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中国思想 ちゅうごくしそう

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世界大百科事典 第2版の解説

ちゅうごくしそう【中国思想】

一国の文化ないし思想は,その文化の担当者がいかなる身分職業に属していたかによって決定的な刻印を受ける場合が多い。インドの思想に宗教色が強いのは,文化の担当者がバラモンという祭司階級であったためであるといわれる。これに対して中国思想に政治色が濃いのは,その担当者が士大夫とよばれる政治家・官吏であったという事実によることが多い。
[古代]
 中国思想の根底にはつねに天の観念があるが,そのの崇拝の起源については,従来は農耕生活との関連から説明されるのが普通であった。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

中国思想
ちゅうごくしそう

中国の地域において中国人によって太古以来現代に至るまで生み出されてきた思想の全体をいう。中国哲学といってもほぼ同じ内容のものをさすが、体系性に乏しいものまで含みうるという意味で、思想のほうが哲学よりもさす範囲がやや広い。中国思想はヨーロッパやインドの思想とは異なる古い発祥をもち、それらの思想と相互に影響しあいながらも独自の発展を遂げてきた。[山井 湧]

中国思想の特色

中国思想の特色として次のような事項があげられる。第一に、思想が現実の生活に密着していること。抽象的、理論的な思索に長ぜず、現世を離れた彼岸(ひがん)あるいは形而上(けいじじょう)の世界などを求めることが少なく、現実をいかに生きるか、どうすればよいかを考えることに大きな関心を払ってきた。ただし生活に即して考えるといっても、現実主義とは限らず、現実をどう生きるかを考えるについての理想主義的な思考は大いにありえた。
 第2に、対(つい)の思考形式が顕著であったこと。すべての事物を相対する二つの要素に分けてとらえる思考法で、もっとも典型的なのは陰陽思想であるが、ただ単純に矛盾対立する陰と陽という二つの異なる性格のものとして区分してとらえるのではなく、陰と陽とを相互連関的にとらえ、かつその両者の調和・安定を重んずる。それは、一方に偏った極端を貴ばず、ほどよい中庸を重んずる思考とも相通ずる面がある。なおこの「対の思考」は、思考を進める形式として現れるだけでなく、思想の内容を論述する場合の修辞としての対句(ついく)の表現にも現れる。
 第3に、中国人は古代以来近代に至るまで、終始「天」に対する信仰ないし尊崇の念を抱いていた。天は天空であるが、単に自然現象としての天空であるだけでなく、天は造物主ないし造化の根源であって、人およびその他万物を生み出し、自然界・人間界を主宰し、それらの動きはすべて天命(天の意志)に従って営まれるものと考えられた。だから、人間の住む世界全体を天下といい、それを統治する支配者は天子と称し、天子は天命に従ってその地位につき天下に君臨するものと考えた。また天は人間の生活を取り巻く自然環境の最大のものであるから、本来人間は天に順応し天との調和を図りながら生きてゆかなければならないのであるが、天はさらに上記のとおり人間界のもろもろの営みの主宰者でもあったから、人のなすべきことすなわち「人の道」は「天の道」を模範とし、要するに人は天に随順して生きるべきものと考えるのが中国の伝統的な思想であった。なお、「天下」の観念に関連して華夷(かい)思想というものがあった。漢民族独特の民族意識の現れであって、中華(華夏)という高度の文化をもった漢民族に対して、周辺の異民族を夷狄(いてき)と称して文化の低い野蛮人とみなし、夷は華の文化を仰ぎ華に服属すべきものとし、中華の文化の及ぶ限りの地域が天下であって、それが世界のすべてであると意識した。
