永泉寺(読み)ようせんじ

日本歴史地名大系 「永泉寺」の解説

永泉寺
ようせんじ

[現在地名]遊佐町直世

落伏おちふしの北方、鳥海山麓にある。山門に至る梵字ぼんじ坂は杉の根が露出し、自然石がよく配置されている。劔龍山と号し、曹洞宗。かつては能登総持寺の直末で中本山。本尊は薬王大菩薩。もと天台宗で道也を開基とする。過去帳に道也は文和年中(一三五二―五六)没とある。応永二年(一三九五)に没した玄翁は、衰えた寺運を再興し曹洞宗に改めた。慶長一七年(一六一二)最上義光から二八石余の寺領を寄進され(飽海郡誌)、元和八年(一六二二)の庄内寺社領目録では尾落伏永泉寺領として高五七石余とある。延宝九年(一六八一)の庄内寺社領高付帳では劔龍山永泉寺領として尾落伏村六石余・横代よこだい(現酒田市)九石・安田やすだ(現同上)一一石余・大町おおまち(現同上)一石余。

永泉寺
えいせんじ

[現在地名]多治見市池田町

国道一九号の南側にある。石動山と号し、曹洞宗。本尊は聖観音。寺伝によると、奈良時代光明皇后の発願によって当地に地蔵院が建立され、行基により可児かに道場となったという。可児道場は地蔵院を中心に明円みようえん院・蓮華れんげ院・観音院・仏光ぶつこう院の一山五ヵ寺からなる。池田五山と称せられて東美濃における華厳宗の一大道場として繁栄したが、鎌倉時代に衰退した。永仁年間(一二九三―九九)には明円院・地蔵院が合併して真言宗明円寺となり、観音院も真言宗に改宗したという。

永泉寺
ようせんじ

[現在地名]弘前市西茂森町一丁目

西茂森にししげもり町禅林街三十三ヵ寺の一つ。宗徳そうとく寺を主座とする下寺のなかにある。藤先とうせん寺と正伝しようでん寺の間に位置、「えいせんじ」とも発音する。金屋山と号し、曹洞宗。本尊は阿弥陀如来。もと耕春こうしゆん院末寺。開山は中山種。開基は不詳。

長勝寺並寺院開山世代調(長勝寺蔵)によれば、初め新屋あらや(現南津軽郡平賀町)にあったとあり、開基は文禄二年(一五九三)とする。寺伝によれば、新屋村村民が金屋かなや(現南津軽郡尾上町)十津とつに同年草庵を建て、中山を庵主に迎えたのが始まりという。のち寺に改めて耕春院の末寺となったが、戦火に見舞われ焼失。

永泉寺
えいせんじ

[現在地名]岡崎市能見町

かぶと山の西麓旧足助あすけ街道に面している。仏日山と号し、曹洞宗。もと滝の万松たきのばんしよう寺末で、本尊大日如来。開山は文亀三年(一五〇三)没の樹庭常意である。もとは大日だいにち堂と称し真言宗であった。慶長六年(一六〇一)伊奈忠次より寺領五石を付けられ、慶安元年(一六四八)八月一七日付家光朱印状(岡崎市史)で朱印地に改められた。

永泉寺
ようせんじ

[現在地名]本荘市出戸町 給人町

出戸でと町にあり、曹洞宗、竜洞山と号し、本尊は聖観音菩薩。本荘藩主六郷家の菩提寺

元和九年(一六二三)六郷兵庫頭政乗が常陸国からの転封に際し、六郷氏の旧地仙北せんぼく六郷ろくごう(現仙北郡六郷町)から移転。元文三年(一七三八)の建立棟札に六郷丹後守政長の名がある(本荘郷土史)

永泉寺
えいせんじ

[現在地名]厳原町豆酘

久保田くぼたにある。玉峯山と号し、曹洞宗。本尊は釈迦如来。文安元年(一四四四)八月筑前春日山の合戦で戦死した宗氏の侍大将豆酘郡主宗盛世の菩提寺として知られる。のち盛世の後裔で当地を知行し、対馬藩の重職を世襲した杉村氏が長く当山と関係を保ち、俗に杉村の寺といわれた。応仁二年(一四六八)四月一三日の宗茂与安堵(酘豆郡判物写、以下同判物写)に「酘豆之郡之永泉寺」とみえ、諸公事が免じられるとともに「くハハたけ」「かないし」などの畠が安堵された(宗茂与安堵状)。文明六年(一四七四)常住物ならびに下人および万雑公事の免除が安堵され(同年三月六日宗盛貞書下)、永正一八年(一五二一)「祓方畠」「菰那壱斗作」「金石」「御翁之畠」などの地の安堵、諸公事の免除、さらに前国分寺をもって善治ぜんじ庵に替えることなどが認められている(同年七月二一日宗盛顕寄進状)

永泉寺
えいせんじ

[現在地名]盛岡市大慈寺町

老梅ろうばい院の東、うわ小路の北角西側にある。盛香山と号し、曹洞宗。本尊は釈迦如来。天正三年(一五七五)尽室長呑が中野なかの新山館しんざんだて(現在の高崩)に一宇を建立、源勝げんしよう(当時は紫波郡土館村にあり)九世天室清耽を招請して開山とし、いつの頃か現在地に移転したという。盛岡藩八代藩主南部利視の実母浄智院の帰依により、享保一四年(一七二九)に伽藍を造営、寺領一〇石を賜り、八幡片原はちまんかたはら町に隠居所を寄進されたとされる。

永泉寺
えいせんじ

[現在地名]守谷町守谷 沼崎

大字守谷の北端に所在。沼崎山松樹院と号し真宗大谷派。本尊阿弥陀如来。延暦元年(七八二)の創建と伝えられ、開山は西賢、往古は天台宗であった。平将門が乱を起こした折、相馬政安が寺領を与え永泉寺と号したと伝えられる。天正元年(一五七三)証正が堂宇を再興し、真宗に改めたといわれ、中興の祖とされる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

事典・日本の観光資源 「永泉寺」の解説

永泉寺

(福岡県嘉麻市)
福岡県文化百選 歴史散歩編指定の観光名所。

出典 日外アソシエーツ「事典・日本の観光資源」事典・日本の観光資源について 情報

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