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ギリシア美術 ギリシアびじゅつ Greek art

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

ギリシア美術
ギリシアびじゅつ
Greek art

ドーリス人の南下によって,クレタミケーネ文明が崩壊してのちに生まれた幾何学様式時代からヘレニズム時代にいたる美術。その様式による時代区分はおよそ次のとおりである。(1) 幾何学様式時代(前900頃~前800頃) 同心円,波状の線など単純な文様を描いた原幾何学様式と呼ばれる陶器が最初に現れ,複雑かつ精密で整然とした秩序に支配された文様で全面をうずめた幾何学様式の陶器へと発展する。

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世界大百科事典 第2版の解説

ギリシアびじゅつ【ギリシア美術】

ギリシア美術とは,クレタ・ミュケナイ美術衰退後の前1000年ころから前1世紀末ころにかけて,ギリシア本土,南イタリアエーゲ海周辺地方などで栄えた美術をさしていう。前12世紀ころからしだいにギリシアに侵入したドリス人は,先住のアカイア人の勢力をペロポネソス半島から駆逐し,クレタ的色彩の濃いミュケナイ文明の美術を完全に破壊した。こうしてギリシアは長い文化的暗黒時代に入ったが,この期間にギリシア人は自己の民族性に根ざした新しい美術を徐々につくり始めた。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

ギリシア美術
ぎりしあびじゅつ

エーゲ海諸地域に栄えたミケーネ文明が衰退したのち、紀元前10世紀ごろからギリシアがローマに征服されるまで、ほぼ9世紀にわたってギリシア本土ならびにバルカン半島小アジア、南イタリアなど植民地諸地域に開花した美術。ギリシア美術は、初期の段階では明らかエジプトや小アジア、ミケーネなどの先進美術の影響を受けており、これらを自らの芸術的資質のなかに統合同化することによって、さらに調和、統一、均整による人間の理想美を追求した。これらの主題と様式はローマに直接受け継がれ、ルネサンスに至ってヨーロッパ美術の「古典」として栄光の座を確立した。[前田正明]

ギリシア美術の時代区分

ギリシア美術は通常、その様式の相違から次の五つの時代に区分される。
(1)幾何学様式期(前10世紀末~前8世紀中ごろ) この時代はまだ石造の大彫刻は存在せず、青銅やテラコッタの小像が制作されたにすぎない。陶器の装飾文様に初期の硬直な幾何学文様が描かれているところから一般にこの時代の美術を幾何学様式とよぶ。
(2)東方化様式期(前720ころ~前650ころ) 先進のオリエント諸地域との交易によって、幾何学様式とは異質のスフィンクスや鹿(しか)、小鳥、植物の帯状文などの東方的なモチーフが伝えられ、陶器や金工品を飾った。これらの様式はロードス島やエーゲ海の島々、コリントにおいてとくに顕著にみられる。
(3)アルカイック期(前650ころ~前480ころ) アルカイックとは「太古」「始まり」archに由来する。最初にギリシア的な特質を創造した時代で、ギリシア本土に大理石や青銅の大彫刻が制作されるようになった。これらの彫像の口元にはいわゆる「アルカイック・スマイル」とよばれる微笑が示されている。この時代にギリシア本土の各地に石造の巨大な神殿が造営され、四周に柱廊を巡らす神殿様式が完成した。
(4)クラシック(古典)期(前450ころ~前330ころ) パルテノンの造営からマケドニアのアレクサンドロス大王の没年に至る時期で、哲学・文芸の面でも黄金期を迎えたが、ギリシア美術はアテネを中心に未曽有(みぞう)の発展を遂げ、調和と理想美を追求した。彫刻の分野では、様式の相違から古典前期(前5世紀)と古典後期(前4世紀)に分ける。
(5)ヘレニスティック期(前330ころ~前30ころ) アレクサンドロス大王の東方遠征によって、ギリシア美術は小アジア、シリア、エジプトなどオリエントに伝播(でんぱ)移行し、東方文化と融合した新しい様式を生み、現実性と世俗化が顕著になったが、やがてギリシア世界はローマの支配下に入って終わりを告げる。[前田正明]

