常光寺(読み)じようこうじ

日本歴史地名大系 「常光寺」の解説

常光寺
じようこうじ

[現在地名]福島市清明町

鷹峰山と号し、曹洞宗。本尊虚空蔵菩薩。福島城下の曹洞宗寺院の中心として板倉氏福島藩四ヵ寺制の筆頭とされ、板倉氏の在所における菩提寺でもあった。山号の鷹峰山は当地の西郊にある大森城おおもりじよう山の別称で大森で創建された。永正三年(一五〇六)遠江国中田なかだ(現静岡県森町)雲林うんりん寺四世劫外長現の開山という。天正一〇年(一五八二)三世の寒窓正碩は大森城主伊達実元から方木田ほうきだ村に八町八反余の田畑を下賜されたといわれる(寺誌)。同地の一部は第二次世界大戦後の農地改革まで寺有とされ、中興開基として実元の位牌を今も奥院に安置している。また天正一九年の大崎・葛西一揆鎮圧に出陣した豊臣秀次徳川家康は、下り上りともに当寺に宿営し、その恩賞として一〇〇貫文の田畑を伊達郡飯野いいの(現飯野町)掛田かけだ(現霊山町)の内に与えたという(「差出控」寺蔵文書)

寒窓は方木田村の寺領に松場山閑居東堂を設けて道場としたが、文禄二年(一五九三)頃からの木村吉清による福島城経営に従って、福島城下の現在地に移ったとされる。


常光寺
じようこうじ

[現在地名]八尾市本町五丁目

大信だいしん寺の東方、八尾神社との間にある。臨済宗南禅寺派、山号初日山、本尊地蔵菩薩。八尾地蔵堂の称で知られる。寺伝によると行基の創建で、当初は新堂しんどう寺と称し聖武天皇の祈願所であったという。弘仁年間(八一〇―八二四)に小野篁彫刻の地蔵菩薩を安置したと伝え、また寛治二年(一〇八八)白河上皇熊野参詣の時、当寺に寄り仏舎利を奉納したともいう(応永六年「常光寺縁起」寺蔵)。南北朝時代、八尾の土豪八尾別当権僧正顕幸が当寺や八尾城を拠点に南朝に属して活躍したが、彼が大和吉野へ行っている間に、北朝方の伊香賀いかが(現枚方市)地頭土屋宗直らが八尾城に立籠った。この八尾城を常光寺付近と考えると、南朝の高木遠盛らが延元二年(一三三七)に攻めた時、当寺は焼払われたとみられる(→八尾城跡。至徳二年(一三八五)当地の土豪と考えられる藤原盛継が復興に着手、翌年常光寺地蔵堂を興し、従来の新堂寺は本堂南に移築された(前掲縁起)。本尊もこの頃の作といわれる。同四年には仏堂前の鰐口が奉納され、その銘に「河内国八尾西郷常光寺地蔵之也 嘉慶二年戊辰三月廿四日 檀那又五郎大夫」とあり、又五郎大夫藤原盛継が発願し自ら奉納したことが知られる。


常光寺
じようこうじ

[現在地名]結城市結城 白銀町

金明山と号し時宗。本尊阿弥陀如来。常光寺血脈(常光寺文書)によれば、永仁五年(一二九七)他阿真教が建立し、金明山天照てんしよう院常光寺と名付け、弟子の直道を住持としたのが始まりという。天正一七年(一五八九)結城晴朝は常光寺に勧進を認めて次のような朱印状(同文書)を与えている。

<資料は省略されています>

この頃、まだ白金しろがね町は成立していなかったから、常光寺も現在地と異なったところにあったと想定されるが、旧地は不明。文禄(一五九二―九六)から慶長初めの頃、結城秀康の重臣高木長次は常光寺に「昼之時被為遊候間、諸役之儀以円阿弥御侘言ニ付而披露申候処ニ、則御免所之由ニ候」(同文書)という文書を与えている。

寺伝によれば、秀康から寺領一五石を宛行われたという。


常光寺
じようこうじ

[現在地名]渥美町堀切 除地

堀切ほりきりの西方山麓にある。霊松山と号し、曹洞宗。本尊聖観世音菩薩。境内一八二〇・七坪。当寺にある応永元年(一三九四)から享保四年(一七一九)にかけての「常光寺年代記」によれば、「応仁二潔堂応請作開山祖、山号霊松寺曰常光」とあり、もとは海上観音を安置した慧月けいげつ庵であったが、潔堂義俊の巡錫以来常光寺となったと伝える。当寺に准大臣従一位烏丸大納言藤原資任の位牌を祀る。応仁元年(一四六七)資任は京都の兵乱を避けて所領地の伊良湖いらごに逃避し、同年九月八日潔堂によって剃髪(渥美郡史)


