもち)とした。慶喜は斉昭らと条約調印に異を唱え直弼を譴責したが,逆に隠居・謹慎を命じられた。62年(文久2)一橋家再相続。将軍後見職。上洛し幕権の伸長に尽力。66年(慶応2)家茂が第2次長州戦争の陣中で没したため,15代将軍となる。新しい政治状況の醸成のため翌年大政奉還を行うが,王政復古の大号令,鳥羽・伏見の戦により政治的・軍事的に敗北し,朝廷に対して恭順した。68年(明治元)静岡に移住し30年間閑居。1902年に公爵,08年には勲一等旭日大綬章をうけた。
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