元来は「民を移す」という意味。明治期に②の意味が生まれ、中国語に逆輸入された。
個人あるいは集団が職を求めるなどのさまざまな動機、原因によって、恒久的に、あるいは相当長期間にわたって、一つの国から他の国に移り住むこと。移民は、移民を送り出す国の側からは出移民または移出民emigration, emigrantとして、また同時に、移民を受け入れる国の側からは入移民または移入民immigration, immigrantとして、それぞれ別個に取り扱われる。なお、法制上における移民の定義は国によって異なり、国際的に統一された定義は存在しない。
移民の定義に関連した一つの問題は、移民と植民との異同である。この二つのことばは、いずれも民族の対外的発展を表現するという意味で共通点をもっているが、移民は国外移住を志す個人の移動の面を重視しているのに対し、植民は植民地の建設や経営を目的とする国家的活動の面からとらえられた概念である点に大きな相違がある。植民にも本国人の移住を伴うという点で、移民と類似した点があるが、自国の主権の及ぶ植民地への植民と、そうでない地域への移民とでは、いろいろな意味で大きな相違があることを認めないわけにはいかない。両者の区別は、植民地の比重の大きかった第二次世界大戦前の移民については重要性が大きいが、戦後、植民地のほとんどが独立するに至った現在では、問題はほぼ消滅したとみてよい。次に移民は難民とも区別されねばならない。戦争や革命は、いつの場合にも本国送還や引揚げ、逃亡や追放などの形で大量の難民をつくりだす。第一次世界大戦と、これに続くロシア革命により、戦時ならびに戦後にわたる難民は7000万人に達した。それ以降も局地的戦争や社会的混乱によりたくさんの人々が難民に加わっている。1999年1月現在、世界全体の難民の数は約2115万人といわれている。
[皆川勇一]
移民にはさまざまの形態があり、以下のように区分される。
(1)移民先の農場、工場、会社などに雇われるための雇用移民と、新たに土地を開拓し、そこに定着するための定着移民
(2)個々人の自由意志に基づく自由移民と、国家あるいは移民団体の計画に基づく計画移民
(3)国家その他から補助金ないし援助を受けて移民する補助移民と、個人の資金だけによる非補助移民
(4)移民先で分散してそれぞれの職につく分散移民と、移民後も集団をなして定住する集団移民
(5)あらかじめ雇用契約を結んで移民する契約移民と、多少とも資本をもち、自ら企業家となる企業移民
(6)移民期間の長短に基づく恒久移民と一時移民(出稼ぎなど)
[皆川勇一]
移民は一般に、移民者のよりよい生活への欲求を、直接の個人的動機として生ずるものであるが、さらに、さまざまの経済的、社会的、政治的、宗教的要因が移民を押し出す力として作用する。たとえば、ある宗派に対する圧迫、少数民族の迫害、革命、戦争、凶作、経済構造の変化、景気変動による失業、人口過剰などが移民の原因をなしてきたことは、数々の歴史的事実によっても明らかである。しかしながら、移民が行われるためには、一面、移民に好適な、あるいは移民を必要とする受入れ地域が必要であり、それゆえ、移民者にとって望ましい職業ないしは生活環境と、受入れ国における未開発地の存在や労働力への需要などが、移民を引き寄せる条件として作用する。以上のような送出国および受入れ国における移民を規定するさまざまの条件の変化が、移民の規模や方向や形態を左右しているのである。なお、移民に対する国家の政策も、移民に影響する大きな要因となる。
[皆川勇一]
移民の歴史は人類の歴史とともに古いともいえるが、ここでは新大陸発見以後の移民について、ヨーロッパ移民を中心に概観してみよう。
(1)植民時代(16世紀から19世紀前半まで) 15世紀末の地理上の発見を契機に、ヨーロッパ諸国から新大陸(南北アメリカ、オーストラリア)および南アフリカへの植民が開始される。最初の移住者はスペイン人で、1509年から1740年までに、セビリア港から渡航した移住者は約15万人であった。17世紀および18世紀の移住はイギリス人が中心であった。17世紀の中ごろ、ニュー・イングランドおよびバージニアに各8万人、メリーランドに2万人が渡航したといわれる。17世紀を通じてのイギリスから新大陸への移住者は約25万人、18世紀に約150万人であった。この150万人のうち、50万人は長老教会派のアイルランド人であり、5万人は犯罪者の強制移住であった。19世紀に近づくと、スペインおよびドイツからの移住もしだいに増加した。
ヨーロッパ諸国は「新大陸発見」以来、広大な領土を所有していたにもかかわらず、19世紀に至るまで、それほど多くの移民を出していない。それには多くの理由がある。第一に、重商主義時代には、本国の人口が多ければ多いほど国家にとって有利であり、人口を海外に移住させることは不利と考えられていた。それゆえ、植民地を確保して国外貿易の発展に必要な限度においてのみ海外移住を認める政策をとっていた。第二に、ヨーロッパ諸国間の政治情勢は、19世紀に入るまできわめて不安定であり、植民地開発に手を伸ばす余裕が少なかった。第三に、帆船による大洋横断は危険であり、また帆船では大量の移民を輸送できなかった。最後に、大量の移民を送出するには、ヨーロッパの人口はなお十分多くはなかったのである。
なお、ヨーロッパからの移民以外に、本期においてとくに注目すべき移住に、アフリカ黒人の奴隷売買がある。16世紀に始まり、19世紀までに非合法に行われたものを含む総計は2000万人に達したといわれている。うち1500万人がアメリカ合衆国に運ばれた。
(2)移民発展期(19世紀中ごろから第一次世界大戦まで) ヨーロッパ諸国からの海外移住者が増大するのは、19世紀なかばからで、その後第一次世界大戦まで、ヨーロッパ諸国の海外移住は全盛期を画した。この原因は産業革命の結果各国の産業が発展し、それとともに海外拓殖、海外貿易、海外投資も盛んとなったこと、自由主義の政策により海外移住に関する諸制限が撤廃され、むしろ海外移住を奨励する政策がとられたことなどである。他方、漸次独立をかちとった北アメリカ、南アメリカの旧植民地国家が、その国力の増大、未開地の開拓のため移民を必要とし、来住者に補助やさまざまの便宜を与えたり、未開地の無償あるいは低価格での払下げが行われた。ここに、自発的意志をもって新開地に移住し、新しい運命を開こうとする自由移民が大量に出現するに至り、汽船の発達がそれに拍車をかけることになった。19世紀におけるヨーロッパ人口の急増も大量移民の間接的条件として重要である。
