デジタル大辞泉 「貝」の意味・読み・例文・類語
かい〔かひ〕【貝】
2 貝殻。「
3 貝殻で作ったもの。
4 ほらがい。時刻を知らせたり、武士の出撃の合図などに用いられた。
5 「貝合わせ」の略。
ばい【▽貝/×蛽/海=蠃】
2 「
軟体動物Molluscaの中で石灰質の殻をもっている種類の総称,あるいはその石灰質の殻をいう。しかし,殻をもたないナメクジやウミウシ類を含めて軟体動物全体を貝類ということもある。以前は軟体動物以外のアミガイ(コケムシ動物),シャミセンガイ,ホオズキガイ(腕足動物),モミジガイ(棘皮(きよくひ)動物ヒトデ類),エボシガイ(節足動物蔓脚(まんきやく)類)なども名のように貝とされたが,分類学の進歩とともにそれぞれの正しい位置に移された。イカやタコの類は外観的に巻貝や二枚貝と著しく異なるが,やはり軟体動物,すなわち貝の仲間である。ここではおもに人と貝とのかかわりについて記述する。貝類の動物学的記述は〈軟体動物〉の項目を参照されたい。
貝と人との関係は,それを食べ物として海や川で採取したことに始まる。その食べたあとの殻が積み重なってできたのが貝塚で,日本をはじめ世界各地に遺跡として残されている。また美しい貝は飾りに使われ,さらに貨幣に使われるなど,貝と人間の関係は深くなり,貝にまつわる伝説,信仰へと発展した。貝殻は螺鈿(らでん)など工芸に使われる。また美しい貝殻を集めて楽しむことも盛んになった。一方,貝を養殖して食用としたり,真珠をとる技術も進歩した。
昔の人が海や川,湖沼から貝を採取し,食べたあとの貝殻を捨てた場所が貝塚である。《常陸国風土記》には貝塚の由来を説く巨人伝説が記されている。東京湾沿岸には多くの貝塚があるが,そこから出土する貝殻は,数からいうとマガキ,ハマグリ,アサリ,アカニシ,シオフキガイ,ハイガイ,オキシジミ,サルボオガイ(モガイ),オオノガイ,カガミガイ,ツメタガイ,ヤマトシジミの順である。これらは潮の満干(まんかん)する干潟にすんでいる種であり,二枚貝が多い。また味のよい種が選ばれたようで,今日食用にしている種と違いはない。東京湾でも湾口のほうでは岩磯があるのでアワビ,サザエ,クボガイなどの巻貝も多く利用されている。
また,湾奥のほうでは同じ貝塚でも下のほうはアサリ,オオノガイ,ハイガイなど海産の貝であるが,上のほうではヤマトシジミなど汽水性の種になって,ある期間にその場所の環境が変わったことを示している。貝塚に多く出土するハイガイは現在東京湾では絶滅しているが,その出土の状況を調べると,東京湾の形が単純化した経過がわかる。貝塚は当時の人の好んで食べた貝類を示すとともに,その当時の海岸の貝類相,生活環境,古地形が明らかになり,また現在の貝類相との違いから,その間の地形の変遷を知ることができる貴重な遺跡である。
貝には美しいものも多く,古代の人々はそれを身につけたが,とくにスイジガイやトウカムリガイ,ベンケイガイなどを輪切りにして貝輪として腕につけた。これは多少信仰的な意味もあったといわれている。熱帯太平洋の島々には美しい貝が多く,装身具に加工されるが,フィジー諸島では真紅のナンヨウダカラガイは酋長のみが身につけることが許された。また管状のビーズをつくり,祭礼の衣装につけた。イタリアで発達したカメオも装身具として有名であるが,これはマンボウガイ類やタカラガイ類の貝殻の色の層による違いを巧みに彫り分けたものである。
真珠層のよく発達したヤコウガイ(ヤクガイ)やアワビは,螺鈿細工の材料になった。《宇津保物語》〈楼上〉の上に〈白き所には白いものには,やく貝を舂(つ)きまぜて塗りたればきらきらとす〉とある。正倉院御物にも豪華な螺鈿細工がある。貝殻の表層をとり去り真珠層を出し,これを短冊形に切って磨いた摺貝(すりがい)とし,これを張り合わせて文様を描く。青貝細工ともいう。また,真珠は七宝の一として尊ばれ,日本では古来伊勢真珠が最良とされ,〈伊勢の海の白水郎(あま)の島津が鰒(あわび)玉取りて後もか恋の繁けん〉(《万葉集》巻七)とあるようにアワビからとったらしいが,後にはアコヤガイやドブガイからも得るようになった。そして現在ではアコヤガイに核玉を入れる真珠養殖が盛んになっている。クレオパトラの真珠は有名であるが,世界最大の真珠は長さ50.8mmのヨウナシ型の〈ホープの真珠〉で,日本最大のものは御木本幸吉がアワビから得た長径24mm,短径19mmの真珠である。
