中国哲学(読み)ちゅうごくてつがく(英語表記)Zhōng guó zhé xué

精選版 日本国語大辞典 「中国哲学」の意味・読み・例文・類語

ちゅうごく‐てつがく【中国哲学】

〘名〙 中国で発達した哲学思想の総称。春秋末期から戦国時代にかけて、儒家・道家・法家・名家・墨家などの諸子百家が輩出して活気を呈した。国教化した儒家と、道家の二家が後世に残る。易・老子・荘子などに形而上的思索が見えるが、概して、実践道徳と政治思想が中心であり、ヨーロッパインドの哲学に対し、現実的関心の強いことが特色。

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デジタル大辞泉 「中国哲学」の意味・読み・例文・類語

ちゅうごく‐てつがく【中国哲学】

中国において発達した哲学思想の総称。春秋戦国時代に輩出した儒家道家陰陽家法家名家墨家などの諸子百家や、12世紀に現れた朱子学など。

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改訂新版 世界大百科事典 「中国哲学」の意味・わかりやすい解説

中国哲学 (ちゅうごくてつがく)
Zhōng guó zhé xué

中国では文化の担当者が政治家・官吏であったため,学問が現実生活の必要に密着しすぎ,理論としての体系を構成することが不十分であった。哲学もまたその例外ではなく多くの場合,道徳学・政治学の域にとどまることが多かった。

孔子以前の文献としては《詩経》と《書経》があるが,そこには天が人格神・超越神として現れている。孔子はこの天を非人格化し内在化して,これを道とよんだ。それは人間の歩むべき道であり,具体的には仁義礼智を始めとする道徳であった。ついで戦国の諸子百家の時代に入り,儒,墨,道,法などの思想家が相次いで現れた。このうち墨子は,孔子の仁愛が家族を中心とする閉じられた生活共同体への愛であることに反対し,天の神の意志である人類愛,すなわち兼愛を主張した。そのあとに出た儒家の孟子は,墨子の兼愛説を無君無父(君を無(な)みし父を無みす)の思想として激しく攻撃するとともに,他方では人間の自然の性のうちに善が内在するという性善説を唱え,これが永く儒家の正統思想となった。これに対して道家の老子は,儒家の道徳を不自然な人為の産物として否定し,無為自然こそ天の道であることを強調した。その際道を〈無〉として規定し,無を万物の根元であるとしたことは,中国に初めて無の哲学を導入したものとして注目される。同じく道家の荘子は,この老子の無を〈無限〉の概念に発展させた。無限の立場から見れば,上下左右などの空間的位置の相違や,善悪美醜などの価値の対立はいっさい消失する。これを万物斉同の説とよぶ。ここに中国哲学の達した頂点の一つが見られる。

 そのあと現れた儒家の荀子(じゆんし)は道家の自然説に反対し,人間を自然のままに放任すれば必ず争闘に至るとして,人間の自然の性を悪として規定した。これは同じ儒家の孟子の性善説と正面から対立するものである。同時に,その性悪説の結果として,内発的な徳よりも,外部から人間を規制する人為的な礼に重点を移すことになった。荀子の門下から出たとされる法家の韓非子は,礼が刑罰の裏づけを欠いているのにあきたらず,礼よりもさらに強い拘束力をもつ法による政治を強調した。秦の始皇帝の天下統一は,この法家政策によって実現したものである。他方諸子百家の論争の激化に刺激され,議論を運ぶ論理そのものへの反省が生まれ,論理学派というべき名家が現れた。これを名家とよぶのは,名と実との関係を論ずるからである。その代表者としては,公孫竜子や慎到などがあげられるが,その著書は多く失われ,残存するものも文字の乱れが多く,その論理の展開を正確にとらえることは困難である。しかも後継者もないままに中絶してしまった。

