埼玉(読み)さいたま

精選版 日本国語大辞典 「埼玉」の意味・読み・例文・類語

さいたま【埼玉】

(古く「さいだま」とも)
[一] 武蔵国北東部の郡名。古くはこの地方を「さきたま」と呼び、のち「前玉」「埼玉」の字が当てられ、「さいたま」と読まれた。明治一二年(一八七九)南北二郡に分かれた。
[三] (さいたま) 埼玉県南東部の地名。県庁所在地。平成一三年(二〇〇一)、浦和、大宮、与野の三市が合併して成立。同一五年政令指定都市となる。

さきたま【埼玉】

(「さいたま」の古形) 古代、武蔵国の郡名。現在の埼玉県北部を占めて、利根川に面していた。
※万葉(8C後)九・一七四四「前玉(さきたま)の小埼の沼に鴨そ翼きる己が尾に降り置ける霜を掃ふとにあらし」

出典 精選版 日本国語大辞典精選版 日本国語大辞典について 情報

デジタル大辞泉 「埼玉」の意味・読み・例文・類語

さいたま

埼玉県南東部の市。県庁所在地。平成13年(2001)浦和、大宮、与野の3市が合併して成立。平成15年(2003)指定都市。平成17年(2005)に岩槻市を編入。人口122.3万(2010)。
[補説]さいたま市の10区
岩槻区浦和区大宮区北区桜区中央区西区緑区南区見沼区

さいたま【埼玉】

関東地方中央部の県。武蔵の北半部を占める。県庁所在地はさいたま市。古く、この地方を、さきたま(前玉・埼玉)とよんだところからの名。人口719.5万(2010)。

さきたま【埼玉】

《「さいたま」の古形》古代、武蔵の国の郡名。現在の埼玉県北部、利根川沿いの地。

出典 小学館デジタル大辞泉について 情報 | 凡例

改訂新版 世界大百科事典 「埼玉」の意味・わかりやすい解説

埼玉[県] (さいたま)

基本情報
面積=3798.13km2(全国39位) 
人口(2010)=719万4556人(全国5位) 
人口密度(2010)=1894.2人/km2(全国4位) 
市町村(2011.10)=40市23町1村 
県庁所在地=さいたま市(人口=122万2434人) 
県花サクラソウ 
県木=ケヤキ 
県鳥=シラコバト

関東地方の中央部を占める内陸県。東京都のほか6県に隣接する。

県域はかつての武蔵国の北部と下総国の一部にあたる。江戸時代には全石高をほぼ三等分して天領,旗本領,諸藩領(一門,譜代)が複雑に入り組んでいたほか,寺社領も散在していた。1868年(明治1)天領,旗本領が武蔵知県事(当初県名なし。翌年支配地は埼玉,品川,小菅3県に分割),下総知県事(同前,葛飾県),岩鼻県,韮山県の管轄地となったが,なお幕末以来の忍(おし)藩岩槻藩川越藩,および半原藩,前橋藩,高崎藩などの飛地が錯綜していた。71年廃藩置県を経て諸県は統合され,荒川を境に浦和(大宮県が改称),忍,岩槻3県の管轄地を中心とした埼玉県(埼玉郡と足立・葛飾両郡の一部)と,川越,半原2県の管轄地を中心とした入間(いるま)県(新座以下13郡と多摩郡の一部)に二分されたが,73年入間県は群馬県と合併して熊谷県となった。75年埼玉県は千葉県葛飾郡の一部を編入,足立郡の一部を東京府へ移管し,さらに翌年熊谷県の廃県に伴い旧入間県域を併合して,ほぼ現在の県域が確定した。なお,その後大泉(1891),保谷(1907),浮間(1926),舟渡(1950)地区が東京府(都)へ移管されている。

