イタリア語、スペイン語、ルーマニア語などと同じく、インド・ヨーロッパ語の一つであるラテン語にさかのぼるロマンス語の一つ。フランス(約6000万人)と海外領土のほか、ベルギー(フランス語人口約410万人)、スイス(同約140万人)、ルクセンブルク(同約44万人)、カナダ(同約740万人)、モーリタニア、マダガスカル、ルワンダ、カメルーンなどの旧フランス領アフリカ諸国の一部で話され公用語の一つとされ、ハイチ、モナコ、アフリカ大陸のマリ、ニジェール、セネガル、ブルキナ・ファソ(旧オートボルタ)、トーゴ、ガボン、コートジボワール(象牙(ぞうげ)海岸)、コンゴ民主共和国(旧ザイール)など旧仏領、旧ベルギー領からの独立国のうち11か国では唯一の公用語となっている(2002)。これらのアフリカ諸国では小学校からフランス語で教育が行われ、共通語となっているが、フランス語を常用している人数を確定することはむずかしい。推定では1億人以上とされる。また公用語とはされていないが旧フランス領であったチュニジア、アルジェリア、モロッコでもフランス語は通用し、北アフリカで地中海に面するこれらマグレブ三国からは移民また労働者が多くフランスに流入している。国際連合、ヨーロッパ連合(EU)、ユネスコでもフランス語は公用語の一つとなっている。文化的共通語としては英語、ロシア語、アラビア語、中国語と並んで広く学ばれている。
フランス語の最古の文献は、842年にカール大帝の2人の孫、カール禿頭(とくとう)王とルートウィヒ王の間とそれぞれの軍団が交わした『ストラスブールの誓い』にさかのぼるが、これはロマンス諸語のなかで最古の文献であり、以後、各世紀に多くの文献が残されていて、古ラテン語以来の2000年の発展を連綿とたどれる点で言語史学上も重要な言語になっている。
[松原秀一]
フランス語はすでに12、13世紀にはラテン語に次ぐヨーロッパの教養語となり、その文学作品はロマンス語圏を越えて各国語に訳されている。11世紀の武勲詩『ロランの歌』、12世紀の『トリスタン物語』などの中世ドイツ語訳、アイスランド語訳、オランダ語訳などがあり、また13世紀にはイタリア人ブルネット・ラティーニが『知識宝典』をフランス語で書き、マルコ・ポーロの『東方見聞録』もフランス語で広く読まれるというように国際語の性格をすでにもっていた。15、16世紀にはイタリア語、スペイン語の隆盛の前にやや衰えたが、16世紀のイタリア戦争でイタリア・ルネサンスを発見したフランス貴族がイタリア文化を取り入れ、イタリア女性と縁組みしたため、サロンの風習が上流階級にもたらされ、会話の洗練への志向が高まった。17世紀後半、古典主義の勃興(ぼっこう)とともに、フランス語は理性のことば、社交のことばとして磨かれた。ボージュラの『フランス語覚え書』(1647)をはじめ、ポール・ロアイヤル運動の指導者アルノーがランスロClaude Lancelot(1615―1695)とともに著した『文法』(1660)、アカデミー・フランセーズによる『アカデミー・フランセーズ国語辞典(アカデミー辞書)』(1694)などによって整備され、ルイ王朝のベルサイユ宮殿を中心にヨーロッパの上流社会の共通語となった。外交交渉にはフランス語が使われるばかりか、18世紀にはラテン語にかわって、学者の共通語となった。ベルリン、ペテルブルグのアカデミーでも紀要はフランス語で刊行され、ライプニッツも『モナド(単子)論』をフランス語で著し、プロイセン王フリードリヒ2世も日記をフランス語で書いているほどである。外交文書でフランス語が公用語となったのは、三十年戦争を終結させる1648年のウェストファリア条約以来のことで、日露戦争の講和条約もフランス語が正文であったが、1919年のベルサイユ講和条約からフランス語に並んで英語も使われるようになった。ただし文言に疑義がある場合はフランス文によるとしている。第二次世界大戦以後国際的に英語の勢力が増しているが、ベルンの国際郵便条約ではフランス語が正文であるので、どこからでも郵便の上書きや届けはフランス語で書ける。
フランス語を国際語にしたのは、イタリア婦人の影響のもとに開かれた17世紀以来のサロンや、同じくイタリアに倣ってつくられたアカデミーの存在が示すように、フランス語が古典語教育を受けない女性にも聞きやすくわかりやすい美しいことばになるように磨かれ、客観的規範性を保とうという努力によって、単語が論理的に定義づけられ整理されていること、コルネイユ、モリエール、ラシーヌらによる古典作品をもち、その伝統がボルテールからアナトール・フランス、ジッド、バレリー、カミュら現代まで保たれていて、一定の学習によって比較的容易に同質の言語に到達できることと、必要によって文法もあいまいさを避けることを可能にしている点があげられよう。第二次世界大戦後、アメリカの技術的、経済的優位により英語が国際語として広まったが、国際共通語としてのフランス語は明快さ、規範の均一なことなどにより知的国際語の地位を保っていくであろう。
