大黒町(読み)だいこくちよう

日本歴史地名大系 「大黒町」の解説

大黒町
だいこくちよう

下京区室町通五条下ル

南北に通る室町通(旧室町小路)を挟む両側町。町の北側は現五条通に面し、中央を東西に楊梅ようばい通が通る。

平安京の条坊では左京六条三坊二保六町東南隅、五町東北隅、一一町西南隅、一二町西北隅、平安後期以降は楊梅室町小路の地。平安時代、町の東側北半部は北院、同南半部は藤原信家の六条中院であった(拾芥抄)

寛永一四年(一六三七)洛中絵図に「大黒町」とみえ、以後変わらない。「坊目誌」には「慶長以来此名あり」とあるが、詳細は不明。

町内には、明和七年(一七七〇)一〇月二日付の大黒町町式改条々、並びに安政五年(一八五八)五月付の大黒町町儀定書写が残る(田中吉太郎家文書)。両法度とも類似しているので、ここでは、比較的整備された後者から、その一部を抜粋しておく。


大黒町
だいこくまち

[現在地名]長崎市大黒町・中町なかまち恵美須町えびすまち

恵美須町の西、岩原いわはら川河口の右岸にある長崎そと町の一ヵ町で、船手に属した。北から南西にかけて長崎浦に臨み、当初の町域は向船津下むかいふなつした町にかかっていたという。寛文一二年(一六七二)大町の分割策に伴い恵美須町より分立、大黒町と称した(華蛮交易明細記)。同年の間数三五五間・実箇所数八八余・諸役御免箇所三(長崎県史)。元禄二年(一六八九)改の間数三五五間四尺余で、八八箇所余のうち三箇所が諸役御免(長崎拾芥)。同九年改の新地築立は六五坪(華蛮交易明細記)。同一一年後興善うしろこうぜん町からの出火で全焼。文化五年(一八〇八)の長崎市中明細帳では町の縦の長さ一五一間五尺余・幅平均二間一尺余で坪数六千二七坪余(地子銀一貫六七七匁九分)・築地ほか一千一四二坪余(同一貫七八匁八分余)、箇所数九〇、竈数二〇八・人家二四六、人別五五九、酒造高二石、持船九。


大黒町
だいこくちよう

東山区大和大路三条下ル東側

西は大和大路。大黒町の地は延宝二年(一六七四)の四方洛外町続之町々小名之覚(荻野家文書)にまず「新屋敷大和大路」として出、次いで正徳四年(一七一四)の洛外町続町数小名家数改帳(同文書)に「弐拾三軒 大和大路大黒町」とみえる。洛中の町組には属さず雑色支配に終始した。「旧高旧領取調帳」には、「三条縄手大黒町」として金光寺(現下京区)領一斗三升三合をはじめ堀川弘亮知行・櫛田久芳知行など一―二斗ほどの幕末期の高が示される。

当町より東へ矢倉の辻子ずしが通るが、その大和大路への口を同辻子西口、また単に入口という(京町鑑)。なお天保二年(一八三一)刊「京都巡覧記」に「車道下ル東かハ大黒町」とあり、三条通の南、大橋町との間に三条通に並行して三条橋を迂回するための車道が設けられていたことになる。

町内に四ヵ寺があり、四軒寺と称するが、寛文二年(一六六二)新板平安城東西南北町並洛外之図に記載があり、以後変更がない。


大黒町
だいこくまち

[現在地名]函館市大町おおまち弁天町べんてんちよう入舟町いりふねちよう

てら町の北方にあり、大町・弁天町の通り(本町通)の上手(山手)を走る通りに沿う町。「蝦夷島奇観」があげる箱館の一〇町のうちに「大黒町古名裡町」とみえ、古くは裏町(裡町)とも称した。「検考録」によると、当町は「昔は山岸まで海にて、盛漁を祈る為に今の若狭屋宗太郎といへる者の祖、大黒天を祀し故」に大黒町と名付けられたといい、この大黒天は実行じつぎよう寺に納められたと伝える。また古称の裏町は本町通の裏手に位置したことに由来(箱館夜話草)


大黒町
だいこくちよう

中京区六角通麩屋町西入

東西に通る六角ろつかく通を挟む両側町。町の東は麩屋町ふやちよう通。中央部を富小路とみのこうじ通が南北に通っている。

平安京の条坊では、町の北側は左京四条四坊四保九町の南側、同南側は同四保一一町北側の地。町の東地域は一部は同四保の一五町・一六町にも位置する。平安中期以降は、六角富小路の西と一部東にあたる。