先縄文期では市場坂(いちばざか)遺跡(新座市)が関東地方でも最大規模の遺跡である。縄文時代になると,橋立(はしだて)岩陰(秩父市)では,井草式より下層で隆線文系土器と有舌尖頭器が出土し,撚糸文系土器文化に先行する縄文草創期の存在が層位的に証明された。荒川や綾瀬川などの流域には,ことに縄文前期を中心とする海水性貝塚が多く分布し,この時期の海進の事実を裏づけているが,そのうち関山・黒浜両貝塚(蓮田市)はいずれもその標式遺跡である。また上福岡遺跡(ふじみ野市)は竪穴床面積と居住人員との関係式が導かれたことで知られる。本県はまた縄文後・晩期の重要な遺跡が少なくない。関東の後期末から晩期前半にわたる安行(あんぎよう)式の標式遺跡,安行貝塚(川口市)や,貝塚と泥炭層からなり方形の大型住居址の発見された真福寺(しんぷくじ)遺跡(さいたま市岩槻区),安行Ⅲc式の竪穴と豊富な遺物を出土した奈良瀬戸(ならせと)遺跡(さいたま市北区)などもある。この縄文晩期の盛行した地域に,どのように弥生文化が浸透したか大いに興味のあるところだが,最近,須和田式土器や炭化米,特異な土偶などを出土した池上遺跡(熊谷市,行田市)は,本県のみならず東日本最古の弥生集落といってよいだろう。ほかはほとんどが中期以降の遺跡である。古墳時代前期の集落址として知られる五領(ごりよう)遺跡(東松山市)は,関東最古の土師器〈五領式〉の標式遺跡である。5世紀代から熊野神社古墳(桶川市)など高塚古墳が出現するが,6世紀以降大型墳が多くなり,各地に大小の古墳群が形成されるようになる。最も有名な埼玉(さきたま)古墳群(行田市)では,円墳として東日本最大の丸墓山(まるはかやま)古墳や将軍山古墳など,また前方後円墳としては二子山古墳などが中心的存在だが,同じく前方後円墳の稲荷山古墳もその出土鉄剣に115字の金象嵌銘が確認されて一躍有名になった。吉見百穴(比企郡吉見町)は古墳時代末期の横穴墓群として古くから知られている。歴史時代では南比企(みなみひき)窯址群(比企郡鳩山町,嵐山町,ときがわ町)や新久(あらく)窯址群(入間市)など,いずれも武蔵国分寺と関連する窯業生産址が多く,関東の瓦や須恵器編年の基準資料が得られている。
武蔵国
執筆者:

首都東京の北の郊外に位置する埼玉県は,県域の大半が日本橋から80km圏内にある。そのうえ,埼玉県と東京都は明治初期に旧武蔵国から分かれた兄弟分で,大きな地形的障害もないため,相互の関係はとくに深く,〈埼玉都民〉という言葉に象徴されるように,都県境は単なる行政上の意味しかない。地形は〈八王子構造線〉を境にして,西部の秩父山地,中央部の丘陵・台地,および東部の低地に分かれ,一般に〈西高東低〉型である。

 1950年に秩父多摩国立公園に指定された奥秩父の自然美,国木田独歩や徳冨蘆花などの明治の文人が愛した武蔵野の平地林,肥沃な中川低地という豊かな自然に恵まれた埼玉県の地理的特色は,放射状交通網,大規模住宅団地,通勤ラッシュ,近郊園芸農業,日帰り観光地などのキーワードで代表される。