1846年からの年平均移住者数は、政治的理由や、母国および移民先の地域の経済変動により、年々の移民数に大きな増減がみられるが、その増大傾向は明白である。1820年代および30年代には年々3万人に満たなかった移住者は、50年代には10倍、20世紀に入ると40倍にも激増し、最高140万人を超えるに至った。おもな送出国はイギリス(1846~1915年の間に1243万人)、イタリア(817万人)、オーストリア、ハンガリー、旧チェコスロバキア(合計511万人)、スペイン、ポルトガル(合計473万人)、ドイツ(429万人)、帝政ロシア、ポーランド、フィンランド(合計388万人)、ノルウェー、スウェーデン、デンマーク(合計213万人)である。このうちイギリスがもっとも早くから移民を出していた。19世紀前半のみでその数はすでに240万人に達した。1885年ごろまで、イギリスに次いで多くの移民を出していたのはドイツで、1880年代に最高に達したが、その後は国内工業の発展による雇用増により海外移住は漸減した。スカンジナビア諸国はドイツよりやや遅れ、ノルウェー、スウェーデン、デンマークの順に移民が盛んとなった。数そのものは比較的少ないが、国内人口に対する割合はかなり高いものであった。しかし、母国の生活水準の向上と、移住先での南欧・東欧移民との競争激化とにより、移住者は減少した。以上の国々は早期に移住を開始したので旧移住old migrationとよばれる。
旧移住は1890年代から減少し、これにかわって南欧・東欧からの移住が盛んとなった。これを新移住new migrationとよぶ。新移住のうちもっとも数の多いのはイタリアである。イタリア移民は1850年代には10万人に満たなかったが、19世紀末ごろから急増し、1890年代にはイギリスにかわる第一の移民国となり、1906~10年には年々40万人を超える移民を送り出していた。スペイン、ポルトガルの移民も19世紀末ごろから急増した。東欧からの移民は南欧よりも遅れ、20世紀に入ってからの移民が大部分をなしている。移民受入れ国の第一はアメリカ(1821~1932年の間に3424万人)、ついでアルゼンチン(641万人)、カナダ(521万人)、ブラジル(443万人)、オーストラリア(211万人)、西インド諸島(159万人)の順であった。
なお、ヨーロッパ以外からの移民としては、中国(16世紀以降950万人)、インド(350万人)がとくに多かった。おもに隣接諸国への移民であったが、19世紀以後はアメリカや中央アメリカ、南アメリカ、アフリカへの移民もかなりみられた。
(3)移民制限期(第一次世界大戦から第二次世界大戦まで) 海外移住は1910年前後に最高潮に達したが、以後漸減し、第一次世界大戦とともにさらに急減、第一次世界大戦後は一時増勢を示したが、大恐慌以後ふたたび著しく減少し、第二次世界大戦期にさらに減り、年6万人を割るに至る。移民減少の原因として、二度にわたる大戦および大恐慌の影響もさることながら、最大の直接的原因は移民制限政策である。アメリカは1921年移民法により年間移民総数を35万人とし、1924年移民法では16万人に縮小した。他の受入れ国も制限措置をとるに至り、とくにアジア人の移民は、ラテンアメリカを除き事実上禁止されるに至った。
(4)第二次世界大戦以降 第二次世界大戦以後の移民の特徴は、その変動の激しさである。国際間の政治的、経済的関係の変化、ならびに送出国、受入れ国の国内条件により、国際移民の流れはその方向規模および構成を著しく変えてきた。4段階に区分して考えてみよう。
第1段階は1950年代初めまで。この時期の最大の移住は、第二次世界大戦とそれに伴う政治的後始末の直接の結果としての本国送還や難民の移動で、世界全体で5000万人以上に達した。だが、これと並行して戦前の移民の流れも再開され増大し始める。
第2段階は1950年代。この時期にも新たな難民が生まれるが、数は第1段階よりはるかに少なく、移民の数を下回った。移民のおもな流れは、ヨーロッパから北アメリカ、南アメリカ、オセアニアという形で、第二次世界大戦前の型と類似していた。50年代終わりから、第3段階に支配的となる開発途上国から西欧先進国への移動が増え始める。とくにイギリス、フランスは旧植民地であるインド、パキスタン、ジャマイカ(以上はイギリス)、アルジェリア(フランス)からの移民を多数受け入れるようになる。
1960年代および70年代前半が第3段階をなす。この時期に、前述の新しい移民の流れが支配的となり、ヨーロッパにおける移民は、域内の貧しい国々(南欧、東欧)および北アフリカ、中近東からの西欧先進諸国への移動という形が明確となる。伝統的な受入れ国である北アメリカやオセアニアは、第2段階より多くの移民を受け入れるようになったが、ヨーロッパ移民の比重は低下し、ラテンアメリカ、アジア、アフリカからの移民が増えた。1960年ころからラテンアメリカは受入れ地域から送出地域に転換した。国際移動の流れを変化させた要因は、北西ヨーロッパにおける経済成長とそれに伴う労働力需要の増大である。70年代初めの西欧諸国には家族を含め1500万人の移民労働者が存在した。こうした西欧への大量の下層労働者の流入こそ、この時期のもっとも特徴的な移民の流れであった。
これと並ぶいま一つの問題として、少数ではあるが、高度の技術をもつ人々の移動、つまり頭脳流出brain drainがある。これはやや貧しい資本主義国、もしくは開発途上国の科学者、技術者がより高い報酬と機会を求めて豊かな先進国へ流出することで、受入れ国では頭脳獲得brain gainという。1960年代前半までは、カナダ、イギリス、旧西ドイツ、オランダ、スイス、スウェーデン、日本からアメリカへの流出が顕著だったが、60年代からは、インド、パキスタン、フィリピン、メキシコなどからの医師、看護婦、科学者のアメリカ、イギリス、カナダへの流出が中心となった。その数は60~75年で30万ないし40万人といわれる。この流れは、出身国によって負担される高額の教育費および必要な専門技術者の喪失の問題として重大である。
1970年代後半以後の第4段階の出発点はオイル・ショックによる経済条件の変化で、これが国際移動の流れを変える契機となった。西欧工業化諸国への移民労働者の流入は抑制された反面、石油輸出国への流入が増大し始める。中東および北アフリカの石油輸出国の移民労働者は5年間に倍増し、75年には200万人に達した。おもな受入れ国は、サウジアラビア、アラブ首長国連邦、クウェート、イラン、オマーン、カタール、アルジェリア、イラクであり、送出国は、エジプト、ヨルダン、パキスタン、イエメン、インドなどで、東南アジア諸国からの流出も増加した。元来、人口の少ない石油輸出国では、移民労働者の労働力人口に占める比重は大きく、アラブ首長国連邦やカタールでは8割以上にも達し、深刻な社会的摩擦の可能性を秘めている。