秦の天下統一がわずか15年で終わったあと,前漢・後漢にわたる400年間の大帝国が現れた。前漢の初期には,秦の弾圧政策の反動として,自由放任の政治を説く道家思想が流行したが,やがて武帝の代になって儒学が官学として採用され,以後2000年にわたる儒教支配の基礎を固めることになった。漢代儒学の特色の一つは,陰陽五行説を取り入れたことにある。陰陽説とは万物が陽気と陰気の2要素から成ると説くもので,その典型的な例は《易経》に見られる。五行説は万物が木火土金水の5要素から成るとするもので,両者は本来別個の起源をもつと考えられるが,やがて合体して陰陽五行説となった。この説は戦国末の鄒衍(すうえん)を首唱者として流行したが,漢代に入って儒学のうちに採用され,自然界だけでなく歴史をはじめとする人事一般の推移を説明する原理となった。前漢の大儒,董仲舒(とうちゆうじよ)はその代表者である。この陰陽五行説は永く後世に至るまで中国の哲学や科学の基礎理論となったもので,その果たした役割は大きい。その後の漢代の儒学は官学としての権威が確立するにつれて,今文・古文の両学派の内部対立を見せたこともあったが,しだいに理論闘争の意欲も薄れ,経典の文字の解釈に専念する訓詁(くんこ)の学となった。後漢の鄭玄(じようげん)は,その大成者として著名である。このため後漢の儒学には哲学的な発展が見られなかったが,ただ後漢初の王充の《論衡》は,その無神論的な立場から当時の俗信を徹底的に批判したのが注目される。

後漢につづく400年間の六朝は,漢代の哲学不毛の時代とは対照的に,老荘や仏教を中心として哲学的関心が著しく高まった時期である。まずそれは老荘思想の流行となって現れる。魏の王弼(おうひつ)の《老子注》,西晋の郭象の《荘子注》は,注釈の形を借りながら独自の哲学を展開したもので,六朝のみならず後世を通じて愛読された。また《易経》は儒教の経典の中では最も哲学的要素に富むところから,易・老・荘を合わせて〈三玄〉とよび,その研究を〈玄学〉と名づけ,六朝を通じて盛んに行われた。この老荘の流行から少しおくれて仏教が始めて知識人の関心をひき始めた。仏教はすでに300年前の後漢の初期から西域を通じて中国に伝えられていたが,漢代人は宗教や哲学に無関心であったので,ほとんどこれに興味を示さないで過ぎた。このころになり,《般若経》の翻訳などを通じて仏教の中心義が〈空〉であることを知り,それが流行の老荘の〈無〉に通ずるものがあるために,始めて仏教の哲学に興味を抱くようになった。このように老荘を通じて理解しようとした結果,その仏教理解は老荘色の強いものとなった。これを格義仏教とよぶ。もちろん老荘と仏教との間には共通点もあるが,また本質的に異なった点も少なくない。したがって格義仏教はいつかは克服すべきものであった。道安や慧遠(えおん)はその克服に努力したが十分に成功することができず,西域より中国に入ったクマーラジーバ鳩摩羅什)によって初めて本格的な仏教理解の道が開かれた。こののち専門家の学僧を中心として仏教の教理研究は長足の進歩を遂げ,隋・唐の各宗競立の地盤を準備した。他方,一般知識人の間でも仏教の信仰ないし理解が普及し,その勢いは官学である儒学を上まわるものがあった。

 六朝時代はまた道教が民衆を中心として強力な宗教として成立した時期である。道教は漢代以前からあった神仙説を中核とし,これに古来の雑多な民間信仰を結合したものであり,その理想は長生不死にあった。初めは教祖に相当するものがなかったが,前漢の半ばころから老子を教祖にいただき,その教説を利用することにより,神仙説の権威向上を図った。このため後世では往々にして神仙説と老荘思想とを混同する傾向も生まれた。しかし漢代の神仙説はまだ一個の宗教としての体裁を備えていなかったが,後漢末に三張の徒を中心とする新興宗教の結社が生まれ,大規模な反乱を起こした。これを五斗米道(ごとべいどう)または天師道とよぶが,これを契機として道教の原型が成立し,民衆を中心として大きな勢力をもつようになった。六朝に入ると道教は宗教としての形を整えるようになり,知識人の一部にも信者を獲得するにいたった。同時に仏教との対立摩擦も起こるようになったが,多くの場合,道教は仏教の教義を取り入れてその教理の強化を図った。