タカラガイ類は特殊な形をしているが,このうち中国では古代にキイロダカラガイの殻が貨幣に使用され,殷墟(いんきよ)から出土している。しかし,インド,アフリカではもっと後世に及び,太平洋諸島,とくにニューギニアでは最近まで使用されていた。宝の旧字の宝はキイロダカラガイの殻の象形文字からできた字であり,財宝に関係のある字の偏や旁(つくり)には貝の字がついている。このタカラガイは英名もmoney cowrieという。ニューギニア高地民族では大きいブタ1頭が,この貝のインドと称する貨幣では4個,ホンドでは10個で交換されていたという。
このほか,ヤップ島ではクロチョウガイを磨いて穴をあけた貝貨や,シロチョウガイを短冊形にした貝貨が使われ,アメリカインディアン(西海岸)ではツノガイをひもで通して貝貨とした。
ホラガイの殻の細くなった先に歌口をつけて吹くと,殻内で共鳴して大きい音が出るので,戦陣での号令,時報などに使われ,また山岳宗教では修験者(山伏)の携帯具となっている。字も法螺貝と仏教に関係深い。インドやスリランカではやはり法要に聖具のシャンクガイを吹き鳴らす。この巻貝の左巻きのものは何十万個に一つというほどまれなのでとくに高価で,同じ重さの金と交換されるという。地中海産のジェームズホタテガイ(ジェームズイタヤガイ)は古くから図案や紋章にとり入れられ,十字軍の従軍記章にもなったことで名高く,エルサレムへいった兵士がこれを従軍の印として故国へもち帰ったので巡礼貝の名がある。
高僧の回国譚には貝にまつわる種々の物語が残っている。カワニナは成貝になると殻頂部が失われていることが多い。これについては,弘法大師が伊豆修善寺へいった際,川を渡るときに川の中にカワニナがたくさんいて足にささったので,今後ここを通る人がけがをしないようにとがった先を封じた。それでカワニナの成貝の先が欠けていると〈独鈷(とつこ)の湯由来記〉にあり,コウボウニナ,シリキレゴウナの名もある。これは実際は,日本の淡水には石灰分が少ないので成長すると殻頂がむしばまれることによる。瀬戸内海など内海や湾のサザエのとげは弱いか欠けているが,これには次のような話がある。日蓮上人が布教中に迫害をうけ,安房から鎌倉へ向かい,当時の横須賀村田戸の海岸へ上陸したとき,案内の漁師がサザエのとげで足にけがしたのを知って,それを哀れみ,この海岸のサザエのとげを封じたので,以後その浜のサザエにはとげがないという。新潟県新発田の菅谷寺では,源実朝の寄進した七堂伽藍が1253年(建長5)の落雷で炎上したが不動明王の頭は焼けなかった。それはたくさんのタニシがくっついて守ったからで,その後タニシの殻のとがったほうが焼けて白くなっているという言い伝えがある。これもカワニナの場合と同じ理由である。
とげの鋭いヒイラギと同じように,殻の上に多くの長いとげが出ているホネガイを悪魔よけとしてつるす風習が和歌山県などにあった。またスイジガイは大きい長い突起が6本出ている。これを水の字に見たててやはり軒につるして火難よけや魔よけとする習わしも各地に見られた。アイヌの伝説では奥尻島が豊漁のときは対岸の寿都(すつつ)が不漁になる。逆に寿都が豊漁のときは奥尻島が不漁になるが,これはホタテガイが名のように平らな殻を立てて海上を移動するからだと信じられていた。しかし,ホタテガイにはそのような習性はなく,跳ねるようにして泳ぐくらいである。山形県では,飯豊(いいで)山の頂上近くの池にコメガイがたくさん発生した年は豊年だといわれる。コメガイはニホンマメシジミのことで,これが米粒を思わせるためである。コヤスガイ(ハチジョウダカラガイ)を妊婦が握っていると安産するといわれるのも,コヤスガイの殻口が女性の陰部に似ていることからの連想と思われる。
地中海沿岸のフェニキアでは前10世紀ころからシリアツブリボラやツロツブリボラの鰓下腺(さいかせん)から紫色の染料をとっていた。1万個の貝からわずかに1.5gの染料がとれ,1万7000個でやっとふつうのメルトン洋服地1着分の染料を得たという。そのためそれを採取した遺跡には今もその貝殻が山とつまれている。このようにこの紫の染料は貴重であり,高価であったので帝王紫Imperial purpleといわれ,またそれを積み出したテュロス港(現,スール。聖書ではツロ)にちなんで,テュロス紫Tyrian purpleと称された。また南アメリカの前10世紀以前のプレ・インカの遺跡でも同じくサラレイシガイやアワビモドキからとった貝紫で染めた布が出土し,現在もメキシコの太平洋岸のオアハカ州では11~3月にサラレイシガイで染色を行っている。