イスラム美術(読み)イスラムびじゅつ

改訂新版 世界大百科事典 「イスラム美術」の意味・わかりやすい解説

イスラム美術 (イスラムびじゅつ)

イスラム美術は,西アジア,北アフリカをおもな舞台として広くイスラム世界で,7世紀から,その独自性が失われていく18世紀ころまでの約1200年間につくられた建築,絵画,工芸を指していう。しかし,その内容が聖俗両面にわたっているため,たとえイスラムの発展と歩みを共にしたとはいえ,キリスト教美術や仏教美術などと同列に置いて考えることはできない。

 イスラム美術は,ササン朝ペルシアササン朝美術),古代地中海世界などの美術を母胎として出発し,征服地の土着的伝統を吸収しながら,独自の様式を確立した。それは,きわめて抽象性,平面性の強い,装飾性に富んだ様式である。多様な文化の伝統を背景にもちながら,イスラム美術によりいっそう顕著に認められるのは,むしろ画一的な性格であり,その淵源は,イスラムそのものとアラビア語(文字),乾燥した自然環境などにある。

 まず,厳格な一神教であるイスラムにおいて,神は不可視的存在であるために,神像の制作はもとより,徹底した偶像崇拝の排斥に伴い,偶像と紛らわしい人物像や鳥獣像の制作まで忌避された。イスラム教徒の日常生活の規範でもあるコーランは,造形について何も述べていないのに対し,預言者ムハンマドのハディース(言行録)は,はっきり否定的立場を示している。後代のイスラム法学者や支配者たちの造形に関する解釈は,時代や地域によって緩やかなこともあったが,概して,偶像破壊的傾向は宗教的側面において常に顕著であった。

 次に,イスラム世界において,アラビア語は神の言葉と考えられてきた。それは,神の啓示がアラビア語で下され,アラビア文字で綴られてコーランとなったからである。したがって,アラビア文字は,イスラム美術において,いわゆる宗教図像に代わる重要な役割を果たしていることになる。アラビア文字は,肥瘦,直線・曲線を自由自在に表現しうる可変性,抑揚性に富み,表音文字特有の抽象性の強い形体をもっているので,幾何学文やアラベスクなど抽象的な装飾文様と調和を生みやすく,そのために,装飾要素として,他に類をみないユニークな働きをするにいたった。

 西アジア,北アフリカの乾燥地帯の風土は,単調そのものであり,きわめて色彩感に乏しい。そのような自然環境から多彩で複雑きわまりない装飾文様と,強烈・濃厚で想像力豊かな美意識が生まれた。建築,工芸を問わず,個々の構造や機能を無視して,装飾空間をすきまなく埋め尽くす施文法は,こうした背景から生まれたものである。

 イスラム美術は,社会のさまざまなレベルで制作されてきたが,いつの時代にあっても主要なパトロンは,王侯貴族であり,創作活動の中心は,宮廷直属の工房であった。したがって,どの作品にもパトロンの趣味が強く反映し,ここから,イスラム美術を宮廷美術とする考え方が生まれている。

 イスラム美術において,彫刻,特に人体彫刻はほとんど発達せず,絵画も,壁画を除いて,写本挿絵(ミニアチュール)という特殊な形でしか発達しなかったため,書道や工芸が,東アジアや西欧のそれに比べると,著しく高い位置を占めている。

イスラム世界の自然環境,イスラムの宗教的概念とこれに基づく慣習,あるいは社会的慣行などにより,絵画や工芸と同様に,統一性・画一性の著しく強い建築が生まれた。イスラム世界の大半は乾燥地帯に位置し,高温少雨という自然的条件が建築に与えた影響は大きい。晴天日が多く,しかも日照時間が著しく長いため,また夏季の暑気を防ぐためにも,開口部が少なく,規模も小さい建物が造られた。乾燥地帯の生活において,古来,水は最大の問題であり,それはイスラム時代においても変わらない。中庭,あるいは邸宅内の広間にまで水を引き込み,噴水や水槽を設けて涼をとることが盛んに行われてきた(アンダルシア地方のパティオpatioやエジプトのズルカーおよびサルサビール)。また,視覚的にも単調きわまりない環境に取り囲まれた都市などオアシスの集落では造園に力が注がれ,噴水や縦横に配置された水路を基本とした庭園が随所に設けられた。

 宗教的な観点からは,礼拝のために地域住民の大部分を収容できるスペースがモスクにまず要求され,さらに,聖地メッカに面する内壁面に設けられ,礼拝の方向(キブラ)を示すミフラーブ(壁龕)が必須条件となり,そのほかに礼拝を指導するイマームの座席ともいうべき階段状のミンバル(説教壇),礼拝に参集すべくムアッジンが信徒に呼びかけを行う高塔ミナレット(マナーラ),礼拝の前に行う潔斎(ウドゥー)のための泉亭ないし水槽などが重要な条件となった。

 イスラム世界の建築に見られる閉鎖性の側面は,特に民家の造りに影響を及ぼした。すなわち,私的な居住区域は,外部から直接に接近しがたい構成をとり,しかも開口部は道路側よりも,むしろ中庭に向かって設けられる。道路に面して窓を設ける場合には,強い日ざしや砂塵を遮閉するために,緻密な格子(マシュラビーヤmashrabīya)をはめ込み,内部がのぞけない仕組みになっている。

 イスラム初期のアラブは独自の建築様式をもたず,征服地の文化,すなわちペルシア,ビザンティン,西ゴートなどイスラムに先立つ文化の伝統を借用し,これを修正し,修飾を付加しつつ独自の様式を確立していった。イスラム建築の大きな特色は,それが構造から離れた表面装飾に傾斜していることである。建物の構造の一部は,しばしば装飾単位に変形して壁面を覆い隠す。例えば,一つのアーチが複数の小アーチに分解されたり(コルドバのモスクの二重多弁形アーチ),あるいは正方形プランの広間の壁体からドームへ移行する四隅の部分に使われているスキンチ・アーチを小ニッチに変形させて装飾的なムカルナスmuqarnas(鍾乳石飾り)としたように,構造よりも装飾に,より重要な意味が与えられている。なお,建築素材は地域によって異なるが,概してイラン,イラク,中央アジアでは煉瓦としっくい,地中海沿岸地方やインドなどでは大理石その他の石材が使用されている。

(1)モスク アラビア語ではマスジド,ジャーミという。宗教建築として最も重要な存在である。メディナに建てられた預言者ムハンマドの礼拝堂を兼ねた素朴な陸屋根の住居がモデルとなり,三方をアーケードで囲まれた中庭と有蓋の礼拝堂とからなる構成が,基本的なプランとなった。地域により多柱式(陸屋根をピアや柱で支持するアラブ型),4イーワーン式(中庭に面する各辺の中央にボールトを架けた前方開放形式のホール,すなわちイーワーンīwānをそれぞれ設けるイラン型),中央会堂式(大小のドーム,半ドームを大ホールの中心に架構したオスマン・トルコ型)などがある。

(2)マドラサ ウラマー育成の高等教育施設で,構造としては,中庭に面した各辺の中央に,教場や礼拝場として使われるイーワーンを設け,その間に階上・階下ともに学生が起居する個室が配置される。

(3)修道場(リバートribāṭ,テッケtekke,ハーンカーkhānqā,ザーウィヤzāwiya) 呼称はさまざまであるが,いずれもスーフィー(神秘主義者)が称名などの修行を行う修道場のことで,リバートは,元来は国境地帯につくられた砦をさした。建築的には,マドラサや下記のキャラバンサライと同様な構成をとる。

(4)墓廟(クッバqubba,グンバドgunbad,テュルベtürbe,マシュハドmashhad) 方形の墓室にドームや円錐形の屋根を架けたタイプと,円筒形ないし多角形プランの高塔の形式をとるタイプに大別される。

(5)宮殿(カスルqaṣr,サライsarāy) 中央に池や噴水などを設けた中庭の周囲に公私の居室を配置したものを基本的単位として,これを多様に組み合わせた例が多い。

(6)城砦(カサバqaṣaba,カルアqal`a) 初期のタイプは,古代ローマの辺境の砦の形式を踏襲している。一般に,強固な塔で補強した城壁や堀を周囲に巡らせ,城門の両側に塔を設けてはね出し狭間(はざま)(マチコレーション)などを設けた。
城[イスラム]
(7)キャラバン・サライ ハーンkhānとも呼ぶ。通商路沿いに設置された隊商宿で,通常,外面は強固な壁で囲まれ,中庭の周囲に厩舎,倉庫,店舗などを置き,階上に多数の客室を設ける。中庭にモスクを備えた例もある。

(8)市場(バーザールbāzār,スークsūq)と浴場(ハンマームḥammām) 市場は,特定のプランをもたないが,通常,ボールトを架けた道路の両側に店舗を連ねたものである。モスク,マドラサ,公衆浴場,キャラバンサライなどがこれに隣接する場合が多い。初期の浴場は,古代ローマの形式(脱衣室,高・微・低温浴室)を踏襲したが,一般には浴槽のない蒸しぶろで,そのプランは多様である。
市[イスラム] →風呂[イスラム]

