福井県嶺南(れいなん)、敦賀湾に臨む港湾都市。1937年(昭和12)敦賀町と松原村が合併して市制施行。1955年(昭和30)に東浦(ひがしうら)、東郷(とうごう)、中郷(なかごう)、愛発(あらち)、粟野(あわの)の5村を編入して旧敦賀郡全部を市域とする。JRの北陸本線と小浜線(おばません)の分岐点にあたり、北陸自動車道、舞鶴若狭自動車道、国道8号(塩津街道)、27号(丹後(たんご)街道)、161号(西近江路(おうみじ))、476号が通じる。面積251.41平方キロメートル、人口6万4264(2020)。
[島田正彦]
若狭湾(わかさわん)東部の敦賀湾は陥没性の深い湾入で、西部の敦賀半島が北西季節風を遮るため、今日でも大きな防波堤などを要しない自然の良港である。敦賀湾と琵琶(びわ)湖北岸の間は断層の集中する破砕帯にあたり、この断層の谷を通れば野坂(湖北)山地を容易に越えることができたので、敦賀は奈良・京都から琵琶湖を経て日本海岸に出る最短路にあたり、古くから大陸への門戸、また北陸地方の玄関口であった。記紀の荒血(あらち)山、愛発関(あらちのせき)もここにあったと推定される。湖北三港(海津(かいづ)、大浦、塩津)へ通じる道のうち、山中(やまなか)を経て海津に至る七里半越(西近江路)が早くから知られた。なお、現在の市街は海岸の浜堤上にあるが、背後の低湿地は陸化が遅れて長く内海または潟湖(せきこ)を残し、古代には気比神宮(けひじんぐう)前に着船できたと推測される。
[島田正彦]
『日本書紀』垂仁(すいにん)天皇2年の条に、任那(みまな)の王子都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)が笥飯浦(けいのうら)に漂着して角鹿(つぬが)と名づけたとある。また仲哀(ちゅうあい)天皇2年の条には、天皇が角鹿に行幸して笥飯宮を建てると記される。現在、市街地東部に鎮座する気比神宮であり、祭神の伊奢沙別命(いざさわけのみこと)(新羅(しらぎ)の王子天日矛(あめのひぼこ))は古くから海上の守り神であった。神宮の摂社角鹿神社は都怒我阿羅斯等命を祀(まつ)る。奈良時代初期、角鹿は敦賀と改められるが、平安時代の初め渤海(ぼっかい)など外国使節接待のため松原客館が置かれ、北陸道諸国の貢納物もここから京へ運ばれた。中世には荘園(しょうえん)の年貢米をはじめ物資の中継地としてますます重要となり、運送専門業者の問丸(といまる)が生まれ、川舟座など廻船(かいせん)業者も活躍した。江戸初期は小浜藩、のちその支封敦賀藩領で、港は北陸、東北諸藩の蔵米、特産物の輸送に蝦夷(えぞ)地交易が加わり、西浜町を中心に繁栄を極めた。1672年(寛文12)西廻(まわり)航路が開かれると、移出入額は3分の1に激減したが、蝦夷の松前(まつまえ)物は敦賀に陸揚げされた。1899年(明治32)開港場となり、第二次世界大戦前は朝鮮の羅津(ラチン)、ソ連(現、ロシア)のウラジオストク間に定期航路をもつ国際港であった。戦後は木材輸入が主で、対岸貿易の困難で港勢は低迷していたが、1987年(昭和62)から新港建設が始まり、1996年(平成8)に完成。中国、韓国との間でコンテナ定期便が運航しているほか、苫小牧(とまこまい)、新潟、秋田との間にフェリーが通じる。
[島田正彦]
市街南部の低地に人絹、木材、化学、セメントなどの工場が進出した。また、敦賀半島先端近くには日本原子力発電の敦賀発電所があり、その西の白木(しらき)に日本原子力研究開発機構(旧、核燃料サイクル開発機構)の高速増殖炉「もんじゅ」がある。同所にあり、1979年に運転を開始した新型転換炉「ふげん」は2003年に運転を終了した。地場産業にはかまぼこ製造や松前交易以来のコンブ加工がある。北陸トンネル工事で温泉(トンネル温泉)が湧出した。
[島田正彦]