放射状の交通網は,江戸時代の中山道・日光道中川越街道に始まり,明治以降,年を追って整備された。鉄道網の始まりは,1883年の日本鉄道上野~熊谷間(JR高崎線)の開通で,その後明治末年までに,東北本線(1885),川越鉄道(西武新宿線,1895),東武伊勢崎線(1899)が,大正年間に東上鉄道(東武東上線,1914)と武蔵野鉄道(西武池袋線,1915)が開通して,県内の幹線鉄道網が形成された。戦後になって,1956年の高崎線と58年の宇都宮線(東北本線)の電化,66年の地下鉄日比谷線と東部伊勢崎線の相互乗入れ,68年の赤羽~大宮間の三複線化,69年の西武池袋線の秩父乗入れ,82年の東北・上越新幹線の開業,85年の埼京線の開通,91年の新幹線の東京駅乗入れなどがあって,都心への交通はますます至便になった。一方,江戸時代からの街道は,国道17号線(中山道),4号線(日光道中),254号線(川越街道)として整備され,放射状道路の幹線となった。さらに1970年代に入ると,東部低地を東北自動車道が,中央部を関越自動車道が,85年には常磐自動車道が貫通して,県内を通過する交通量はいっそう増大した。これに対して県内を横に連絡する交通は不便で,秩父鉄道(1901),東武野田線(1929),国鉄(現JR)川越線(1940)しかなかったが,70年代に入って,首都外郭環状線としての国鉄武蔵野線が開設され,国道16号,125号,140号線などの環状道路も年々整備されてきた。さらに,1992年には東京外環自動車道(和光IC~三郷IC)が開通して,川口JCTもつくられ,関越・東北・常磐の三つの高速自動車道が連結され,県南の一般道路の交通渋滞は緩和された。96年には首都圏中央自動車道も一部開通した。しかし,こうした鉄道や道路の発達も,急激な人口増加通過貨物の増加に追いつかないのが現状である。1960年代以後都市化の進展と消費指向の多様性が進むにつれて,県内の商業は質量ともに大きく発展,その後の20年間に商業の就業者は3倍,商品販売額は30倍に激増した。とくにスーパーマーケットや百貨店の進出が目覚ましく,地元の商店街との競争は年々激化している。さらに,1992年の大規模小売店舗法の改正によって,より厳しい商業環境にさらされている。この間,他市に先駆けて西武百貨店(1969),高島屋(1970)が進出,1980年代に入って,そごう百貨店(1987),ソニックシティ(1988)などの近代的な高層ビルが続々と出現した大宮市は,高崎線,東北本線(京浜東北線),川越線,東武野田線の分岐点をなし,82年東北・上越両新幹線の暫定始発駅(1985年まで)となった交通の要地としての利点も加わり,県下最大の商都として発展,各沿線に広い商圏をもっている。このほか,川口,浦和,川越,所沢,熊谷,越谷の各市でも,1980年代に入ると再開発による商店街の近代化も進められ,県内の商業の中心地となっている。その結果,県内の商業は大きく成長をとげたが,人口と販売額を比べた小売吸引力指数は0.8で相変わらず,購買力の県外,とくに都内への流出が多い。

1876年埼玉県の県域がほぼ確定したころの人口はおよそ90万であった。その後,交通網の整備や,製糸業などの近代産業の発展がみられたが,人口の増加は緩やかで,1950年に214万人に達したにとどまった。しかし,60年代の高度経済成長期には京浜地域からの転入者が激増し,60-80年に県人口は2.5倍,80-95年に1.2倍(いずれも全国1位)の伸びを示し,95年には675万人に達した。県内の人口動態は地域による違いがみられ,都心から50km以遠では人口は緩やかな増加にとどまり,とくに秩父および児玉(県北西部)地方の山村では人口減少が激しく,過疎の村も出現した。一方,県南地域では1960年代の上野台(現ふじみ野市,旧上福岡市),南浦和,武里(現春日部市)の団地をはじめとして,70年代の川口芝園・西上尾第1・北坂戸・みさとの各団地,所沢パークタウンなど公団の大型団地や民間業者,県市町村による宅地造成が各地で進められた。その結果,県南地域では人口が5倍以上の伸びを示す市町も現れ,県全体の市の数は1959年の23から41(2002)へと驚異的な増加が見られた。