(1)初期 ウマイヤ朝(661-750)の建築遺構の大半は,シリア,パレスティナに残存している。モスクの基本的な形は,ほぼこの時代に固まり,三方をアーケードで囲んだ中庭と礼拝堂からなる多柱式が特にアラブ諸国にひろまった。世俗建築としては,カスル・アルハイル・アルガルビーQaṣr al-Ḥayr al-Gharbī(727ころ),ムシャッターMshattā(744)など,シリア砂漠に散在するウマイヤ朝のカリフたちの宮殿がある。アッバース朝(750-1258)時代には,らせん状のユニークなミナレット(マルウィーヤ)をもつサーマッラームタワッキルの大モスク(847),カイラワーンの大モスク(ウクバのモスク,836改修・再建)などの大規模な多柱式モスクのほかに,新しい形式のモスクが,カイロで生まれた。すなわち,アズハル・モスクとマドラサ(970ころ),ハーキム・モスク(990-1013ころ)などがそれで,キブラは,幅の広い,しかも天井が一段と高く造られたネーブ(身廊)やミフラーブ前方に設けられたドームによって強調され,さらにファサード(正面部)には幾何学文,アラビア文字が深く彫り込まれ,モスク外壁の四隅の張出しにミナレットが載せられたものもある。世俗建築には,サーマッラーの諸宮殿址(9世紀中期)がある。セルジューク朝(1038-1194)時代のイランの建築の特色は,構造・装飾ともに煉瓦の利点が最大限に活かされていることである。イランのモスクの新しい形式は,四辺にイーワーンをもつもので,さらに南側のイーワーンの背後にドームを架けることによってミフラーブを強調している(イスファハーンマスジェデ・ジョメ)。同様なプランは,モスクのほかマドラサ,キャラバンサライにも適用されている(メルブ~ニーシャープール間の隊商宿リバート・イ・シャラフ,1114)。そのほかこの時代の特色として,アナトリア(トルコ)を含めて,独立した墓廟の急速な発展と普及,スタッコに代わる彩釉タイルの繁用,ムカルナスの発達などが挙げられる。一方,寒冷で降雨量の多いアナトリアでは,アラブ型やイラン型のモスクの中庭が,縮小されるか,ドームを架けたホールに変形している。ルーム・セルジューク朝(1077-1308)時代の建築の特色は,モスクやマドラサの銘文や複雑な装飾文様を施したモニュメンタルな正面入口(ピーシュタークpīshṭāq)の設置である(ディウリイDivriğiのウル・ジャーミUlu Camiと付設の施療所,1229。コニヤのインジェ・ミナレ・メドレセInce Minare Medrese,1265ころ)。アナトリアの墓廟の典型はカイセリのデネル・キュンベトDöner Kümbet(1276ころ)に,また,キャラバンサライの典型は,城砦風の城壁とモニュメンタルなピーシュタークを備えた,アクサライの王立隊商宿スルタン・ハーン(1229着工)にみられる。

(2)後期 13世紀中期のモンゴルの侵攻を境にして,イスラム世界の政治的統一が破れてアラブ,イラン,トルコ,インドにそれぞれ独立の王朝が建てられ,建築においても,それぞれ独自の発達がみられた。なおインドのイスラム建築については〈インド美術〉の項目を参照されたい。

 アラブ世界のマムルーク朝(1250-1517)の建築は,単純素朴ではあるが大規模で安定感のある様式や,モスク,墓廟,マドラサなどの複合的構成,しっくい,モザイク,特に色大理石による装飾(アブラクablaq),ムカルナスを多用した装飾などを特徴とする。代表的遺構としては,スルタン,カラーウーンの墓廟とマドラサをはじめとする建築群(1285),スルタン,ハサンのモスクとマドラサ(1359)が挙げられる。イベリア半島では,ナスル朝(1230-1492)下のグラナダで後期イスラムの宮殿建築を代表するアルハンブラ宮殿(13~14世紀)が造営されている。

 イランでは,垂直性の強調,セルジューク朝時代に始まる二重殻ドームの発展,さらに,煉瓦やしっくいに代わる彩釉タイルによる装飾美の徹底した追求などの特質が,イル・ハーン国(1258-1353)およびティムール朝(1370-1507)時代の,壮大なスルターニーヤのウルジャーイートゥー・ハーンの墓廟(14世紀初期),壮麗なマシュハドのゴウハルシャード・モスク(1419),サマルカンドのビービー・ハーヌム・モスク(1399着工),グール・アミール廟(15世紀)などに認められる。さらに,イラン文化の爛熟期サファビー朝(1501-1736)にいたり,イランのイスラム建築は技術的にも装飾的にも完成の域に近づく。それは,イスファハーンの王の広場を中心にして17世紀に造営されたマスジェデ・シャー(シャー・モスク),ロトフォッラー・モスク,アーリーカープー宮などに具現されている。オスマン・トルコでは,先行するビザンティン,ルーム・セルジューク朝時代の伝統を踏襲しつつ,独自の建築様式が確立された。スルタンたちは,モスクや墓廟を中心とし,給食所,施療所などを包含する建築群(キュリエkülliye)を造営させた。オスマン帝国の首都イスタンブールにおける最盛期のモスクの多くは,ハギア・ソフィアをモデルにして出発した中央会堂式タイプである。重なり合うように架けられた大小のドームやその周囲の半ドームは,巨大な柱に支えられて,広大な空間を生んだ。中間にギャラリーが設けられている細い独特の尖頭形のミナレットは,一ないし数基設けられた。オスマン・トルコ建築の特色は,ブルサのウル・ジャーミ(14世紀末),エディルネのユチ・シェレフェリ・ジャーミÜç Şerefeli Cami(1447),イスラム建築史上最も名高い建築家シナンの傑作スレイマン1世のモスク(1557)などによく表れている。オスマン・トルコでサライ(ペルシア語からの借用語)と呼ばれる王宮は,特定のプランをもたないが,トプカプ・サライ(トプカプ宮殿)のように多数の建物と庭園から構成される。オスマン・トルコの建築装飾は,特に内装にみられる彩釉タイルと石材との巧みな組合せによって特徴づけられる。

イスラム世界における絵画は,主として宮殿,私邸の内壁を飾る壁画のほか,画冊,あるいは冊子形式の写本に描かれた挿絵という独特の形式でのみ発達した。壁画には一般にフレスコ画とテンペラ画があるが,前者の技法がとられることが多い。ウマイヤ朝(661-750)では,砂漠の周辺に建てられた一連の宮殿,例えば,カスル・アルヘイル・アルガルビー,クセイール・アムラにフレスコ画が残っている。続くアッバース朝には,サーマッラーの邸宅址の壁画がある。また,ファーティマ朝のカイロ郊外における浴場址,パレルモのカペラ・パラティーナ,ガズナ朝のラシュカリー・バーザールの宮殿址,サファビー朝のイスファハーンのチェヘル・ストゥーン宮殿などの壁画が知られている。主題は,狩猟図,饗宴図など帝王主題にかかわるものが多い。〈ムラッカアート〉と呼ばれる画冊は,近世になって初めて発達する。サファビー朝のシャー・タハマースプやバフラーム・ミールザーの画冊やイスタンブールのトプカプ宮殿博物館所蔵の《勝利者王の画冊(ファーティヒ・アルバム)》をはじめとする多数の画冊が著名である。これには,肖像画のような単独の作品や種々の習作などが収められている。写本挿絵という形式は,12~13世紀ころから盛んになったが,それは,イスラム諸国における紙の普及と無関係ではない。また,パトロンである王侯貴族や富豪は,書画院を開いたり,王宮内に工房を設けたりして写本芸術の保護奨励に努めた。写本挿絵の起源は,ギリシアの薬学,医学,動植物学,天文学など自然科学書や技術書のアラビア語の訳本に添えられた挿絵にある。挿絵入りの写本の種類は,自然科学書にとどまらず,史書,文学書,宗教書などにも及んでいる。画冊に含まれる作品や写本の挿絵類は,その緻密な技法から,ミニアチュール(細密画)の名で呼ばれることもある。写本の製作には,絵師のほかに書家,彩飾師,箔置師,装丁師などの職人が当たった。作画に際しては,ペンや筆の滑りをよくするために,卵白などを塗った紙の表面を,水晶やメノウで磨いてつや出しをした。用具としては,〈カラム〉と呼ばれる,葦の茎の先端を斜めに切ってとがらせたペンと,穂先にリスの尾,子ネコの喉,ヤギの腹などのにこ毛を用いた筆が使われた。顔料には,赤土,黄土,辰砂,ラピスラズリなどから作られた鉱物性顔料が使用され,樹脂,亜麻仁油,蜜蠟,膠,アラビアゴムが媒剤として使われた。

 形式を問わずイスラム絵画全般に共通している点は,画面構成,色彩構成ともに装飾的,平面的,形式的であり,遠近法,陰影法には関心が示されず,図像に関しては,個性的表現,感情表出などにほとんど注意が払われていないことである。ミニアチュールには,幻想的で現実味の薄い情景がしばしば展開されているが,それは絵師が,造形表現の理想を現実の世界よりも,むしろ,イスラムやその倫理的理想によって照らし出された彼岸に求めたからであろう。

12世紀ころには,すでにモースル,バグダード,クーファ,バスラなどメソポタミアを中心として作画活動が盛んに行われていた。これを〈メソポタミア派〉と呼んでいる。素描ではあるが,スーフィーの《恒星論》の写本に含まれる挿絵(1009。ボドリー図書館)は,現存する最古の作例の一つである。メソポタミア出身のジャザリーが,水時計などの自動装置について著した《機械じかけの知識》の挿絵(1206。トプカプ宮殿博物館),ギリシアの医師ディオスコリデスの《薬物誌》のトプカプ宮殿本(1229),ガレノスの模本《解毒薬テリアカの書》のパリ・ビブリオテーク・ナシヨナル本(1199)およびウィーン国立図書館本(13世紀),動物寓話《カリーラとディムナ》のパリ・ビブリオテーク・ナシヨナル本(13世紀初期),アブル・ファラジュの大著《歌謡の書》のイスタンブール・ミッレト図書館本(1219ころ),ハリーリーの冒険旅行譚《マカーマート》のシェフェール本(1237。パリ・ビブリオテーク・ナシヨナル)などが,代表的な作品である。最後の作品は,裕福な市民階級の台頭を示唆するように,都市の庶民生活から多くの主題が選ばれている点で重要である。このなかには,絵師ヤフヤー・アルワーシティーの筆になるものがある。メソポタミア派の作品にみられる,赤,黄(金)色で塗りつぶした背景,人物像の頭光,顔貌,衣服,ポーズ,画面構成などは,いずれもビザンティン的である。メソポタミア派の伝統は,マムルーク朝(1250-1517)に受け継がれ,シリア,エジプトの地方的な伝統と融合して,抽象性,装飾性の強いスタイルを形成した。