[松原秀一]
現代フランス語は、四つの鼻母音を含む16の母音と三つの半母音を含む20の子音をもつが、母音は緊張度が高く明瞭(めいりょう)に発音され、延ばしても二重母音化せず、2個以上の子音が固まって発音されることがなく、アクセントは個々の単語では最後の母音、文中では一続きに発音される語群の最後に置かれるが、アクセントの有無にかかわらずすべての音節が明瞭に発音されるので聞き取りやすい。単語では、発音されない語末の子音が意味上のまとまりのある語群のなかでは母音の前になると復活し、母音が続くことを避けるリエゾンliaisonという現象をもち、音声化に単語の綴(つづ)り字が意識されるのはフランス語の特徴である。
名詞には男性、女性の区別があり、太陽、空はle soleil, le cielと男性名詞、月、大地はla lune, la terreと女性名詞というようにあらゆる名詞に性の区別がある。格変化は英語と同じく代名詞にしか残っていない。動詞はロマンス語として人称変化、時制変化に富むが、発音上も用法上も単純化の道をたどってきていて、用法も論理的に整理されている。統辞法も主語―動詞―動詞補語の語順の安定度が高く、修飾語も形容詞は名詞のあと、副詞もできるだけ動詞の直後に置かれる下降語順をとり、語順に従って次々と理解が聞き手に形成されやすいように発達させられてきた。したがってヨーロッパ諸語のなかでも人工語的性格が強く、ドイツ語ではfahren, reiten, kriechen, kletternなどと様態によって動詞が使い分けられるのに対して、フランス語ではallerという動詞に分析的に補語をつけてaller en voiture, en train, en bateau(車で、汽車で、船で行く)、aller à cheval(馬で)、aller à quatre pattes(四つんばいで)、aller en grimpant(はい上がる)といい、英語がglow, glisten, glint, glimmer, gleamなどとほのかに光るのを様態で区別できるのに、フランス語にはluireという動詞をもつのみであるように、フランス語は感情や情感よりも理知的な情報伝達に重きを置く傾向がある。したがって、日本語に豊かなコロコロ、ゴロゴロ、カタカタ、ノソノソ、ギリギリ、ザワザワといった擬態語、擬声語はきわめて少なく、事態を分析して表現するほかはない。これは、フランス人が自分たちのことばを意識的に知的な道具にするために努力してきた結果であり、国民に美しく洗練された国語に対する関心が高いこともフランス語を特徴づけている。たとえばフランスが第二次世界大戦後もフランス語の普及のため外国に多くの学校を経営し、教師を送り、国立大学の教授を休職させてまで「基礎フランス語」の制定にあたらせ、視聴覚教材の開発に意欲的なことや、英語の借用を制限し、訳語を審議させ、官報に公布するなど国家的努力をしているのにもみられる。しかし反面、民衆語と洗練されたことばの距離を大きくしたことも否めない。
[松原秀一]
フランスの先住民族であったリグリア人、イベリア人のことばは、わずかな地名に推測されるのみで残っていない。南フランスの地中海沿岸は早くからフェニキア、ギリシアの植民が行われたので、ニース、マルセイユ、モナコなどの地名がギリシア語から残された。南フランスはローマ帝国のナルボンヌ属領となっていたが、北フランスも紀元前58~前51年カエサルの征服の結果、完全にローマの勢力範囲に入り、まず都市を中心にラテン語が、ケルト語の一つであるガリア語を話していた住民の間に浸透していった。紀元後5世紀にはガリア語は山間僻地(へきち)を除いては消滅したらしいが、多くの地名のほか、征服以前からラテン語に知られていた樹木名、動植物名(パリ、リヨン、chêne〔柏(かしわ)〕、bouleau〔しらかば〕、cheval〔馬〕、alou〔>alouette,ひばり〕)、ケルト文化に由来する事物の名(lieue〔里〕、arpent〔半エーカー〕、tonneau〔樽(たる)〕、charrue〔鋤(すき)〕、bercer〔揺する、ケルト人が子守に雇われたことが推定される〕、changer〔換える〕)など、かなりの数がケルト系とされる。フランス語の数詞にみられる二十進法の痕跡(こんせき)(quatre-vingts 80〔4×20〕)もケルトの影響とされ、学者によってはuがウでなくユと発音されるのもケルト語の影響と考える。