 ただし以上の3点は、中国本来の伝統的な思想について指摘したもので、近代・現代の思想には該当しない部分がある。[山井 湧]

中国思想の歴史


 中国思想の歴史は次の四期に分けられる。第1期は太古から前漢の末期、成帝(せいてい)・哀(あい)帝のころ(紀元前1世紀の末期)まで。第2期は前漢末から北宋(ほくそう)の中期、仁宗(じんそう)のころ(11世紀なかばころ)まで。第3期は北宋中期から清(しん)代末期、アヘン戦争(1840~42)のころまで。第4期は清末以後現在までとする。[山井 湧]
第1期――中国思想の展開
第1期は中国思想の成立期である。中国の思想についてわれわれが知りうるのは、殷(いん)代、紀元前15世紀ごろから後のことである。殷代には帝(みかど)(上帝とも)とよばれる天の神を最高神として、各氏族の祖先神、山や川や草木その他種々の神を尊崇し、それらの神々を祀(まつ)って幸いを祈り、また重要な行事は占いによって神意を確かめてから実行に移した。周代にも殷代の上帝信仰を受け継いで天が信仰された。そして周王室の天下統治も政治制度や身分秩序も天の意志(天命)によって保証されるものと考え、天を祀ることは、この支配体制を確認する意味をももっていた。そこで、周の初めに周公が制定したと伝えられる「周の礼」は、天および他の神々を祀る宗教儀礼であるとともに、天下統治のための政治形態や身分制度を規定する礼制でもあった。
 中国思想の本格的な展開は、春秋時代後期から戦国時代にかけての時期(先秦(しん)時代ともいう。前6世紀末~前3世紀末)に始まる。中国思想史上第一の黄金時代で、諸子百家(しょしひゃっか)とよばれる数多くの学派・思想家が輩出した。そのうち主要な思想家群は、儒家(じゅか)、墨家(ぼくか)、名家(めいか)、道家、法家、陰陽家の六家(六つの学派)であった。もっとも早く現れたのは儒家で、孔丘(こうきゅう)(孔子)を祖とし、孟軻(もうか)(孟子)、荀況(じゅんきょう)(荀子)らに受け継がれて発展し、有力な学派となった。儒家は伝統的な礼に立脚し、人倫の秩序と道徳を重んじ、それを実践できる人格(徳)を身につけることを目ざし、そのために仁・義・礼・智(ち)などの徳目を説くとともに、その成果を政治の場に拡大して徳治(為政者の人徳によって民衆の教化を図る理想主義的な政治)を主張した。この「優れた人格の形成」とそれを基盤とする「徳治」の構想は修己治人(しゅうこちじん)(己(おのれ)を修めて人を治む)の道とよばれ、以後長く儒家思想の基本をなした。墨(ぼくてき)(墨子)によって代表される墨家は、儒家と同様に仁や義を説く一面もあったが、半面、儒家を批判し、兼愛交利(自己を愛すると同様に他人をも愛し、自他が相互に利益を施し合う)、節用(倹約)、非攻(非戦論)など、功利主義的な主張をした。
 恵施(けいし)・公孫竜(こうそんりゅう)などに代表される名家(名は「語」の意)は、人の認識や言語の論理を分析し考察した。現在残っている名家の資料は「白馬非馬」のような詭弁(きべん)の命題が多いが、正当なものとしては「至大無外」「至小無内」などのように「絶対」あるいは「無限」の観念も自覚的に論ぜられた。道家の「無」の思想の成立は前記の名家の論理に関する考察の成果と無関係ではなかったと思われる。李耳(りじ)(老(ろうたん)・老子)と荘周(そうしゅう)(荘子)の著作として伝わる『老子』『荘子』によって代表される道家の思想は、「無」という性格をもった「道」を万物の根源としてたて、人はその無なる道に従って生きるべきだとして「無為自然」を説き、世俗の常識的・相対的な価値観にとらわれることなく、もろもろの執着を超越して絶対の境地に至ることが真に自己を全うする生き方であるとした。