人類遺伝学(読み)ジンルイイデンガク(英語表記)human genetics

デジタル大辞泉 「人類遺伝学」の意味・読み・例文・類語

じんるい‐いでんがく〔‐ヰデンガク〕【人類遺伝学】

ヒトを対象として遺伝現象を研究する、医学・生物学の一分野。細胞遺伝学臨床遺伝学集団遺伝学遺伝カウンセリングなど、幅広い範囲の研究が含まれる。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「人類遺伝学」の意味・わかりやすい解説

人類遺伝学
じんるいいでんがく
human genetics

ヒトの身体の特徴や精神など種々の正常および異常形質の起源、発現、遺伝様式、あるいは民族など集団中における頻度や変化などを研究する学問。ヒトの形質には、皮膚や毛髪の色、顔や体の形、手足や骨格など目に見える形質のほか、内臓諸器官や筋肉・神経の生理的機能、体の代謝に関係する各種酵素や血清タンパクなど生化学的な形質がある。また、動作や運動など行動面での特徴もある。このような種々の正常および異常の形質について、家系調査に基づく顕性、潜性および伴性などの遺伝様式の判定、集団を対象とした資料の収集とその統計的分析による遺伝子頻度の算定など、ヒトの個人または集団についての研究から、その形質発現を支配する染色体の構造や数の変化などの細胞遺伝学的な研究、さらには酵素やタンパク質、核酸などの分子レベルでの研究など、広い範囲の研究が含まれる。

 人類遺伝学の研究によって、個人、家族、民族および人類の生物学的素質が明らかにされ、個人または民族の心身両面にわたる特徴、長所、短所などを、それらがまだ現れない前に予知することができるようになる。ことに各種遺伝病の予防として、近親結婚を避けたり、配偶者の選択などに人類遺伝学の知識が役だつことは多い。また、染色体異常やある種の先天性代謝異常症、無脳症、脊椎(せきつい)破裂などの形態異常は、妊娠初期の胎児の羊水を検査して、出生前に診断できるようになっている。

 さらにまた、早期に診断がついた遺伝病は、薬物または生化学的療法や外科的手術によって、発病を予防したり、あるいはその症状を軽くすることのできるものがしだいに増えてきた。適当な食事療法によって治療できるガラクトース血症や、フェニルケトン尿症、1型糖尿病(インスリンをつくる膵臓(すいぞう)の細胞が壊れてしまった糖尿病で、関係する四つの遺伝子が同定されている)、ホモシスチン尿症(シスタチオニン合成酵素の欠損症で、尿中に多量のホモシスチンが排泄(はいせつ)される疾患)、アミノ酸代謝異常症のヒスチジン血症(ヒスチダーゼという酵素が遺伝的に異常になり、血中や尿中にヒスチジンやその代謝物が増大する疾患)、チロシン血症(常染色体性潜性遺伝病で、チロシン分解酵素の欠損により血中のチロシン量が増大し、手足の角化症や角膜潰傷をおこす疾患)などがその例である。外科的手術で治療できるものとしては、股関節脱臼(こかんせつだっきゅう)や口唇裂(こうしんれつ)、口蓋裂(こうがいれつ)、多指症、先天性心臓奇形、先天性幽門狭窄(きょうさく)症などがある。

 ヒトの細胞核のなかには、23対、46本の染色体があり、そのうち22対、44本の常染色体は長さの順に1番から22番までの番号がつけられている。このほか女性にはXX、男性にはXYの2本ずつの性染色体がある。ヒトの遺伝子DNAは、それぞれこれらの染色体上の所定の位置に座位していて、2002年このDNA分子のアミノ酸翻訳の際の遺伝暗号単位である全塩基配列が決定された。この各遺伝子DNAは、アデニン(A)、グアニン(G)、チミン(T)、シトシン(C)の4種の塩基、30億対からなるが、そのなかで遺伝子として作用するのは、2~3%とされ、その数も3~10万個と推定されている。このなかで、常染色体上の遺伝子が約8000個、X染色体上の遺伝子が約500個同定されている。各遺伝病については、遺伝子レベルの研究が進み、遺伝子DNAがクローニング(特定の遺伝子DNAをウイルスプラスミドのDNAに組み込ませ、それを大腸菌などの細胞に取り込ませて大量にクローンをつくりだすこと)され、その塩基配列の決定されたものも多い。これらの遺伝病についての分子レベル、細胞レベルでの解析が進むことで、その予防法や治療法も進歩するものと思われる。