フランスをはじめスペイン、ルーマニアなどのローマ属領で話されていた民衆のラテン語は、5世紀ごろまでは意外に統一を保ち、冠詞の発生、母音の長短の区別、格変化の衰退、新たな動詞体系の発生はすべてのロマンス語に反映している。しかし476年に西ローマ帝国が崩壊し、各地域が社会的、文化的に異なった状況に置かれると、それぞれの地方で方言化が別々に進行し、ロマンス語はそれぞれイタリア語、スペイン語、フランス語、ルーマニア語などへの発展の道をたどり始める。ゲルマン人の移動の結果、フランク人の影響を強く受けた北フランスでは、変化がロマンス語のなかでももっとも大きく、ローマ化の深かった南のオック語に対し、オイル語群を形成していった。フランク人と被征服ガロ・ロマン人の混交が進み、人定法による裁判ができなくなったのは9世紀とされるが、このころには、フランク人はゲルマン語に属するフランク語を忘れ、オイル語のみを話すようになっていた。しかしゲルマン語の影響は強く、色名、軍事用語、生活用語を多くもたらし、発音上もラテン語ですでに失われていたhを復活し、いまのg音に残る両唇音wなどをもたらした。こうしてガリアのロマンス語は、フランス語最古の文献とされる『ストラスブールの誓い』に残るフランス語となっていったのである。
[松原秀一]
このフランス語の祖のオイル語は地方差があり、12世紀にはピカール方言、ノルマン方言、シャンパーニュ方言、ロレーヌ方言、西部方言などが認められる。このうち文学語としてピカール方言、ノルマン方言が勢力があったが、パリを中心とするカペー王権の伸張とともに、これらの諸方言を中和した共通語がしだいにつくられた。これをフランシアン方言francienとよぶことがある。11世紀にはフランス文学最古の聖者伝が韻文で残され、とくに1592年(文禄1)イエズス会士によって日本の加津佐(かづさ)(長崎県南島原(みなみしまばら)市)で印刷された『サンクトスの御作業』にも含まれている『聖アレクシス伝』は11世紀末作の古フランス語の傑作であり、その後、何度も改作されている。1092年の第一次十字軍後につくられたと推定される『ロランの歌』も、中世フランス文学の傑作であるが、最古の写本はイギリスで行われたフランス語の方言アングロ・ノルマン語で書かれている。13世紀のパリの人名録といえるエティエンヌ・ボワローの『職業録』も、ピカール方言で書かれている。12、13世紀はフランス韻文文学の最盛期で、多くの武勲詩、物語詩はヨーロッパ的名声を博し、各国で訳され、模倣された。この中世のフランス語は、名詞に主格、目的格の区別があり、語順も浮動性があり、動詞変化も豊かであった。ノルマン公ウィリアムによってイギリスにもたらされたノルマン方言は、上層階級の共通語となり、1362年エドワード3世が廃止するまではイギリス議会ではフランス語が使われ、英語に深い影響を及ぼした。このノルマン方言は早くから格変化を失い、二重母音化をはじめ、大陸の他の方言から離れていくのでアングロ・ノルマン方言といわれるが、文学活動は盛んで多くの作品が残されている。
[松原秀一]
14、15世紀のフランスは、百年戦争や疫病で混乱期となり、言語の変化が甚だしくなった。格変化は消失し、動詞の変化も減るとともに、主語・動詞・目的語という語順が定着し、主語に代名詞が現れるようになった。フランシアンが標準語となり、15世紀末には方言は書きことばでは使われなくなり、ラテン語からの翻訳に伴う古典語の借用から、法律用語や学者語が増え、古典語の教育を受けた写字生がラテン語風綴(つづ)りをフランス語の表記にもたらし、綴り字が複雑化した。16世紀の古典ギリシア語、ギリシア文化の再発見も加わって、フランス語の語彙(ごい)は豊かにされた。ルネサンスは、イタリア、ギリシア・ローマの魅惑とともに、フランス語をいかにこれらの言語に劣らぬものにするかという運動をもたらした。フランソア1世は1539年ビレル・コトレの勅令で、法廷と法律文書にラテン語を廃し、フランス語のみを使うよう命じ、カルバンはラテン語で書いた『キリスト教綱要』を1541年にフランス語で発表し、1549年にはデュ・ベレーが『フランス語の擁護と顕揚』を著している。
[松原秀一]
17世紀は豊穣(ほうじょう)になりすぎたフランス語を整理する時期で、前述のサロンやアカデミーの努力でフランス語の語彙は縮小したが、明晰(めいせき)さは増大した。18世紀には産業と工業の発達で科学用語、専門用語が17世紀の古典フランス語に加えられ、他方ルソーにより個性の表現が対照され、フランス革命後のシャトーブリアン、ユゴー、ゴーチエなどによる豊かなロマン派の情感表現に受け継がれる。革命期に国民軍がつくられると、標準語が国民に通じないことが明らかとなり、革命後、兵役と義務教育によるフランス語の普及が図られることとなる。1830年七月革命後の産業改革から、英語好みの傾向も現れた。
第二帝政期に東洋に関心を示したフランスは、江戸幕府と接触し、軍事顧問、技術供与をはじめ、明治年間まで接触が保たれ、このため日本語にもゲートル、サーベル、ビバークbivouac、シャッポ、シャボン、バリカン(商店名)などの単語がもたらされた。19世紀に小説が詩にかわって文学の主流になり、ロマン派の自我の表現手段としての小説が近代文学として日本に紹介され、その後今日まで先端的文学が紹介され続けている。フランスは軍事、法制の先進国として多くの日本人が明治になると留学したが、第三共和政の時代にはフランスは自由民権の国、美術・服飾の盛んなエレガントな国ととらえられ、日本語にも、デッサン、プレタポルテ、シックなどの単語が入ってきている。