商鞅(しょうおう)(商子)と韓非(かんぴ)によって代表される法家は、儒家が重んずる自然発生的な不文律「礼」を時代後れのものとして否定し、時代の変化に適合した法(実定法)を制定・公布するとともに、信賞必罰主義によって、貴族・平民を問わずその法を厳格に守らせ、かつ民衆を農業生産と兵戦に精勤させうるとし、そのようにして富国強兵を図り、君主権の強化を目ざした。陰陽家は鄒衍(すうえん)に代表される、一種の自然哲学および歴史哲学をたてた人々で、陰陽と五行(ごぎょう)(木・火・土・金・水)を原理として自然界・人間界の万般の事象の成立・変化の諸相を説明しようとした。以上の六家のほかに、農業生産の重視を説く農家、合従連衡(がっしょうれんこう)など外交上の策略を論ずる縦横(じゅうおう)家、兵法を論ずる兵家(へいか)などがあり、また複数の学派の思想をあわせ含んでいて特定の一家の思想とみられないものは雑家(ざっか)とよばれた。
 春秋戦国時代は、周初(前11世紀)に成立した封建制度の政治体制が崩壊して中央集権体制へと移行してゆく過程にあたり、諸国のうち中央集権化をもっとも早く推進した秦が天下を統一する(前221)と、その中央集権体制(郡県制)を中国全土に拡大して施行した。以上に述べた先秦時代における思想の主たる担い手は士大夫(したいふ)の階層(大夫は諸侯の主要な家臣たる領主・貴族、士は諸侯や大夫に仕えて役人などになる階層)であったが、彼らはこのような変動の乱世において、混乱を収拾して安定を得るにはどうすべきか、またそういう動乱の世をどう生きてゆくべきかについて深刻に考え、活発な論議を展開した。それが諸子百家の思想の内容をなしたわけで、この時期にあらゆるタイプの思想が成立した。それらのうち、礼秩序を重んじ修己治人の道を説く儒家の思想は、治者階級のもっとも標準的な思想である。墨家は功利主義の立場から儒家の重んずる礼を批判した明らかに性格の異なる思想で、これを工人(手工業者)集団の思想とみる説も有力である。道家思想は常識的な社会生活に対して消極的ないし批判的な思想であった。法家は、封建制から中央集権体制へと変化しつつあった時代の流れにのった活動をしたわけで、その点で他の学派と性格を異にした。
 戦国時代末期から秦・漢初にかけて(前3世紀後半~前2世紀なかばころ)種々の面で思想の整理や理論の整備がなされた。また秦が天下を統一しその後を漢が受けて強力な帝国が成立すると、これを理論づける政治哲学が求められ、かつ思想の統制が図られた。秦代には法家思想による思想統一が行われ、儒家は焚書坑儒(ふんしょこうじゅ)の弾圧を被った。漢代の初期には黄老(こうろう)思想が流行し、これは、法家思想を土台として老子の虚静無為の説を取り入れた統治術およびそれに付随する処世観であるが、武帝(ぶてい)のころ(前2世紀後半)から儒家思想尊重の傾向が現れた。そして儒教によって天下の思想を統一すべき旨の董仲舒(とうちゅうじょ)の建策を武帝が受け入れて儒教国教化の道が開かれ、前漢末、成帝・哀帝のころに至るとその実があがって、諸子百家の多様な思想のなかで儒家思想だけが正統思想と認められる「儒家一尊」の状況が成立した。これをもって第2期の始まりとする。なお、秦の始皇帝以後の時期は第1期から第2期への過渡的な時期と考えられる。[山井 湧]
第2期――経学と宗教思想