この時代の数少ない遺品の一つに,民話に基づいた悲恋の物語《ワルカとグルシャー》(トプカプ宮殿博物館)の挿絵がある。なかには,大きな唐草が画面いっぱいにリズミカルに展開し,この背景に重ねるように表情も動きもない人物像を表した複雑な構成をとる作例もある。色彩構成と画面構成は,ともに装飾的である。

モンゴルによって壊滅的な打撃を受けたイランの文化は,イル・ハーン国(1258-1353)の成立と共に再興され,首都タブリーズは,学芸の中心として栄えた。モンゴル時代以降に制作された作品は,今日まで数多く残っている。この時代の絵画の特質は,中国から霊芝雲,土坡,竜,鳳凰などのモティーフをはじめとし,写実的描法,俯瞰的構図,巻子(かんす)本を思わせる横長の構図,白描画的筆法などの画法や技法が伝えられたことである。イブン・バフティシュの《動物の効用》のモーガン図書館本(1299ころ),文人宰相ラシード・アッディーンの《集史》のエジンバラ大学本(1307)とロンドン王立アジア協会本(1314),イランで最も人口に膾炙したフィルドゥーシーの民族英雄叙事詩《シャー・ナーメ(王書)》のデモット本(14世紀中期),《カリーラとディムナ》のイスタンブール大学図書館本(1360ころ)などが代表的な作品である。なかでも,〈大判のシャー・ナーメ〉の別名で呼ばれているデモット本は,ペルシア様式と宋・元の様式が完全に融合しているとは言い難いが,調和のとれたペルシア絵画の傑作といえる。さらに,中国様式がペルシアの伝統のなかに吸収されていく過程を示す一つの例に,上記の《カリーラとディムナ》がある。モンゴル系の地方王朝であるジャラーイル朝(1336-1411)最後の王スルターン・アフマドの治世に描かれた,フワージュ・キルマーニの《詩集(ディーワーン)》の抒情性に富む挿絵(1396。大英博物館)は,ジュナイド・ナッカーシュの筆になり,宋・元の画風は,淡く柔らかな色調による牧歌的な情景のなかに影を潜め,ペルシア絵画の詩的情趣が支配的になっている。この,13世紀後半から14世紀にかけて首都で栄えた〈タブリーズ派〉に対して,ファールス地方,ホラーサーン地方におけるローカル派の地味な活躍も無視できない。横長の小型の画面に大きく描かれた人物像は,赤,黄色に塗りつぶされた背景と共に古拙な味わいをもっている。

ティムール朝(1370-1507)時代は,ペルシア絵画の黄金時代といわれ,数々の傑作を生んだ。まず,モンゴル系のインジュー,ムザッファル両朝の伝統を受け継いで〈シーラーズ〉派が形成された。この画派の代表作は,総督イスカンダール・スルターンに捧げられた《詩選》の挿絵(1410-11。大英博物館およびグルベンキアン美術館)である。鮮明かつ多彩な色で描かれた挿絵は,ページの余白を埋める金泥を混じえた彩飾と一体となって豪華な雰囲気を醸しだしている。次のイブラーヒーム・スルターンの代には,サーディーの《薔薇園》(1427。チェスター・ビッティ図書館),《シャー・ナーメ》(1435ころ。ボドリー図書館),シャラフ・アッディーンの《勝利の書(ザファル・ナーメ)》(1436。メトロポリタン美術館など)などが作られた。同じシーラーズで15世紀末から16世紀中期までの短い期間にシーラーズ派の流れを汲んで〈トルコマン派〉と呼ばれる一派が独自の様式を創始した。その特徴は,強烈な色調,洗練された意匠,頭の大きい,ずんぐりしたタイプの人物像,黄と緑のさまざまな色合いによる自然描写にある。

 サマルカンドと並び政権が樹立されたヘラートでは,書画の制作は諸侯の保護を受けて,飛躍的に発展を遂げた(ヘラート派)。なかでもティムールの孫にあたるバーイスングルは,文人でもあり,書画院を設けて書家,絵師らを招致し,互いに技を競わせた。ここからは,《カリーラとディムナ》のゴレスターン本(1414)や《シャー・ナーメ》のゴレスターン本(1429)の大作が生まれている。このほか,異色の作品としてチャガタイ語で書かれた詩人ミール・ハイダルの《昇天の書(ミーラージュ・ナーメ)》の挿絵(1463。パリ・ビブリオテーク・ナシヨナル)が挙げられる。ヘラートでは,15世紀後半スルターン・フサインの時代にペルシア絵画史上,最も名高い絵師ビヒザードが,数々の傑作を世に残した。彼は,ペルシア絵画の伝統の完成者の名にふさわしく,整然とした構図,図像の個性,動勢,感情の表出に優れ,また,調和のとれた色彩構成をとり,風俗画的な主題など幅広い画題を選んでいる。ティムール朝絵画の一つの特質は,地平線を画面上方に移動させたことで,これによって混雑した前景が整理された。

サファビー朝(1501-1736)の最初の首都タブリーズでは,第2代タフマースプ1世の治世に《シャー・ナーメ》のホートン本(1527-45。メトロポリタン美術館),ニザーミーの《五部集》の大英博物館本(1538-43)などの壮麗な挿絵が描かれ,特に後者の制作には,当代きっての絵師アーガー・ミーラク,ムザッファル・アリー,ミール・サイード・アリーらが当たっている。首都がタブリーズからカズビーンに移された16世紀後半には,この期を代表するウスタード・ムハンマディーが,淡い色を施した素描風の人物画や風俗画を残している。第5代アッバース1世(在位1588-1629)のときに首都はイスファハーンに移され,ここを舞台にサファビー朝絵画は最盛期を迎えた。華麗な色合いと完成された技法,豊かな抒情性,人物画にみられる多様な姿態と動勢,流れるようなよどみのない繊細な描線などがこの期の特色といえよう。この時代の最も優れた絵師リザー・アッバーシーは,人物の微妙なしぐさをとらえ,それを繊細な線で鋭く表現した。弟子ムイーン・ムサッビルらリザー一派の特徴の一つは,賛に年記や名前のほかに,制作の動機や目的を書き添えていることである。ティムール朝に始まった人物画などの単独画は,この時代にいたってますます盛んになり,瘦身の青年男女の官能的な姿態をとらえた肖像画的作品が多数描かれた。サファビー朝後期の諸王は,こぞってヨーロッパの画家を宮廷に抱えたり,宮廷の絵師をヨーロッパに遣わしたので,18世紀にいたってヨーロッパの画風はついにペルシア古来の伝統的画風を凌駕し,ペルシア・ミニアチュールの終焉を迎えることになる。

オスマン・トルコの絵画の発達は,ペルシア(イラン)などに比較して遅く,しかも初期の段階では,ペルシアの影響が大きく,トルコ独自の様式が確立されるのは16世紀に入ってからのことである。宮廷様式の発達の過程は,特に,セリム1世(在位1512-20)とスレイマン1世(大帝)(在位1520-66)の時代の《セリム・ナーメ・イ・シュクリ》《スレイマン・ナーメ》に明らかである。オスマン・トルコ絵画に共通した特質の一つは現実主義志向,つまり,初期の征服時代には,文学書よりも年代記,なかんずく戦記物がかっこうの題材となり,勇壮な戦闘のようすや当時の社会の諸相が実に克明に描き出されていることである。これに加えて建築群の図形的表現,パノラマ的な地図などが挿絵として描かれた。また,祝祭のパレードに繰り出した職人同業組合の各代表の山車,アクロバット,歌舞音曲,打上げ花火などが,生き生きと描写されている。画面構成は,比較的単純で,しかも画一性が強い。限られた空間に詰め込まれた多数の人物像は生硬である。自然描写は,最低限に抑えられ,少数のモティーフが象徴的に表されているにすぎない。16世紀後半の最盛期には,政情が安定して,《預言者の生涯》《偉業の書》《祭典の書》《占いの書》など平和的な内容の写本により多くの挿絵が描かれるようになった。写本挿絵のほかに,歴代のスルタンの肖像画が重要なジャンルとなった。後代に名を残した絵師として,オスマン,ニギャーリー(ライス・ハイダル),学芸が興隆した〈チューリップ時代〉(1718-30)に活躍したレブニーなどが挙げられる。地理的にヨーロッパに隣接しているばかりではなく,スルタンたちがベネチア派のジェンティーレ・ベリーニをはじめとするヨーロッパの画家を厚遇したり,絵師シナーン・ベイをイタリアに遣わすなど,積極的に交流を図ったので西欧の画法が急速に流入して,はや18世紀には,トルコの伝統美術は衰退を余儀なくされた。