[松原秀一]
『シャルル・バイイ著、小林英夫訳『一般言語学とフランス言語学』(1970・岩波書店)』▽『アルベール・ドーザ著、杉冨士雄・田辺保ほか訳『フランス語の特質』(1982・大修館書店)』▽『C・ランスロー、A・アルノー著、南舘英孝訳『ポール・ロワイヤル文法 一般・理性文法』(1982・大修館書店)』▽『森本英夫・堀田郷弘著『フランス語の心をたずねて』(1983・高文堂出版社)』▽『森本英夫著『フランス語の社会学――フランス語史への誘い』(1988・駿河台出版社)』▽『山田秀男著『フランス語史』増補改訂版(1994・駿河台出版社)』▽『ピーター・リカード著、伊藤忠夫訳『フランス語史を学ぶ人のために』(1995・世界思想社)』▽『宮永孝著『日本史のなかのフランス語――幕末明治の日仏文化交流』(1998・白水社)』▽『ミッシェル・セール著、米山親能・和田康・清水高志訳『哲学を讃えて――フランス語で書いた思想家たち』(2000・法政大学出版局)』▽『東京外国語大学グループ「セメイオン」著『フランス語学の諸問題』(2001・三修社)』▽『小倉博史著『文化と歴史で学ぶフランス語』(2001・丸善)』▽『小林正著『フランス語のすすめ』(講談社現代新書)』▽『ジャック・ショーラン著、川本茂雄・高橋秀雄訳『フランス語史』(白水社・文庫クセジュ)』▽『田辺保著『フランス語はどんな言葉か』(講談社学術文庫)』▽『日本フランス語フランス文学会編『フランス語フランス文学研究文献要覧』各年版(日外アソシエーツ)』
ロマンス諸語(ロマンス語)の一つ。古代ローマ人によってもたらされたラテン語が,北フランス地方において固有の変化を遂げて形成された言語である。元来,数多くの方言を含んでいたが,そのうちの一つ,パリを中心とするイル・ド・フランス地方の方言(フランシアン方言francien)が13世紀以降,国王権力の伸長を背景に威信を高め,この方言を基盤にした書き言葉,次いで話し言葉がフランス全土の共通語,国語としての地位を獲得するにいたった。単にフランス語という場合,この共通語たるフランス語,すなわち共通フランス語を指すことが多い。一方,ラテン語にさかのぼる北フランス諸方言(フランス語諸方言)はオイル語方言とも呼ばれるが,それは中世期におけるこれらの方言の総称であるオイル語langue d'oïlの名に由来する。特に話し言葉としてのフランス語には,標準とされるパリのフランス語と多少とも発音・語法・語彙(ごい)の点で異なる,その土地固有の特徴(南フランスにおいて聞かれる巻舌のrの発音など)の混入した地域的変種が見られ,それらを地域フランス語と呼ぶことがある。
フランス語は今日,フランス共和国(海外県,海外領土を含む)および他の地域において約1億人の話し手を有すると推定される。フランス国内でフランス語は唯一の公用語であり,ほぼその全土に共通語として普及しているが,他言語のみを話す少数の住民のほか,他言語(またはオイル語方言)と共通フランス語とを併用する相当数の住民が存在する。一般的に都市部の方が周辺の農村部に比べ共通語への一元化が進んでいる。
オイル語圏では共通語の浸透が著しく見られ,パリを囲む広大な地域(東西約400km,南北約250km)では本来の方言は消滅し,ほぼ完全に共通フランス語に取って代わられている。その外側,すなわちオイル語圏周辺部(ことにその農村部)に残る方言群は,ワロニー方言(ベルギー南部。〈ワロン語〉ともいう),ピカルディー方言,ノルマンディー方言,西部方言(メーヌ,アンジュー地方),南西部方言(ポアトゥー,サントンジュ地方),中央部方言(トゥーレーヌ,ベリー地方),南東部方言(ブールボネ,ブルゴーニュ,フランシュ・コンテ地方),東部方言(ロレーヌ,シャンパーニュ地方)のように分類されるが,ワロニー方言をほぼ唯一の例外として,急速に共通語に吸収されつつある。
なお,フランス国内で話されているフランス語以外の言語について一瞥しておくと,次のようになる。最も大きな勢力を保っているのが,オイル語圏の南で行われているオック語(オクシタン(語)occitan)である(言語人口約800万~1000万。そのうち大多数はフランス語との2言語併用者であり,その点は以下のフランコ・プロバンス語ほかも同様である)。オック語圏の北限はおおよそ,ジロンド河口に始まり東進しながら北上し,リヨン市より南でローヌ川を横断してアルプス山脈に至る線によって示される。この線の東の部分の北側には,オイル語圏とオック語圏に挟まれるようなかっこうでフランコ・プロバンス語franco-provençal圏(スイスの西部諸州(いわゆるスイス・ロマンド地方),イタリアのバレ・ダオスタ州をも含む)が位置している。