改訂新版 世界大百科事典 「祭り」の意味・わかりやすい解説
祭り (まつり)
集団による儀礼行動の一つ。本来は原始・古代宗教の集団儀礼を総称し,現代では文化的に一般化されて,祝賀的な社会行事を呼称するのによく使われる言葉となっている。日本の祭りは伝統文化として重要であり,神社神道では今でも祭りを中心にしているほどだが,世界の宗教文化史上にも注目すべき社会現象である。日本語のマツリは,マツル,マツラフという動詞で上位の者に奉仕する意味の語の名詞形とみられる。語源的にはマツとマチは同根で,見えないものが見える場所,接触しうる場へ来るのを歓待する意味をもつ。だから古代国家の政治は,マツリの場でミコト(神命)を実現するマツリゴトでありえた。しかし漢字の〈祭〉は,もと祭壇上に犠牲を供える供犠(くぎ)の象形文字であり,ほかに人々の集まりを示す〈会(かい)〉が祭りに相当する。中国古代の農村では土地神〈社(しや)〉を祭る春秋の野外行事を〈社会(しやかい)〉と称した。仏教の行事を〈法会(ほうえ)〉といい,日本でも宮中の大嘗祭を大嘗会,京都の祇園祭を祇園会と称することもあった。〈祭り〉と訳される西欧語festival(英語),fête(フランス語),Fest(ドイツ語),fiesta(スペイン語)などは神聖な饗宴を意味するラテン語festumに語源をもつ。いずれも現象的には,日常生活から区切られた特定の日時と場所で,集団的に演じられる一種の社会劇(ソシオ・ドラマ)であるが,これが祭りであるためには,信仰的または潜在的に抱かれている社会理念が,一定の儀礼様式のなかでその場にまざまざと実現するという,きわだった喜びの体験を集まった人々が共有しなければならない。宗教の祭りであれば,日常的な時空の営みを無視して展開する神話的な世界の構成のなかで神と人がリアルに交流するという,ふだんは社会に潜在している宗教理念が集約的に顕現する神聖な機会ということになる。
したがって祭りの前提には,祭りに実現されるべき神話的世界観と,それを共有して祭りを執行する集団とがある。原始社会では部族と生活世界との原始を物語る神話が生きていて祭りの場で再現される。祭りは俗の生活を神聖な世界に同一化することによって,それを清新なものに活性化する。古代の祭りには,親族や地域を単位とする生活共同体が季節的で空間的な神聖秩序の支配する超現実の世界となって,祖霊的な守護神と成員とが集合的に交歓する形のものが多い。日本各地に今も伝承されている祭りの多くは,地域住民が神の子(氏子(うじこ),産子(うぶこ))として祖神(氏神(うじがみ),産土(うぶすな))を歓待する形で構成される。まず〈忌籠(いごもり)〉の形で丁重に招来された神々は,〈遊び〉の形で地域と住民とに広く祝福を授けるのである。
オーストラリアのアボリジニーは,祭りが展開する神話的時間の構造が日常の時間や歴史とは次元の違う一種の〈夢の時〉だと表現している。祭りは歴史を無視して,現在をそのまま神聖な原創造の世界に直結する。祭りのドラマは常識上の飛躍を当然として,奔放に展開する意味で夢の論理に通じる。しかもそれが,ふだんの生活を律するより根源的な真実として日常の現実を規制することになる。古代以前の社会では,時間の構造が等間隔の延長ではなく,時計の振子のように聖と俗,夜と昼,夢と現実の往復運動をなして,そこに歴史の入る余地はない。夜は眠りの時であり,万物が闇に溶ける混沌(こんとん)の時である。眠りは死の世界に通じているが,光が闇から生まれるように死は生の根源でもある。古代の夜は生と死が混然とした世界であった。夜にこそ昼の障壁が溶けて祖霊や神霊が自由に来訪する。祭りが本来夜を徹して行われる理由がここにある。日本には各地に夜の忌籠を中心とする祭りがまだ残っている。籠り(参籠(さんろう))が強調されない祭りも,構造的にはほとんど夜に重要な神事を行うか,あるいは夜の延長として昼の行事が展開するとみてよい。世界各地の祭りも夜を中心に祝われてきた。古代ギリシア・ローマの密儀はもとより,イエス・キリストの降誕も聖夜に祝われ,謝肉祭や復活祭も夜を徹して行われる。
→秋祭 →夏祭 →春祭 →冬祭
執筆者:薗田 稔
祭儀と祝祭