常光寺
じようこうじ

[現在地名]伊万里市伊万里町甲

伊万里町の中央にある。山号は神通山。浄土宗。本尊は阿弥陀如来。開山は慶長一三年(一六〇八)、源誉。寺宝として鍋島家紋付幕と提灯、閻魔坐像がある。

鍋島家抱宮旧記によれば、源誉は能登国穴水あなみず城主右京太夫長氏の息で天文一二年(一五四三)生れ。上杉謙信の攻撃に遭い父長氏の宗族が滅亡、京都大雲院の貞安のもとに投じた。天正年間(一五七三―九二)豊臣秀吉の命を受け西下、平戸ひらど(現長崎県平戸市)誓願せいがん寺の五世住職となり、切支丹宗化を防ぎ浄土教を布教。


常光寺
じようこうじ

[現在地名]青森市本町一丁目

もとのてら町の西端にあり、東に正覚しようがく寺がある。青森山と号し、曹洞宗。本尊釈迦如来。もと弘前長勝ちようしよう寺末寺。

開基は若狭出身の天芸で、北陸地方からの移住者の多い青森町に曹洞宗寺院のないのを憂え、善知鳥うとう(安方町)に草庵を結び教化に努めた。両三年で信徒四、五百軒に及んだので、本堂・庫裏・大門などを建立し、慶安元年(一六四八)藩主の許可を得て寺号を称した。承応二年(一六五三)現在地に移ったが、長勝寺一四世聖眼(雲祝)を通じて移転改築の許可を得たことから、聖眼を開山とし、義喚(長祝)を二世、天芸自身は第三代を名乗ったという(青森市史)


常光寺
じようこうじ

[現在地名]楠町大字東吉部

舟木市ふなきいちから萩への旧往還に沿って開けた吉部市きべいちの南にある。浄土真宗本願寺派で杉谷山と号し、本尊は阿弥陀如来。

「地下上申」では寺敷として六石三升の除高を得ている。「注進案」によれば、開基教道は美祢郡伊佐いさ杉谷すぎたに(現美祢市)に住んでいた大内義隆の家臣岩村彦右衛門尉政俊の子で、京都の端之坊はしのぼうの弟子となり法名教道と名乗った。


常光寺
じようこうじ

[現在地名]館林市仲町

市街の中央付近、なか町の北東にある。東向山普賢院と号し、浄土宗。本尊は阿弥陀如来。天正五年(一五七七)円蓮社光誉の開山で創建されたという。光誉は当時館林城東方にあった善導ぜんどう寺に来て幡随意に師事、同寺が館林城下に移転したのち、跡地の草堂を再興して常光寺と称したと伝える。慶長年間(一五九六―一六一五)榊原康勝の帰依により現在地に移った。延宝二年(一六七四)の城下町図にみえ、南は千眼せんげん寺境内に接している。安永三年(一七七四)一二月二三日西北約三〇〇メートルのところにあった塚場つかば惣徳そうとく院から出火し、付近の民家と当寺も類焼し、その後二〇世義眼により再建された。


常光寺
じようこうじ

[現在地名]大和高田市旭北町

高田たかだ城跡内に位置し、城主当麻氏の菩提寺。金谷山無量寿院と号し、浄土宗。本尊は阿弥陀如来。開山盛誉。文明三年(一四七一)の草創という。延享三年(一七四六)の寺院本末改帳控(専立寺文書)によれば、当麻たいま(現奈良県當麻町)奥院の末寺で、開基は当麻雅楽佐為長。本堂は六間四面、庫裏は桁行一二間・梁間三間、地蔵堂・鎮守熊野権現社を祀る。境内は東西二八間・南北四一間の除地と記される。


常光寺
じようこうじ

[現在地名]玉山村日戸 古屋敷

日戸ひのとのほぼ中央、日戸館跡の東に位置する。日照山と号し、曹洞宗。本尊釈迦如来。「御領分社堂」には常光寺持として薬師がみえ、同堂の別当を兼ねていた。寛永七年(一六三〇)の建立で、開基は梵積という(管轄地誌)。伝えでは五世の代にきた野辺地のへじ(現青森県上北郡野辺地町)へ移転、六世の代に山号を日照山と改め、寛政七年(一七九五)日戸村野田のだ太屋たやから現在地へ移転したという。