[皆川勇一]
(1)明治以降第二次世界大戦まで 徳川幕府が家光(いえみつ)以来の海外渡航の禁制を解いたのは1866年(慶応2)である。1868年(明治1)以後1941年(昭和16)までの移民数は77万6000人に達している。おもな移民先は、ハワイ23万人、ブラジル18万9000人、アメリカ10万7000人、旧ソ連5万6000人、フィリピン、グアム5万人、カナダ3万5000人、メキシコ1万5000人などであった。このなかには満州(現中国東北部)への開拓農の移住32万人は含まれていない。1896年(明治29)制定の移民保護法における移民の定義は「労働ニ従事スルノ目的ヲ以(もっ)テ(清韓(しんかん))両国以外ノ外国ニ渡航スル者及其(そ)ノ家族ニシテ之(これ)ト同行シ又ハ其ノ所在地ニ渡航スル者ヲ謂(い)フ」とされていたからである。満州への移民を含め、第二次世界大戦前までの移民の合計は約110万人と考えられる。この数字は、ヨーロッパ諸国の移民、とくにイギリス(植民時代から第二次世界大戦前まで2000万人)、イタリア(1000万人)のみでなく、ドイツ(500万人)と比べても、はるかに少ない。
日本における本格的な移民は1886年(明治19)日布渡航条約に基づく布哇(ハワイ)への移民とともに始まる。条約締結の前年に956人が甘蔗(かんしょ)(サトウキビ)園労働者として渡航したのを最初に、以後94年までの10年間に移住者は3万人に達した。政府間の条約に基づく移民ということで、これを官約(かんやく)移民という。その後、94年に移民保護規則が公布され、さらに96年にこれが移民保護法となる。ハワイとの官約移民から政府が手を引いてから、移民はもっぱら移民会社(1896年には20社を超える)を通じての契約移民の形で行われており、弊害も続出し、移民者の保護が叫ばれていた。移民保護法の制定以後、移民は大幅に増加し、大正末期まで、ハワイ、アメリカ、カナダなどを中心に年平均1万6000人の移住が行われた。しかし、ハワイ、アメリカへの移民は、1908年(明治41)日米紳士協約により制限され、さらに24年の移民法(いわゆる排日移民法)により激減する。
この時期に北アメリカにかわる移住先として比重を高めるのがラテンアメリカ、とくにブラジルである。ブラジルへの最初の移民は、1908年笠戸丸(かさどまる)によるコーヒー園への契約移民799人の移住に始まり、33~34年(昭和8~9)の最盛期には年間移住者は2万人を超えるに至った。だがブラジル移民も、34年制定の新憲法により制限を受け、以後漸減する。
アジア地域への移民は、フィリピンを除き、それまで少数にとどまっていたが、1935年以後、中国、満州への移民が急増する。とくに、36年から満州移民20か年100万人計画が推進され、集団農業移民=分村移民という形で、全国農村地域、なかでも、長野、山形、熊本、福島、新潟、宮城、岐阜の諸県から多くの開拓団、義勇隊が移住した。第二次世界大戦敗戦までの満州開拓者の数は32万人に達した。
第二次世界大戦前における前述の海外移住により、1940年(昭和15)の外国在留日本人移民数は170万人(満州82万人、中国本土37万人、ブラジル20万人、アメリカ10万人、ハワイ9万人、その他の地域12万人)に達したが、これらは第二次大戦後、南北アメリカ・ハワイを除く地域からことごとく引き揚げるに至った。
(2)第二次世界大戦後から1980年ごろまでの海外移住 第二次世界大戦後の海外移住者数は1981年(昭和56)まで累計23万9679人となっている。その年次別の推移をみてみると、1951年以後、移民は増加し始め、57年には1万6620人とピークに達した。しかし、以後は減少、いったん4000人台となったのち、71年、72年にふたたび増加、以後減少し、3500人前後の数字を示していた。70年代後半から移民が振るわないのは、ヨーロッパ先進諸国以上に、経済発展に基づく強い国内労働力需要と国内生活水準の上昇により、一般の移住意欲が薄らいだためであろう。
先の海外移住者の数字は旅券発給統計に基づくもので、この数字から職業移動を中心とする渡航費貸付および支給移住者を差し引いた約17万人は、自費による移住者であり、アメリカ、カナダ、ブラジル、アルゼンチン、ボリビアなどに多い。とくに、アメリカへの移住のほとんどは自費移住者であるが、その大部分が国際結婚(第二次世界大戦後の、いわゆる戦争花嫁などを含む)、養子縁組である。
次に渡航費貸付および支給移住者についてみてみよう。その数は、南アメリカ移民の再開された1952年度から81年度までの累計で7万1491人。年度別推移では、52年度から60年度までは増大し、60年度8386人をピークとして以後は急減、77、78年度には500人を割るに至る。60年度以後の移民の急減は、主として農業移民の減少による。第二次世界大戦後の移民再開以来、農業移民は圧倒的比重を占め、とくに56~61年度の間は毎年5000人を超えていたが、その後激減し、年間100人前後となるに至った。以後、農業にかわり、工業およびその他の専門技術者、技能者の比重が著しく増大した。
この時期に移住者の増加が顕著となったカナダ移民についてみると、1977~81年度総数959人のうち、農業48人、技術628人、商業その他119人、近親呼び寄せ164人で、専門技術者の移民が中心を占めている。技術者の内容も、以前は自動車組立て・修理や旋盤工などが多かったが、その後はプログラマー、弱電技術者などが中心で、要求される専門技術も高度化した。カナダの1962年移民法改正およびアメリカの1965年移民・国籍法改正にみられたように、移民受入れ国では、出身国を問わず能力・技術ある者を受け入れる政策をとる国が多くなった。
(3)1980年代以降の出移民および入移民 日本からの出移民の減少傾向は1980年代に入っても続き、80~84年の年平均移住者(外務省が旅券を発給した際に永住のためと答えた人)の数は2957人にまで減少したが、85~89年には平均3056人で3000人の線を維持している。