ここでもオイル語圏同様,共通フランス語の勢力が都市部を中心に強く及んでいる。また,スペインとの東部国境地域ではカタルニャ語(約17万人),コルシカ島ではコルシカ語(=イタリア語方言。約20万人)が話されている。以上の言語はいずれもラテン語を源とするロマンス諸語に属する。また,ロレーヌ地方の一部およびアルザス地方では住民の8割が,土地本来の言語,すなわちゲルマン系のアルザス語alsacien(約130万人),フランス語,ドイツ語の3言語併用者である。また,ベルギーとの国境地域では同じくゲルマン系のフラマン語(約20万人),ブルターニュ半島ではケルト系のブルトン語(約90万人),スペインとの西部国境地域では系統不明のバスク語(約10万人)がそれぞれ話されている。
次にフランス語が国外で話されている地域について述べれば,まずヨーロッパでは,ベルギー(本来のワロニー方言圏を中心に,フランス語人口約500万),スイス(本来のフランコ・プロバンス語圏を中心に約160万人),およびルクセンブルクでフランス語は公用語の一つとされ,モナコでは唯一の公用語である。アメリカ大陸では,フランス語を公用語の一つとするカナダに,特にケベック州を中心に多くの話し手(約650万人)がいる。アメリカ合衆国では,ニューイングランド地方その他のカナダ系移民のほか,ルイジアナ州の一部住民の間でフランス語が話されている。また,ハイチではフランス語が唯一の公用語であるが,住民の多くはフランス語と現地語の混交の結果生まれたクレオール語を用いている。なお,このフランス語系クレオール語は,フランスの海外県(グアドループ,マルティニク,ギアナ)を含むカリブ海地域で広く用いられている。最後にアフリカでは,その日常生活での使用は一部の住民に限られているにせよ,旧フランス領であった国を中心に,21ヵ国がフランス語を唯一の公用語,あるいは他の言語と並ぶ公用語の一つに採用している。フランス語はまた,国際連合の公用語の一つであるほか,教養語として世界中に多くの学習者をもっている。
次にフランス語の歴史を簡単に振り返っておこう。
今日のフランス,すなわち古代ローマ人がガリアと呼んでいたケルト人居住地の大半を占める地域は,カエサルによる征服(前58-前51年)の結果,完全にローマの支配下に入った。それに伴い,征服者の言語であるラテン語は土着のケルト系(ケルト語派)のガリア語にしだいに取って代わっていった。ラテン語はまず都市部を中心に浸透し,農村や山間部に残っていたガリア語も5世紀ころには消滅したらしい。なお,フランス語および他のすべてのロマンス語の直接の源となったラテン語は,民衆が日常の話し言葉として用いた,いわゆる〈俗ラテン語Vulgar Latin〉である。ガリア語は地名(Lyonリヨンなど多数)のほか,田園生活などに関するいくつかの語(chêne〈柏〉など)をフランス語に伝えているが,音声面においてガリア語がこの地の俗ラテン語に影響を及ぼしたとする説に対しては異論も多い。さて時代を経るに従って俗ラテン語と文語ラテン語との相違は増大していったが,5世紀ころまでは帝国各地で話されていた俗ラテン語はそれほど大きな地域的差違を含んでいなかったらしい。この頃までに俗ラテン語に起こった,あるいは起こり始めていたと考えられる変化--音質・長短の両者によって区別される母音体系から音質の区別にのみ基づく母音体系への移行,格変化の衰退,冠詞の発生,新たな動詞形態(未来,条件法,受身,完了)の発達など--は,細部における違いは別にして,フランス語を含むすべてのロマンス語に反映されている。ところが西ローマ帝国が崩壊し(476),おのおのの地域が別個の社会的・文化的状況に置かれるようになると,俗ラテン語はいくつもの方言に分化する傾向を強め,ここに個々のロマンス語に向かっての歩みが開始された。
5世紀以降何百年かにわたる期間に,北ガリアの言語は他のロマンス語地域と比べてはるかに〈進んだ〉変化を遂げるにいたる。一方,南ガリアの言語は出発点となった俗ラテン語にずっと忠実であった。このようにしてフランスの北部にはオイル語(フランス語),南部にはオック語,そして南北の境には言語的にも両者の中間的な性格を示すフランコ・プロバンス語が,この時期に形づくられた。なお,フランス語に独自な性格の形成に影響を及ぼしたとしばしば指摘されるのが,5世紀後半にまず北ガリアを手中に収め,のちその王国(フランク王国)を南部にまで広げたフランク人の言語習慣である。フランク人は,すでにローマ化していたガリア人(ガロ・ローマ人)に対して政治的には優位に立ったものの文化的には劣り,彼らガロ・ローマ人と混じり合う一方その言語を習得し,約4世紀にわたる2言語併用ののち,本来の言語たるゲルマン系のフランク語を忘れ去った。だが彼らは,俗ラテン語から完全に消滅していたhの音を北ガリアの地に再び導入し(現代フランス語に残る,いわゆる〈有声のh〉),軍事や社会生活全般に及ぶかなりの数のゲルマン起源の語(hache〈斧〉など)をフランス語にもたらした。さらに,フランク人の元来もっていた強・弱のアクセントの差を際だたせる発音上の傾向が,開音節強勢母音ẹ,ọの二重母音化など,北ガリアに特徴的な音声変化の原因ではなかったかと考える学者もいる。