隋・唐300年の文化は,その性格において六朝文化の継承発展であり,完成であったといえる。儒学は前代に引き続いて思想的な発展はなく,仏教の下風に立つことに甘んじた。唐の太宗は儒教の振興を図り,五経の標準的解釈である《五経正義》を作ったが,これは六朝の訓詁学の集成であり,哲学的な内容のあるものではない。知識人の多くは仏教に関心を寄せたため,仏教はここに黄金時代を迎えることになった。隋唐仏教の最大の特色は,インドに見られなかった宗派仏教を生み出したことである。数多い大乗の仏典はその説く内容が多種多様であり,ときに互いに矛盾するように見える場合もある。そこで中国の学僧たちは,これこそ釈迦の真意を伝えたものと信ずる一つの経典を選択し,これを中心におき,他の経典群をその周辺におくという方法を採った。これを教相判釈,略して教判という。隋の天台大師智顗(ちぎ)が《法華経》を中心とした教判を立て,天台宗を樹立したのをはじめとし,三論,浄土,華厳,禅,法相,密教等の諸宗が相次いで成立した。これは中国人の創意によって生まれた仏教の体系であり,ここに中国仏教がインドのそれと異なる独自の展開を遂げる基礎が確立した。ただ唐末の武宗が激しい排仏政策をとった結果,これらの諸宗は極度に衰微し,なかには廃絶に帰したものもあったが,ひとり禅と浄土の2宗のみはいよいよ隆盛に向かい,宋・元・明・清の仏教界はこの2宗の独占に帰した観があった。むろん,その背景には社会的経済的な原因もあったが,根本的には理論よりは実践を,知よりは行や信を重んずる中国民族の体質の現れと見るべきであろう。

唐の仏教全盛期の後をうけた宋代は,儒学の革新と復興の機運がようやく高まってきた時期であった。儒学は六朝・隋・唐700年の久しきにわたって仏教の下風に立たされてきたが,その最大の原因は,知識人が貴族化し,経世の意欲を失っていたことにある。しかし宋代に入ると,知識人が再び政治家・官吏としての本領を取りもどし,出家超俗の仏教に不満を抱くようになった。ここに経国済民を使命とする儒学の振興が始まる。しかし旧来のままの儒学は,哲学による基礎づけを欠いているために,仏教に慣れた知識人の関心をひくには不十分である。ここに哲学的基礎をそなえた新儒学への要望が高まった。このような機運は,前半期にあたる北宋の中ごろから盛んになり,周敦頤(しゆうとんい)(濂渓),邵雍(しようよう)(康節),張載(横渠),程顥(ていこう)(明道),程頤(ていい)(伊川)などにより,いわゆる宋学の成立を見るのである。しかし哲学は一朝にして成るものではない。宋代の知識人の心中には前代以来の仏教の哲学が深く浸透している。したがって宋学の人々も無意識のうちに仏教哲学の影響をうけ,これを儒学に持ちこむことを免れなかった。宋学の最も基本的な概念は〈理〉と〈気〉に集約されるが,は物の本質,は物の現象的な側面であり,両者は密接不可分の関係にあるとされる。このうち気の概念は中国に古くからあったものであるが,理は老荘系の哲学の用語としてあっただけで,しかもそれほど重要性をもつ言葉ではなかった。これを哲学の中心においたのは宋学に始まる。しかしこの宋学の理気の説は,天台宗や華厳宗の〈事と理〉の説からヒントを得たという可能性が大である。また周敦頤が主静を唱え,程明道が静座を重視したのも,禅宗ないし老荘の影響を受けたものといえよう。

 しかし,このような一面だけをとらえて,宋学は単なる仏教ないし老荘の亜流哲学にすぎないと見ることは不当である。宋学はあくまでも儒学であり,その目標は治国平天下にあり,家族の秩序の安定強化にある。その政治目標に達するための哲学的基礎の確立に努めたのであって,出家超俗を説く仏教哲学とは,本質的に異質のものであった。この宋学隆盛の機運は,後半期の南宋の朱熹(子)を生むことによって頂点に達した。朱子は宋学の大成者であり,その学問は哲学であるとともに政治学,歴史学,倫理学,科学であるという性格をもち,総合的で包括性をもつ体系であった。このため朱子学の隆盛以後,仏教は衰退の一途をたどることになった。ただ朱子学は,その理性主義のゆえに,これにあきたらぬ反対学派を生み出す可能性がつねにあった。朱子の同時代人の陸九淵(象山)の心即理の説などは,その代表的なものである。