日本からの出移民のうち、さらに渡航費支給移住者について第二次世界大戦後の動向を検討してみよう。戦後におけるその総数は1952年4月~87年3月まで6万6690人で、その5年間ごとの平均移住者数を算出してみると、55~59年が6467人でもっとも多かった。その後この数は急激に減り始め80~84年は147人、85~89年は48人、90年はわずかに14人で、それ以後の数字の発表はない。この渡航費支給移住者の著しい減少が海外移住日本人の1980年代以降における性格変化をもっともよく表している。つまり、第二次世界大戦後の海外移民の性格を、先にあげた六つの対照的な移民の形態にあてはめてみるならば、農業移民の減少にも絡んで定着型から雇用型に、国家の援助に頼らず自発的意志に基づくという意味で計画型から自由型に、また補助型から非補助型に、集団移民から分散移民に、契約移民から企業移民に、さらに一時移民から恒久移民に転換するに至った。移民のこうした性格の変化が前記の数的変化にも表れている。日本の移民は第二次大戦前の出稼ぎ型あるいは窮迫型から、自らの自由意志と自己選択に基づく自立型移民に変化したのである。
次に日本への入移民についてはどうだろうか。登録外国人の総数は1952年の57万3318人から、80年に77万6000人、95年に136万2371人、2000年に168万6444人へと増加している。つまり在日外国人の数は1952~80年に20万人以上、さらに80~95年には58万人以上、95~2000年の5年では32万人以上増えている。なお、第二次世界大戦前1940年10月1日現在の在日外国人の数は3万9237人にすぎなかった。これが52年に57万人を超えたのは、戦後も日本にとどまった在日韓国・朝鮮人および台湾人が、外国人登録法の制定などにより、永住資格保有外国人として52年の数字に含まれたからである。ともかく、日本からの出移民数(1945~89年の海外への移住者数26万2573人)に対し、日本への入移民の増加は、はるかに多数といえる。また、85~97年までの13年間の出国者を差し引いた外国人入国者の合計は131万9000人(概数)で、この間、毎年10万人ずつ増となっている。なお、この数字は出入国管理庁などの把握した合法的な出人国者の数字に基づくもので、これ以外にボートピープル(難民)などの形での密入国者の存在も考慮せねばならない。
[皆川勇一]
世界全体についてみてみると、経済的に豊かな国々は、日本と同様あるいはそれ以上の入移民問題を抱えている場合が多い。1990年の西欧6か国における総人口に対する外国人居住者割合は、スイス16.3%、ベルギー9.1%、ドイツ7.3%(91年)、フランス6.3%、スウェーデン5.6%、オランダ4.6%であるのに対して、日本は97年でもなお0.95%にとどまっており、この点からみれば比重は軽いといえる。むしろ、外国人労働者の労働面・生活面での満足度を高めるように配慮しながら、どのような形で受け入れ、日本経済の発展や社会生活の充実に貢献してもらえるかを真剣に考えるべきだろう。
今後さらに進行する少子化・高齢化問題に直面している日本にとって、外国人労働力の受入れは、将来のいっそうの発展と安定を確保するためのだいじな選択肢の一つである。
なお、日本の移住業務は1963年に設立された海外移住事業団を改組した国際協力事業団(JICA(ジャイカ))、さらに2003年以降はそれを再編した国際協力機構(JICA)が中心となって行っている。
[皆川勇一]
『福武直編『アメリカ村――移民送出村の実態』(1953・東京大学出版会)』▽『泉靖一・斎藤広志著『アマゾン――その風土と日本人』(1954・古今書院)』▽『泉靖一編『移民』(1957・古今書院)』▽『蒲生正男編『海を渡った日本の村』(1962・中央公論社)』▽『ブラジル日系人実態調査委員会編『ブラジルの日本移民』(1964・東京大学出版会)』▽『新保満著『日本の移民――日系カナダ人に見られた排斥と適応』(1977・評論社)』▽『古屋野正伍編『アジア移民の社会学的研究』(1982・アカデミア出版会)』▽『厚生省大臣官房政策課監修、人口問題審議会・厚生省人口問題研究所編『国際人口移動の実態――日本の場合・世界の場合』(1993・東洋経済新報社)』▽『経済協力開発機構編、日本労働研究機構SOPEMI研究会訳『国際的な人の移動の動向――先進国への挑戦』(1995・日本労働研究機構)』▽『佐々木敏二著『日本人カナダ移民史』(1999・不二出版)』▽『エマニュエル・トッド著『移民の運命――同化か隔離か』(1999・藤原書店)』▽『赤木妙子著『海外移民ネットワークの研究 ペルー移住者の意識と生活』(2000・芙蓉書房出版)』▽『古賀正則編『移民から市民へ――世界のインド系コミュニティ』(2000・東京大学出版会)』▽『内山勝男著『蒼氓の92年――ブラジル移民の記録』(2001・東京新聞出版局)』▽『本間圭一著『パリの移民・外国人――欧州統合時代の共生社会』(2001・高文研)』▽『伊予谷登士翁著『グローバリゼーションと移民』(2001・有信堂高文社)』▽『ギ・リシャール監修、藤野邦夫訳『移民の一万年史――人口移動・遥かなる民族の旅』(2002・新評論)』▽『坂口満宏著『日本人アメリカ移民史』(2001・不二出版)』▽『中野卓共編『昭和初期一移民の手紙による生活史――ブラジルのヨッチャン』(2006・思文閣出版)』
労働の目的をもって自国の国境を越え他国に移り住む人migrantを指す。移り住む行為すなわち〈移住〉の代りに,移民という言葉を使うことも多い。ヨーロッパの言語では,その国の立場により〈出移民(英語emigrant,フランス語émigré)〉と〈入移民(英語immigrant,フランス語immigré)〉とに分けて使用するのが普通だが,日本ではまだ一般的ではない。〈植民〉〈殖民〉という言葉は,自国の統治権内の植民地や未開拓地に移り住むことに用いるが,19世紀までは移民との区別はそれほど明確ではない。移民の定義は国により時代によりまちまちで,最大の出移民国イギリスでさえ,1年以上の長期滞在者と短期旅行者とを区別したのは1912年からで,国連などの努力にもかかわらず,現在でもその用法の混乱は続いている。しかし,国際結婚などは移民とはいわないから,〈労働を目的とする〉という点では一致しているといえよう。日本政府は,第2次大戦後の移民再開に当たって,明治以来の移民史につきまとう〈社会の脱落者〉という暗いイメージを払拭するため,1955年に〈移住者〉という表現を用いることにしたが,まだ熟した言葉にはなっていない。
