平氏(読み)へいし

日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

平氏(へいし)
へいし

皇族賜姓(しせい)の豪族。平安前期に律令国家(りつりょうこっか)が衰退し皇室経済が窮迫し始めた結果、経費を軽減するため皇族に賜姓し臣籍に降下することが一般的となった。平氏はそうした皇族賜姓の一つで、源氏と並んでもっとも代表的なものである。「平(たいら)」の姓の由来は明らかでないが、桓武天皇(かんむてんのう)が平安京の創始者であるところから平安の本訓タイラの語をとったという説もある。[田中文英]

平氏の諸流

平氏は9世紀初頭から成立し始めるが、桓武天皇の子孫が賜姓した桓武平氏のほかに、仁明天皇(にんみょうてんのう)の子本康親王(もとやすしんのう)、文徳天皇(もんとくてんのう)の子惟彦親王(これひこしんのう)、光孝天皇(こうこうてんのう)の子是忠親王(これただしんのう)の後裔(こうえい)も平姓を授けられ、それぞれ仁明平氏、文徳平氏、光孝平氏の名でよばれた。やがてそのなかで桓武平氏が主流をなすに至った。[田中文英]

桓武平氏

桓武平氏は桓武天皇の4皇子、葛原(かつらはら)、万多(まんだ)、仲野(なかの)、賀陽(かや)の各親王の子孫から出た。まず825年(天長2)に葛原親王の子高棟(たかむね)王、889年(寛平1)同じく高見(たかみ)王の子高望(たかもち)王、862年(貞観4)万多親王の子正躬(まさみ)王、正行(まさゆき)王、867年には仲野親王の子茂世(しげよ)王、利世(としよ)王、惟世(これよ)王、873年賀陽親王の子孫幸身(ゆきみ)王、時身(ときみ)王らに平姓が与えられた。したがって、桓武平氏には四つの流れがあることになるが、そのうちもっとも活躍したのは葛原親王の流れであり、それはさらに平高棟と平高望の二つの系統に分かれてそれぞれ別個の道を歩んだ。[田中文英]

平高棟の系統

平高棟は正三位(しょうさんみ)大納言(だいなごん)にまで進み、その子惟範(これのり)も『延喜式(えんぎしき)』の編纂(へんさん)に参加して従三位(じゅさんみ)大蔵卿(おおくらのきょう)になるなど、この系統はいずれも中央で貴族としての地位を維持した。平安末期には、平時信(たいらのときのぶ)の子権大納言(ごんだいなごん)時忠(ときただ)が平清盛(きよもり)の側近として活躍し、女(むすめ)時子は清盛の室、同滋子(しげこ)は後白河上皇(ごしらかわじょうこう)の妃として高倉天皇(たかくらてんのう)を産み、時信の弟兵部卿(ひょうぶのきょう)信範(のぶのり)は摂関家の家司(けいし)を務め、日記『兵範記(へいはんき)』を残すなど、目覚ましい活動を示した。この系統の子孫はその後も中流貴族として残った。[田中文英]

平高望の系統

高見王の子平高望の子孫は、高棟の系統とは対照的に武士階級として発展し、桓武平氏のなかで主流となった。高望は賜姓ののち上総介(かずさのすけ)となって任国に土着し、その子国香(くにか)、良兼(よしかね)、良将(よしまさ)らは近隣の国衙(こくが)の官人になって勢力を拡大した。10世紀初め良将の子将門(まさかど)は叔父国香を殺し、承平(じょうへい)・天慶(てんぎょう)の乱を起こしたが、国香の子貞盛(さだもり)らに鎮圧された。
(1)伊勢平氏(いせへいし) 貞盛の子維衡(これひら)は、10世紀ごろ伊勢国(三重県)に所領を獲得していたが、やがて伊勢守(いせのかみ)になるとそこを根拠地として勢力を拡充し、伊勢平氏の祖となった。その曽孫(そうそん)正盛(まさもり)は、白河上皇(しらかわじょうこう)に接近して北面武士(ほくめんのぶし)、検非違使(けびいし)、追討使(ついとうし)などになって活躍し、その子忠盛(ただもり)も白河・鳥羽(とば)両院政の軍事的支柱となって中央政界に進出し地歩を築いた。忠盛の子清盛は、父祖の築いた地盤を踏まえて保元(ほうげん)・平治(へいじ)の乱を勝ち抜き、ついに1167年(仁安2)太政大臣(だいじょうだいじん)に昇って平氏政権を樹立した。しかし、やがて院、貴族、寺社などの政治勢力や、在地の武士階級との対立を招き、源平争乱が勃発(ぼっぱつ)し、1185年(文治1)伊勢平氏の一門は長門(ながと)壇ノ浦(だんのうら)の戦いで滅亡させられた。
(2)坂東八平氏(ばんどうはちへいし) 平高望の子良文(よしぶみ)、良茂(よししげ)らの子孫は、千葉、上総(かずさ)、秩父(ちちぶ)(畠山(はたけやま))、土肥(どひ)、三浦(和田)、大庭(おおば)、梶原(かじわら)、長田(おさだ)らの諸氏に分かれて東国に勢力を築いたので、これらを総称して坂東八平氏という。しかし、平忠常(たいらのただつね)の乱を追討した源頼信(みなもとのよりのぶ)、前九年・後三年の役(えき)を制圧した源頼義(よりよし)・義家(よしいえ)父子らによって、源氏の東国支配が進展すると、その勢力のもとに組織されていった。その後、彼らの多くは、源平争乱に際し源頼朝(よりとも)の挙兵に応じてその主力部隊となり、鎌倉幕府の成立とともに御家人(ごけにん)の中核を占めた。
(3)北条(ほうじょう)氏 平貞盛の子維将(これまさ)の子孫は、時家(ときいえ)の代に伊豆介(いずのすけ)となり、伊豆北条を根拠に北条氏を興した。その孫時政(ときまさ)は、伊豆配流中の源頼朝に女政子(まさこ)を嫁がせ、頼朝が鎌倉幕府を成立すると重要な地位を占めるに至った。その後、北条氏は坂東八平氏の梶原、畠山、和田、三浦らの諸氏を滅ぼし、執権政治を行って幕府の実権を掌握した。この北条氏は、源氏の新田(にった)・足利(あしかが)両氏に滅亡させられたので、南北朝期以降、武家政権の交替を合理化するものとして源平交迭(げんぺいこうてつ)の思想が生じ、織田信長、豊臣秀吉(とよとみひでよし)らが平氏を称したこともある。[田中文英]
『渡辺保著『源氏と平氏』(1955・至文堂) ▽竹内理三著『日本の歴史6 武士の登場』(1965・中央公論社)』

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