常光寺
じようこうじ

[現在地名]韮崎市清哲町青木

清哲町青木せいてつまちあおき集落の西部、徳島とくしま堰のほとりにある。武隆山と号し、曹洞宗。古くは真言宗であったという。本尊は薬師如来。慶応四年(一八六八)の書上(寺記)によれば大永六年(一五二六)の草創で、開山は海秀玄岱、開基は青木信定という。近世は積翠寺せきすいじ(現甲府市)興因こういん寺の末寺で、慶長八年(一六〇三)青木村内で黒印地一石七斗二升、黒印境内六九〇坪を与えられている。


常光寺
じようこうじ

[現在地名]野辺地町 寺ノ沢

通称した町にあり、東は路地を隔てて海中かいちゆう寺である。日照山と号し、曹洞宗。本尊は釈迦牟尼。寛政年間(一七八九―一八〇一)の「邦内郷村志」に「常光寺 日照山報恩寺末寺」とある。藩政期末の南部領寺社鑑写(岩手県盛岡市中央公民館蔵)によれば現米二〇石を給されている。寛永九年(一六三二)の草創で、開基は日戸内膳、開山は盛岡報恩ほうおん寺七世慶室と伝える(新撰陸奥国誌)


常光寺
じようこうじ

[現在地名]吹田市岸部中三丁目

浄土真宗本願寺派、山号昭眼山、本尊阿弥陀如来。貞享三年(一六八六)住持貞巡の記した覚(「吹田の歴史」所収)によると、応仁の乱で焼失した真言宗正源しようげん寺の跡地に永正元年(一五〇四)村持の惣道場として創建されたという。寺蔵の諸色覚之記は証如下付の本尊裏書を伝え、京都興正寺門徒である「岸辺惣道場」に下付されたことがわかる。なお同記によると、木仏・寺号免許は寛永四年(一六二七)、七高祖・太子像は寛文一一年(一六七一)、宗祖影像は延宝元年(一六七三)の下付である。


常光寺
じようこうじ

[現在地名]石下町若宮戸

若宮戸わかみやど集落北部に所在。遍照山と号し時宗。本尊阿弥陀如来。一遍の法孫白道の開基と伝えられ、白道は当寺の過去帳によると元応元年(一三一九)八月六日没。幾度か火災に遭遇し、記録・古文書は少なく、沿革は不詳。旧蔵の梵鐘の銘に「享保六辛丑天十二月歓喜日 神田住御鋳工丹波定正当作」とあった。天保八年(一八三七)の御朱印寺社書上帳(新井家文書)によれば除地高四斗。


常光寺
じようこうじ

[現在地名]小山市中央町三丁目

小山駅の南西にあり、遍照山摂取院と号し、浄土宗。本尊阿弥陀如来。寺伝によれば応長元年(一三一一)其阿が時宗念仏堂として創建。慶長七年(一六〇二)小山政種を中興開基とし、長廊呑随を中興開山として再興、そのとき以来浄土宗となった。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

日本大百科全書(ニッポニカ) 「常光寺」の意味・わかりやすい解説

常光寺
じょうこうじ

大阪府八尾(やお)市本町にある臨済(りんざい)宗南禅寺派の寺。初日山(しょにちざん)と号する。本尊の延命地蔵像は平安時代の名匠小野篁(おののたかむら)の作と伝え、同寺は通称八尾地蔵堂で知られている。745年(天平17)行基によって開かれた寺で、当時は新堂寺と称した。1088年(寛治2)白河(しらかわ)法皇が堂宇を建て、さらに1386年(元中3・至徳3)豪族藤原盛継(もりつぐ)によって伽藍(がらん)が建立された。境内には八尾別当顕幸(ありゆき)の墓、1615年(元和1)大坂夏の陣で戦死した藤堂高虎(とうどうたかとら)方の七十一士の墓などがある。嘉慶(かけい)2年(1388)銘の鰐口(わにぐち)は重要美術品。

[菅沼 晃]

出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例

事典・日本の観光資源 「常光寺」の解説

常光寺

(滋賀県甲賀市)
湖国百選 社/寺編」指定の観光名所。

出典 日外アソシエーツ「事典・日本の観光資源」事典・日本の観光資源について 情報

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