デジタル大辞泉 「武蔵野」の意味・読み・例文・類語
むさし‐の【武蔵野】
東京都中部の市。住宅地として発展。中心は
[補説]作品名別項。→武蔵野
関東平野西部に広がる洪積台地の武蔵野台地をいう。北西を入間(いるま)川,北東を荒川,南を多摩川の沖積低地で限られ,西端の関東山地山麓から東端の山手台地まで東西約50kmに及ぶ広大な台地で,数段の段丘面からなり,標高20~190m。沖積地からの比高は10~40mに達している。砂礫層の上に関東ロームと呼ばれる厚い火山灰層がのり,水が乏しいため開発は遅れた。江戸時代に入って神田上水(1591),玉川上水(1654),野火止(のびどめ)用水(1655),千川上水(1696)などが開削され,享保年間(1716-36)以降しだいに新田開発がすすみ,武蔵野新田が形成されていった。しかし,新田が広がっていく江戸時代以降も,武蔵野はススキの原に雑木林が点在する土地として,その風景が愛されてきた。古代から台地の中の湧水地や台地の東部をきざむ河川沿いに小さな村がつくられていたが,焼畑や野火で周囲の照葉樹林を主とする森林が破壊され,その結果,広大なススキ草原が出現した。これが武蔵野の原風景である。このススキ草原は繰り返し行われた火入れや野火で維持されて江戸時代までつづき,一部では現代まで存続している。ところが江戸時代に入って江戸が大都市として成長を始めると,武蔵野台地東部は山手として武家屋敷や寺社が置かれ,それにつづく部分は一躍,近郊農村として野菜や薪炭などを供給する役割をになうこととなった。とりわけ木炭の生産が重要で,ススキ原では,原料の薪を供給するため,街道沿いを中心にケヤキ,コナラ,クヌギ,シデなどが植林された。これらは20~30年間隔で伐採されたが,根元から再び新芽が出る傍芽更新により存続してきた。これが〈武蔵野の雑木林〉である。
明治の後半からは中央本線や私鉄各線が通じるようになり,景観は徐々に変化しはじめ,関東大震災以後は東京郊外の住宅地となって,国木田独歩の《武蔵野》に描かれるような昔の面影をとどめるところが少なくなった。たとえば杉並区の井荻は,かつては田畑と山林が交錯する中に村落が点在する,典型的な武蔵野の村であったが,1925年土地区画整理組合を発足させ,村ぐるみ郊外住宅地へと変身していった。中野区,杉並区,世田谷区の宅地化は昭和10年代にはほぼ終わり,武蔵野の面影は現在の武蔵野,三鷹,小金井,国分寺,国立,小平などの各市に求められたが,それも昭和30年代には薄れてしまった。現在ではわずかに西東京・東村山各市の一部や井の頭公園などで往時をしのぶよりない。
執筆者:小泉 武栄+小木 新造
《万葉集》巻十四,東歌にはここに生きる素朴な民衆の生活が歌われる。固有の植物としては〈うけらが花〉(キク科の多年草)がある。《古今集》巻十七の〈紫の一本(ひともと)故に武蔵野の草はみながらあはれとぞ見る〉(読人しらず)以降,〈紫〉が武蔵野の代表的植物として文学にあらわれる。歌舞伎《助六由縁江戸桜(すけろくゆかりのえどざくら)》に用いる助六の鉢巻の〈江戸紫〉もこの流れである。
執筆者:奥村 恒哉
東京都中部の市。1947年市制。人口13万8734(2010)。東は杉並区,北は練馬区,西東京,南は三鷹市と接し,市街地が連続する。市域には江戸初期の新田開発による短冊形地割りが残り,吉祥寺,西窪(現,西久保),関前,境などの地区名は新田開拓者の出身地名に由来する。1889年甲武鉄道(現,JR中央本線)が開通して境駅(現,武蔵境駅)が,99年に吉祥寺駅が開設され,関東大震災後,近郊住宅地として本格的に発展した。昭和に入って中島飛行機,横河電機などの軍需工場が相次いで進出,人口も急増した。第2次大戦後も一部の工場は引き続き操業を続けており,さらに都営住宅や公団住宅の進出も相次ぎ,東京大都市圏の代表的な通勤都市となった。吉祥寺駅はJRと京王井の頭線の乗換駅で,駅前はバス・ターミナルともなっており,このため駅前,とくに北口は早くから商店街が形成されたが,さらに中央線の複々線化や井の頭線の輸送力増強などに伴い後背地の人口増加が顕著で,駅周辺には大型百貨店や各種専門店,金融機関,飲食店などの進出がめざましく,中央線沿線では新宿に次ぐ商業中心地となっている。市内には成蹊大学をはじめ文教施設が多い。
執筆者:井内 昇