建築

ギリシア建築の典型は公共建造物にある。ギリシア人は早くから都市計画に熱心で、碁盤状の都市プランの中心に、神殿、劇場、市民の広場のアゴラを配し、学校や体育館、競技場、墓廟(ぼびょう)などのモニュメンタルな建造物をつくった。ミレトス、プリエネ、ピレエフスなどは古代の都市計画に基づく都市として知られる。[前田正明]
神殿建築
ギリシア建築を代表するもので、水平の梁(はり)と垂直な柱による単純荘重な構成と美しい比例に基づく様式は、ローマ時代のアーチ型建築様式とともに、西洋建築の基本的形態となっている。
 ギリシアの神殿は神の住まいであり、神像を安置するための建造物であって、その中で儀式や祭礼を行う場所ではない。したがって、ローマ時代のバジリカやキリスト教の聖堂とは異なり、つねに外から見た美しさ、外的視覚性に重点が置かれている。破風(はふ)を埋める彫刻やフリーズの浮彫りはすべて外側に彫刻されている。
 初期の神殿は木造で、壁面に粘土や日干しれんがが用いられていた。現存するギリシア最古の神殿の一つオリンピアのヘラ神殿(前7世紀中ごろ)の列柱は荒々しい石灰岩が用いられているが、その1本は木であったことが2世紀の文献に記されている。
 神殿の原型は、ミケーネ時代の広間を中心にしたメガロン様式から発展したもので、建築プランは長方形、東を正面とする切妻(きりづま)屋根をもち、神像を安置する長方形の内陣(ナオス)とその前室(プロナオス)、そして背面に後室(オピストドモス)を配する。もっとも初期の形式は、正面を除く3面を壁で囲み、正面の壁端の柱(アンタエ)の間に2本の柱を配しただけの簡素なもので、代表作例にデルフォイの「アテナイ人の宝庫」や「シフノス人の宝庫」がある。さらに正面に4柱を配したプロスティロス、前後にそれぞれ4柱を配したアンフィ・プロスティロス、内陣を一重の列柱で囲んだペリプテロス、二重の列柱で囲んだディプテロスへと発展する。アルカイック期から古典期の神殿の多くは一重周柱式のペリプテロスで、アテネのパルテノンはその代表的な遺構である。ディデュマのアポロン神殿はディプテロス形式である。ヘレニスティック期に入ると、一重周柱の柱が内陣の壁に組み込まれたプセド・ペリプテロス(シチリアのアグリジェントのゼウス神殿)、二重周柱式の内側の列柱を省いて内陣と列柱の間を広くとったプセド・ディプテロス(マグネシアのアルテミス神殿)などの変型が現れる。
 神殿建築でもっとも重要な部分は柱と梁を構成する部分で、これを柱式(オーダー)とよび、形状の相違からドーリス式、イオニア式、コリント式に分けられる。
 ドーリス式は、柱が直接基壇(スティロバテス)の上に立ち、溝彫りのある柱は太く、上部が細く、柱身には胴張り(エンタシス)が目だつ。柱頭(キャピタル)は皿型のエキノスの上に正方形の頂板(アバクス)が置かれる。軒下のフリーズはメトープとトリグリフォスに分けられ、メトープにはしばしば浮彫りが施されている。ドーリス式建築は早くからギリシア本土、南イタリアのギリシア植民都市に多く、現存する遺構としては、上述のオリンピアのヘラ神殿、デルフォイやコリントのアポロン神殿(前6世紀中ごろ)、オリンピアのゼウス神殿(前5世紀前半)、アテネのパルテノン神殿(前447~前438ころ、部分的にイオニア式を採用)などがある。
