神殿と訳されるテンプルtempleの語源templum(ラテン語)、temonos(ギリシア語)は「俗なるものから分離する」という意味であるから、広義には「聖なるものの場所」をいう。南アメリカ、アンデスのインディオたちが今日でもワカ(聖なる神殿)とよんでいるのは、日干しれんが造のピラミッドや墓のほか、泉、石、丘、洞穴、木の根に至るまで、きわめて広範囲にわたっている。クレタのゼウスの洞窟(どうくつ)も、タブーによって入ることを禁止された神の住む場所である。大和(やまと)の大神(おおみわ)神社においては、三輪山が神殿であって、神社は拝殿であり、三輪山の頂の巨石に神が宿っているとされている。このように、神霊が石や穴などの自然物に宿って神体となり、神霊や神体の鎮座する場所としての山や洞窟が、広い意味の神殿である。しかし、狭義には、このような自然の聖なる場所ではなく、移してはならぬ聖所に神体や神像などの崇拝対象を奉安するために、特別につくられた神のすみかとしての建造物を神殿とよぶ。したがって、ユダヤ教の会堂(シナゴーグsynagogue)、キリスト教の教会堂(チャーチchurch)、イスラム教の寺院(モスクmosque)などは礼拝を目的とする建物であり、仏教の寺院や伽藍(がらん)などはもともと修行の道場としての建物であって、神の家ではないから、普通、神殿とはよばれない。
[藤田富雄]
神殿が建てられるのは都市文明の成立したときで、建築様式や設備は、それを建造した部族や民族の文化とその発展段階に応じて多様であり、根本にある神観念によって多くの規制を受ける。一般的には、神殿の形は、それぞれの民族の古い民家を拡大した形式である。島根県にある神魂(かもす)神社や出雲(いずも)大社の本殿は、日本の原始住宅そのままであり、キリスト教やイスラム教のドームが丸天井であるのは、オリエントの遊牧民の天幕やシリアの民家の円蓋(えんがい)の形に由来するといわれる。神殿の多くは、崇拝対象の奉安所としての聖所を中心とし、祭壇のほか、祭具や供物の倉庫、宝物庫、聖職者の住居、公共の集会所などが付属して設備されている。とくに神権政治(テオクラシイtheocracy)の行われた古代社会においては、神殿と宮殿とが同じ場所に建てられ、複雑で大規模な神殿が出現した。歴史上、重要な神殿建築の様式は次のようである。
[藤田富雄]
普通、平面矩形(くけい)の神殿の中央に聖所があり、前室と後室が加えられ、両側に袖壁(しゅうへき)がある。周囲に円柱を立て巡らし、水平の楣(まぐさ)をのせ、切妻屋根をかぶせているので、木造の原型を石造にうつしたものと考えられる。アテネのパルテノンはその代表的な例で、ローマの神殿はギリシア様式を複雑化したものが多く、パンテオンのように円形のものもある。
[藤田富雄]
ピラミッドは墓であって神殿ではない。神殿は長方形の平面に前後五つの区画をつくり、多くの円柱と平屋根で覆い、最奥に聖所があり、奥に進むほど室内は低く暗くなる。大神殿の前には1対のオベリスクが立ち、参道の両側にはスフィンクスが並ぶ。代表的なカルナックの神殿群の巨大さは、太陽神アトンとその子ホルスの化身であるファラオの力の無限に照応する。
[藤田富雄]
焼成のれんがを資材とし、彩釉(さいゆう)タイルで化粧したウルクのアン神殿は方形を基本とするが、神殿全体を高い基壇の上に建てる傾向が強まり、ウルの神殿塔(ジッグラトziggurat)のような低い下部神殿と、段階状の上部神殿からなる巨大な組合せ建築が生じた。いわゆるバベルの塔は、この形式の大規模な反復で、太陽と戦いの神マルドゥクに捧(ささ)げられた「天と地の礎石の家」であった。頂上の小さな閉ざされた聖所は、人間の犠牲と帰依(きえ)を受けるため神が降りて、神が宿る住居にほかならず、他の部分はこの目的に奉仕する設備であり、多くの付属の建物もつくられた。ソロモンの建てたエルサレムの神殿は、神ヤーウェのすみかとして尊崇されたが、中心の至聖所には契約の箱が置かれていた。メッカのカーバ神殿は、イスラムの信仰の中心で、方形の聖所の東隅の壁には聖なる黒石がはめ込まれている。
[藤田富雄]