第2期の開始をなす儒家一尊の思想状況は、新の王莽(おうもう)の儒教尊崇政策によってさらに強化された。後漢(ごかん)も儒教尊重の方針を継ぎ、かくて儒家の教説が国家の政治や人々の社会生活の指導理念として公認され、それが表看板として掲げられる状況が、以後、清末に第3期が終わるまで2000年近く続くことになる。こうして儒家思想が権威をもつと、儒家の古典である経書(けいしょ)の権威が高まり、経書の研究・注釈が盛んに行われ、第2期を通じ、各経書について数えきれぬほどの注釈書がつくられた。経書として扱われる古典も、五経(ごきょう)(易(えき)・書・詩・礼(れい)・春秋)からしだいに数を増して十三経となり、一方、経書のテキストおよび解釈の整理統一を図る動きもあって、唐初に『五経正義』がつくられたのをはじめ、それを拡大して、第2期の終わりまでに『十三経注疏(ちゅうそ)』とよばれる標準的な注釈が成立した。このように注釈を事とする経学(けいがく)(経書を研究する学問)はきわめて盛んであったし、儒教は当時の知識人に必須(ひっす)の教養として重んぜられはしたが、その権威は多分に形式的で、思想としての活力に乏しく、実際に人々の精神生活に深いかかわりをもったのは、漢代では陰陽五行説や讖緯(しんい)説などの神秘思想であり、魏晋(ぎしん)時代(3~4世紀)には老荘思想、南北朝から隋(ずい)・唐にかけては、外来の仏教と新興の道教であった。
 陰陽五行思想は前漢・後漢を通じて盛行し、元来は先秦の陰陽家の系統を引く思想で、陰陽・五行の変化や結合によって自然現象や人間界の事象を合理的に説明しようとしたものであるが、しだいに非合理・迷信的な要素を増して神秘化した。讖緯は讖記と緯書とをいう。讖記は予言書。緯書は、天人合一思想、災異瑞祥(ずいしょう)思想、陰陽五行思想、神仙思想等々の神秘思想によって経書を解釈した書物をいう。讖は先秦から行われていたが、とくに漢代に流行して緯書の説にも混入した。緯書は前漢末から盛んにつくられ、緯書の説は正統の経学にも多く取り入れられた。漢代には儒家思想全体が神秘思想の影響下にあったといえる。
 魏晋のころには老荘思想が流行した。貴族のサロンにおいて政治談議や人物評論とともに玄学(げんがく)とよばれる哲学談議が盛んに行われて、三玄(『老子』『荘子』『易経』)の書が多く話題に取り上げられた。竹林の七賢(ちくりんのしちけん)などで有名な清談(せいだん)もこの種の談論であった。
 仏教が中国に伝来した年代は明らかでないが、第2期の初期に西域(せいいき)を経て伝えられたらしい。最初は仏陀(ぶっだ)が神仙と同一視された時期もあったが、やがて瞑想(めいそう)によって心を清め明智(めいち)を得る教えとして理解されるようになり、魏晋から南北朝にかけてしだいに盛んになり、多くの仏典(主として大乗(だいじょう)仏教の経典)がもたらされ漢訳された。その教義を中国人に理解しやすくするために、老荘思想など中国在来の思想やその用語を借りて説くことが、とくに魏晋のころに多く行われ、これを格義(かくぎ)仏教と称したが、道安や西域の人鳩摩羅什(くまらじゅう)らの本格的な仏典研究や訳経の力によって格義の域を脱して中国仏教の基礎を確立し、さらに法顕(ほっけん)や唐の玄奘(げんじょう)らのように自らインドに赴いて仏典の原書を持ち帰って漢訳するなどの努力もあって、しだいに正確にかつ深く理解されるようになった。また在来の思想とくに道教との摩擦や衝突があり、数次にわたって国家の廃仏政策による打撃を受けながらも発展を続け、とくに隋・唐の時期(6世紀末~9世紀)には名僧が輩出して、隋の吉蔵(きちぞう)らの三論宗、智(ちぎ)らの天台宗、信行(しんぎょう)らの三階(さんがい)教、唐の玄奘らの法相(ほっそう)宗、法蔵らの華厳(けごん)宗、道宣らの律宗、北インドの人不空(ふくう)三蔵らの密教、慧能(えのう)(南宗)・神秀(じんしゅう)(北宗)らの禅宗、善導(ぜんどう)らの浄土(じょうど)教など多くの宗派が成立し、中国独自の仏教が確立された。以上の中国仏教の展開を通じ、廃仏が行われた時期は別として、概して政治権力の庇護(ひご)を受け、国家鎮護の宗教として発展した。また、教義としてはきわめて高度の理論が展開されたが、民間においては直接的な現世利益(げんせりやく)を求めるための信仰という要素が強かった。