国木田独歩の短編小説。1898年1~2月,《今の武蔵野》の題名で《国民之友》に分載。第1小説集《武蔵野》(1901)に収められた。1896年9月から翌年4月まで当時武蔵野の面影を残していた渋谷の岡の上に住み,近郊の林や野道や小川のほとりを散歩して得た印象を新鮮な感覚で描いた作品。伝統的な松林の美しさなどではなく,秋から冬にかけての武蔵野の落葉林の美しさを中心に描くについては,文中に引用されている二葉亭四迷訳のツルゲーネフ作《あひゞき》の影響が著しい。独歩の最初の口語体小説としても,二葉亭に負うところがある。徳冨蘆花の《自然と人生》と並んで自然描写文学の傑作とされ,日本人の感受性に強い影響を与えた。
執筆者:山田 博光
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
東京都と埼玉県の南部にわたって広がる洪積台地。北西は荒川の支流の入間川(いるまがわ)、北東は荒川、南は多摩川で境され、東西の長さ約50キロメートル。東京都青梅(おうめ)市の中心市街地を要(かなめ)として扇状に広がり、標高は青梅の約180メートルから順次低下し山手台地(やまのてだいち)の東縁部で20~40メートルである。なお、多摩湖、狭山(さやま)湖のある狭山丘陵は一段と高く、波状の起伏があり、多摩丘陵と共通の地形、地質をもっている。
[沢田 清]
武蔵野台地は青梅を扇頂とする扇状地状の地形であるが、下末吉(しもすえよし)、武蔵野、立川(たちかわ)の各段丘面に分かれる。下末吉面は約12万~13万年前に形成された海成層からなる浅海の海底面が隆起したもので、東京の淀橋(よどばし)、荏原(えばら)、田園調布の各台地に続き、高さは30~60メートルである。武蔵野面は台地の大部分を占め、6万~10万年前に形成、古多摩川の隆起扇状地である。標高は東京で20~40メートルで下末吉面よりは低い。立川面は国分寺崖線(がいせん)とよぶ明瞭(めいりょう)な段丘崖で境され、1万~2万年前に形成されたものである。台地は富士山の火山灰からなる関東ローム層が厚さ約20~30メートルで表面を覆っている。このローム層に由来する褐色でほこりっぽい赤土が特色で、乾燥すれば黄塵(こうじん)となって天を覆い、雨天では泥まみれになり、冬には霜柱がたつ。また、地下水面が低く乏水性で、農地として開発されにくく、古くはシイやカシなどの照葉樹林(常緑広葉樹林)が覆っていたと推定される。
台地は井の頭(いのかしら)池を通る南北線を境とし、以東が山手台地とよばれ、多くの侵食谷があり、その崖(がけ)の湧水(ゆうすい)は池となって緑地を提供している。
[沢田 清]
古くは牧野で、一部は焼畑耕作されたが、原野のまま残されていた。「むさしの」の「さし」は焼畑を意味するともいわれている。本格的な開発は江戸時代からで、1654年(承応3)江戸の上水道として開かれた玉川上水、およびその分水の野火止用水(のびどめようすい)(1655)、千川用水(せんかわようすい)(1696)などの用水路が開かれてから、砂川(すながわ)、小平(こだいら)などの新田集落が開発された。この新田村は街道沿いの短冊型地割によって屋敷とケヤキなどの屋敷森、畑、山とよぶ原野が配列される街村型の特色をもっている。しかし、ハケとよぶ崖は湧水に恵まれ、国分寺や野川(のがわ)の水田耕作など古くから開発されていた。台地は高燥な平坦(へいたん)面で住宅地として適しており、明暦(めいれき)の大火(1657)後、吉祥寺や連雀(れんじゃく)町(三鷹(みたか)市)など江戸から移転して町をつくったが、関東大震災、さらに第二次世界大戦を機として都市化が急激に進み、多くの衛星都市が発達し、東京の都市圏として武蔵野は大きく変化した。都市化には中央本線や多くの私鉄が大きく影響し、東京と結ぶ東西方向の交通が発展しているのに比べ、南北方向の交通は遅れている。都市化のなかで、井の頭自然文化園、善福寺池(ぜんぷくじいけ)や石神井池(しゃくじいいけ)の緑地、神代植物公園(じんだいしょくぶつこうえん)、蘆花恒春園(ろかこうしゅんえん)などは古い武蔵野のおもかげを残し、都民のレクリエーション地として親しまれている。
[沢田 清]