人間の社会集団においては,その構造を基礎づける超越的な世界像を持つ場合がある。それが,社会によっては超自然的な神の世界だったり,あるいはまた聖なる歴史的過去であったりして一様ではない。祭りは人々がこれに参加して,日常的には経験しえないそれぞれの固有の世界像を,非日常的な各種の象徴的行為によって表現し,人々が実感をもってそれを経験しうる行動様式のことである。これらの祭りのなかでも歴史的にも古くかつ典型的といえるものは,神を対象とした宗教の祭りである。この種の祭りは,季節や生産のリズムに沿った自然的事実が祭りの象徴となることが多く,季節祭の姿を呈する。歴史的事件などの社会的事実などが象徴の中心となる祭りは,必ずしも季節性はなく,記念祭の姿をとる。これらの祭りにおいては,人に神が憑依(ひようい)したり,人が神の化身となったりして神と人との合一が実在化し,人々が祝祭的な行動をするなかで集団的に一体化し没我的状態となって理想世界を体験したりする。これらの結果として,社会集団の活性化がはかられるのである。
祭りにおいては,上記の世界像を表現する非日常的な象徴的行為として,既存の社会秩序の徹底的尊重を示す〈祭儀〉の部分と,それとは反対に,日常の社会関係の約束事を徹底的に破壊し,溶解し,既存の社会的障壁を除去して集団の融合,合体を将来する〈祝祭〉の部分とが認められる。対照的なこれら両部分の発達の度合や相互の関係はもちろん祭りによって多様である。祭儀の部分においては,参加者の正装,禁欲,精進,潔斎といった厳粛で慎重な態度において,また呪術的言語や動作,財物の供献,供犠,共食(饗宴)などの日常的コミュニケーション方式の誇張において,全体として日常の社会秩序の徹底的尊重が現出する。一方祝祭の部分においては,祭儀の場合とは反対に,人が神の扮装をしたり,神話的世界を模倣したり,さらにまた神が人に憑依したりして,人と超越的世界との一体化が進行する。また人々が仮装,異装,化粧や演技を通じて日常的な地位・身分をかくし,またあえて暴飲暴食,濫費,破壊,喧騒といった節度を欠いた行動に出,不敬な言動と身分逆転の演技,あるいは姦通,近親相姦といった禁忌違反や,歌舞,競争,闘争といった平静さを欠く放縦な行動によって,むしろ人々の間の日常のコミュニケーション方式が破却され,日常の社会関係が溶解し,混沌化するのである。そして一時的にもせよ参加者の間の一体感が現出するのである。こうした非日常的な祭儀と祝祭といった相矛盾する象徴的行為群が祭りのなかで累積的に実修されることによって,集団的高揚が生じ,人々の間で神の世界や理想社会といった理想像との合一化が,一時的にもせよ生じやすくなるのである。
祝祭は,ときとして劇的構成をとってその効果をあげることがある。その場合は,日常的に埋没している二元的対立がまず呈示され,その対立の極限において劇的融合が遂げられるというのが共通した筋書きである。例えば,男女の対立が両性の和合により,生と死が再生により,敵と味方や神と悪魔が闘争を経て一方が勝利することにより,神と人間が変身によって同一化することにより,善と悪が贖罪(しよくざい)を経た和解によって解決するといったような結末によってである。
祭りにおける祝祭の楽しさは,人々に祭りを忘れ難いものとさせ,それがまた祭りの存続に寄与する結果となる。祝祭の楽しさとそれによる人々の集合は,商人の注目するところであり,彼らはその利害関心から祭りの維持発展に大きく寄与する。〈クリスマス〉〈新年〉〈復活祭〉〈バレンタイン・デー〉〈母の日〉などの発展には,この契機がからんでいる。また既成の宗教団体も,大衆に娯楽を提供して不満を解消し,彼らをひきつけることができる利点に注目する。ローマ教会による,イタリア在地の本来は異教徒の祭りであるカーニバルの採用などはその一例である。しかし,キリスト教徒の内部においては,プロテスタントのように,祝祭の放縦性に強く反発した動きのあったことも事実である。
祭りが民衆の心を合一化し,人々の連帯感と集団への忠誠心を涵養する機能を持つことを,政治家は看過しない。すなわち彼らは荘重な祭礼,壮麗な分列行進,盛宴,休日などを設けることによって忠誠心や愛国心の涵養をはかる。これは君主制,民主制その他いずれの国家形態にあっても同様である。すなわち国主や独裁者に対する忠誠心を刺激すること,平和,自由,平等,友愛などへの情熱をかきたてること,資本主義や軍国主義に対する革命に情熱を注入すること,などのために祭りは等しく利用されている。これらの国家的祭儀は,形は宗教的儀礼に由来しているが,純粋に世俗的かつ政治的なものである。宗教性を欠いた祭りにおいては,真実の感情や信念からではなく,慣行や形式や強制で参加し,参加者個人の心情表現が規制されること,およびいわゆるお祭り気分のためにむだな支出や浪費の伴う点が昔から批判されてきた。
→儀礼
執筆者:杉山 晃一
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