日本では紫の染料は植物のムラサキから採取していたので,この技術はとくには発達せず,志摩の海女が布にイボニシなどで印をつけたというくらいである。紫色の染料は上記の種類に限らずアクキガイ科の大部分の種類から採取でき,染色工芸家の間ではアカニシ,チリメンボラ,イボニシ,レイシガイ,エゾチヂミボラなどが使われる。軟体の外套(がいとう)内にある鰓下腺を切り出して,その黄みを帯びた液を日光にさらすと,酵素の働きで紫に発色するが,その成分はジブロムインジゴdi-brom indigoである。このほかコウイカの墨汁囊から黒色のセピアを採取して顔料とする。アメフラシやイトカケガイなども紫色の汁を出すが,これはすぐ退色するので染料にはならない。また,イボタガキやハイガイの殻からは白色の顔料を製していた。
《古事記》には八十神に大火傷を負わされ死んだ大国主神が,𧏛貝比売(きさがいひめ)(蚶貝)と蛤貝(うむぎ)比売の介抱によって息を吹きかえした物語が見える。蚶貝はアカガイ,蛤貝はハマグリのことである。《日本書紀》景行天皇条には,天皇が東征のとき,白蛤のなますを食べたことが記されている。これは貝の料理に関する日本での最初の記事であるといわれる。《徒然草》34段には〈甲香はほら貝のやうなるが,小さくて口のほどの細長にしていでたる貝のふたなり。武蔵の国金沢といふ浦にありしを所の者はへなたりと申し侍るとぞ言ひし〉とあって,ヘナタリガイのふたを香の材料としたのがわかる。貝の美しさ,形に魅せられて,《万葉集》以来,多くの詩歌に貝が詠みこまれている。そして江戸時代には三十六歌仙にならって収集した貝から三十六貝仙が選ばれて,歌と標本が並べられた。〈松山のまつが浦かぜふきよせばひろひて忍べ恋忘れ貝〉(忘れ貝),〈春たてばかすみのうらのあま人はまづ拾ふらんさくら貝をや〉(桜貝)などがそれである。
ハマグリの学名はMeretrix lusoria(1798命名)といい,これは遊女が遊んでいる貝という意味である。日本ではこのハマグリが平安朝以後,江戸時代まで上流子女の遊戯に使われたことは世界的に早くから有名であった。この貝覆(かいおおい)(貝合)にはハマグリの殻を右殻と左殻に分け,殻の内面に通常金泥を塗り,その上に人物や花鳥などが描かれているものが使われた。一方を地貝として伏せて並べ,他方の貝を出貝としそれに合う殻を地貝の中からさがす遊戯であるが,その入れ物の貝櫃(かいびつ)は贅(ぜい)を尽くし,豪華な嫁入道具となった。これは殻のかみ合せが対になっている殻以外ではかみ合わないため,貞節のしるしにされたことによるものと思われる。囲碁の黒石は那智黒でつくられ,入手は容易である。しかし白石はチョウセンハマグリの殻でつくられ,しかも180個の同じ厚さのものをつくるのは容易でなく,白石で碁石の値段が決まるといわれるほどである。宮崎県日向市小倉浜は大きい殻を産するので有名であったが,分厚い殻がしだいに少なくなった。このほか,バイの殻は蛽独楽(ばいごま)/(べいごま)として勝負を競ったが,江戸時代にはかけ事が盛んになりすぎて禁止されたほどであった。また,キサゴの殻は子どものおはじきとして親しまれた。
美しい貝を図録した書物も古くから刊行されてきた。深根輔仁の《本草和名》(918ころ)に始まり,江戸時代に入って多くなった。大江流芳の《貝尽(かいつくし)浦の錦》(1749)や松岡玄達の《怡顔斉介品(いがんさいかいひん)》(1758)などが出,また木村蒹葭堂(けんかどう)の《奇貝図譜》(1775)はベニオキナエビスガイはじめ多くの深海産の貝を図説したものである。〈生きている化石〉オキナエビスガイが西インド諸島で発見されて学会を驚かせたのが1855年であるから,それより80年も前のことである。彼は大坂の物産家で,西欧人とも交わり,そのコレクションにはヨーロッパ産のモミジソデガイも含まれている。武蔵石寿の《目八譜(もくはちふ)》(1843)は15巻からなり,997種をのせた図説で,明治以前では最大の貝類書である。外国で日本の貝類を図説した書籍にはR.W.ドゥンケルの《Mollusca Japonica》(1861)および《Index Molluscorum maris Japonica》(1882),C.E.リシュケの《Japanische Meeres Conchylien》(1869-74),W.コベルトの《Fauna Molluscorum extramarina Japoniciae》(1880)およびH.A.