国指定史跡に中世の山城(やまじろ)である金ヶ崎城跡(かながさきじょうせき)、武田耕雲斎等墓、中郷古墳群、国の名勝に気比の松原、西福寺書院庭園、柴田氏庭園がある。気比の松原から敦賀半島にかけては若狭湾国定公園域で、歌枕(うたまくら)の色ヶ浜、気比神宮の摂社で神功(じんぐう)皇后を祀る常宮(じょうぐう)神社があり、国宝の朝鮮鐘を蔵する。気比神宮は越前一宮(えちぜんいちのみや)で、本殿などは戦災で焼失したが、大鳥居は国指定重要文化財。「敦賀西町の綱引き」は日本海沿岸の小正月(こしょうがつ)行事の好例で、国指定重要無形民俗文化財。敦賀湾東岸の杉津(すいづ)一帯や、『万葉集』などに詠まれた五幡(いつはた)山は越前加賀海岸国定公園に属す。市街地東方の中池見(なかいけみ)湿地は2012年(平成24)ラムサール条約に登録された。
[島田正彦]
『『敦賀市史』全9冊(1977~1988・敦賀市)』▽『天野久一郎著『敦賀経済発達史』(1943・海光堂書店)』
福井県中央部,若狭湾東端の敦賀湾奥に臨む港湾都市。1937年市制。人口6万7760(2010)。古来,大陸人の来着で知られた自然の良港で,背後の山地は断層谷によって容易に琵琶湖北岸へ越えることができた。このことがここを畿内から北陸に至る門戸としていっそう重要にし,中・近世を通じて日本海側諸地方の物資を中継して栄えた。1882年北陸本線が通じ,99年には開港場となり,第2次世界大戦前は朝鮮の羅津,ソ連のウラジオストク間に定期航路をもつ国際港で,シベリア鉄道と結んでヨーロッパへの最短路であった(2006年ウラジオストク航路再開)。戦後は木材輸入が主となり,対岸貿易の困難さから港勢は低迷した。市街は旧笙(しよう)ノ川と児屋(こや)川間の浜堤を占め,背後の低湿な三角州に戦後,人絹,木材,化学,セメント,電気機器などの工業が進出した。水産物集散地で,コンブ製品とかまぼこが特産物である。越前国一宮気比(けひ)神宮のほか,市街の西に気比の松原(名),柴田氏庭園,北に金崎(かねがさき)城跡(史)などがある。また,1969年市域北西部の敦賀半島先端に近い浦底に日本原子力発電株式会社の敦賀発電所が建設された。敦賀駅でJR小浜線を分岐し,北陸自動車道敦賀インターチェンジがある。
執筆者:島田 正彦
古代には角鹿(つぬが)と呼ばれた。《日本書紀》に崇神天皇の時〈額(ぬか)に角おひたる人,一の船に乗りて,越の国の笥飯浦(けいのうら)に泊れり。故(かれ),其処をなづけて角鹿と曰ふ〉という所伝を載せる。この人は意富加羅(おおから)国の王子都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)と名のったという。この地が早くから朝鮮方面との交渉をもったことを反映するものである。〈敦賀〉の字は731年(天平3)の越前国正税帳に初めて見える。《日本霊異記》には,聖武天皇の世,平城京左京の住人楢磐嶋(ならのいわしま)が大安寺の修多羅分(すたらぶん)の銭30貫を借り,越前〈都魯鹿(つるが)の津〉に持参して交易したことが記され,《延喜式》によると,北陸道諸国から京都へ進納する官物はいずれも敦賀津を経由したことが知られる。この地にはまた松原駅が置かれていた。大陸との通交のために松原客館も設けられ,919年(延喜19)若狭国丹生浦に来た渤海使の一行をここに遷送したのをはじめとする渤海使の接遇や,その後の宋商の来航に際してしばしばこれが利用された。1065年(治暦1)9月1日の太政官符には,敦賀津において勝載料と号して運上調物を割き取ることを禁じたことが見える。これらはいずれも敦賀が要津であったことを示す事実である。