 なお,インドのムガル帝国の絵画については〈ムガル細密画〉の項目を参照されたい。

イスラム世界では,絵画・彫刻の自由な発達が抑制されたために,工芸が著しく発展し,東アジアやヨーロッパの諸芸術において工芸の占めた位置に比較すると,イスラム工芸のそれは,はるかに高いものであった。イスラム美術においては,本来,製作に当たったのが個人作家ではなく,多くは無名の職人であったため,その本領が工芸に発揮されていることは,むしろ当然であろう。工匠たちの関心は,器物の形式・機能よりもその装飾にあり,装飾美の追求に終始した。工芸諸分野における一つの共通した特徴は,装飾面全体を種々の装飾モティーフですきまなく覆う,過剰とも思える装飾で,これによって,器物本来の性質,質感,機能性などが著しく損なわれる結果を招いている。イスラム工芸には,金属工芸,陶芸,染織,ガラス工芸,象牙細工,木工芸などの分野があり,とりわけ,金属工芸と陶芸が高度の発達を遂げて,東西両洋の美術に少なからず影響を与えている。

金工においても,ササン朝ペルシア,ビザンティン,コプトなどイスラム以前の伝統が継承された。素材としては青銅,シンチュウ,銅,銀,金,鉄などがあり,なかでも青銅とシンチュウが最も広範囲に使われた。技法は多様で,鋳造,鍛造(打出し),鑞付けが基本となり,さらに彫金,象嵌,ニエロ,鍍金(箔置き),透し彫などが装飾技法として使用されたが,同時に複数の技法が適用されることが多い。形式としては,盤,盆,水さし,鉢,釜,扁壺,高坏,燭台,香炉,ペンケース,インク壺,手あぶり,箱,乳鉢,護符入れ,鏡,装身具,シャンデリアの金具,アストロラーブ(観象儀),ドア・ノッカーのほか,武具や武器の類がある。金工には,製作者・注文者・奉献者名,製作地,製作年代などのデータが刻まれることが少なからずあるので,史料的価値は,工芸諸分野の中で最も高い。

 イラン北部では,ササン朝の伝統が,9世紀ころまでそのまま継続され,ササン朝風の水さしや水瓶などが依然として作られていた。この時期からセルジューク朝が始まる11世紀中ごろまでの間,つまり,サーマーン朝とブワイフ朝の遺品はきわめて少なく,若干の銀器と金器が知られているにすぎない。一方,ファーティマ朝(909-1171)のエジプトでも,種々のモティーフを刻み込んだ鋳造品が多数作られた。また,当時,鳥獣をかたどった水注が流行した。

 セルジューク朝(1038-1194)では,香炉,燭台,ランプのスタンド,嘴状注口付水さしなどの新しい形式が生まれたばかりでなく,当時の社会変化を示唆するような,躍動的な生き生きとした表現が顕著になった。たとえば,文字の有機化,すなわちアラビア文字の末端が人間や鳥獣の頭部,胴部,あるいは葉形,花形などに変形している表現が見られる。12世紀には,イラン北東部,特にホラーサーン地方で,銅や銀を,青銅あるいはシンチュウの器に象嵌する技法が流行する。また,13世紀初期までは青銅が広く使われたが,それ以降はシンチュウが多用された。また,13世紀末になると,象嵌に使われた銅に代わって,金が盛んに用いられるようになり,それは,14世紀末に象嵌技法が廃れるまで続いた。文様は,鳥獣などを円や花弁形の中に置く構成がとられることが少なくないが,概して,施された文様の密度は低い。

 13世紀にイラク北部のモースルに象嵌の技法が伝えられ,金工の中心地となる。モースルの金工の特色はアラベスクや繫ぎ卍文などを地文として,鳥獣,十二宮,帝王主題,風俗画的主題が,イランの場合と違って,すきまなく展開していることである。象嵌の技法は,アイユーブ朝(1169-1250)にいたり,モンゴル侵攻の難を避けた工匠たちによってシリアに伝えられた。アイユーブ,マムルーク(1250-1517)両朝時代に,特にシリアで,キリスト教的なモティーフが,伝統的なモティーフに混じって使われているのが見られる。〈聖ルイの洗礼盤〉の通称で知られる青銅盤(14世紀初期,エジプト)は,象嵌技法の傑作であるが,14世紀にはこの技法の質が低下し生産量も下降した。そして,〈ペルシア様式〉とモースルなどの〈メソポタミア様式〉は,工匠の移動によりモンゴル時代を境として融合し始め,明確に区別できなくなる。

 15世紀に入ると,鋼鉄の甲冑や剣,銃に金線,銀線を象嵌,あるいは箔を置いた,いわゆる〈ダマスコ細工〉がシリアをはじめとして,各地で盛んになった。マムルーク朝時代のシリア,エジプトの作品の特色は,従来のアラベスク,幾何学文,銘文(雄渾なスルシー体),紋章などに,中国からもたらされた蓮華,シャクヤク,雲などの装飾モティーフが新たに加えられたことと,概して装飾が質朴なことである。15世紀のイランでは,金工は停滞するが,新しい形式として,優雅な長頸の水瓶と水さし,胴が張った丈の低い蓋付の水さしがある。前者はインド北部でも,後者はオスマン・トルコでも流行した。サファビー朝(1501-1736)にいたり,銀の使用がしだいに少なくなる一方,種々の道具や武器,武具の装飾に,透し彫の鋼鉄製装飾板が盛んに作られたほか,円筒形の燭台が新しい形式として登場した。装飾の特徴として,人物や動物が再び多用されるようになった点が挙げられる。

西アジア,エジプトは,先史時代から土器の製作が盛んな地域で,その伝統はイスラム時代にも継承された。イスラム時代に先立つ,パルティア王国やササン朝時代などの製陶に見るべきものは少ないが,イスラム時代に入るや,飛躍的発展を遂げた。その発達の契機は,おそらく,有力なパトロン(王侯貴族,富豪)による美術工芸の保護奨励にあったといえよう。特に陶器の製作は,単に王宮内の工房のみならず一般庶民の間でも広く行われたので,陶器の形式,技法,装飾のいずれもバラエティに富んでいる。イスラム陶器は,中国陶磁器に次いで高度の発達を遂げたといわれているが,特に,装飾の多様な点でそれを凌駕するものはないであろう。また,技法については,ラスター彩,透し彫,搔落し,色絵など,種類の豊富な点において中国のそれに決して劣るものではない。しかし,イスラム諸国は,中国のカオリンに匹敵する良質の材料と高い焼成温度を可能にする燃料とに恵まれず,また,性能の高い窯の製作に成功しなかったために,軟質磁器しか作れなかった。以下,イスラム陶器の様式的変遷を,初期(9~11世紀),中期(12~14世紀),後期(15~18世紀)の3期に分けて述べるが,留意すべき点は,製陶の中心が,複数の場合もあるが,各王朝の盛衰に呼応して転々としていることである。初期では,9世紀はメソポタミア,10世紀はイラン(ホラーサーン地方)と中央アジア(アフラシアブ),11世紀から12世紀にかけてエジプト(カイロ)が中心であった。中期では,12~13世紀にイラン(カーシャーンなど)とシリア(ラッカなど)に中心が分かれ,後期に入って14~15世紀にはイベリア半島(アンダルシア,バレンシア,アラゴン地方),16世紀ではトルコ(イズニク)が中心的な窯場であった。

(1)初期 イスラム陶器の技法と装飾は,アッバース朝の初期(9世紀)になって初めて独自の発達をみせた。まず,装飾に刻線,貼付け,押型などのごく単純な技法を適用した無釉陶器がある。イスラム美術に共通して認められる二つの伝統,すなわちササン朝ペルシアと古代地中海世界の伝統が陶器の技法や様式にも継承されていて,前者の系統として青釉,青緑釉(ソーダ釉,アルカリ釉)陶器,後者には,特にビザンティン陶器の伝統による緑釉,褐釉(鉛釉)陶器がある。技法上最も重要なことは,酸化スズによって白釉陶器が焼成されたことで,この上に金属塩(ラスター釉陶器)やコバルト(白釉藍緑彩陶器)で効果的に絵付けをすることが可能になった。このほかに,褐,黄,緑,紫色を用いた,〈三彩手〉と呼ばれる多彩釉刻線文陶器が焼かれている。8世紀の後半に創始されたラスター彩陶器は,後にエジプトに伝えられて発展を遂げた。ホラーサーン地方(ニーシャープール)とアフラシアブ地方(サマルカンド)で9世紀から10世紀にかけて,スリップ(化粧土)によって絵付けをした彩画陶器が流行した。この技法には,化粧がけをした上に施した絵付けが,さらにその上に透明の鉛釉をかけることによって安定する利点がある。彩画陶器のタイプとしては,白地に黒紫,赤褐色でアラビア文字,花鳥,幾何学文様を表現した単純明快なタイプ,これとは対照的に黄色の地に古拙な人物や鳥獣を多数,雑然と表した民窯的なタイプなどがあるが,コバルトによる藍彩は,この地方で使われていない。一般に〈サーリー陶器〉の名で知られている,もっぱら鳥とパルメットが描かれている彩画陶器が,サーリー,アーモル,ゴルガーンなどから出土している。彩画陶器の技法は11世紀に急速に衰え,これに代わって刻線文,搔落し文陶器が流行する。ファーティマ朝(909-1171)では単彩釉,多彩釉陶器が数多く作られたが,なかでも重要なタイプは,フスタートやベヘナサで焼かれたラスター彩陶器である。金属的な輝きをもつラスター彩の技法は,すでにイスラム以前のエジプトでガラスの装飾に使われていたが,陶器への適用は,メソポタミアから伝えられたと考えられている。ファーティマ朝のラスター彩陶器は,胎土が粗く,呈色が淡黄(金)色,あるいは赤味を帯びた褐色である。装飾モティーフとしては,狩猟,奏楽,酒宴などの伝統的な帝王主題のほか,闘鶏のような日常生活からとられたテーマ,人面獣身の架空の動物などが多い。ラスター釉で塗りつぶした器面に,これらの主文を白抜きで表現することもあるが,多くの場合,主文は,白地にシルエット風に表される。エジプトにおけるラスター彩陶器の製作は,ファーティマ朝崩壊によって絶えるが,イランで引き継がれることになる。