現存するフランス語最古の文献は,《ストラスブールの宣誓Serments de Strasbourg》(842)と呼ばれる,軍事・外交上の記録である。フランス語史の上では普通,この頃から1350年ころまでを古フランス語,その後1600年ころまでを中期フランス語,以後現代までを近代フランス語と区別する。古フランス語は二重母音,三重母音あるいは破擦音などを有し,名詞,冠詞,形容詞に格変化(主格と被制格の2格)を残すなど,現代フランス語とは相当異なる特徴を備えていた。この時期のオイル語地域には数多くの方言が話されていたが,13世紀以降パリが政治・文化の中心地となるに及び,フランシアン方言に基づく文学語が台頭し,話し言葉の面でもパリを中心にして徐々に共通語が形成されていった。なお,1066年のノルマンディー公ウィリアムによる征服に伴い,フランス語はイギリスにももたらされ,英語の語彙に多大の影響を及ぼすことになった。
中期フランス語は,12世紀にその〈古典期〉に達した古フランス語の体系が崩れ(重母音の単音化,格変化の消失など),近代フランス語の種々の要素が形づくられていく,転換期のフランス語としてとらえることができる。百年戦争(1339-1453)の結果,国王による中央集権化が促進され,パリのフランス語は国語としての地位を確立する。フランス語はこれまでラテン語が用いられていた分野にも進出し,フランス語による理論書や宗教的著作が現れ,またビレル・コトレの王令(1539)によって,あらゆる訴訟手続きにおけるフランス語の使用が義務づけられた。ルネサンス期にはイタリア語から多くの語が導入され,また書物を通じてラテン語からの借用が盛んに行われたほか,派生語,合成語も多数作られた。その結果,16世紀のフランス語はきわめて豊富な語彙を有する言語となったが,反面,差違の分明でない類義語を数多くもつなど,未整理の部分をも内包していた。
17世紀に入ると,絶対王政治下の政治的・社会的条件を背景に,フランス語を純化し,その規範を確立しようとする動きが高まってくる。多数の文法家の活動やアカデミー・フランセーズの設立(1635)により,規範の設定が〈よき慣用〉,すなわち主として宮廷における言葉遣いをよりどころにしながら行われていった。16世紀の〈過剰な〉語彙は整理されて一語一語の意味が明確に限定される。一方,文意を明晰にするための正確な語法(冠詞や主語人称代名詞使用の強制,〈一致〉の規則)が規定され,発音や綴り字についても標準が定められた。17世紀に確立した規範は18世紀以降の国語にも引き継がれ,現代フランス語に至るまで強い力を及ぼしている。語彙の面における大きな変容(新たな社会生活に即した新語やことに英語からの借用語の増大)はあったにせよ,フランス語の構造は基本的には17世紀以来変わっていない。フランス革命は国内の方言,他言語を圧迫しつつ,それまでおもに限られた社会階層の共通語であったフランス語を民衆の間に広めようとした。その後も学校教育の普及や交通・通信手段の発達によって,フランス語はその流通範囲を著しく拡大していった。フランス語は特に18世紀以降,広く国外の上流階層の間に教養語として広まり,また,今日では英語にその地位を奪われているものの,18世紀初頭から第1次世界大戦後に至るまで外交用語としても優位を保った。
まず音韻の面では,16の母音(i,e,ɛ,a,ɑ,ɔ,o,u,y,φ,œ,ə,ɛ~,ɑ~,ɔ~,œ~)と20の子音(p,b,t,d,k,ɡ,f,v,s,z,ʃ,ʒ,l,r,m,n,ɲ,j,w,ч)が区別される。母音の種類が際だって多く(ただしɑがaに,œ~がɛ~に統合される傾向が見られる),またその中に鼻母音が含まれること,rがふつう口の奥で調音される摩擦音であることなどが注目される点である。アクセントは単語を個々に発音する場合には最終音節の母音に,文中では,意味上のまとまりをなす語群からなり,ひと続きに発音される〈リズム段落〉の最後の母音に置かれる。アクセントの有無にかかわらずすべての音節が常に明瞭に発音されること,単語のレベルでは発音されない語末子音が語群中では母音の前で復活し,その母音と1音節を形成する,いわゆる〈リエゾン〉の現象をもつこともフランス語の特徴である。