一般的には,政治的・思想的迫害や国境変更などの政治的要因によるもの,英国国教会の圧迫から逃れて新大陸に渡ったピルグリム・ファーザーズに代表されるような宗教的要因によるもの,物理的・社会的稠密社会や保守的伝統からの脱出を欲する心理的要因によるものがあげられる。しかし,最も大きなものは経済的要因である。現在の貧しい生活,あるいは将来性の少ない状態から抜け出て,高所得水準の,または流動的社会で財産をつくり,社会上昇を果たそうという気持が,最も強い移民の誘因となる。しかし,これらの諸要因は複雑にからみあっていて,本人自身にさえ十分な認識のない場合が多い。
移民はさまざまに分類できるが,基本的には政府によって強制された移民と自己の意志によるもの(自由移民)との二つに分けられる。自由移民はさらに,政府などの援護を受ける補助移民と,それらとまったく関係のない完全な自由移民に分けることができる。また,移住後の雇用契約の有無により,契約移民と非契約移民とに分類され,前者は労働条件が不利な場合が多く,後者は移住後不安定な要素が多い。移民の職種等により,自営移民と雇用移民,技術移民と非熟練移民等々にも分類できる。永住移民と短期移民(出稼ぎ移民),家族移民と単独移民といった分け方もある。さらに地理的要素を考慮に入れて,ヨーロッパ各国間のような大陸内移民と,ヨーロッパ・アメリカ間のような大陸間移民とに分けることもある。
出移民国の政策としては,禁止・制限,放任,奨励,強制の四つの選択がありうる。禁止・制限には相手先国,職業等による制限など,その程度に強弱がある。奨励も内容的には放任に近いものから,強力な助成措置に至る段階がある。具体的には,移住先国の情報を志望者に提供すること,移住相談に応じること(移民顕在化助成),移住後の適応のための研修訓練を施すこと(能力補充援助),財産の整理や渡航手続を援助し,渡航費を低利融資もしくは交付し,さらに支度費を支給すること(移転援助),渡航後の経済活動および子弟教育や生活を,通常の領事保護業務以上に行うこと(現地における援護助成)に分類できる。他方,入移民国としては,禁止・制限,放任,奨励の政策がある。禁止・制限の内容は多様で,犯罪・疾病歴等による入国禁止は一般的であるが,数量制限,国別・人種別制限,職業,能力,資金力,年齢,性別,親等などによる制限もよく行われる。奨励策としては,出移民国での宣伝,移住相談,渡航費補助,移住後の職業斡旋などがある。入移民政策は,それぞれの国のおかれた人口・経済・外交上あるいは軍事上の条件により,引き締められたり緩和されたりするのを常とする。
移民の歴史は人類の歴史とともに古いといえるが,近代移民は新大陸の発見とともに始まる。16世紀以降のアジアとヨーロッパとの交渉は貿易活動を主とし,少数の官吏,軍人,商人を除くと,ヨーロッパからの本格的な移民は行われなかった。これに対し新大陸は,ヨーロッパ諸国に対抗しうる政治権力が存在せず,人口が希薄で,ヨーロッパに似た気候区が存在し,かつ旧大陸に近いという好条件をそなえていたので,多くのヨーロッパ人が移住した。
スペインは他国に先んじて16世紀初頭から新大陸に進出したが,主たる入植地であるメキシコ,ペルーにおいて,エンコミエンダ制などの下で多くのインディオや黒人奴隷を労役させたこと,また本国の人口そのものがあまり多くなかったことなどのために,労働力としての大規模な移民は行われなかった。16世紀中葉のアメリカにおけるスペイン人人口は12万近くで,同世紀全般の渡航者は20万に達しなかった。新大陸のスペイン語地域への移民総数は18世紀末までで数十万にとどまった。
17,18世紀の最も大きな移民の流れは,イギリスやドイツなどから北アメリカへ向かった。イギリスでは,すでに16世紀後半のエリザベス時代,地理学者R.ハクルートが新大陸への植民を推奨するが,その目的は当時社会問題になっていた大量の失業者・浮浪者を植民地に移住させ,本国の〈負担〉を軽減することにあった。17,18世紀移民の多くは貧しい単身の青年であり,年季契約移民の形態をとった。彼らは渡航費用の負担を免れたが,到着後は一定年数の労役を義務づけられ,なかには黒人奴隷と変わらぬ待遇を受けたものもいる。とくに初期には,〈スピリットspirit〉(ヨーロッパ大陸では〈ノイランダーNeulander〉)とよばれた詐欺師兼誘拐屋の口車にのって,年季奉公の契約を結んだものも多い。また,罪人も年季契約移民として北アメリカへ送られ,アメリカ合衆国独立後はオーストラリアへ回された。17世紀末以降18世紀半ばまで,イギリスはオランダ,フランスとの断続的な戦争を繰り返すが,戦後は失業した兵士と犯罪件数の増加が社会問題となり,これを植民事業によって解決しようとした。一方,イギリスではヨーロッパの他国に先がけて地主によるエンクロージャー(土地囲込み)が進み,高騰した地代を払えない農民が移民となった。彼らは年季契約移民ほど貧しくなく,家族ぐるみで移民し,新大陸での土地購入を目的とした。ほかに,しばしば不況におそわれた毛織物業の関係者も同様に海を渡った。18世紀後半,国内で産業革命が進展し,国外で植民地帝国が確立するにつれ,人口は国家にとって労働力,兵力として意識されるようになる。イギリスは未曾有の人口増加期に突入しつつあったにもかかわらず,人口減少,出移民を憂慮する声もあがった。18世紀末までに現在のアメリカ合衆国の地域に移民したヨーロッパ人は約180万とみこまれている。また,16世紀から18世紀末までの期間,いわば強制的移民ともいうべき,はるかに多数のアフリカ黒人が奴隷貿易によって新世界のプランテーションや鉱山に送りこまれた。
新大陸への移民は1830年代に初めて年間10万をこえ,以後急速に増加し,第1次大戦前には年間150万というピークに達した。第1次大戦までの100年間に新大陸に渡ったヨーロッパ人は5500万とも6000万ともいわれ,前半期には北西ヨーロッパ出身者が,後半期には南東ヨーロッパ出身者が多い。産業革命の進展に伴い,伝統的な農村共同体が崩壊し,余剰人口が都市とともに移民へと流れた。時代によって出移民国の中心が変わるのは,おもに産業革命期のずれを反映している。北西ヨーロッパのなかでもアイルランドの場合は,1840年代の大規模なジャガイモ飢饉が出移民を促した主因である。南東ヨーロッパやロシアでは産業革命や貧困などの経済的要因と並んで政治的要因が大きく作用した。オーストリア・ハンガリー二重帝国の成立(1867)によってハンガリー人の支配下に置かれたスロバキア人,ロシア帝国下の反体制活動家,アレクサンドル3世やニコライ2世のロシア化政策の対象となった異民族,そして迫害されたユダヤ人がアメリカ合衆国や西ヨーロッパへ逃れた。このほかに,ヨーロッパ諸国の植民地化が進んだアフリカ(とくに北アフリカと南アフリカ)や,ロシア人によるシベリアへの移民がこの時代に盛んになる。