メキシコのテオティワカンには、数層もある巨大なピラミッドの頂上にある四角な台の上に、マヤのティカルの神殿と同じような原始的な小屋の形をした神殿があった。太陽と月の神殿とよばれる二つのピラミッドの前方に、普通、宮殿といわれる神殿群が対称的に整然と配置され、中庭、球戯場などがある。ペルーのクスコの太陽の神殿は、太陽の部屋が聖所で、聖職者の住居や太陽の処女(ママクーナ)とよばれる奉仕者たちの尼僧院を付属設備としてもっていた。
[藤田富雄]
大和朝廷による国家統一が進んで、祭祀(さいし)が大規模に繰り返されるに伴い、常設の神殿が生じた。本殿、幣(へい)殿、拝殿、祝詞(のりと)殿、神楽(かぐら)殿などが建てられ、様式には神明造(しんめいづくり)、大社(たいしゃ)造、流(ながれ)造、権現(ごんげん)造などがあり、時代とともに変化するが、平安時代以後は仏教建築の影響を受けている。
[藤田富雄]
神殿は神の家として造られた建築であって,日本の神社は神殿の一種であるが,同じ宗教建築でも,主として信徒の集会,礼拝,修行のために造られた施設,すなわち仏教寺院,キリスト教の教会堂,ユダヤ教のシナゴーグ,イスラム教のモスク等は一般には神殿とは呼ばない。多くの文化圏で先史時代から存在し,文化の発達につれて,それぞれに固有の様式をもった神殿建築を発展させていった。宗教が社会的に重要な意義をもっていた古代には,神殿の周辺に祭壇,倉庫,管理事務所等の付属建物が設けられ,全体を周壁でとりかこんだ神域が形成されることが多い。
古代メソポタミアでは,神殿の管理機構が都市国家の萌芽であると考えられており,歴史時代に入っても各都市の中央部は広大な主神の神殿で占められていた。有力な都市ではそこにジッグラトが建てられた。ジッグラトは日乾煉瓦造のテラスを積み重ねた階段状の構築物で,完成された形式をもつ現存最古の実例はウルにあり,底面約62m×43m,高さ約20mの3層の塔であった。〈バベルの塔〉の伝説の原型になったと考えられるバビロンのジッグラトは,底面約90m×90m,高さ約90mの7層の塔であったと伝えられ,いずれも頂上には一部屋の神室が建っていたと考えられる。しばしばこれとならんで建てられる地上の神殿は,住宅や宮殿と同じように中央に中庭があり,神室は中庭に開いていた。
古代エジプトの神殿は,正面に二つの塔の間に入口を開くピュロンpylōn(塔門)があり,その内に柱廊をめぐらした中庭,多柱室(ハイポスタイル・ホール)と呼ばれる列柱広間をへて,付属室をともなった聖所に達する。現存する典型的実例はカルナックにあるコンス神殿(カルナック神殿)であり,時代は下るが,エドフのホルス神殿やデンデラのハトホル神殿も保存の良好な実例である。一般にエジプトの大神殿は増改築をくりかえすごとに,上にのべた基本的要素が重複されて平面が複雑になり,カルナックのアモン大神殿には10基のピュロンが建てられている。エジプトの神殿は巨石で造られており,カルナックの大多柱室の内部は103m×52mの広さがあり,中央部は直径3.58m,高さ21.08mの円柱を立て,天井高は24.08mに達する。円柱や壁面は極彩色の浮彫で覆われきわめて華麗であった。王を祭る葬祭神殿は,王と太陽神ラーおよび多くの神々の複合神殿となっていて,聖所は複雑であるが,基本的には普通の神殿と変りがない。マディーナト・ハーブーMadīnat-Hābūにあるラメセス3世神殿は石造の大神殿を中心に,煉瓦造の付属建物が建てこまれた,314m×210mの巨大な神域をなしていた様子が知られる。
→エジプト美術[建築]
ギリシアの神殿は,初めは日乾煉瓦の壁と木の柱で建てられていたが,前6世紀ころから石造となり,独自の建築様式が確立された。平面は神室(ナオス)と玄関ポーチ(プロナオス)から成るメガロン型で,切妻造,妻入り形式を基本とする。背面に玄関ポーチと同形の後室(オピストドモス)が加えられることもある。もっと大きな神殿ではその周囲に吹き放しの柱廊がめぐらされて周柱式(ペリプテロス式)となり,ときには二重に列柱がめぐらされる二重周柱式(ディプテロス式)も見られる。建築の様式は,地域によってドリス式(ギリシア本土,イタリア南部など)またはイオニア式(小アジア西海岸)が採用され,ヘレニズム・ローマ時代にはコリント式が多くなった。