元代には朱子学が官学として公式に採用され,明・清時代もこれに倣った。明代には《五経大全》《四書大全》《性理大全》などの朱子学の国定教科書ともいうべきものが朝廷によって編集された。しかし明代には打ちつづく太平によって培われた自由と享楽の風潮が盛んになり,もはや朱子学のもつ主知主義は昔日の魅力を失い始めていた。これに代わって現れた哲学が,王守仁(陽明)のいわゆる陽明学である。陽明学は朱子学と対立の関係にあった宋の陸象山の心即理の立場を継承発展させたものといえる。陸象山は人間の心が完全な理を備えたものであるとし,心外の理を求める必要はないとした。心さえあれば,読書などは必要でなくなる。これはそのまま陽明学の立場でもある。朱子によれば心は理を備えてはいるが,同時に気(感情や欲望などの要素)をも含んでいるために,そのままでは完全ではない。この心の理を補正するためには,外物の理を窮(きわ)めること(格物窮理)が必要であるとする。具体的には読書を通じて客観的な事物の知識を広めなければならない。

 これに対して王陽明は,心に内在する理を知るだけで十分であり,外物の理を追い求めるのは無用であるばかりでなく,本心の理を見失う結果を招く。したがって,いたずらな読書などは有害無益であるとする。王陽明によれば,人間の心には先天的に良知が備わっており,この良知を極め尽くすこと,すなわち〈致良知〉が聖人に至る道である。さらに知の意味を説いて,単なる見聞の知は真の知ではなく,行を通じてのみ真の知となるという〈知行合一〉の説を唱えた。その学問は主観主義的な心学の性格が強く,禅宗色が濃厚である。また読書の知識を軽んじて実践を重視するところから,陽明学は気節の士を生む可能性をもつとともに,他方では明末の李贄(りし)(卓吾)のようなデカダニズムの思想家をも生んだ。

清朝も朱子学を官学としたが,一般の知識人の間では朱子学や陽明学の理気心性の哲学を内容の空疎な学問として遠ざける風潮が生まれ,これに代わって経典や史書などの考証学が盛んになった。この考証学は実証的であるだけに,学術上の寄与は大きいが,そのかわり哲学的な内容にはほとんど見るべきものがない。ただひとり考証学の大家の戴震は,その《孟子字義疏証》において,朱子学の理性至上主義に批判を加え,そのリゴリズムを排したのが異彩を放っている。アヘン戦争以後,列国の中国侵略が激化するとともに,思想界にも大きな変動が生まれ,康有為などをはじめとして改革論・革命論を唱えるものが続出するようになったが,その多くは政治論・社会論の範囲にとどまり,哲学の域にまで達した例は乏しい。清末から民国初にかけては,ようやく西洋の哲学書の翻訳や内容の紹介なども行われるようになったが,一般の共感をよんだのは,英国風の功利主義や米国風のプラグマティズムの哲学の範囲に限られていた。その後はマルクス主義の唯物論の哲学がしだいに優勢を占めるようになり,共産主義革命の後は唯物論一色に塗りつぶされ,哲学一般に対する関心はきわめて低調であるように見受けられる。
中国思想
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「中国哲学」の意味・わかりやすい解説

中国哲学
ちゅうごくてつがく
Chinese philosophy

政治理念と人間の実践倫理 (礼や孝) を中核とする「儒教」と,中国化した「仏教」 (たとえば,禅宗や天台宗,浄土宗など) と,古来の神仙思想を宗教化した「道教」とのいわゆる三教が,中国思想を構成する大思潮である。「中国哲学」の名称は,近代になって欧米の哲学の形にならって言いだされたものであり,用語例からみると,儒教あるいは儒教を中国思想の中心と考える見方から構成した哲学史を呼ぶ場合が多い。ところが,儒学 (とりわけ儒教の経学) が欧米でいう「哲学」に相当するか否かを疑問視する学者も出たり,他方,儒教にも仏教,道教からの影響が次第にみてとれるようになり,この三教の総合的学際的研究の必要性が知られるようになるに従って,現在では「中国哲学」の名を避けて「中国思想」の名が用いられる傾向にある。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「中国哲学」の意味・わかりやすい解説

中国哲学
ちゅうごくてつがく

中国思想

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