19世紀のアメリカ合衆国は西部開拓の時代であり,南北戦争後は産業化も急速に進み,多くの労働力を必要とした。またラテン・アメリカでは,19世紀前半に独立を果たしたアルゼンチンやブラジルが広大なパンパの開発,コーヒー栽培のために,資本の導入とともに19世紀末から20世紀初めにかけて移民の受入れに力を入れた。イタリア,スペインからの移民が多かったアルゼンチンは,1860年の総人口121万が1914年には788万に達する。ブラジルでは,ポルトガルやイタリアからの移民労働に依存したサン・パウロ地域がコーヒー・プランテーションの中心となり,1908年には日本移民が初めて到着する。
1807年,イギリスで奴隷貿易廃止法が成立し,19世紀前半から半ばにかけて奴隷制度そのものもイギリス,フランス,アメリカ合衆国で廃止される。新世界のみならず,オーストラリアや南アフリカなど世界各地におけるヨーロッパ諸国の植民地で,黒人奴隷の解放によって不足した労働力を補ったのが,インドや中国などから雇い入れられたクーリー(苦力)であった(インドの移民については〈印僑〉の項を参照)。アメリカ合衆国でも19世紀後半,中国人移民が増加し,大陸横断鉄道の建設などに従事した。
アメリカ合衆国では1882年に中国人を対象とした移民制限法が成立,これを最初として非白人移民への門戸はしだいにせばめられ,最後に残った日本移民も1924年には禁止された(排日移民法)。アジア人やアフリカ人に対する移民制限は,アメリカ合衆国や白豪主義に基づいて移民を制限(1901)したオーストラリアはもとより,中南米諸国でもみられた。両大戦間期は有色人種に限らず,概して移民一般に対して制限的であり,合衆国の場合は1921,24年に移民割当法によって白人移民も数量的に規制した。さらに,29年に始まる世界大恐慌によって,ほとんどの国が移民を受け入れられない経済状態に陥った。一方,軍国主義化の進んだナチス・ドイツやムッソリーニ支配下のイタリアは,兵力・労働力の確保のため出移民禁止政策をとった。このような移民低調期にあって,第1次大戦終結後,民族自決の原則に基づいて新国家が誕生した東ヨーロッパ,ロシア革命後の内戦時のソビエト,反ユダヤ主義政策がとられたドイツでは,政治的要因による移民や亡命が絶えなかった。
19世紀が自由移民を主としたのに対し,第2次大戦後は戦争に伴う強制移民や難民が圧倒的に多くなっている。終戦後のドイツやポーランドでみられたような国境の変更,あるいは分離独立を果たしたインドとパキスタンなどの新国家の誕生は,大規模な人口移動を引き起こした。その後に勃発した世界各地での局地戦争は,今日にいたるまでその都度難民問題を生じさせており,大戦後の人口移動の規模は,〈移民の世紀〉に匹敵するとみこまれている。
一般移民では,戦争により荒廃したヨーロッパ,とくに人口過剰の状態にあったイタリアやギリシア,またインドネシアからの多数の帰国者をかかえたオランダが積極的な出移民政策を講じた。ソ連,東ヨーロッパからの難民には門戸を開いたアメリカ合衆国は,一般移民に対しては戦前からの移民制限を継続していたので,ヨーロッパからの一般移民の多くはオーストラリア,ニュージーランド,南アフリカそしてラテン・アメリカ諸国へと向かった。1950年代後半以降の経済復興によって人口圧力は弱まり,ヨーロッパからの移民はしだいに減少するが,60年代から大陸内移民が盛んになる。西ドイツをはじめ経済活動の活発な北西ヨーロッパ諸国へ,南東ヨーロッパから労働者が出稼ぎを目的に移民し,その相当数は長期滞在化,永住化の傾向にある。
1948年の世界人権宣言は,若干の留保つきながら移民の自由を基本的人権の一つとしており,戦前のような人種的差別は困難になった。アメリカ合衆国は65年のケネディ=ジョンソン法によって有色人種に対する移民禁止政策を完全に撤廃し,数量制限も著しく緩和した。南アフリカ共和国を除き,他の諸国も同様の改正を行った。独立した植民地から旧宗主国イギリスやフランスなどへの移民も盛んである。労働力の不足しているドイツやスイスでは,トルコなどからの非白人移民も多く,社会的緊張を引き起こしている。また,アラブ産油国へのアジア各地からの出稼ぎ移民も,20世紀後半の大きな人口移動の一つである。
第2次大戦後の入移民国の一般的政策は,単純労働者の入国を制限し,資金や技術を有する者を歓迎する傾向が強く,知識水準の高い階層の流動性が高まっている。19世紀までの移民は技術や熟練を世界に拡散する役割を果たしたが,現在では逆に発展途上国の技術習得者が先進国に集中する傾向にある。また,先進国の年金生活者などが,物価や家事使用人賃金の安い発展途上国で隠退生活を送る傾向も最近現れている。人は動くが労働力の移動ではなく,消費力の移動ともいうべき現象であり,従来の移民の概念では論じられない面が現れている。
相当数の出移民があっても,人口の空隙は出生数の増加によりすぐに埋められ,人口圧力を減少させる効果はないという説は昔から根強い。事実,移民によって人口減を実現したのは,歴史上アイルランドだけといわれる(1841年に817万であった人口は1911年には440万に激減した)。しかし,19世紀を通じて,世紀初めの人口の3分の1もの移民を送り出したヨーロッパが,この出移民により深刻な人口過剰問題を避けえて,比較的円滑に資本主義形成を果たしたことは疑いないし,とくに全人口に対する移民比の大きなスカンジナビア諸国やイギリスではその影響は顕著だったといえる。大量の出移民は,残った人びとの1人当り利用可能資源を増加させ,労働市場を好転させるからである。このほか,移民の効果としては,移民の本国送金(イタリアでは1950年代初期,それは外貨収入の3分の1に達した),母国訪問,母国からの商品輸入等により,外貨収入に大きく貢献するとされている。他方,出移民が多量に過ぎるときは,熟練労働力の流出というマイナス面も現れる。入移民国にとっては,教育費の負担なくして成人労働力を入手できるため,経済発展に与える効果は大きい。ことに移民が新技術または資本を導入して新しい産業を興した例は,アメリカ,ブラジル,アルゼンチンなどいずれの入移民国にもみられる現象である。また,移民によって入移民国の文化が新しい刺激をうけたり多様化することはよく知られており,両当事国の親密さを増すことも多い。しかし,アメリカの排日移民法成立にみられたように外交関係を悪化させることもまれではない。