御堂関白記」寛仁元年(一〇一七)三月一一日条に

<資料は省略されています>

とあり、藤原保昌の郎等清原致信の小宅が六角富小路の当町にあって、殺害事件に巻込まれている。

町名は、寛永一四年(一六三七)洛中絵図に「大黒丁」、「都すゞめ案内者」で「大こく町」、宝暦一二年(一七六二)刊「京町鑑」で「大黒町」とあり、変化はない。


大黒町
だいこくちよう

下京区七条通油小路東入

町の北は東西に通る七条通(旧七条大路)、南は下魚棚しもうおのたな通、東は南北に通る西洞院にしのとういん(旧西洞院大路)、西は油小路あぶらのこうじ(旧油小路)に囲まれる。

平安京の条坊では左京七条二坊三保一三町南側及び同八条二坊四保一六町北側にあたり、平安中期以降は七条西洞院大路西南の地。応永三二年(一四二五)の酒屋交名(北野天満宮史料)によれば、当町には「大夫木澄」と称する酒屋が所在。

町名は寛永一四年(一六三七)洛中絵図に「大黒丁」とあり、以後変化はない。


大黒町
だいこくちよう

[現在地名]宇都宮市西にし三丁目・一条いちじよう三丁目・西原にしはら二丁目

日光街道筋の町人町で、北は蓬莱ほうらい町、南はうたはし町に続き、東は郭内すじ、西は伊賀いが町の武家屋敷地。宇都宮氏時代から三面大黒天の祠堂があったのが町名の起りと伝える。松平忠弘時代の城下図(東大史料編纂所蔵)に町名がみえる。蓬莱町とともに七の日に市が立った。宝永七年(一七一〇)の町分掃除丁場は七番組一二〇間のうち三四間を受持ち、城内草刈人足は一九人を差出す(宇都宮史)


大黒町
だいこくちよう

中京区河原町通三条下ル

町の西寄りを南北に河原町かわらまち通が通り、東側は高瀬たかせ川が南流する。北側は三条河原町の交点南側にあたる。

町名は、筆描図系の寛永以後万治以前京都全図に「大こく丁」とみえ、以後変化はない。木版図系では承応二年(一六五三)新改洛陽並洛外之図に「山さき丁」とみえ、正徳・享保間京大絵図の頃まで変化はない。宝暦一二年(一七六二)刊「京町鑑」は「大黒町」とし、以後変化はない。


大黒町
だいこくちよう

[現在地名]伏見区東大黒町・西大黒町

竹田たけだ街道が南下して伏見に入る道筋と、丹波橋たんばばし筋が西へ延びて伏見街衢の果てに達しようとする道筋とがつくる直角の西北部。竹田街道筋の東側を海老屋えびや町、西側を東大黒町といい、ともに竹田街道に一方だけが面する片側町で、西大黒町は東大黒町の西裏。

大黒町を東西に分ける呼称は、早くから一般化していたようで、寛文一〇年(一六七〇)山城国伏見街衢並近郊図にも西大黒町の記載がある。


大黒町
だいこくちよう

[現在地名]堺市宿屋しゆくやひがし二―三丁

両替りようがえ町の東にあり、大工町だいくちよう筋を挟む両側町。町名の由来について「堺鑑」は「大黒町ト云アリ、是モ大師大黒天ヲ勧請シ玉フ故也」と記す。元禄二年(一六八九)堺大絵図に「大黒町」とみえる。大工町筋より一本東の絹屋町きぬやちよう筋に面した西頬には「六条之前」、また大工町筋の一本西の十間じゆつけん筋に面した一帯には「るいすの町」という異称がある(申唱之町名「堺市史」所収)。前者は宿屋寺しゆくやてら町の六条成就ろくじようじようじゆ寺西門前に位置することにより、また後者は江戸初期の貿易商西宗真(洗礼名ルイス)が住んだことによる(→本受寺


大黒町
だいこくちよう

東山区大黒町通松原下ル三丁目

大黒町だいこくまち通(耳塚みみづか通)に位置。南は音羽町辻子おとわちようのずし、北は柿町かきまち通。

町名は寛文五年(一六六五)刊「京雀」に「五条橋より東へ四すち目」に「大こく町」とみえるのが早い。宝暦一二年(一七六二)刊「京町鑑」に「其(山城町)南町▲大黒町 此町に橋有。清水寺音羽滝の下流也」とある。この町の面する街路に寿延じゆえん大黒天だいこくてん(→北御門町の所在したことにより、通り名・町名ともに大黒町を名乗る。