明治初期には秩父の絹織物,行田(ぎようだ)の足袋,川口の鋳物など近世からの伝統工業があり,養蚕業の発展とともに,明治10年代には器械製糸工場が設立されたが規模は小さく,大規模な近代工業の発展は鉄道の便がよくなった明治30年前後からであった。高崎線と東北本線の分岐点となった大宮に,1894年日本鉄道大宮工場が建設され,1901年には日本最初の蒸気機関車が製造された。1900年大里郡明戸村(現,深谷市)に機械製では全国初の日本煉瓦工場が設立され,ここで生産された煉瓦は碓氷(うすい)トンネルなどの鉄道施設や,赤坂離宮や東京駅など多くの建物にも使用された。日露戦争後から大規模な製糸工場が増え,大正末には武甲(ぶこう)山の石灰岩を原料として秩父セメント(現,太平洋セメント)が現在の秩父市に開設されたが,第2次大戦前までは,海に臨まないために京浜,京葉地域に比べて工業化の進展が遅れた。

 戦後の工業化は1952年の県工場誘致条例がきっかけとなり,高度経済成長期に入ると,京浜工業地帯の過密化に伴って,豊富な用水,平たんな地形,交通の便にひかれて工場分散が進行した。63年の大宮吉野原工業団地の造成をはじめとして,深谷,川越狭山などの大型工業団地が形成された。これらの工業団地へ進出したのは,金属,機械,電気機器,輸送用機器などの内陸型組立工業が主力を占めたため,このころから県工業の重化学工業化が進んだ。1980年代以降,関越・東北自動車道のインターチェンジ付近に,先端技術産業の立地が増えている。こうした工場の進出に伴い,95年の製造品出荷額は15兆円をこえて,埼玉県はいまや加工組立工業に特化した全国有数(第6位)の内陸工業県として発展している。その中心をなす県南の工業地域は東京北部の葛飾,足立,北,板橋と連結して京埼(けいき)工業地域とも呼ばれている。1960-95年に産業別就業者の割合は,第2次産業が30%から33%,第3次産業が33%から63%へと増加する一方,第1次産業は36%から3%へと激減し,農業県から工業県へさらに近郊住宅県へと変容した。

かつて台地上では麦,桑,野菜の栽培が盛んであったが,1960年代以降,住宅や工場の進出などにより,県内の平地林や農地が減少する一方,農地の異常な値上りによる〈所有すれど耕作せず〉という風潮の流行なども重なって,農業を取り巻く経営環境は年々悪化している。しかし,そうした中でも,近郊性を生かした施設園芸や畜産が盛んで,昭和40年代以降観光農園も増えている。ビニルハウスなどによる施設園芸は冬季,空っ風が吹き,晴天が多いという気候条件に適するため,キュウリ,ホウレンソウ,ネギ,鉢物類,チューリップは全国1,2位の生産をあげている。ただしこれらの主産地は,年とともに県北の大里,児玉地方に移行している。畜産でも養豚と養鶏の主産地が県南の入間地方から大里・北埼玉地方へ移っている。酪農は大里・児玉の県北地方で盛んで,伝統的な狭山茶と養蚕の主産地も南と北に分化していたが,養蚕は衰退が激しい。

埼玉県は地形的特色と首都東京との結びつきを考え合わせて4地域に分けられる。

(1)京埼(県南)地域 さいたま,川口の2市を中心とした市と周辺の町からなり,東京都心から50km圏内にあって交通の便もよいため,県域の4割の面積に県人口の8割をこえ,555万人(1995)が集中している。近世,中山道の宿場町であった浦和は,1889年全国でも珍しく町制のまま県庁所在地となったが,その後も発展が遅れ,市制がしかれたのは1934年であった。戦後になって,高度経済成長期以降の発展は目覚ましく,1995年の人口は45万人をこえ,川口市を抜いて初めて県下最大の都市となった。60年代以降急速に発展したこの地域は県の政治,産業,教育,文化の中心地としての側面と,東京の近郊住宅地としての側面をもつ。さいたま市の浦和・与野・大宮の旧3市にまたがる旧国鉄大宮操車場跡地では,〈さいたま新都心〉が建設された。