出移民国にとっては,移民問題は人口問題,食糧問題の重要な一環であり,ときには外貨獲得の手段とも意識される。さらに,移民を実現するうえでの障害,たとえば移住適地や資金の不足,移住先での保護助成等が通常,移民問題の内容となる。他方,入移民国にとっては,新来移民が労働賃金の低下圧力として作用することは労働者にとって重大関心事であり,とりわけ異文化の担い手,異なる人種の入移民は大きな社会問題となる。すなわち彼らは少数民族minorityとして,国の中の国を形成する可能性が多い。最近この問題に対しては,同化assimilationよりも,異文化の相互評価により各民族がそれぞれの文化を保持したままの統合integrationこそが望ましいという議論が増えてきており,数十年前に比べると少数民族に対し多数民族は著しく寛容になった。そして人種・宗教・政治上の意見,資産,出身国等による差別は,法律上はもとより事実上も廃止される傾向にある。しかし人種的偏見,とりわけ有色人種に対するそれはまだ根強く残存していることもまた事実である。
→外国人労働者
執筆者:若槻 泰雄
日本人の移民は,室町時代から江戸時代初期まで約300年間に一つの高揚期があった。倭寇(わこう)や南蛮貿易を背景に朝鮮への定住者(向化倭人),東南アジア各地の日本人町などが現れた。しかしその後の鎖国で,日本人の海外往来は長く禁圧された。人口移動が再び活発になるのは幕末期で,まず国内の北海道への植民が始まり,明治維新期の急激な社会変動がこれを促進した。1866年(慶応2),幕府が海外渡航禁止令を廃止すると国外への移民も始められ,幕府や各藩の留学生に混じって在留外国人の家僕,少数の芸人などが欧米に渡った。人身売買による無法者や婦女子の密航も年々増え,アジア各地で最下層の労働や売春に従事した。おもに九州から流出した売春婦〈からゆき〉は有名である。
長期間他国に居住し,農業労働あるいは各種産業の非熟練労働に従事するという狭義の近代移民は,1868年(明治1)の官約ハワイ移民153人(元年組)を先駆に,80年代から本格化した。以後第2次大戦の敗戦まで約60年間は近代移民の最盛期で,敗戦前後の一般在外邦人数は北米がざっと41万(うち約半数がハワイ),中・南米が24万とされている。台湾,朝鮮をはじめ日本の植民地は人口密度が高く,千島・南樺太(敗戦時28万),中国東北(満州)への農業移民(同27万)を除けば日本人労働力の移住は微々たるもので,政治的支配関係を背景とする軍人,官吏,会社員,中小経営者層が移住の主力であるから,狭義の移民とは異なる。朝鮮などは逆に日本や南樺太への労働力供給地になり,在外邦人に匹敵する在日朝鮮人を生みだした。
19世紀末は日本人移民の試行期で,ハワイのほかオセアニア方面にも移住したが,いずれも定着できず,前述のハワイの元年組も失敗に終わった。ハワイ移民が恒久化するのは1895年の官約再開からである。これはのちに移民会社による契約移民,さらに自由移民として続き,1910年代末には在留邦人は10万を超えた。サトウキビ栽培,製糖の労働力需要があったためである。とくに山口,広島,熊本,沖縄など西南諸県出身者が多かった。アメリカ,カナダへの移民も,ハワイからの転航を含めて急増し,同じころに人口でもハワイをしのいだ。アメリカ西海岸州,なかでもカリフォルニアが多かった。
日本人移民の急増は北アメリカ両国に深刻な経済・社会問題を引き起こした。一足早く進出して排斥を受けた中国人移民と同様,低賃金の非熟練労働力の流入が受入国の労働市場を攪乱したこと,劣悪な環境にも適応しやすく,出生率も高かったこと,文化や心理の懸隔がはなはだしく,祖国意識も強いため受入国の市民社会に順応しにくかったことなどが,一般的な人種差別観や日露戦争を契機とする黄禍論で増幅された結果である。それは今日の欧米との貿易摩擦にも通ずる問題であろう。このため両国は相ついで日本人移民の受入れを制限し始めた。初めは政府間の日米紳士協定(1907-08)により日本側が自発的に資格制限を行ったが実効が少なく,1913年にはカリフォルニア州法が外国人の土地所有を禁じ,20年の改正で借地も禁ぜられた。これは日本人移民の経済活動に厳しい足枷(あしかせ)となった。さらに24年にはアメリカ合衆国の移民割当法(排日移民法)が制定され,日本人移民の渡航には著しい制限が加えられた。
一方,コーヒー園労働力の需要にもとづくブラジル移民は,1908年の会社契約移民781人(笠戸丸組)に始まり,アメリカ合衆国の制限強化につれて増大し,戦争で途絶するまでに約19万人が移住した。とくに関東大震災の罹災者救済に始まる政府の補助金政策や,昭和恐慌期の農村窮乏を反映し,最盛期の1933,34両年の渡航者は計5万人余にのぼった。小説家石川達三は1930年に移民船でブラジルに渡り,その経験をもとに《蒼氓(そうぼう)》を発表(1935)して第1回芥川賞を受けた。しかし30年代にはブラジルを中心とする南米移民も制限を受けるようになり,かわって中国東北へのいわゆる満蒙開拓が国策化した。
以上,近代日本の移民は国内労働市場の狭さが生んだ相対的過剰人口のはけ口として,開拓時代の西半球の労働力需要に応じた形をとった。言語,文化の相違や人種偏見の悪条件下に下級労働者としての生活苦を背負い,落伍者も多かった。北米では大戦中財産凍結や強制移住の辛酸もなめた。しかし今日では市民権を得,社会的地位も相当上昇して,受入国の日系市民として生活している(日系アメリカ人)。戦後は1952年のサンフランシスコ講和条約締結後,ブラジルをはじめ南米諸国と移民協定が結ばれたが,国内産業の発展により,実績は戦前よりずっと少ない。さらに,発展途上国へ産業協力要員を送るため海外移住事業団法が制定され(1963),政策的にも移民は変質したとみることができよう。さらに同事業団は海外技術協力事業団などと統合され,1974年国際協力事業団に改組改称された。
執筆者:岡部 牧夫
中国の国外移民は華僑とよばれる。〈僑〉とは仮住いの意。ゆえに華僑は本来〈故郷に錦を飾る〉意識をもつことが前提されており,そのため二重国籍的存在がふつうなのだが,最近では移住先の国民となる者も多く,それを華人とよんで区別することもある。華僑が世の注目をあびるのは,19世紀にクーリー(苦力)貿易(猪仔貿易Pig Trade)が黒人奴隷貿易にとってかわってからである。クーリーの語源はタミル語のkuliともいわれ,中国人やインド人の下層肉体労働者をいう。奴隷制の廃止にともない登場した半奴隷労働ともいうべきもので,世界資本主義を支える重要な一環であった。