中世の敦賀は日本海岸屈指の要港として,いっそう繁栄した。鎌倉中期,延暦寺領越前国藤島荘上下郷から進納される勧学講料米1680石が敦賀に運ばれ,この地の問の監督の下に江丁(えちよう)の手で陸揚げされ,馬借により近江海津に送られたこと,その際,問の得分として100石に1石,海津までの駄賃として1石に2斗が給される定めであったことが知られ(勧学講条々),あるいは鎌倉末期,通行税として敦賀津枡米の徴収が行われ,それが地元の気比社の所得となったり,ある時には奈良西大寺や山城の醍醐寺,祇園社など中央社寺の修造料に充てられているなどの事実は(《吉田家文書》《西大寺文書》),物資集散地としての敦賀の繁栄を物語っている。《太平記》巻十七が恒良・尊良両親王や新田義貞らの船遊びのことを記すくだりに,〈嶋寺ノ袖ト云ケル遊君御酌ニ立タリケル〉と見え,津に遊女がいたことが知られるのも,その繁栄ぶりをしのばせる。戦国期には,川舟座,河野屋座など廻船業者の組織する舟座があり,大名朝倉氏の保護・統制の下にあった。交通の要地はまた軍事的要衝でもある。源平争乱の時,源義仲軍に敗れた平通盛が〈津留賀城〉に籠り(《吾妻鏡》),《太平記》巻三十九には,元寇に際し東山道・北陸道の兵が敦賀の津を固めたと記し,また1336年(延元1・建武3)の秋,後醍醐天皇の旨を奉じた新田義貞は,北国に落ちて金崎城に拠った。朝倉氏が一族を郡代としてここに置いたのも,敦賀の重要性にかんがみてのことである。
執筆者:須磨 千穎 1573年(天正1)朝倉氏滅亡後,織田信長は敦賀に武藤舜秀を置いた。武藤氏は,当初信長の代官として敦賀にあったが,75年越前一向一揆が信長によって圧伏させられたのを契機に敦賀の領主となった。83年賤ヶ岳(しずがたけ)の戦のあと蜂屋頼隆が敦賀に入り,笙ノ川西岸に平城を築いた。この城は1615年(元和1)の一国一城令によって破却された。蜂屋氏のあと1587年大谷吉継が入部したが,1600年(慶長5)の関ヶ原の戦に西軍にくみし,敗死した。合戦の直後は徳川氏の代官権田小三郎の手にあったが,同年末には越前一国を領することになった結城秀康の所領の一部となった。23年福井藩主松平忠直が配流されたあと一時幕領となる。翌24年(寛永1)当時若狭小浜藩主であった京極忠高に与えられた。34年京極忠高が出雲松江に転封になったあとに,老中の一人であった酒井忠勝が入り,敦賀もその領地の一部となり,2人の町奉行の支配下に置かれた。
近世初期の敦賀は,北国諸大名の領主米の運送から保管・販売にいたるすべてを一括して握り,巨富を築き上げたいわゆる初期豪商,道川(どうのかわ)氏,小宮山氏(高島屋)などを中心に大きく発展する。江戸時代に入ると北国の領主米が上方市場へ送られる中継港として,若狭の小浜とともに最盛期を迎えた。64年(寛文4)には,2670艘が入津し,米75万6000俵,大豆10万俵が陸揚げされた。その前年の63年,敦賀の町数は41町,家数2903軒,人口1万5101人を数えた。82年(天和2)には,北国諸大名17人の蔵宿が置かれていたほか,俵物,銅,鉄,松前物,材木,紅花青苧(べにばなあおそ),多葉粉,四十物(あいもの),塩,茶,御服の諸問屋,地域別の国問屋があった。しかし,1672年河村瑞賢によって西廻航路が整備されるなかで,敦賀への北国からの入津船,入津量は激減し,享保期(1716-36)には最盛時の1/3~1/4にもなり,その後も減少しつづけた。だが,安政~文久(1854-64)のころ諸大名の京都警護役がはじまり,また長州征伐などで下関海峡の通航が不自由になるなかで,敦賀への入津船が増加し,一時の活況を呈した。一方,港の衰微とは別に,江戸時代中期以降,北前船の船主が敦賀にも多く現れ,活発な商業活動を展開した。
1864年(元治1)武田耕雲斎をはじめとする823人の水戸浪士は,一橋慶喜に心事を訴えるために上洛しようとするが,敦賀において派遣された諸大名の軍勢に行く手をはばまれ,降伏し,全員が処刑された(天狗党の乱)。
執筆者:藤井 譲治
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
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出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報
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