次に文法面においては,名詞に文法上の性(男性・女性),数(単数・複数)による区別があること,動詞の体系が複雑であること(不定詞,分詞のほか,主語の人称に応じて語形変化する〈時称形〉をいくつかずつ含む直説法,接続法,条件法,命令法を有する),前置詞の機能がラテン語よりはるかに大きくなっていることなど,ロマンス諸語全体に共通する特徴のほか,他のロマンス語には見られないフランス語の性格として,次のような点があげられる。動詞の〈時称形〉(命令法は除く)に関して,人称による語形変化が退化し,主語が名詞である場合以外は常に,主語人称代名詞が要求されること,名詞の単数・複数に関しても,名詞の音形そのものによってではなく(綴り字上は,単数形に〈発音されない〉sを付けて複数形を示すのが原則),それに先立つ冠詞の語形などによって識別される場合が多いことなどである。
最後にフランス語の語彙に関していえば,ラテン語に由来するものが大多数を占める。ただし俗ラテン語期から今日に至るまでとだえることなく使われ続け,現在も基本語彙の根幹をなす,いわゆる〈民衆語mot populaire〉と,古フランス語期以来,書き言葉としての中世ラテン語から,あるいは特にルネサンス以降は古典ラテン語から意識的に借用された,抽象語をはじめとする多量の〈学識語mot savant〉とを区別することができる。〈民衆語〉にはガリア語やゲルマン語起源の語が含まれ,また〈学識語〉にはギリシア語やアラビア語起源の語も含まれるが,フランス語の語彙にはこのほか,オイル語方言やオック語,イタリア語(特に15~18世紀),英語(特に17世紀以降)その他の言語からの借用語が見いだせる。他のロマンス語と比べ音韻変化の著しかったフランス語には,これを規則的に被った〈民衆語〉を中心に,1音節語等の短い語や同音異義語が数多く存在する点も注目される。
日本でフランス語が学習され始めたのは19世紀初頭,長崎の地においてである。開国を迫る外圧が高まるにつれ,オランダ語以外の西洋語を理解する必要を感じた徳川幕府は,1808年(文化5),本木(もとき)庄左衛門(正栄とも。1767-1822)ほか5名のオランダ通詞にフランス語学習を命じたのであった。開国後は蕃書調所(ばんしよしらべしよ)でフランス語の学習・教授が始められた(1860)ほか,フランス政府の協力のもとに,通訳やフランス語に通じた士官養成の機関として横浜仏蘭西語学伝習所が設立(1865)され,フランス人による教授が開始された。維新以後は新政府の欧米文化導入政策を背景に,外国語,ことに英語を中心とする洋学塾が明治初期に隆盛を見たが,日本フランス学の始祖といわれる村上英俊(ひでとし)(1811-90)の主宰する達理堂,フランス留学から帰った中江兆民の開いた〈仏学塾〉ではフランス語が講じられ,多くの門弟を集めた。官立の教育機関では幕末の開成所を引き継いだ大学南校,また東京外国語学校(1873設立)などでフランス語教育が行われたが,ことに法学や兵学の分野で重んじられたフランス語は,司法省明法寮(1871設立)や陸軍士官学校(1874設立)の教科にも採り入れられた。しかし明治憲法の制定をきっかけにドイツ系の学問が盛んになるに及び,当初より英語優勢の教育界においてフランス語の占める相対的勢力はさらに減少した。このような英語,ドイツ語,フランス語の外国語教育における勢力関係は,根本的には覆されることなく今日に及んでいるが,この間明治・大正・昭和を通じて,特にフランス文学の研究や翻訳・紹介が活発に行われ,日本の文学界に大きな影響を及ぼしてきた事実は見のがせない。なお,第2次世界大戦後の学制改革に伴い,フランス語はドイツ語と並んで多くの新制大学で第2外国語として採用されるにいたり,また,種々の語学機関や放送,レコード,テープを通じての教育・学習が盛んになったことにより,フランス語学習者の数は戦前に比べ飛躍的に増大した。
執筆者:長神 悟
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
…ノルマン人は本来北欧人で,10世紀にフランス王はこれを懐柔するため彼らに土地を与え,その首領を封建諸侯に列せしめた。彼らは短期間にフランスの言語と文化を吸収したが,その言語はノルマンディー方言だったので,これをノルマン・フレンチNorman‐French(略称NF)と呼んでパリを中心とする中央のフランス語Central French(略称CF)と区別された。ノルマン・コンクエスト後イギリスの支配階級や高級聖職者はほとんどノルマン系に占められ,またノルマンディーはじめフランス内にいくつかの領地を保有し続け,英仏間の往来が続いたので,支配階級の間ではフランス語が日常語であり,ラテン語とともに公用語,公文書,文学の言語としても用いられた。…
… 言葉によってすべてが表現できるというフランス古典主義文学の基底的了解も,このような政治的・社会的コンテクストにおいて意味をもつ。リシュリュー以来の文化政策の根幹が国語としてのフランス語の統一と洗練にあったように,芸術表現においてもフランス語という分節言語こそがすべての言語態に立ちまさる統一的媒体となった。それが一部知的選良のサロンで純粋詩のようなものとなる代りに,単に宮廷だけではなく,宮廷をも巻き込んで,町民階級を中心とする無名の群集に呼びかける演劇とその劇場とをみずからの舞台としたことは,この言葉中心主義の文化の戦闘的でもあり解放者的でもある様相を雄弁に語っている。…