 道教は、後漢末の張角の太平道(たいへいどう)と、張陵(張天師)の五斗米道(ごとべいどう)に始まる。元来、罪過の懺悔(ざんげ)告白やお札(ふだ)、加持祈祷(かじきとう)などによって病気を治すようなことから出発したが、全生保身を説く道家の説や不老不死を求める神仙思想などを取り入れ、健康法や錬丹術その他、長生と福禄(ふくろく)を得る法を説く現世的な民間宗教として成長していった。道教は道家の説を取り入れた点があり、老子を教祖神のようにして祀ったが、老荘の道家思想と直接のつながりはなかった。教義としては、道家のほか仏教・儒教の説をも取り入れ、多くの神々を祀り、人々に善行を勧めた。民間宗教として出発したが、仏教と同様、国家の保護を受けて発展した面が大きく、唐代に至って最大の勢力を得た。
 第二期における思想の主たる担い手は、後漢末期から顕在化した貴族(豪族、大土地所有者)であったが、唐代後半期にその貴族の勢力が衰え、唐末・五代の軍閥割拠の時期を経て宋代に入ると、新しい地主階級による官僚制度に支えられた君主独裁政治が成立し、この地主・官僚(=知識人)層の思想として新しい儒学が形成された。この新儒学の成立をもって第三期が始まるのであるが、その先駆にあたるものとして、唐代後半期に陸淳(りくじゅん)らによる新しい春秋学の提唱と、韓愈(かんゆ)(退之(たいし))・李(りこう)らによる儒家哲学復興・深化の動きがあった。この時期は第2期から第3期への過渡期とみられる。[山井 湧]
第3期――新儒学の展開
第3期は新儒学の時代である。新儒学は、第1期の原始儒教とも第2期の訓詁(くんこ)注釈を主とする儒学とも異なる儒学で、宋(そう)学ともよばれ、種々の分野を含むが、その中核をなす部分は性理(せいり)学(漢唐訓詁学に対して宋明(みん)性理学)とよばれる。
 性理学は理論の学つまり哲学であるが、経学の面をも備えていて、経書の所説(古(いにしえ)の聖賢の道)を深く読み取ってそれに拠(よ)るとともに、仏教の理論や老荘・道教の説をも批判的に受容して、従来の儒家思想に欠けていた高度の哲学理論を樹立し、その理論によって経書を解釈し直した。彼らが築き上げたこの独自の哲学理論体系に新儒学の大きな特色があるが、その学問の本質は、理論体系の樹立そのものにあったのではなく、つくりあげた理論に従って生活を律し自己の人格の修養に努めるところに存した。
 宋学(とくに性理学)を大成したのは南宋の朱熹(しゅき)(朱子)で、朱熹は北宋の周敦頤(とんい)(濂渓(れんけい))、張載(ちょうさい)(横渠(おうきょ))、程(ていこう)(明道(めいどう))、程頤(伊川(いせん))や邵雍(しょうよう)(康節)らの哲学を継承し、とくに程頤の学説を多く取り入れてそれらを総合整理し、朱子学とよばれる独自の学説を打ち立てた。朱熹の哲学理論は理と気とを基本にして構成された。気は物質の根源であり、理は事物のあり方を規定する存在の原理であった。理はまた「人はかく在るべし」という人間性の理想の典型であり、かつ「人はかく為(な)すべし」という道徳的規範でもあった。朱熹の本体論は、すべての事物は理と気とによって成立し存在すると説く理気二元論であったが、気よりも理を根源的な存在として優越させる「理の哲学」というべき立場をとった。人の性についても、「性即理(せいそくり)」(性は即(すなわ)ち理なり)の命題をたてて、理によって性を説き、人の性は純粋に至善であるとする性善説をたてた。そして人はあらゆる事物の理を認識し、心を理に合致した状態に保ち、理に従って行動すべきであり、それが学問(=修養)であるとした。また華夷(かい)(中華と夷狄(いてき))の区別や五倫の名分を明らかにすべきことを強調した。朱子学は朱熹の没後しだいに世に広まり、朱子学を信奉ないし継承する学者が数多く出た。また元(げん)代の科挙の試験では、経書の解釈として朱子学系の注釈の説が採用され、明の永楽(えいらく)年間(15世紀初)以降は朱子学の官学としての地位がさらに強化されて清(しん)末に及んだ。