華僑の出身地は広東,福建が多く,1840年(道光20)から25年間で約50万人,60年(咸豊10)の北京条約で海外渡航が自由になると飛躍的に増加し,アヘン戦争からの1世紀間を通じて1700万人にのぼったとされる。この大量の華僑創出の社会的基盤は,中国の半植民地化にともなう社会構造の変化のきしみのなかから生みだされた広範な破産農民,ルンプロ層であった。20世紀初頭にはすでに全世界に分布し,その総数は500万~600万人,現在では2500万人(その3分の2以上が華人)とも推計されているが,その大部分は東南アジアに集中している。彼らは東南アジアのゴム・砂糖のプランテーション,スズ鉱山,新大陸の金山で働き,大陸横断鉄道やパナマ運河を建設した。劣悪な労働条件と不当な差別を克服させたのは,彼らの勤勉と団結であり,祖国の富強への関心は,あるいは孫文ら革命派への援助となり(〈華僑は革命の母〉),あるいは陳嘉庚(ちんかこう)(シンガポールのゴム王。1874-1961)の大学建設(厦門(アモイ)大学,1921創立。ほかに各種学校多数)となった。その経済力は1920年代の祖国への送金額が年2億元以上にのぼり,貿易収支の赤字のほとんどを補塡しえたとの一事からもうかがえよう。しかし,彼らの活躍はまた華僑排斥の動きともなり,アメリカでは早くも1882年に中国人排斥法がつくられ,世紀末には欧米でかの黄禍論がとなえられた。オーストラリアの白豪主義もその一変種である。第2次大戦後には東南アジア諸国でも華僑抑制の傾向が強まり,インドネシア,ベトナム等では大量虐殺の惨事も起こっている。中華人民共和国の現在の華僑政策は,二重国籍を許さず,居住地の国民となるか,中国籍でも居住地の法律の尊重を求めている。
なお,国内の植民は,古い時代はともかく,清代では周辺の少数民族地域への漢族の移住が主である。僻地山区の開墾は全国的に行われたが,18世紀になると東南では台湾へ,西北では新疆へ,東北では満州への植民が大々的に行われた。その結果,1880年代に新疆,台湾にも本土なみに巡撫が,清朝発祥の地満州にも1907年(光緒33)に東三省総督がおかれた。とりわけ東三省,台湾の重要性は,のちに日本が300万の移民を送りこんだという一事からも想像できよう。敗戦後,日本人移民はごく一部のもの以外は,本土へ帰還した。
執筆者:狭間 直樹
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人の移動は人類史の初めからみられたが,ふつう移民として議論されるのは,ヨーロッパを中心として諸大陸間の新たな経済的つながりができた「長い16世紀」以降の人の移動についてである。「長い16世紀」から18世紀中頃までの移民は,ヨーロッパから植民地への移民,およびアフリカやアジアからの強制的移民が中心であった。しかし,移民の本格的な波がやってくるのは,資本主義の拡大と交通手段の発達をみた「長い19世紀」においてである。この時期に拡大するのは,ヨーロッパ各国からその植民地への移民,およびヨーロッパやアジア各国からアメリカ合衆国,カナダへの移民である。この19世紀に入って,強制的移民はほとんど姿を消した。第一次世界大戦以降,革命やファシズム,二つの世界大戦と多数の局地戦,あるいは冷戦の成立と崩壊が,亡命や難民を含めて新たな人の移動を促進した。第二次世界大戦以後には,後発諸国全体からアメリカおよび西欧諸国への労働移民が,合法的・非合法的な形態をとって拡大した。20世紀末以後は,移民の向かう先は多極化し,アメリカや西欧諸国のみならず,日本,オーストラリア,アラブ産油国などへの移民,あるいはヨーロッパやアフリカといった地域内での移民が展開され,移民はまさにグローバル化しつつある。また移民の性格も,多国籍企業の発展に伴うキャリア型の移動やいわゆる頭脳流出といわれるような移民へと拡大している。現在では,何らかの形で自国を離れて住む人の数は,1200万人といわれる難民を含め,世界全体で8000万人にのぼるといわれる。
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(桑原靖夫 獨協大学名誉教授 / 2008年)
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…西への移動はその後も続くが,第1次大戦期ころからの傾向として黒人の北部への移動をあげることができる。彼らは,戦時中の移民の減少によって不足した北部工業地帯の労働力を補った。さらに1930年代,綿摘み機の導入が南部農村地帯で進み,需要が減った黒人労働人口が南部の都市へ集中するとともに,北部へと移住した。…
…インド系移民のこと。一般に近代以降にインドから諸外国に移住した集団を指すが,国籍のいかんにかかわらず,言語,宗教,血縁などによってインド人としての帰属意識を維持している集団およびその成員を指す。…
…もっぱら高賃金の取得という経済的理由にもとづき国外から移住してきた出稼労働者をその受入国で呼ぶ名称。滞在は短期であることが原則で,滞在が恒久的であり,究極的には国籍の変更を伴う移民とは,いちおう区別される。また政治的理由により移住する難民や亡命者とも異なる。…
… 国際人口移動の領域においても,いくたの深刻な問題が発生している。戦後の経済発展期において,発展途上国からヨーロッパへ移住した大量の移民は,世界的不況にともなって,失業者となり,受入国,送出国のいずれにとっても重大な経済的・社会的問題となっている。1970年代においては,中東産油国への大量の石油産業関係労務者の移動が行われたが,最近における石油事情悪化のため,失業,帰国といった苦境に追いこまれている。…
…頭脳流出は移民の一形態で,高度の教育を受けた労働力の国外移住を意味する,主としてジャーナリズムでの用語である。その定義および概念はまだ確立されておらず,学問的実証的研究も少なく,頭脳流出の原因,本国と受入れ国における影響についても,いくつかの個別研究が限られた範囲であるにすぎない。…
※「移民」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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