ピルスブリの《Catalogue of the Marine Mollusks of Japan》(1895)がある。前4点は石版刷の美しくてみごとな正確な図が出ていて,日本の本草書と比べると格段の差がある。これらの書籍をつくるにあたっては,それぞれコレクションがあったわけであるが,日本では蒹葭堂くらいで,それらもほとんど残っていない。しかし外国ではドイツのフランクフルト,ベルリンやアメリカ比較動物学博物館などの博物館に保管されている。イギリスの大英博物館(自然科学)の所蔵貝類は世界屈指である。これは有名なカミングのコレクションが基礎になっている。日本の国立科学博物館の所蔵点数は帝室博物館の貝類コレクションを引き継ぎ,平瀬貝類館の所蔵標本の1組などを含め6万点を超えたが,さらに日本最大の河村良介コレクションを加えて所蔵標本数は倍増し,世界の一流に列した。世界最大の貝類コレクションはアメリカ自然科学博物館で70万点を超えている。貝類のコレクションが盛んになったのは東洋など世界各地から美しい貝が西洋にもち帰られるようになってからで,王侯貴族が競って買い求めた。なかでもオオイトカケガイはその優美さでとくに高価で,1750年のオークションで1個4000ギルダーの値がつけられた。そのため中国ではのりを固めて模造品をつくった話があるほどである。さらに有名なのはウミノサカエイモガイで,77年に図説されて以来,収集家は入手を競い合った。この貝は一つ一つの所在が明らかになっていて,1877年当時世界に12個しかなかった。1825年1個100ポンドに評価されていた。1963年アメリカの婦人が良品を1個2000ドルで買い,貝の世界最高値とされた。しかし,その後台湾でとれたリュウグウオキナエビスガイを鳥羽水族館が1個1万ドルで購入し,現在これが貝の最高値となっている。
執筆者:波部 忠重
日本の縄文時代の貝塚から出土した貝の中でもっとも多いのはハマグリとカキで,アカニシ,アワビ,サザエなどがそれらに続くといい,前述の東京湾の例とはいくらか違いが見られる。これらのうち,アカニシ以外は今も賞味されるものだが,とくにアワビは古来から重視され,《延喜式》に見えるアワビの乾燥品や漬物の種類はきわめて多い。江戸初期の《料理物語》(1643)は,蚫(あわび),辛螺(にし),栄螺(さざえ),つべた,よなき,みるくひ,たいらぎ,赤貝,鳥貝,ほたてがひ,蠣(かき),蛤(はまぐり),ばい,馬蛤(まて),田螺(たにし),からすがひ,ゐのかひ,蜆(しじみ)の名をあげて,それぞれに適する料理名を記している。このうちの〈つべた〉はツメタガイ,〈よなき〉は夜泣貝でナガニシ,〈ゐのかひ〉はイガイで,イガイを除く前2者はいまではあまり食用されない。貝類の行商は江戸に多く見られた。むきみはハマグリ,アサリ,バカガイ,サルボウなど,殻つきのものは〈からあさり〉などと呼売りして歩いたものであった。
執筆者:鈴木 晋一
貝は海神や水霊の宿り場所を象徴し,内部から出る異形の玉や真珠は崇拝の対象となった。さらに海神の持物となる例も多く,ギリシア神話のトリトンはホラガイを吹き鳴らし,ポセイドンはイルカやセイウチに引かせた貝の車に乗って海を進む。魚に化身するヒンドゥー教の神格ビシュヌも,手に聖貝を持つ姿に描かれるのを常とする。また,貝は形状が女性の下腹部や外陰部に似ることから,ほぼ全世界的に生命,出産,豊饒(ほうじよう)の象徴とされている。ホタテガイに乗るウェヌス(ビーナス)はその典型的な図像であり,日本では安産の御守として妊婦にコヤスガイを握らせ,ヨーロッパでも嫁ぐ娘に貝殻を贈って子宝に恵まれることを祈った。また古代ローマでは再生のシンボルとして貝をひつぎに納めたといわれる。中国,インド,東南アジア,エジプト,北アメリカなどではおもにタカラガイ類が貨幣としても使用された。
中世キリスト教世界ではホタテガイが聖地巡礼の表標とみなされ,十字軍も記章に採用したが,これは貝殻を食器として携え巡礼したといわれる大ヤコブにちなむもので,とくにヨーロッパ最大級の巡礼地サンチアゴ・デ・コンポステラのシンボルとされる。他方,心理的な隠喩においては〈自閉性〉を連想させ,英語の〈心を閉ざすto retire into one's shell〉などの成句を生んでいる。なお17~18世紀に盛期を迎えたオランダ静物画には,生と瞬時の象徴に花が,死と永遠の象徴に貝が好んでかき込まれた。
執筆者:荒俣 宏
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