 朱子学と異なる思想としては、同じ儒家思想内部で、朱熹と同時代の陸九淵(きゅうえん)(象山(しょうざん))は、朱熹が説くような事物の理を知ることよりも、もっと直接的に心の修練に努めるべきだとする「心学」を主張し、また陳亮(ちんりょう)(龍川(りゅうせん))、葉適(しょうてき)(水心)らの事功学派は、功利主義の立場から朱子学を観念的、非現実的であると批判し、それぞれ朱熹との間で論争が行われた。
 元代に朱子学は華北の地にも広まり、明代初期の儒学は朱子学一色であったが、そのなかから心学の要素が成長して、陳献章(ちんけんしょう)(白沙(はくさ))あたりから朱子学を離れ、王守仁(おうしゅじん)(陽明(ようめい))に至って陽明学として大成された。陽明学は「心即理(しんそくり)」「知行合一(ちこうごういつ)」「致良知(ちりょうち)」説を中核とし、なかでも自己の心の良知(是非善悪を判別できる先天的な知力)に信頼し、良知の判断のとおりに行為せよという「致良知(良知を致(いた)す)」の教えを究極とする、心重視かつ実践重視の哲学であった。一方、王守仁と同年代の羅欽順(らきんじゅん)(整庵)、王廷相(ていしょう)(浚川(しゅんせん))らは、朱子学で説くような「気よりも根源的な存在原理である理」を認めず、気は気独自に存在し変化運動して事物を形成するとし、理よりも気を根源的な存在とみる「気の哲学」(気一元論)の立場をとった。「気の哲学」はその後も発展して、清代中期の戴震(たいしん)に至って理論的に完成された。戴震によれば、人の性も気だけによって成立するものとされ、したがって気すなわち肉体に付随する情や欲(朱子学では情や欲は悪の原因となる面を強調して否定的にみられた)を性に固有のものとして積極的に肯定し、そのうえで性善説を唱えた。朱熹の「理の哲学」は、理という社会規範を重んずる哲学であるがゆえに官学となるべき資格をもっていたが、「気の哲学」は現実の生活をたいせつにしようという哲学であり、王守仁の心学(「心の哲学」)は心の権威、自己の主体性を重視する哲学であって、その意味でこの両者は本来非官学的な性格をもっていた。
 しかし両者ともに、朱子学が説く規範と別個の原理に基づく新しい道徳を確立することができなかったので、その点においては朱子学の枠を脱しきっていなかったし、また朱子学を倒してそれにかわる力ももたなかった。さて修養の学としての宋明性理学は陽明学の致良知説をもって行き止まりとなった。王守仁出現後の儒学界では、朱子学よりも陽明学のほうが優勢な時期があり、王守仁の没後も、2、3の派に分かれながら、17世紀初頭まではなお王学が盛んであったが、その後王学は衰え、あわせて修養の学としての性理学の発展が止まった。
 明末清初(17世紀なかばごろ)の混乱期には、これにかわって経世致用の実学が提唱され、政治論や史論が活発に展開されたが、清朝の中国支配が確立して世情が安定すると、実学の要素が薄れ、18世紀から19世紀初めにかけて清朝考証学とよばれる実証的な古典学が学界を風靡(ふうび)した。その古典研究の成果により、従来の古典解釈に修正を要する箇所が多く生じたが、名教(儒教)としての朱子学の権威は揺るがなかった。なお、19世紀には政治色の強い公羊(くよう)学が盛んになり、そのなかから政治改革を試みる人々も現れた。