(2)中期 11世紀ころからイラン北部,北西部(マーザンダラーン,ギーラーン地方)で,刻線,搔落しの技法が流行する。鳥などのモティーフを刻線で表現し,黄・褐・緑彩を呈色とする鉛釉をかけた〈アーモル〉陶器,〈アグカンド〉陶器があり,後者の場合,刻線は,単なるモティーフの形象を示す輪郭線ではなく,釉下の顔料が流れるのを防止する役割をも果たしている。搔落しの技法は,一般に〈ガブリ(ペルシア語でゾロアスター教徒を意味する)〉手陶器と俗称で呼ばれているガッルース地方発見の陶器にみられる。厚い白化粧を人物や動物などの主文だけ残して搔き落とし,これに透明釉や緑釉をかけたタイプである。アナトリアのルーム・セルジューク朝(1077-1308)の陶芸は調査不十分のため全貌は明らかでないが,現在まで知られている遺物の多くは,無釉陶器で,施釉陶器は少ない。しかし,容器類ではないが,同時代のペルシア陶器の技法と共通する青釉黒彩文,ラスター彩,ミーナーイー手(色絵)タイルが作られていた。出土地としては,コニヤのアラー・アッディーン宮殿址などが知られている。イスラム陶器の黄金時代といわれるセルジューク朝(1038-1194)時代には,色絵,搔落し,透し彫などの新しい技法が生まれただけでなく,装飾様式,形式ともに洗練化,多様化が進み,地方色豊かなスタイルも生まれた。器形としては,燭台,器台,多嘴壺,象形的な容器,置物,香炉などの斬新なものがあり,また,施釉タイルが建築装飾に盛んに使われだすのもこの時代からである。中心的な窯場としては,カーシャーン,サーベ,レイ,グルガーン,ナタンズなどが知られている。おもなタイプとしては,白釉,単彩釉,ラカビー(白釉堆・刻線文彩釉),シルエット(影絵手),釉下彩画・白釉藍黒彩,ラスター彩,ミーナーイー手(色絵)陶器などがある。製陶におけるセルジューク朝時代の一つの特質は,粉末状のガラスとフリットを混合した複合陶土の使用である。これによってまず,絵付けの効果を高める白色の素地の軟質磁器が焼成された。また,可塑性が加わったことで,透し彫などの緻密な細工や変化に富んだ器形の成形が可能となった。ペルシア語で釉やエナメルを意味する〈ラカビー〉陶器は,先のアグカンド陶器と同様に,モティーフの輪郭を線彫あるいは堆線で囲み,内側に釉薬を七宝焼(エマイユ)のように流し込む技法である。ラスター彩陶器とならぶイスラム陶器の代表的な技法は,色絵〈ミーナーイー〉(ペルシア語でエナメルの意。七色ハフト・ラングとも呼ばれる)である。ラスター彩陶器は,主としてカーシャーンやサーベで製作され,細かい唐草文様を地文として図像が器面いっぱいに大きく描かれることが多い。以上のほか,建築装飾の素材として,タイルが12世紀ころから急速に発達し,この時代の主要な窯場カーシャーンが語源となり,タイルは〈カーシー〉と呼ばれた。12世紀後半から13世紀後半までの短期間に,シリアのラッカやルサーファで,ラスター彩陶器,青釉黒彩文陶器,単彩釉陶器,多彩釉刻線文陶器などが作られた。これらを飾る文様には,人物文,鳥獣文,アラベスク,アラビア文字文などがあり,なかには,セルジューク朝の文様に共通したものがある。

 イル・ハーン国(1258-1353)では,中国から直接,竜,鳳凰,霊芝雲などの装飾モティーフが伝えられた。通称,〈ラージュバルディーナ(ラピスラズリを意味するペルシア語の〈ラージュバルド〉から出た語)〉手と呼ばれる青藍地金彩色絵陶器と,〈スルターナバード〉手と呼ばれる青藍釉白盛上陶器がこの時代の主要なタイプである。前者はミーナーイー陶器の発展したタイプであるが,そこで顕著であった人物像はまったく姿を消し,コバルトか青緑色の地に白,赤,黒で幾何学文や唐草文が表され,さらに金箔を加えた絢爛豪華な陶器である。後者は器面を灰色のスリップで覆い,鳥獣や植物文様を白土で盛り上げ,さらに黒や青で施文し,透明釉をかけてしあげられている。

(3)後期 14世紀から15世紀にかけて東方イスラム世界の陶器が低迷を続けている頃,イベリア半島のマラガ,アルメリア,ムルシア,バレンシア,パテルナ,マニセスなどでは,種々の陶器が盛んに焼かれた。このイスパノ・モレスク陶器の代表的なタイプは多彩ラスター釉陶器で,草花,鳥獣,文字,名家の紋章などが,主文を構成した。概して,文様は豪華で複雑になり,特に宮殿の装飾に使われたアンダルシア産の〈アルハンブラの壺〉は,その典型的なものである。マムルーク朝(1250-1517)時代には,エジプトのカイロ,シリアのダマスクス,アレッポ,ホムスなどで,赤褐色の粗い胎土と厚手の器体をもち,抽象性の強い幾何学文,文字,唐草,王侯貴族の紋章などで飾られた陶器が焼かれた。伝統的な単彩釉陶器が多いが,中国の青磁や青花(染付)を模倣した青釉貼花文陶器,白釉藍彩陶器も盛んに作られた。ティムール朝(1370-1507)は陶器の停滞期で,遺品はきわめて少ない。しかし,タイルは,マシュハドやサマルカンドのモスクと墓廟に数多く残っている。中国の青花は,イランのケルマーンやアフガニスタンのバダフシャーン地方で採掘されたコバルトの使用を契機として大いに発達したが,これに触発されて,イスラム世界でも,白地藍彩陶器が流行し,イラン中西部のケルマーンからは,この手の陶器が出土している。ティムール朝に続くサファビー朝の陶芸はアッバース1世(在位1588-1629)の時代に隆盛期を迎えたが,独創的なものは少ない。イスファハーン,カーシャーン,ケルマーン,マシュハド,ヤズドなどの窯場で,ラスター彩陶器,単彩釉陶器,白釉透し彫陶器(ゴムルーン陶器)のほか,中国の青磁,青花,赤絵などの仿製品が焼成された。異色のタイプは,〈クバチ〉と呼ばれる彩画陶器である。これは,写実的な草花,同時代のミニアチュールの図像に近似した人物を華やかに描き出したものである。クバチ陶器は,北西イランで15~17世紀に作られたが,オスマン・トルコのイズニクの陶器と共通点がみられる。サファビー朝は,タイルの製作も盛んで,イスファハーンのモスクやマドラサの壁面を飾る美しいタイルは,この時代の作である。オスマン・トルコの陶器は,ミレトス,ダマスクス,ゴールデン・ホーン(金角湾),ロードスなど出土地名によってそれぞれ呼ばれてきたが,これらは14世紀末から18世紀まではもっぱらイズニクで,それ以降はキュタヒヤで作られたものである。14世紀末から15世紀初期にかけて彩画陶器,15世紀中ごろには中国の青花を模倣した白地藍,緑,黒彩陶器,最盛期である15世紀後半には草花(チューリップ,カーネーションなど)や帆船を写実的に描写した白釉多彩陶器が作られた。後者は,オスマン・トルコの代表的なタイプであるが,16世紀後半には,深紅色,緋色を呈色とする,いわゆる〈アルメニアの赤土〉の使用によって,いっそう華やかさを加えた。
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質・量を誇るイスラム工芸のなかでも染織は主要な分野をなし,特に絹織物とじゅうたんがめざましい発展を遂げた。中国から伝わった絹織物は,ササン朝以降オリエント世界で開花し,イスラム世界の拡大とともにヨーロッパに伝播し,ロマネスク文様の源泉の一つとなるなど,美術の東西交流史上重要な役割を果たした。またイスラムの絹織物は中国を経由して日本に伝わり,日本の名物裂にも影響を与えた。イスラムの染織は,ササン朝,ビザンティン,コプトなどイスラム以前のオリエント各地の伝統を基盤とし,それにイスラムの新しい要素が加えられたものである。イスラムの教義は生物表現に制約を与えたが,世俗的な染織工芸に対しては寛容で,人間や動物のモティーフも豊富に見られる。唐草文様や幾何学文を主体とするアラベスク文様が盛んに使われ,しだいに空白をモティーフですきまなく埋めた濃密な文様となった。またアラビア文字や銘も染織文様の一角をなした。

(1)織物 イスラム以前のオリエントのおもな織法は,地と文様を緯糸(ぬきいと)(横糸)で織り表した緯錦や,文様の配色に従ってその色の緯糸を平組織で織りはめる綴織(つづれおり)などであった。前者はササン朝ペルシア,後者はコプトの織物に代表される。イスラム時代になってもこれらの技術が受け継がれたが,11~12世紀ころには,風通(二重織)が見られるようになった。織物の最盛期はサファビー朝(1501-1736)で,この時期には部分的に色緯糸を使って浮き文様を織り出すブロケードや,深紅色や金銀糸を駆使したビロードなどの紋織物の技術が完成した。