 人類遺伝学の成果を人類社会の遺伝的資質の向上や、弱体化防止に応用しようとするのが優生学eugenicsである。とくに1970年ごろより、ヒトの生活環境のなかに種々の変異原物質が検出されるようになり、これらの物質による発癌(はつがん)への影響とともに、人類の遺伝的資質への影響が心配され、その対策についても十分な検討が必要になってきた。

[黒田行昭]

『駒井卓著『人類の遺伝学』(1966・培風館)』『赤池弘次編『科学の中の統計学――現代科学と統計数理の接点』(1987・講談社)』『F・フォーゲル、A・G・モトルスキー著、安田徳一訳『人類遺伝学』1~2(1988、1989・朝倉書店)』『P・J・ラッセル著、太田次郎監訳、今泉佐枝子・清水久美子訳『現代遺伝学』(1990・オーム社)』『大倉興司編『遺伝性疾患への対応――その知識と実際』改訂増補版(1991・講談社)』『原田勝二編『ヒトDNA Polymorphism――検出技術と応用』(1991・東洋書店)』『ダニエル・J・ケヴルズ著、西俣総平訳『優生学の名のもとに――「人類改良」の悪夢の百年』(1993・朝日新聞社)』『安田徳一著『人のための遺伝学』(1994・裳華房)』『福田一郎・劉剛編著『文明と遺伝』(1997・勉誠社)』『ヤン・P・ベックマン著、飛田就一監修『医の倫理課題』(2002・富士書店)』『新川詔夫監修、太田享他著『遺伝医学への招待』改訂第6版(2020・南江堂)』

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改訂新版 世界大百科事典 「人類遺伝学」の意味・わかりやすい解説

人類遺伝学 (じんるいいでんがく)
human genetics

人類における遺伝現象を研究する医学,生物学の一分野で,ヒトの生命現象とその変異遺伝子染色体との関連のもとに研究する学問である。

 ヒトの遺伝子の大部分は細胞の核の染色体に存在し,両親はそれぞれ自己の遺伝子の半分を,精子と卵子(配偶子)の染色体を通して子に伝達する。両親の配偶子からできた受精卵が親に似た個体に発育していく現象は,両親由来の遺伝子の指令が,栄養素などの環境の素材を利用して発現されていく過程とみなすことができる。ヒトの生命現象の根底に遺伝子の働きがあるのである。したがって人類遺伝学の研究成果は,ヒトの生物学を理解するための理論的基盤を与える。さらに人類遺伝学では,変異に注目してその遺伝的原因を問題にする。変異とは同じ生物種のいくつかの個体にほかの個体に見られないなんらかの差が見られることをいい,病気や人種差も含まれる。ヒトでは一卵性双生児を除けば遺伝的に同一である個体は存在しない。しかも,ヒトのさまざまな病気の発生に大なり小なり遺伝子や染色体の変異が関係していることや,輸血や臓器移植に際しては,特定の遺伝子群が当事者間で一致しないといけないことが知られている。したがって人類遺伝学は,現代医学の重要な一分科となっている。このほかに,人類の進化の研究や親子鑑定などにおける個体識別にとっても不可欠の学問である。

 人類遺伝学は1950年代以降,遺伝学のみならずいろいろな分野,とくに分子生物学,生化学,細胞生物学,免疫学,医学,数学の理論や技術を研究に取り入れて急速に進展している。かつてはヒトでは交配実験ができないという研究上の制約があったが,現在ではむしろ,人類は遺伝学研究の対象として多くの利点をもっていると考えられている。その第1の理由は,技術の発達によりヒトの体細胞を取り出して遺伝子,染色体,遺伝子産物を直接分析することや,体細胞レベルで遺伝子の分離と伝達を研究することができるようになったことである。第2の理由は,人類は医学・生物学的にも社会・歴史学的にも最もよく研究されている生物種であることである。さらに,医学的・社会的要請が高まったことも,人類遺伝学の進展を促進している。