 イオニア式は、小アジアのイオニア地方におこった様式で、柱がドーリス式に比べて細く長く、柱底部には柱礎が加えられ、柱頭には左右に相対する二つの渦巻形がある。フリーズはドーリス式のような区分がなく、絵巻物風の連続浮彫りが施されていることが多い。エフェソスのアルテミス古神殿(前550ころ)、アテネのエレクテイオン(前421~前405ころ)はその好例である。
 コリント式は、アカンサスの葉を2段に重ねた柱頭をもつ以外はイオニア式と大きな違いはなく、前5世紀後半バッサイのアポロン神殿に用いられたのが最初で、ヘレニスティック期以後にオリエントを中心に発展した。
 ギリシアの神殿はそれぞれに個性と表情があるが、一般にドーリス式は単純荘重で男性的であり、イオニア式は優美典雅、女性的で、コリント式は華麗円熟、豪奢(ごうしゃ)といえよう。このほか神殿建築にはデルフォイ、オリンピア、エピダウロスなどにみられる円堂(トロス)がある。[前田正明]
劇場建築
劇場は普通、丘の斜面を利用して扇形のすり鉢型につくられている。その形式は扇形に広がる階段状の観客席(テアトロン)と、すり鉢の底の部分にあたる中心部の円型の舞踏場(オルケストラ)、オルケストラの背面に2階建ての舞台兼楽屋(スケネ)が設けられている。この形は音響効果がよく計算されており、上部の観客席まで台詞(せりふ)が届くようになっている。アテネのディオニソス劇場は現存するギリシア最古の劇場の一つで、エピダウロスの劇場(前350ころ)は往時の完全な姿を今日にとどめている。[前田正明]
その他の公共建造物
市民生活を重視したギリシアでは、市の公共広場であるアゴラを中心に多くの公共建造物が建てられた。市の議事堂であるブーレウテリオン、役所であるプリネタイオン、市民の散歩や買い物の場である列柱廊(ストア)、男性の憩いの場のレスケ、女性の社交場でもある水汲(みずくみ)場などがあった。また青少年のための施設としてはギムナシオン、パライストラ、スタディオンがある。ギムナシオンは競走、跳躍、円盤投げ、槍(やり)投げなどの屋外練習場で、中央に長方形の中庭を設け、周囲に長い柱廊がある。パライストラは今日の体育館に相当し、レスリングや拳闘(けんとう)などが行われ、中央に正方形の中庭、四方を列柱で囲み、後方に脱衣場や浴場など大小さまざまの部屋が設けられていた。スタディオンは細長い馬蹄(ばてい)形もしくは長方形の競走場で、長さが1スタディオン(約185メートル)あり、丘の斜面を利用して観客席が取り囲んでいる。オリンピアのクロノスの丘の南部にあるスタディオンは前6世紀につくられたギリシア最古のもので、ゼウスを記念して行われる4年に一度の祭典、古代オリンピックの主競技場であった。
 公共建造物に比べて、一般住宅は日干しれんがと木の粗末なものであった。前5世紀末から前4世紀にかけてのオリントスの住居跡から、中庭に面して男性用と女性用の居間、台所、浴室、物置などが発掘され、当時の一般住宅のようすをうかがうことができる。[前田正明]