 イランではイスラム初期には,円文のなかで向かい合う対称形の動物文を配すササン朝以来の文様構成の織物を織っていた。セルジューク朝(1038-1194)になると,織物もイスラム的特色が強まり,文様は密になり,モティーフの間を唐草文が埋める。円文構成ばかりでなく,段列や多角形の幾何学的構成がとられ,交錯線が用いられた。この時代の遺物として,テヘラン近郊のレイの墓からの出土品がある。イル・ハーン国(1258-1353)時代に宋・元の絹織物が輸入された結果,イランの織物に竜鳳文や雲文など中国的要素が加わった。サファビー朝時代には,優美な配色で花文錦や人物文錦が織られた。人物文錦ではニザーミーの《ハムサ》中の〈ライラとマジュヌーン〉などペルシア文学から主題を取ったものや,イスファハーンの画家リザー・アッバーシー風の優雅な人物文が見られる。エジプトではコプトの綴織の伝統が継承された。ファーティマ朝(909-1171)には,ごく薄い麻の平織地に絹の綴織で鳥獣文や植物文,文字などを横帯状に表した織物が織られた。綴織や刺繡で表した聖句や祝福の言葉,カリフや注文主の名前,年号などの銘文は〈ティラーズṭirāz〉と呼ばれたが,ティラーズは銘文帯のある衣服,さらにそれらを独占的に製作する宮廷直営の工房をも意味した。各地にあったティラーズ工房は高級な織物製作の中心となった。スペインでは11世紀ころ北アフリカのベルベル人織工がスペインに移住し,鮮やかな色彩で星形や円文などを組み合わせた純幾何学文の織物を織った。オスマン・トルコの織物はブロケードとビロードに優れ,大がらな花文様と幾何学文様を特徴とする。9~11世紀にイスラム政権下にあったシチリア(パレルモ)の絹織物は,イタリアからさらにヨーロッパ全体へ絹織物が広がる基盤となった。インドのムガル帝国(1526-38,1555-1858)ではイランの影響を受けた絹織物が製作され,極細の毛で梨形花文を織り出したカシミア裂は逆にイランで模織された。

(2)じゅうたん 乾燥地帯の多いイスラム世界では,じゅうたんは宮殿やモスク,都市の住宅や砂漠のテントに欠かせないものであった。文様が豊麗で芸術的にも高度に完成された。素材は毛が大部分であるが,経糸に綿や絹を用いたりもする。パイル系の結び方は〈トルコ結び(ギョルデス結び)〉と〈ペルシア結び(セーナ結び)〉の2種に大別され,トルコ結びはトルコ系の人々,ペルシア結びはイラン系の人々の間で使われた。伝世品の大部分は16世紀以降のものであるが,古い遺物としてアナトリア(トルコ)のコニヤのモスクから13世紀のセルジューク朝のものが発見されている。14~16世紀にかけてのヨーロッパの絵画にはH.ホルバインの作品に代表されるように,アナトリアのじゅうたんを描いたものが見られる。当時じゅうたんの中心地はウシャック,ベルガマなどのアナトリアで,角ばった形のモティーフと単純で明るい配色を特色とした。イスラムじゅうたんの頂点はサファビー朝で,メダイヨン文,狩猟文,花瓶文,庭園文様など文様の種類も多彩であった。これらの文様の主題はイランの伝統的装飾モティーフに由来し,生命の木(聖樹)や楽園のイメージを表すものが多い。この時代の代表作にはミラノのポルディ・ペッツォーリ美術館の狩猟文のじゅうたん(1522),ビクトリア・アンド・アルバート美術館の〈アルダビールのじゅうたん〉などが挙げられる。
じゅうたん
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イスラムのガラス工芸の特色は,もっぱら装飾技法に意が注がれたことである。ガラス工芸は,ウマイヤ朝(661-750)ではいまだビザンティンの影響下にあったが,アッバース朝にいたり9世紀に入って初めて独自の技法や装飾様式の発達を見せた。その中心は,ササン朝の伝統が根強く残存するメソポタミアとイランにあった。アッバース朝においては,カットによる装飾に重点が置かれ,レリーフ・カットなどが開発された。しかし,11世紀に入る頃からガラス工芸の中心はエジプトに移り,ファーティマ朝(909-1171)のフスタートを中心に,種々のカットの技法が発達した。なかでも,透明のガラス器の表面に,青や緑色のガラスをかぶせ,これをグラインダーややすりで鳥獣などを浮彫した〈被(き)せガラス〉の華麗な優品が残っている。エジプトで発達したもう一つの技法は,陶器にも用いられたラスター彩である。12~14世紀にはシリアを中心として多彩な装飾技法が完成された。その一つはすでにローマ時代にあった色ガラスの技法で,14世紀ころまで続いた。これは,白色のガラスの糸を容器の溶けた軟らかい表面に巻きつけ,櫛で波状にアクセントをつけてから,石棒で器面に押しつける技法である。もう一つは12世紀末期ころから盛んになったエナメル・ガラスである。8色以上のエナメルと鍍金を施し,2度の焼成でこれを定着させる新しい手法は,もっぱらシリアのアレッポとダマスクスで発達した。しかし,褐色がかったガラスには気泡が多く,質は必ずしも高くない。エナメル・ガラスの独特の形式は,双耳付モスク用ランプや扁壺形瓶などである。約200点のモスク用ランプが現存するが,その大半は,14世紀にダマスクスで製作されたと考えられている。ガラス工芸は,アラブ・イスラム地域においては,15世紀初頭のティムールのダマスクスをはじめとするシリア攻略で多くの職人がサマルカンドへ連れ去られ,これによって盛時の繁栄が事実上失われたが,東方では,サファビー朝(1501-1736)時代のイスファハーンやシーラーズで,わずかに余命を保った。かつてベネチアをはじめとするヨーロッパ諸国に影響を及ぼしたイスラム・ガラスも,近代にいたり逆に影響を被ることになった。

象牙細工は,すでに古代エジプト,アッシリアで盛んであったが,イスラム時代には,エジプト,シリア,マグリブ,イタリア,イベリア半島など,もっぱら地中海沿岸地方で製作され,ほとんどが11世紀から13世紀にかけて作られている。イスラム時代の象牙細工は,大半が浮彫か沈み彫で,細部の装飾には,線刻,彩色,金箔などが併せて用いられた。作品は,各種の小箱,チェスなどのゲーム類の駒,角笛,櫛,剣の柄のほか,ついたて,ミンバル(説教壇),クルシー(床几)などの調度品ならびに扉などの建具類の装飾板(浮彫,透し彫)として,あるいはモザイク,寄木,象嵌細工の材料としても使われた。特に,素材の入手に有利な位置にあったエジプトは,ファーティマ朝(909-1171)に多くの優品を残している。象牙細工は全般に,アラベスク,鳥獣文(闘争,走獣),人物文(狩猟,奏楽)と銘文で飾られている。

トルコ,シリア,イラン北部で産出した松,杉,オーク,プラタナス,ニレ,ヤナギ,ブナなどのほか,輸入材のチーク,黒檀などが木工の素材として使われた。木工は,主として建築(扉,格子窓,天井など)や調度品(ミンバル,コーラン台,クルシー)の装飾が中心で,遺品には,浮彫を施したパネルが多い。特に,7世紀から現代に至るエジプトのモスクや民家に残る装飾に,一貫して様式的変遷をたどることができる。一方イランでは,彫りの深い細工が行われ,イル・ハーン国(1258-1353),ティムール朝(1370-1507)時代に優れた作品が作られた。また,〈ハータム・カーリー〉と呼ばれる精緻な寄木細工が,特に近世以降に盛んになった。木工の技法としては,しっくい,宝玉細工にも共通する斜め彫があり,8世紀ころから流行したが,その作例の一つとして,シンメトリカルに配置されたパルメットの一部が,鳥の頭部に変形したデザインのパネル(9世紀,エジプト)を挙げることができる。浮彫や寄木のほか,特異な形式として,マムルーク朝(1250-1517)から19世紀にかけて発達した格子細工(マシュラビーヤ)があり,今日もカイロの民家の出窓などに残っている。木工全般にわたる装飾モティーフとしては,植物文(葡萄唐草,パルメット,花文),幾何学文,アラベスク,鳥獣文,人物文(狩猟,奏楽,舞踊)などが数えられる。

硬玉,軟玉のなかでも,冷たい感触をもち曇りのない水晶がとりわけ好まれ,護符,印章,装身具(ペンダントなど),チェスの駒,水さし,盃,ランプ,および香水瓶,マスカラ用の瓶など各種の容器が作られた。水晶の成形や装飾には,主として,鋸,鑿,弓錐などが使用されたと考えられる。イスラム初期には,イラン東部(ニーシャープール),メソポタミア(バスラ),エジプト(カイロ)などの宮廷工房で盛んに作られた。現存する百数十点の水晶細工のうち,大半がエジプトで,しかも,ほとんどが11~12世紀ころの作である。水さしなどの優れた水晶細工の多くは,現在ベネチアのサン・マルコ大聖堂など,ヨーロッパの教会堂に納められている。装飾には,アラベスク,植物文(パルメット)や鳥獣文が,左右対称に構成されることが多い。ちなみに,白色や暗緑色をした軟玉の細工は,15世紀から17世紀にかけてイラン,トランスオクシアナ,トルコで流行し,銘文が刻まれたり,金や宝石がはめ込まれた各種の杯などが作られた。
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出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

日本大百科全書(ニッポニカ) 「イスラム美術」の意味・わかりやすい解説

イスラム美術
いすらむびじゅつ

7世紀から18世紀までの約1100年の間に、イスラム世界の中心である西アジア、北アフリカを主要な舞台としてつくりだされた美術工芸全般をさす。それは、イスラム文化の発展と歩みをともにしているが、聖俗両面にわたる内容を含んでいるため、キリスト教美術、仏教美術などの宗教美術とは性格を異にする。