…しかし,統一された文語の成立にはいたらず,13世紀中ごろからの騎士階級の没落とともに,文学語の均一性は再び失われた。 この時代には,騎士文化の隆盛とともに,フランス語から,宮廷・騎士文化に関する多数の語が借用されたが,それらの語の多くは今日失われている。また,動詞を派生する‐ierenをはじめ,今日でも用いられる種々の接尾辞もフランス語から借用された。…
…(4)語彙のきわめて多くの部分を外来語が占めている。従来からアラビア語がきわめて多く(たとえばTürk Cumhuriyeti〈トルコ共和国〉のCumhuriyetはアラビア語,Türkと‐iはトルコ語),ペルシア語もかなりあり,近代になってはフランス語が多く入っている(例:sinema〈映画〉,istasyon〈駅〉)。 トルコ語の歴史は,10~11世紀に小アジアへ移住したセルジューク族とオグズ族の言語(チュルク諸語の一つ)に始まり,14世紀以後のオスマン帝国時代の言語を経て,1923年,共和国の誕生とともにトルコ共和国語が確立した。…
…改正点としてとくに注目されるのは,王権による言語の統一と戸籍制度の法制化であり,いずれも王権による支配の貫徹をはかったものである。言語については,全王国の国王裁判所において,判決その他訴訟文書はすべて〈母語なるフランス語langage maternel françois〉にて記さるべし,と定めた(第111条)。これはラテン語に対するフランス語の優位を宣明すると同時に,南フランスで広く用いられていたオック語や,ブルトン語,バスク語,その他諸方言の使用を禁じ,王権の基盤である北フランスのオイル語を国家語として強制するものであって,王権による中央集権の重要なてことなった。…
…正式名称=フランス共和国République française面積=54万7026km2人口(1996)=5831万人首都=パリParis(日本との時差=-8時間)主要言語=フランス語通貨=フランfrancヨーロッパ大陸の西部にある共和国。ヨーロッパに位置する本国のほかに,世界各地に海外県,海外領土をもっている。…
…正式名称=ベルギー王国Koninkrijk België∥Royaume de Belgique∥Kingdom of Belgium面積=3万0528km2人口(1996)=1018万人首都=ブリュッセルBruxelles(日本との時差=-8時間)主要言語=フラマン語(オランダ語),ワロン語(フランス語)通貨=ベルギー・フランBelgian francヨーロッパ北西部にある立憲君主国。北はオランダ,東はドイツ,南東はルクセンブルク,南はフランスと境を接し,西は北海に面して65.5kmの海岸線を形づくりイギリスに対する。…
…これこそ中世の普遍主義を体現するものであった。第2の層は,王権の基盤である北フランスのオイル語,とりわけパリ地域で用いられてきたフランシアン方言を基準とする標準フランス語であった。人文主義者の一人J.デュ・ベレーは《フランス語の擁護と顕揚》(1549)において,この美しい〈フランス語〉を擁護する。…
…ロマンス語は今日ヨーロッパおよびアメリカ大陸を中心に,全世界で5億人にのぼるとも推定される人々の日常語として広く使用されている。〈ロマンス語〉また〈ロマン語〉という名称に含まれる〈ロマンス〉〈ロマン〉(英語Romance,ドイツ語romanisch,フランス語roman)なる語は,字義どおりには〈ローマ風に〉を意味する中世ラテン語のromaniceにさかのぼるものであり,古代ローマ人の言語に発するその起源を端的に物語っている。
[分類・分布]
ロマンス語の分類に関してはさまざまな試みがなされているが,19世紀末に死滅したダルマティア語(かつてアドリア海東岸に分布)を今日使用されているロマンス語に加えたうえで,次のような分類が考えられる(配列順序はヨーロッパにおける分布をおおよそ西から東にたどったもの)。…
※「フランス語」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
小麦粉を練って作った生地を、幅3センチ程度に平たくのばし、切らずに長いままゆでた麺。形はきしめんに似る。中国陝西せんせい省の料理。多く、唐辛子などの香辛料が入ったたれと、熱した香味油をからめて食べる。...
12/17 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新
11/21 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新
10/29 小学館の図鑑NEO[新版]動物を追加
10/22 デジタル大辞泉を更新
10/22 デジタル大辞泉プラスを更新