彫刻

ギリシア彫刻の起源は明確ではない。古代の記録ではクソアノンとよばれた木彫の神像があったと伝えられるが、神殿の建築装飾を含め、初期の段階ではなんらかの宗教的な目的で制作されたと思われる。ギリシア彫刻の素材には木、石灰岩、大理石、ブロンズ、テラコッタ、黄金と象牙(ぞうげ)、鉄などが用いられた。このうち木は気候的に保存に耐えず、金と象牙は高価なために残存せず、鉄は腐食し、ブロンズは武器などに改鋳され、今日残っているのは主として石像、テラコッタ像で、ブロンズ彫刻も少ない。このうち石像はすべてが一石彫りでなく、頭部、腕は別につくり、鉛や目釘(めくぎ)であわされているものが少なくない。また初期には全面もしくは部分的に彩色され、アクロポリス美術館のポロス(石灰岩の一種)の群像彫刻や着衣の婦人像には、当時の明るく美しい彩色が残されている。
 現存する最古のものに、前8世紀の中ごろから前7世紀初めに制作された、5センチメートルから10センチメートルの人物や動物の小彫像がある。ミケーネ時代とは異質の、幾何学様式時代とよばれるこの時期の、硬直で図式的なブロンズの小像に、クレタ島出土の「マンティクロスの奉納像」(ボストン美術館)やオリンピア出土の「戦士」があり、テラコッタの小像ではボイオティア出土の彩色の女神像がある。[前田正明]
アルカイック期の彫刻
アルカイック期にはエジプトやオリエントの影響で、前7世紀中ごろから大理石やブロンズの等身大かそれより大きな像が制作された。これは神殿建築の誕生とほぼ同時代で、デロス島の「ニカンドラの奉納像」(アテネ国立考古博物館)や「オーセルの婦人像」(ルーブル美術館)はその最古の作例とされている。
 続いて前600年前後からアッティカやペロポネソス半島、エーゲ海地域で、大理石あるいはブロンズによる等身大かそれ以上のクーロスとよばれる青年像とコレーとよばれる少女像が多数制作された。クーロス像は全裸で左足を一歩前に踏み出し、両手を腰に当てて直立する姿態で表されており、エジプト彫刻の影響が強い。一方、コレーはつねに着衣で、片手を胸に当てるか、キトンのひだをつまむ姿で表現される。初期のクーロス像にはスニオン出土のクーロス像、デルフォイ出土の「クレビオスとビトン」の兄弟像があり、コレー像では、アテネのアクロポリスに寄進された多数の婦人像が有名である。クーロスは生命感あふれる強健な男性の筋肉の表現に、コレーは女性の肌と衣服のひだに美しさが求められた。アルカイック・スマイルはこの時期のすべての像の口元にみられ、像に生き生きとした表情を与えている。しかしペルシア戦争(前500~前479)以後はこの微笑が消え、重々しい真剣な表情に変わる。デルフォイのブロンズの「御者」やアルテミシオン沖から発見されたブロンズの「ポセイドンもしくはゼウス像」(アテネ国立考古博物館)、オリンピアのゼウス神殿の破風彫刻などは、アルカイック期から古典前期に向かう過渡期の厳格様式の傑作で、緊張したこの時代の精神を反映している。[前田正明]
古典期の彫刻
この期に制作された彫像はすべて単純かつ明晰(めいせき)な形式に整えられ、調和と均整をもった高い精神性を示している。古典前期を代表する彫刻家ミロンは人体の運動の緊張の瞬間をとらえようとした。有名な「円盤投げ」(ローマ時代の模刻)は動中静の一瞬をとらえた傑作である。ミロンのあとアテネで活躍したフェイディアスは、ブロンズや黄金と象牙による多くの神像を制作し、「神々の像の制作者」と称せられた。パルテノンの「アテナ・パルテノス」、オリンピアの「ゼウス座像」「アテナ・レムニア」は彼の代表作といわれるが、原作は1点も残っていない。しかしフェイディアスの監督で造営されたパルテノンの破風群像浮彫りは彼の様式を伝える傑作として名高い。またこの期に活躍したもう1人の巨匠ポリクレイトスは、人体の各部分の比例を数的に算出し、それを『カノン』(規範)という書にまとめた。「槍を担ぐ青年像」や「勝利の紐(ひも)を結ぶ青年像」はこの比例に基づいて制作されたといわれる。このほかこの時代の優れた彫刻家にクレシラス、アルカメネス、アゴラクリトス、パイオニオスらの名があげられる。
 古典後期には、より人間的な神々がモチーフとなり、人間の心理を追求し、崇高さよりも優美さが求められた。この時期を代表する作家に「クニドスのアフロディテ」によって優美な女性像を追求したプラクシテレス、彼とは対照的に人間の深い内面性をとらえたパロス島出身のスコパス、アレクサンドロス大王の宮廷彫刻家で大王の肖像彫刻を制作し、八頭身の男性の理想像を創造したリシッポスがある。[前田正明]
ヘレニスティック期の彫刻
古典後期の優美なあるいは激しい表現様式は次のヘレニスティック期に極限に達した。美術の中心はギリシア本土を離れ、エジプトのアレクサンドリア、アンティオキア、小アジアのペルガモンなどに移り、東方の多様な民族や文化との接触によって、題材は拡大し、世俗的な日常生活や人間の苦悩や醜い面をも視覚化した。有名な「ラオコーン」(バチカン美術館)、ペルガモンのゼウス大祭壇の浮彫り(ベルリン、ペルガモン美術館)、「サモトラキのニケ」(ルーブル美術館)はこの時代の不安と動揺を率直に表現している。古典期の均整のとれた調和美の象徴でもあったアフロディテ像は、この時代になると跪座(きざ)したり振り向く姿となって、より官能的で自由奔放な姿態を展開した。[前田正明]