東京都中部、杉並区の西、練馬区の南西に接する市。1947年(昭和22)市制施行。1889年(明治22)吉祥寺(きちじょうじ)など4村が合併した際、武蔵野(武蔵野台地)にあることから武蔵野村と命名された。南端の井の頭(いのかしら)池のある谷を除く大部分が台地で平坦(へいたん)である。東西方向にJR中央本線が通じ、吉祥寺駅から南東へ京王電鉄井の頭線が、武蔵境駅から南西へ西武多摩川線が発している。江戸時代から本格的に開発が始まり、吉祥寺の名は、明暦(めいれき)の大火(1657)後、神田駿河台(かんだするがだい)水道橋詰の吉祥寺門前の住民がこの地に移住したことに由来する。典型的な路村(ろそん)で、北西―南東方向の道路(五日市街道)沿いに集落が立地した。吉祥寺駅の開設は1899年であるが、関東大震災を機に都市化が進み、第二次世界大戦後は急激に発達した。現在では区部と同じく既成市街地として工場・学校の新増設が制限されている。住宅衛星都市で、学者などが多く住み、好適な住宅環境づくりに市民が協力している。吉祥寺駅周辺は三多摩(さんたま)地区と23区の間の一中心地として、デパートや金融機関が進出、中心商店街としてにぎわっている。成蹊大学(せいけいだいがく)、亜細亜大学(あじあだいがく)、日本獣医生命科学大学(旧、日本獣医畜産大学)、武蔵野陸上競技場、NTT武蔵野研究開発センター、市民文化会館などがあり、南端の井の頭公園北西部に井の頭自然文化園がある。面積10.98平方キロメートル、人口15万0149(2020)。
[沢田 清]
『『武蔵野市史』(1970・武蔵野市)』▽『『武蔵野市百年史』全3巻(1994~1998・武蔵野市)』
国木田独歩(どっぽ)の短編小説。1898年(明治31)1月と2月に『今の武蔵野』と題して『国民之友』に掲載。のちに、第1作品集『武蔵野』(1901)に収めるときに『武蔵野』と改題。武蔵野の秋から冬にかけての落葉林の美、野、路と夏、武蔵野の範囲や水流、町はずれなど、武蔵野の自然から受けた感じを多面的に描いた散文である。また、96年秋から97年春まで渋谷でのわび住まいの日記、ツルゲーネフの二葉亭四迷(ふたばていしめい)訳『あひびき』(1888)や95年の「小金井散策」などをも収め、構成している。落葉林の詩趣への理解は、ツルゲーネフの『あひびき』に負うところが多い。自然と生活、人間生存への視点にはワーズワースの影響がみられる。独歩の自然観、人生観を示す代表作。
[中島礼子]
『『武蔵野』(岩波文庫・旺文社文庫・角川文庫・新潮文庫)』
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…果実が大きく,梅干しや煮梅に多用される。実梅の豊後梅を代表として,花梅では武蔵野,黒田などは極大輪の品種である。このなかには,萼片が開花とともに反転して,アンズに似るものがある。…
…江戸時代にはしばしば酒戦(しゆせん)と称して酒の飲みくらべが行われたことなどもあって,大杯に対する関心がかなり強く,三都の〈浮瀬(うかむせ)〉のように最大6升5合入りなどの大杯を備えて人気を集めた料亭もあった。また,一般に大杯を〈武蔵野(むさしの)〉と呼んだ。〈飲みつくせぬ〉を広い武蔵野を見つくさぬの意の〈野見つくさぬ〉にかけたもので,内側一面にススキの図柄を蒔絵で施したものもあった。…
…かるたの一種。古くは,〈花かるた〉〈花合(はなあわせ)〉〈武蔵野〉などと呼ばれた。通常48枚の札から成り,1月から12月までの12ヵ月にちなんだ12種類の花や草木がそれぞれ4枚ずつ描かれている。…
…51年(正平6∥観応2)の師直滅亡後,一時は直義党の上杉憲顕がこの地位に就くが,翌年の尊氏下向によって仁木頼章に代えられる。下向した尊氏は直義を殺し,府中,小金井で新田義興の軍を破るが(武蔵野合戦),南朝方の京都占領という事態を迎え,翌年7月に関東の大軍を率いて上洛する。しかし関東では旧直義党や新田党の抵抗がやまず,鎌倉公方(くぼう)足利基氏は入間川に在陣を余儀なくされる。…
…享保年間(1716‐36)に開発を開始し,元文年間(1736‐41)に検地を受けた武蔵野地方の新田の総称。《新編武蔵風土記稿》によれば武蔵野新田の村数は82であるが,それを78(戸数1327)とした文書もある。…
…また郊外の語の意味が,都市周辺の田園地帯を指すものから,しだいにこれらの鉄道沿線に発達した住宅地を指すものへと変わっていった。日本における郊外の変化,発達を記録した優れた文学作品に,国木田独歩の《武蔵野》(1901)と徳冨蘆花の《みみずのたはごと》(1913)がある。前者は鉄道が発達する以前の東京周辺の自然描写と並んで,〈郊外の林地田圃に突入する処の,市街ともつかず宿駅ともつかず,一種の生活と一種の自然とを配合して一種の光景を呈している場処を描写すること〉の詩興を記し,後者では,蘆花が1907年に移り住んだ現在の東京都世田谷区粕谷1丁目の地の生活の変化(蔬菜畑の増加,鉄道開通,地価上昇等)を詳細に記録している。…
※「武蔵野」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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