[杉村 棟]

イスラム美術の特質

イスラム美術は、その形成過程で各地の文化を吸収したが、なかでもササン朝ペルシアと古代地中海世界の美術が基礎となった。イスラム美術が多様な一面をもつのは、このような理由による。

 厳格な一神教であるイスラム教では、偶像崇拝が徹底して排斥された。しかも、神は不可視的な存在であるから、神の具象的表現は完全に抑制された。宗教図像の表現を基本とするいわゆる宗教美術とイスラム美術との違いがここにもある。聖典コーランは、美の本質や造形についてなにも言及していないが、預言者ムハンマド(マホメット)の言行伝承録(ハディース)は、偶像と紛らわしい彫像・絵画の制作、あるいはその所有に対しても、否定的態度を表明している。造形芸術に関するイスラム法学者や支配者の解釈は、時代、地域によって異なるとはいえ、一般に、具象的・写実的表現よりも、抽象的・観念的・二次元的・装飾的表現が好まれた。幾何文、様式化した植物文、アラビア文字などを主要な構成要素とするいわゆるアラベスクは、このようなイスラム美術の装飾志向を端的に示すものである。

 以上の諸要素とともに、イスラム美術の画一性を助長した要因の一つは、アラビア語とアラビア文字である。それは思想の伝達という第一義的な機能のほかに、いわゆる宗教図像にかわる役割を果たした。モスクの内壁を飾る種々の銘文がそれを示唆している。第二は装飾要素としての機能で、その広範な使用は他に類をみない。イスラム教における神の啓示は、アラビア語で下され、アラビア文字で記録された。これが聖典コーランであり、アラビア文字が神聖視されるゆえんはここにある。アラビア文字が装飾要素として重きをなしたのは、文字そのものがリズミカルで、装飾性に富む美しい形をしているからであり、肥痩(ひそう)、直線、曲線を自由自在に表すことができるからでもある。また表音文字に共通した抽象的な形体が、幾何文、アラベスクなど他の抽象性の強い装飾要素と調和しやすいことも見逃してはならない。

 イスラム世界における創作活動はさまざまなレベルで行われていたが、とくに、ほとんどいつの時代にもパトロンである王侯貴族の保護を受け、宮廷工房を中心に行われ、完成された多くの作品はパトロンの趣味を強く反映していた。このためにイスラム美術は、しばしば宮廷美術として説明される。

 イスラム美術における諸分野の位置づけは、東アジアやヨーロッパの美術のそれと異なり、書道がもっとも高い位置を占め、いわゆる絵画、彫刻が発達しなかったこともあって、工芸(金工、陶器、染織、ガラス、木工など)がこれに次いで高い評価を得ていた。

[杉村 棟]

建築

異色ある宗教建築としてまずあげられるのは、記念碑的役割を果たした「岩のドーム」(エルサレム、7世紀)である。メッカのカーバ神殿と同様に巨石が納められているが、建築的にはビザンティンの影響が大きい。宗教建築の諸形式のなかでは、礼拝所モスク(マスジッドまたはジャーミー)がもっとも重要である。礼拝堂の奥壁には、ほとんどの場合メッカの方角(アル・キブラ)の表象である壁龕(へきがん)(ミフラーブ)が設けられる。そのほか、玉座をかたどった説教壇(ミンバル)、王侯のための特別席(マクスーラ)がモスクの内部に設けられ、信徒に祈祷(きとう)への参加を呼びかけるために使われる塔ミナレット(マナーラ)、潔斎のための泉亭が外部に設置されることが多い。

 モスクには主として三つのタイプがある。

(1)シリア、イラクを中心に発達した多柱式で、アーケードを三方に巡らした中庭と、多数の柱が屋根を支えている礼拝堂からなる。これは預言者ムハンマドの住まいをモデルにしたもので、ミヒラーブ前方の主軸上に、象徴的にドームを架けた例もあり、シリアのダマスカスのウマイヤ・モスク(706創設)やチュニジアのカイラワーンの大モスク(836創設)がこれにあたる。

(2)イーワーン、つまりトンネル形の穹窿(きゅうりゅう)(ボールト)を架けた前方開放式のホールを中庭の4辺の中央に設けたタイプ。これはイランに多く、イスファハーンのマスジッド・イ・ジャーミー(主要部は11世紀)に代表される。

(3)ビザンティン建築の影響による中央会堂式ともいうべきタイプで、オスマン帝国領内で普及した。やや縮小された中庭に隣接して、大小のドーム、半ドームを架けた大ホールが配置されている。著名な建築家スィナンによるイスタンブールのスレイマン・モスク(1550~1557)、あるいはアフメト1世のモスク(17世紀初期)などがある。

 学林(マドラサ)は通常、中庭を多数の個室と教場、礼拝室などが取り囲む構成をとり、その典型的な例はバグダードのマドラサ・ムスタンスィリーア(1233)にみられる。墓廟(ぼびょう)には、聖者を葬った聖廟のほか、王侯貴族を葬った廟があり、イランではゴンバディ・カーブース(1007)のように、後者に円筒状の高い塔を有する傾向がある。

 世俗建築の代表的な形式は宮殿で、中央に池、噴水、花壇などを設けた中庭を中核として、周囲に公私の各種の部屋を建てる構成が伝統的にとられてきた。ヨルダンのヒルバト・ル・マフジャール(740~750)、スペインのアルハンブラ宮殿(13~14世紀)などがある。隊商宿(キャラバン・サライ、ハーン)は、ウマやラクダを置く中庭の周囲に客室(階上)、倉庫、店舗を配置し、なかにはイランのリバート・イ・シャラフ(1114~1115)のようにモスクを設けた例もある。城砦(じょうさい)(カスル)は、古代ローマ帝国の辺境の駐屯所(リメス)を範としてスタートした。イスラム世界の周辺に配置されたラバート(リバート)がこれにあたる。丘陵の周囲に堀を巡らしたシリアのアレッポの壮大な城砦(11~13世紀)は、中世アラブの築城法を示すよい例である。世俗建築としてはこのほかに病院、浴場、修道場、市場、橋梁(きょうりょう)の遺構が知られている。以上に述べた建物の材料は、西方イスラム世界では石材が、また東方ではおもにれんがが使われている。

 建築装飾には、大理石、タイル、漆食(しっくい)などが使われ、アラベスク、幾何文、アラビア文字が表されている。いずれの場合にも、構築性、機能性よりも、装飾効果をつねに優先させる傾向が強く、その結果、建築物本来の性格が損なわれてしまう。

[杉村 棟]

絵画

イスラム絵画には、カリフの諸宮殿の装飾として発達した壁画と、11、12世紀ごろから製紙法の伝播(でんぱ)に呼応して発達した、手書きの写本挿絵(ミニアチュール)という独特の形式の2形式がある。壁画では、シリアのカスル・アル・ハイル・アル・ガルビ(8世紀)や、イスファハーンのチェヘル・ストゥーン宮(17世紀)のものなどが知られている。

 写本挿絵は、ギリシアの自然科学書、技術書のアラビア語訳の冊子形式の写本に付されたのが最初で、のちには史書や文学書の挿絵が重きをなした。肖像画や画冊など単独の作品は近世に入って初めて制作された。写本は、その多くが宮廷直属の工房における書家、絵師、彩飾師、箔置(はくおき)師、装丁師らの工房制作である。絵師の関心は装飾効果の増大、構図のパターン化などに集中し、個性的表現、感情表出、遠近法、陰影法にはほとんど興味を示していない。

[杉村 棟]

ペルシアの絵画

ペルシア絵画の特徴としては、抒情(じょじょう)性、洗練された色彩感覚、高度の技法などをあげることができる。モンゴル時代以前には『ワルカとグルシャー』(13世紀)、モンゴル時代には、中国の宋(そう)・元(げん)の絵画の影響を示すラシード・ウッディーンの『ジャーミ・アッタワーリーヒ(集史)』(1307および1314)やフィルドウスィーの英雄叙事詩『シャー・ナーメ(王書)』(1010)などの装飾写本の傑作がつくられた。ティームール朝はペルシア絵画の隆盛期で、ヘラートやシーラーズを中心に、装飾性と緻密(ちみつ)さを加えたニザーミーの『「五部作」(ハムセ)』(12世紀後半)などの装飾写本が制作された(1494)。絵師ビヒザードが伝統的手法を完成し、新たに肖像画や風俗画への道を開いた。さらに、サファビー朝のリザー・イ・アッバースィー一派は、これをいっそう発展させるとともに、優れた線描画を残している。しかし、17世紀後半における急速な西欧化と古来の伝統の喪失は、ペルシア絵画の終焉(しゅうえん)を意味した。

[杉村 棟]

アラブの絵画

すでに12世紀ごろのバグダード、モスル、バスラなどで、アラブ最初の画派であるメソポタミア派が活発な制作活動をしていた。現存する最古の作例は『キターブ・スワル・アル・カワーキブ(恒星論)』の11世紀の挿絵(線描画)である。代表作として『マテリア・メディカ(薬物誌)』、寓話(ぐうわ)『カリーラとディムナ』、ハリーリーによる冒険譚(たん)『マカーマート(集会)』(以上13世紀)などの挿絵がある。後者はヤヒャー・アル・ワースィティーの筆になり、従来の帝王主題と異なって、当時の都市生活をつぶさに描き出している点で重要である。マムルーク朝(エジプト、シリア)には、主題、様式ともにメソポタミアの伝統が踏襲されたが、図像の類型化、諸要素の抽象化、装飾化が著しい。