 隋唐時代に隆盛を極めた中国の仏教は、第2期の末期に唐の武宗(ぶそう)の廃仏(845)と五代後周(こうしゅう)の世宗(せいそう)の廃仏(955)と2回の弾圧を被り大きな打撃を受けたが、その後、禅宗と浄土教が生き残って、第3期にはこの両者を中心に諸宗兼修の形をとることが多く、融合的で民衆的な仏教が行われた。禅宗は不立文字(ふりゅうもんじ)を標榜(ひょうぼう)し、仏典の学習によるのではなく、打坐禅定(だざぜんじょう)を通じて自力によって仏理を悟ることを目ざし、浄土教はひたすら念仏することによって極楽(ごくらく)浄土に往生(おうじょう)しようと願う、両者ともに簡明で、とくに浄土教はもっとも民衆的な教えであって、幅広い帰依(きえ)を得た。道教は、唐代に盛んであった後を受けて、宋代にも民間宗教として栄えた。南宋のときに金の支配する華北において新しい道教が生まれ、そのうち王(おうてつ)(王重陽(おうちょうよう))が始めた全真教は、呪術(じゅじゅつ)性を排し打坐修養して道を悟ることを目ざし、倫理的な実践を重んじ、教団活動も盛んであった。
 儒・仏・道三教の間において、儒教の側では仏・道を異端視して排撃する風がつねに存したが、朱子学や陽明学も元来それらの学説を受容した面があったし、とくに陽明学の系統から三教の調和合一を説く人が多く出た。仏教では、仏教内部でも諸宗の融合・兼修、とくに禅と浄土との融合が説かれたし、明末にはさらに三教合一論も現れた。また道教の方面では、こういう三教合一の風潮を背景に、善書(因果応報・勧善懲悪の思想に基づいて人々に善行を勧め、善果を得させることを目ざす書物)が多くつくられて普及した。
 唐初(7世紀)に景教(ネストリウス派のキリスト教)が伝えられたことがあったが、それから数百年を隔てて、明末(16世紀末)にイエズス会の宣教師たちがカトリックのキリスト教を中国に伝えた。その第一人者イタリア人マテオ・リッチ(中国名利瑪竇(りまとう))は、1583年に中国本土に入り、1601年に北京(ペキン)で公式に布教活動を始めた。ほかにも相当数の宣教師が次々に渡来して、士人や民衆の間に布教を試み、ある程度の信者を獲得したが、キリスト教自体よりも、むしろ宣教師たちがもたらしたヨーロッパの科学技術(主として数学・天文学あるいは測量・水利・兵器等に関する)が中国に歓迎され、とくに天文暦学の面では、朝廷でもその優秀さを認めて公式に採用するに至った。これらのヨーロッパの学問は、明・清を通じて中国人のこの方面に対する関心や研究心を刺激して、学問の進歩に寄与するところが大きかった。
 王陽明の心学や羅欽順らの「気の哲学」が現れた16世紀以後(あるいは陽明学が衰えた明末清初17世紀以後)を第3期から第4期への過渡期とする。[山井 湧]
第4期――伝統思想の変容
1840~42年のアヘン戦争に象徴される欧米の資本主義経済の中国進出に伴い、中国の西洋近代文化との接触が思想の面をも含めて増大し、これによって伝統思想が衝撃を受け、中国人の思想が近代化するに至る。これが第4期である。アヘン戦争でイギリス軍に敗れたのち、太平天国の大乱(キリスト教を奉ずる宗教反乱で、同時に清朝に対する農民の革命運動でもあった)その他の反乱がたびたび起こり、またアロー号事件によってイギリス・フランス連合軍の攻撃を受けるなど、中国は次々に多難な局面を迎えた。この危機を乗り切るために、軍用の火器をはじめ西洋の進んだ科学技術を取り入れることの必要を痛感した有力な官僚たちが、西洋式の工場を設立して兵器や艦船の製造に力を入れた。これを洋務運動といい、それを裏づける理論として中体西用(ちゅうたいせいよう)論が掲げられた。人倫道徳など根本の精神的基盤(体)は中国の伝統的な名教をよりどころとし、実用的な知識や技術の面(用)では西洋の進んだ部分を取り入れて利用しようという考え方である。政治の面では、公羊学者の康有為(こうゆうい)らによる変法(へんぽう)運動が企てられた。日本の明治維新に範をとり、立憲君主制を目標に清朝の政治の大変革を図ったもので、光緒(こうしょ)帝はこの意見をいれ、1898年に諸制度の改革に着手した。これを戊戌(ぼじゅつ)の変法という。しかしこの新政は100日ほどで西太后(せいたいこう)ら保守派のクーデターにつぶされ、変法は失敗に終わった。