 北西端の比企丘陵のほかは西部の武蔵野台地,中部の大宮台地などの台地や,東部の荒川,江戸川,古利根川などの低地が広く,かつては農業地帯,とくに東部の低地は穀倉地帯であった。宅地化,工業化は高度経済成長期に中央部の東北本線,高崎線沿いに始まり,次いで西部の東武東上線沿い,東部の東武伊勢崎線沿いへと急速に進展した。このため農地は急減したが,近世からの伝統をもつ入間地方の狭山茶や,安行(あんぎよう)(川口市)を中心にした苗木の生産は今も盛んで,ほかに入間地方のサツマイモ,ゴボウ,イチゴ,久喜市の旧菖蒲(しようぶ)町,白岡市付近の埼玉梨など観光農園の増加が著しい。〈新しき村〉を中心とした毛呂山町の養鶏も有名。在来工業ではさいたま市の旧岩槻市,鴻巣市の雛人形,川越市,春日部市の桐だんす,川口市の釣竿,鋳物などがある。北西端の比企丘陵周辺は,吉見百穴(東松山市)を中心に比企丘陵県立自然公園に指定されている。旧城下町川越は江戸とのかかわりの強かった土地で,蔵造りの町並みなどに江戸情緒が残り,首都近郊の日帰り行楽地として訪れる人も多い。

(2)北武蔵(県北)地域 熊谷市を中心とした市と周辺の町からなる。南西部が外秩父山地に属するほかは大半が台地と低地からなるが,都心から50km以遠にあるため,京埼地域のような都市化は進んでいない。田園地帯が広がり,県内の農業生産の中心地で,住民は埼玉県民としての意識が強い。葛西用水や見沼代用水によって涵養された加須(かぞ),羽生(はにゆう),行田各市の米作,深谷市,本庄市の野菜づくり,本庄市の旧児玉町と深谷市の旧岡部町の酪農と養鶏,羽生市と寄居(よりい)町の養豚は,県内の主産地として有名である。近世からの伝統産業である行田市の足袋は昭和30年代以降,被服,靴下などに移行し,明治中ごろからの深谷市の煉瓦は造園用などとして生産されている。埼玉(さきたま)古墳群一帯(行田市)は史跡公園さきたま風土記の丘として整備された。

(3)奥武蔵地域 飯能(はんのう)市と日高市のほか周辺の町からなるこの地域は,比企丘陵から外秩父山地にまたがり,ゴルフ場が各地にあり,休日にはゴルファーで賑わっている。近世に起源をもつ名栗(なぐり)川の西川林業(杉),飯能市の裏絹,ときがわ町の旧都幾川村の建具,小川町の和紙などの地場産業で知られているが,平たん地が少ないため農業生産は不振で,都市化も遅れていた。しかし,都心から50~60kmに位置し,戦前からの国鉄(現JR)八高線(1933)のほか西武池袋線が1969年秩父まで延長され,道路の便もよくなって,昭和40年代以降,飯能,日高,毛呂山,鳩山などで住宅地化が進み,都心への通勤者も多くなった。南部は奥武蔵県立自然公園に属し,名栗渓谷などの景勝地があり,外秩父山地山麓の通称高麗郷(こまごう)(日高市)と呼ばれる一帯には高句麗系の社寺や史跡が多い。

(4)秩父地域 秩父市ほか周辺の町村からなる秩父地域は,北東部に秩父盆地があるほかは秩父山地の山々によって囲まれ,平野の多い埼玉県の中では独立した地域を形成する。近世からの秩父銘仙と大正末からのセメントが代表的な地場産業であるが,西武秩父線の開通などにより,秩父盆地のブドウ,シイタケなどの観光農園や民宿も増加している。西部は秩父多摩国立公園に含まれ,武甲,長瀞(ながとろ)玉淀,上武と県立自然公園の範囲が広く,秩父三十四番札所の巡礼は今も盛んで,秩父夜祭(12月)の人出も多い。近年,盆地内で温泉も掘りあてられ,1991年にオープンした秩父ミューズパークと荒川に架かる斜長橋とともに新しい観光資源として注目される。
執筆者:


出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

今日のキーワード

潮力発電

潮の干満の差の大きい所で、満潮時に蓄えた海水を干潮時に放流し、水力発電と同じ原理でタービンを回す発電方式。潮汐ちょうせき発電。...

潮力発電の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android