[杉村 棟]

トルコの絵画

15世紀ごろからオスマン帝国の支配下で、ペルシア的性格の濃厚な写本挿絵が描かれたが、16世紀に入ってトルコ独自の様式が形成されていった。抒情性の強いペルシア絵画とは対照的に、オスマン帝国の絵画は現実性が強く、主題も史実に基づいたものが少なくない。『スレイマーン・ナーメ』『ズブダトッ・タワーリーヒ(歴史精髄)』『スル・ナーメ(祭典の書)』(以上16世紀)などでは、単純で画一的な画面構成と生硬な図像が特色となっている。また、スルタンたちの肖像画も盛んに描かれた。早くからヨーロッパとの交渉が頻繁だったトルコでは、すでに17世紀初頭において伝統芸術の衰退が甚だしく、トルコ絵画もペルシア絵画と同じ凋落(ちょうらく)の道をたどらざるをえなかった。

[杉村 棟]

工芸

いわゆる絵画、彫刻の自由な発達が抑えられてきたイスラム世界では、芸術家の創作意欲はひたすら工芸や装飾に注がれた。したがってそこでは、工芸のもつ意味は、東アジアやヨーロッパよりもはるかに大きい。そのなかでも金属工芸は、陶芸、染織とともにもっとも重要な位置を占める。工芸諸分野における共通した特質の一つは、建築装飾と同様、過剰な装飾を施すことにより、器物本来の機能性や質感などが著しく損なわれていることである。

[杉村 棟]

金属工芸

青銅、真鍮(しんちゅう)のほか、金、銀、銅、鉄を素材とし、鋳造、打ち出し、彫金、象眼(ぞうがん)、めっき、金箔(きんぱく)、透(すかし)彫りなどの技法によって、燭台(しょくだい)、香炉、水差し、ペンケースなど多様な作品がつくられた。象眼には、金、銀、銅が使われ、とくに鉄、鋼鉄製の武器・武具に金線や銀線で象眼を施したタイプは、ダマスコ細工(ダマスキーン)として知られている。イスラム金工の淵源(えんげん)はササン朝ペルシアとビザンティンにある。東方イスラム世界(イランのタバリスターン、ホラサーン)には、いわゆる「ポスト・ササン」の作品が数多く残存しているのに対し、西方イスラム世界の初期の作品は少ない。最盛期のセルジューク朝からモンゴル時代にかけて銀象眼の技法が流行し、16、17世紀まで続いた。その中心はしだいに西漸し、イラクのモスル、続いてダマスカスとカイロが有力な製作地となった。ペルシアでは具象的な狩猟図、鳥獣図などが、またシリア、エジプトではアラベスク、銘文など抽象的なデザインが盛行した。

[杉村 棟]

染織

技法、デザインともにササン朝ペルシアとビザンティンの伝統を引き継いだ。紋織、綴(つづれ)織、錦(にしき)、ビロードなどのほか、刺しゅうも盛んに行われた。装飾としては、アラベスク、幾何文、鳥獣文が好まれ、アラビア語の銘文も欠かせない装飾要素であった。8世紀にさかのぼる王室直属の織物工房ティラーズは、エジプトのみならず、のちに各地に設置された。ここではリンネル類がつくられたが、とくに論功行賞としてカリフから臣下に下賜された上衣(ヒラート)が織られている。イスラムの染織のなかでもっとも重要な位置を占めるのは、じゅうたんである。各種のパイル織じゅうたんのなかで、ペルシアじゅうたんが質量ともに群を抜き、トルコと中央アジア諸地域のものがこれに続く。パイル織じゅうたんには、竪機(たてばた)か水平機が使われ、経(たて)糸に文様となる色糸を結ぶのを特色とする。結び方にはペルシア結びとトルコ結びがある。装飾によって、メダイオン、幾何文、アラベスク、花瓶文、庭園文、狩猟文、鳥獣文、聖樹文、アーチ(祈祷(きとう)用)などのタイプに分類することができる。

[杉村 棟]

ガラス

古代ローマとササン朝ペルシアのガラスの伝統を継承している。8~11世紀には、おもにペルシアやメソポタミアで、浮彫り、線彫りやカット技法が盛行し、一方、12~14世紀には、地中海沿岸地方、とくにシリア、エジプトで多彩なエナメル彩画の技法が新たに流行した。イスラム・ガラス独特の形式としては、モスク・ランプ、各種のバラ水瓶、扁壺(へんこ)形巡礼瓶などがある。

[杉村 棟]

象牙細工

古代から長い伝統が踏襲されてきたが、イスラム時代には地中海沿岸のシリア、エジプト、スペイン、南イタリアがおもな製作地となった。小箱、角笛、チェスなどのゲームの駒(こま)、櫛(くし)のほか装身具類がつくられ、これに浮彫りでアラベスク、鳥獣図、狩猟図などが表現された。現存する遺品は、大半が11世紀から13世紀の間にもっぱら西方イスラム世界で製作されたものである。

[杉村 棟]

陶器

西アジアは中国と並ぶ二大製陶地であり、施釉陶(せゆうとう)の技術を世界に先駆けて開発くふうした実績がある。古代文明の発祥の地であるこの地方は施釉陶器の面でも画期的な発明を行っており、アケメネス朝ペルシアの多彩釉陶はことに名高い。その後も施釉陶の伝統は続いたが、イスラム教が勃興(ぼっこう)して清新な文化が生み出されたのち、9世紀ごろから西アジア~エジプト各地に新窯の胎動が始まった。この時期がイスラム陶器の黎明(れいめい)期である。この新しい焼物作りにはササン朝ペルシアやビザンティンの製陶活動を基礎にして、多量に輸入され始めた中国陶磁の影響が色濃く反映しており、大きな刺激となったことは疑いない。鉛釉を使った各種の色釉をかけあわせた三彩、錫(すず)を溶媒剤に使った失透性の白釉では、その形や文様は明らかに9~10世紀の中国陶磁を手本としたものが圧倒的に多い。ただ、黄褐色の素地に白化粧して自由闊達(かったつ)な線描の文様を加えたり、銅によるラスター彩、コバルト顔料で下絵付して後の染付の始原をなすなど、すでにこの段階でイスラム陶らしい斬新(ざんしん)な創意が示されている。

 11世紀から15世紀にかけてイスラム陶器はもっとも発達し、豊富な実りがもたらされた。やはり中国陶磁が重要な祖型となっているが、作風は多様な展開を示している。色彩豊かな三彩が消え、青、藍(あい)、白などの明晰(めいせき)な単色釉が主となり、装飾技法もすこぶる複雑である。トルコ・ブルーの青釉はその典型で、呈色剤には炭酸銅が用いられた。前代からの染付やラスター彩、掻(か)き落し文様のガブリ手、色彩で文様を表したラカビ手、白釉面に絵付したミナイ手、青藍(せいらん)釉地に上絵付したラジュベルディナ手、白釉面に上絵付して再度透明釉をかけた白釉藍黒彩陶など加飾法はきわめて多彩で、百花繚乱(りょうらん)の感がある。14世紀の終わりにイル・ハン国が倒れたのち、一時期、作陶は総体に低調であったが、16世紀のイランにサファビー朝が興り、ペルシア人による帝国が興ると、製陶も復活して旧来の伝統がよみがえった。しかし新味はやはり明(みん)代中国製の染付磁器の模倣にあった。イランのメシェッドやトルコのイズニーク窯が名高いが、いずれも磁器ではなく、陶胎か半磁胎で柔らかく、独特の風韻(ふういん)がある。なかでも各種の色絵の具を使って文様を透明釉下に描いた明るく温雅な色絵陶器は、俗にクバチとよばれて珍重されている。これはイラン西部のアゼルバイジャン方面で焼造されたものと推測されている。

[矢部良明]

『岩村忍編『グランド世界美術8 イスラムの美術』(1976・講談社)』『深井晋司編『大系世界の美術8 イスラーム美術』(1976・学習研究社)』『E・J・グルーベ解説、杉村棟訳『イスラムの絵画――トプカプ・サライ・コレクション』(1978・平凡社)』『R・J・チャールストン著、杉村棟訳『西洋陶磁大観4 イスラム陶器』(1979・講談社)』『メトロポリタン美術館著『メトロポリタン美術全集10 イスラム』(1991・福武書店)』『杉田英明著『事物の声 絵画の詩――アラブ・ペルシア文学とイスラム美術』(1993・平凡社)』『『世界美術大全集17 イスラーム』(1999・小学館)』『ジョナサン・ブルーム、シーラ・ブレア著、桝屋友子訳『岩波世界の美術 イスラーム美術』(2001・岩波書店)』


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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「イスラム美術」の意味・わかりやすい解説

イスラム美術
イスラムびじゅつ
Islamic art

イスラム世界で展開した美術。7世紀以来,ビザンチンやササン朝ペルシアの伝統に各地方の要素を融合しながら発展し,10世紀から 16世紀にかけて最盛期に達した。建築は,ミナレットマドラサ,キャラバンサライなどが発達した。偶像崇拝の禁止は美術表現を制約し,建築の壁面,工芸品,織物などのすべてに抽象的なアラベスク模様が発達した。陶器は各地で制作されたが,金属的光沢をもつペルシア陶器のラスター彩は特に名高い。 12世紀以降,写本挿絵として発達したミニアチュールは,チムール朝,サファビー朝で黄金時代を迎え,またインドのムガル朝やトルコのオスマン朝でも発展した。金属工芸,ガラス工芸にもすぐれた作品が多い。絨毯は祈祷用としてイスラムの生活には必需品であり,また洗練された芸術品として高く評価されている。

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