 遺伝現象を支配している法則は,基本的にはヒトでも他の生物でも同じである。ヒトの配偶子には,22本の常染色体と1本の性染色体(精子ではXまたはY染色体,卵子ではX染色体)が存在し,その中に全部で約28億塩基対のDNAが含まれ,DNAの特定の領域が遺伝子として働いている。ヒトの体細胞には,22対の常染色体と1組の性染色体(男ではXY,女ではXX)が存在し,その中に約56億塩基対のDNAが含まれていることになる。ヒトの体細胞のミトコンドリアにも母親由来の1万6000塩基対のDNAが存在し,そこに存在するすべての遺伝子の暗号が解読されている。ヒトの配偶子の23本の染色体に存在するDNAは,つなぎ合わせると遺伝的距離で表して約3000センチモルガンの長さになり,塩基の記号(A,T,G,C)を使ってA4判の大きさの本に記載した場合は60万ページを要する膨大な量である。そこに存在する遺伝子の数は,いろいろな遺伝学的データに基づいて5~10万と推定されているが,正確な数は不明である。現在ヒトの遺伝子地図遺伝子)の作成が着実に進展しているが,そこにマップされている遺伝子座は,1983年の時点で常染色体に247種類,X染色体に118種類,合計で365種類である。さらに一部の遺伝子については,遺伝子の全暗号が解読されている。

 遺伝的な原因によって生じる変異を遺伝的変異というが,ヒトの遺伝的変異は遺伝的原因の違いに基づいて,単因子性形質,染色体異常,多因子性形質の三つのカテゴリーに分類されている。第1のカテゴリーの単因子性形質は,単一の遺伝子座の遺伝子によって規定され,メンデル式遺伝をする。1982年の時点で単因子性形質であることが確認されているヒトの遺伝形質は,常染色体性優性形質904種類,常染色体性劣性形質591種類,X連鎖形質116種類で,合計1611種類である。この中には血液型のような正常形質もあるが,多くは単一の突然変異遺伝子によって発症する遺伝病(単因子性遺伝病)である。そのうちの異常ヘモグロビン症では,突然変異遺伝子の暗号が解読されていて,その成果は遺伝病の理論面のみならず,羊水診断のような応用面にも生かされている。さらに約200種の単因子性遺伝病については,特定の酵素の欠乏が同定されていて,それらの単因子性遺伝病の一部では,胎児の出生前診断や新生児の集団スクリーニングテストによる早期発見が実施されている。第2のカテゴリーの染色体異常は,細胞の染色体の数または構造に異常がある場合をいう。染色体異常のある個体は,一部の例外を除いて奇形と知能発達障害を有する。染色体異常の頻度は,妊娠初期の段階で6%以上にも達するが,その90%以上は出生までに自然流産ないし死産の形で失われ,新生児では約0.6%となっている。染色体異常は羊水診断も可能であるが,有効な治療法がない。第3のカテゴリーの多因子性形質は,複数の遺伝子座の遺伝子によって規定される素因と環境因子との相互作用によって発現する形質で,数多くの日常的な正常形質(知能指数,身長など)や病気,例えば先天奇形,アレルギー,成人病,精神病の多くがこのカテゴリーに入る。このカテゴリーの病気(多因子性疾患)の遺伝学的研究は比較的遅れているが,遺伝的本態の解明と予防に役だつ研究成果が徐々にあらわれつつある。

 人類は今や自身の遺伝子を取り出して,構造を分析したり,遺伝子産物を産生させたり,遺伝情報を改変したりする技術をもつようになった。一方,少なくとも欧米先進国では,治療不可能な遺伝病の胎児の出生前診断や妊娠中絶について国民の同意が得られつつある。人類遺伝学の研究成果は,単に遺伝学や人間生物学や医療にとどまらず,文化,社会,経済にも及ぶようになってきている。
遺伝学
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「人類遺伝学」の意味・わかりやすい解説

人類遺伝学
じんるいいでんがく
human genetics

人類を対象とした遺伝学。人類を生物種の一つとして遺伝学の対象とする基礎的側面と,人間生活や文化をも対象とする応用的側面をもっている。したがって,遺伝学が本来もつ幅広さに,人間生活のもつ多様性が加わり,さまざまな分野とのかかわりにおいて細分化,専門化が進んでいる。おもなものに集団遺伝学,臨床遺伝学,遺伝相談などがあり,基礎的側面では近年,細胞遺伝学,遺伝生化学からのアプローチも盛んになってきた。

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世界大百科事典(旧版)内の人類遺伝学の言及

【自然人類学】より

…時間的・空間的変異の研究は,次のようなヒトの身体特性の本質にかかわる研究によって支えられている。身体諸形質の遺伝性を確かめる人類遺伝学,形態と機能の力学的関係,あるいは環境に対する形態的・生理的適応を解明する研究などは,集団間比較の理論的基礎を固めるのに寄与しており,その成果は人類進化,人種形成の研究に大きく貢献している。また,成長,性,人口,疾病などを単なる生物学的現象としてではなく,これを社会的・文化的環境に深くかかわる問題として取り上げた研究も自然人類学の専門分野として重視されている。…

※「人類遺伝学」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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