ドリス式の周柱式神殿では正面6柱(側面は11~17柱)が普通であるが,イオニア式では正面8柱になる傾向がある。基壇は普通3段の階段状をなし,円柱の上にはアーキトレーブ(エピステュリオン。桁),フリーズ(ディアゾマ。小壁)を重ね,コーニス(ゲイソン。軒)が突出している。フリーズや三角形の破風(ペディメント)は浮彫や彫像で装飾され,屋根の上にはアクロテリオン(屋根飾)がのっていた。アテナイのパルテノン(基壇上面30.88m×69.50m)やヘファイステイオン(13.71m×37.77m),パエストゥムの第2ヘラ(ポセイドン)神殿(24.26m×59.98m)などがよく知られた実例である。ディデュマのアポロン神殿(51.13m×109.34m)のように正面幅50mを超える巨大神殿ではナオスに屋根がかけられず,内部は露天であった。ギリシアの神殿は自然環境との対比的調和が重視されているが,ローマでは大規模な神域計画の発展に伴って正面性が重視される傾向があり,前面柱廊が広くなる代りに,正面以外の柱はナオスの壁面につけられた疑似周柱式になることが多い。基壇も前面にだけ階段をもつ垂直の高い壇になった。
→ギリシア美術[建築]
アメリカ大陸では,ラテン・アメリカに栄えた古代アメリカの諸都市に独特の神殿建築が見られる。メキシコ中央部からユカタン半島にかけて,急傾斜の高い壇や,ジッグラトに似た階段状ピラミッド形の壇が残されている。正面には急な大階段があり,頂上に神殿が建っていた。たとえば,テオティワカンの〈太陽のピラミッド〉は底辺約213m四方,高さ約61mに達している。
執筆者:堀内 清治
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… 神楽人は本来神職が演じることが多かったが,明治維新以後は在来の神事舞太夫の列に加わって民間人が演じているところが多い。神楽の舞台は拝殿,神楽殿などのほか仮設の舞台,民家の座敷・土間などさまざまであるが,出雲流の岡山県の備中神楽や広島県の備後神楽では神殿(こうどの)と呼ぶ特設の舞処を設け,天蓋(てんがい)飾をつける。天蓋飾は高千穂神楽や花祭にも顕著で,陰陽道,修験道の影響を色濃く宿している。…
…皇居に奉斎されている賢所(かしこどころ)・皇霊殿・神殿の3殿の総称。1月3日の元始祭をはじめ,春秋2期の皇霊祭・神殿祭,および神嘗祭・新嘗祭や先帝祭その他の皇室祭祀がここで行われる。…
…ただこの理想的な人体美追求の態度のために,ギリシア美術は一般に世俗性の強い美術のように誤解されることが多い。しかし彼らの彫刻の大半が神殿の礼拝像,神域の奉納像,墓地の記念像,神殿の装飾彫刻であり,工芸品の多くが奉納・葬祭用のものであり,また彼らの建築的努力がもっぱら神殿に注がれていた事実から考えても,ギリシア美術が,本来,古代オリエントや中世の美術と同様,非常に宗教的性格の強いものであったことが理解されよう。
【様式の展開】
ギリシア美術はその様式発展のうえから一般に次のように時代区分される。…
…前5000年のメソポタミア東部中央のジャルモと,パレスティナのヨルダン川西岸のイェリコ,前3千年紀のメソポタミア南部のウルとインダス川右岸のモヘンジョ・ダロ,さらにナイル川や中国の渭水でも前2000年より以前に都市が立地していたことが知られている。これらの都市は宗教的・政治的中心で,神殿と城壁が特徴である。いずれも乾燥地の大河の沖積平野に近い台地の先端に立地し,平野の畑作農業(小麦とキビ)を基盤に成立した。…
…また,さまざまな異なった要素を総合し,組織化するローマ人自身の能力が彼らの建築に反映していることも見のがせない。
[エトルリアとヘレニズムの影響]
エトルリアの影響は神殿や住宅や墓などにみられる。ローマ建築に重要な役割を果たしたアーチもまたエトルリア人から学んだ技術であると考える人もいる。…
※「神殿」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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