 洋務運動や中体西用論は技術の末端だけ西洋の文化を利用しようという発想であり、変法運動は政治や経済の制度などまで西洋の近代的な要素を取り入れたが、基本的には中国の伝統文化を守る姿勢を崩さず、西洋に関する知識も十分ではなかったが、19世紀末から厳復(げんふく)が翻訳したT・H・ハクスリーの『天演論』Evolution and Ethics(邦訳『進化と倫理』1898)をはじめ多数の訳書がつくられ、西洋の思想・文化の大量な紹介・輸入が始まって、かくて外来の近代的諸思想との本格的な対決あるいはその受容が行われるようになった。ただこの点についての中国人の対応はさまざまで、欧化反対論や伝統文化護持の主張も後まで根強く存在し、種々の論点をめぐって多くの討論が繰り返されたが、そういう多年にわたる苦悩の時期を経て、大勢としては西欧思想を受け入れ、中国の思想自体が近代化する方向に進んでいった。これに伴い、清朝に対する革命思想も盛んになった。その代表的なものは孫文(そんぶん)の三民主義(民族・民権・民生主義)で、それは儒教的な基礎のうえに民主主義と社会主義の要素を加えたものであった。民族主義は、滅満興漢を旗印とする反清朝の面と外国の圧迫に反発する排外的な面とをあわせもっていた。孫文らの革命運動は1911年の辛亥(しんがい)革命を成功させ、清朝が滅んで中華民国が誕生した。ただしその後も北洋軍閥の袁世凱(えんせいがい)らが政権を握り続け、革命の実はあがらなかった。
 第一次世界大戦終結の講和条約が結ばれるにあたり、日本が中国に提示した21か条の要求に対する中国人の不満が爆発し、1919年5月4日の北京の学生たちによる示威運動に始まってその抗議活動が全国に波及し、かつ政治運動のみにとどまらず大きな文化運動に発展した。これを五・四(ごし)運動とよぶ。その主流をなした思想は、中国の現状を、対外的には半植民地、国内としては半封建制の域を脱せぬ段階ととらえて、反帝国主義・半封建の立場をとり、伝統思想を批判して近代化の徹底を期したもので、とくにデモクラシーとサイエンスを摂取することの必要性を強調し、また社会主義の色彩を多分にもっていた。
 1921年に陳独秀(ちんどくしゅう)らが中国共産党を結成、孫文の主宰する国民党はこれと提携(国共合作という)して国民革命を推し進め、孫文の後を継いだ蒋介石(しょうかいせき)が北方の軍閥を倒すための北伐に成功して、南京(ナンキン)に国民政府を開き主席に就任したが、蒋介石は復古調の政策をとって共産党と対立し、国共は分裂した。
 1931年におこった「満州事変」以後、「日華事変」、第二次世界大戦と、中国には長い抗日戦争の時期が続いた。この間、共産党は毛沢東(もうたくとう)が主席となり、第二次国共合作が成立して抗日民族統一戦線が結成されたが、その後も、1945年の日本降服を挟んで国共の内戦が繰り返された結果、1949年に共産党による中華人民共和国が成立して、毛沢東の新民主主義に基づく社会主義国家の建設が始まった。しかし思想的にも政治・経済的にも種々の問題を残しており、軌道修正を行いながら、現在その建設途上を歩みつつある。[山井 湧]
『赤塚忠他編『中国文化叢書2 思想概論』(1968・大修館書店) ▽赤塚忠他編『中国文化叢書3 思想史』(1967・大修館書店) ▽宇野精一他編『講座東洋思想 第2~4巻 中国思想』(1967・東京大学出版会) ▽本田濟編『中国哲学を学ぶ人のために』(1975・世界思想社) ▽小野沢精一他編『気の思想――中国における自然観と人間観の展開』(1978・東京大学出版会) ▽戸川芳郎著『古代中国の思想』(1985・日本放送出版協会) ▽山井湧他著『中国文化全書1 中国思想概論』(1986・高文堂出版社)』

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