大黒町
だいこくまち

[現在地名]鹿児島市大黒町など

呉服ごふく町の南に位置。しも町一二町の一。北は金生かなふ(木屋町)、東は堀江ほりえ町、南はしん(鹿児島県地誌)。天保城下絵図に町名がみえ、下町会所・火見櫓が描かれている。同会所は城下三町の中心で、三町惣年寄が任じられていた(列朝制度)。琉球入記(旧記雑録)によれば、当町の桶屋折田嘉兵衛は下町年行事役を勤め、帯刀を許されたという。


大黒町
だいこくまち

[現在地名]武生市蓬莱ほうらい町・もと町・きよう町一丁目

ほん町を北行して西折した北陸街道沿いの町で、再び北折すると室町むろまち通に出る。寛永二年(一六二五)の浅井永記録は当町を「中町六十三軒」と記し(南条郡誌)、正徳元年(一七一一)府中惣絵図より当町名がみえる。安永三年(一七七四)の前田家文書では八三軒(武生市史)


大黒町
だいこくちよう

上京区猪熊通椹木町上ル

南北に通る猪熊いのくま(旧猪隈小路)の両側町で、南は椹木町さわらぎちよう(旧中御門大路)。平安京の条坊では左京一条二坊二保四町の東側と、同五町の西側の地で、平安中期以降は勘解由小路かげゆこうじ猪隈小路の南の地にあたる。平安時代四町の地は官衙町の「外記町」、五町の地は「官厨家」に相当する(拾芥抄)

応永三二年(一四二五)一一月一〇日付の酒屋交名(北野天満宮史料)から、当時この辺りに酒屋があったことがわかる。


大黒町
だいこくちよう

[現在地名]岡山市中納言町ちゆうなごんちよう

山陽道に沿って発達した両側町。東は細堀を隔て門田かどた武家屋敷、南は小橋こばし町、西は細堀を隔て重臣下屋敷、北は下片上しもかたがみ町。寛永城下絵図には町名の記載はない。慶安城下絵図では「東すくも町」、延宝二年(一六七四)の御触留(国富文書)では大黒町とみえる。


大黒町
だいこくまち

[現在地名]姫路市大黒壱丁町だいこくいつちようまち

姫路城南東の外曲輪に位置する町人町。内京うちきよう口門を出た所、東魚ひがしうお町・坂田さかた町の北にある。町名は大黒屋という料理茶屋があったとか(大正八年刊「姫路市史」)、東魚町との関係で商家の縁起を祝って名付けられたという説がある。山陽道と但馬街道が交差する地で慶安二年―寛文七年(一六四九―六七)の侍屋敷新絵図に町名がみえる。


大黒町
だいこくちよう

上京区浄福寺通上立売上ル

南北に通る浄福寺じようふくじ通を挟む両側町で、町の南側は上立売かみたちうり通。

寛永一四年(一六三七)洛中絵図に「鶴屋丁」とみえ、延宝六年(一六七八)刊「都すずめ」は「大黒町」。宝暦一二年(一七六二)刊「京町鑑」に「大黒町 又一名、鶴屋つるや町とも云」とあり、両町名が併用されたらしい。


大黒町
だいこくまち

[現在地名]福井市順化じゆんか二丁目

伝馬てんま町の東に続く町で、東は片原かたわら町、北はうお町、南はこめ町。慶長年間北庄四ツ割図では東西の二町に分れ、家数は各々一四軒・一五軒。正徳三年(一七一三)頃の御城下惣町間数帳は「大黒町 六拾九間、伝馬町ヨリ片原町迄、但東西二町分、但道幅三間」と記す。


大黒町
だいこくちよう

中京区釜座通夷川下ル

南北に通る釜座かまんざ通を挟む両側町。町の北側は夷川えびすがわ(旧冷泉小路)が通る。

平安京の条坊では、左京二条三坊二保四町の中央部の地。

町名は、寛永一四年(一六三七)洛中絵図に「大黒町」とみえ、以降変化はない。

当町には、琴所の神田近江(貞享二年刊「京羽二重」)、謡の吉田七右衛門、小鼓の幸清(宝永二年刊「京羽二重」)、薬種問屋(京羽二重織留大全)、茶入袋屋(京独案内手引集)などが居住。


大黒町
だいこくちよう

下京区仏光寺通寺町西入

東西に通る仏光寺通(旧五条坊門小路)を挟む両側町で、町の東寄りを南北に御幸町ごこまち通が通る。

平安京の条坊では町の北側は左京五条四坊四保一五町南、町の南側は同三保一四町北側にあたり、平安時代中期以降は五条坊門富小路とみのこうじの地。


大黒町
だいこくまち

[現在地名]福山市大黒町

いま町の北に続く両側町。水野氏時代の後期にできた町並で、町名は商家の縁起ものである恵比須大黒にちなんだものであろう。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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