絵画

ギリシア時代の絵画はごくわずかな例を除いてほとんどが失われ、古代の文献、陶画(壺絵(つぼえ))と、ヘレニスティック期の様式を受け継ぐポンペイ、ヘルクラネウムなどのローマ期の作品を通してその概略を知りうるにすぎない。前7世紀末に建立されたテルモスの神殿を飾ったメトープの絵(アテネ国立考古博物館)は、現存する最古の作例で、神話を主題とし、黒、白、赤、黄で彩色されている。またフリジアのゴルディオン出土の壁面断片はテンペラ画法を用いて青、赤、緑で彩色された前6世紀後半の貴重な作例である。他方、文献によれば、タソス生まれの画家ポリグノトスは前470年以降アテネで活躍し、アガルタルコスは悲劇の舞台背景を描いたことで知られる。さらに、同時代の画家アポロドロスは陰影画法を研究して陰影画家(スキアグラフォス)とよばれた。前4世紀のころヘラクレイア出身のゼウクシスがエフェソス出身のパラシオスと競作したとき、ゼウクシスの描いたブドウを小鳥がついばみにきたと伝えられる。
 ローマ時代のフレスコ画やモザイク画には、前4世紀から前3世紀のギリシア絵画を模したものが多く、ポンペイ出土の「ペルセウスとアンドロメダ」の壁画は前4世紀のアテネの画家ニキアスの作品を模したものとされる。同じくポンペイ出土の有名なモザイク画「イッソスの戦い」(ナポリ美術館)も前300年ころのエレトリアの画家フィロクセノスの模作として知られている。ヘレニスティック期の絵画のモチーフはきわめて多様で、神話、伝説のほか、風景画、風俗画、静物画が描かれている。[前田正明]

工芸


陶器
ギリシア工芸の華といわれる陶器の最古のものは前10世紀から前8世紀と推定され、アテネのケラメイコスの墓地から出土している。これは原幾何学様式で同心円や帯状の直線が描かれている。前8世紀以降、陶芸はアテネを中心に著しい発展をみせ、「ディピロン様式」とよばれる帯状の雷文、菱(ひし)形、卍(まんじ)を描いた幾何学様式が誕生した。一方、前8世紀から前7世紀にかけて港湾都市コリントを中心に窯業が盛んになり、コリント陶器はオリエントのロータスや架空の動物をモチーフとし、赤、白など多彩な彩色と、細部を線刻することで美的効果を高めた。前6世紀に入るとアッティカ地方では陶器の絵付に神話や伝説を取り上げた黒絵式陶器が誕生、コリント陶器にかわって主導権を得、リドス、ネアルコスらの優れた陶画家が活躍した。この期を代表するエクセキアスは英雄アキレウスとアイアスを描いたアンフォーラ(バチカン美術館)や酒神ディオニソスの航海を描いた杯(ミュンヘン古代美術館)などに細密画風な精緻(せいち)な描写を採用することによって黒絵式陶器を最高の水準に高めた。黒絵式陶器は赤褐色の地に黒でシルエット風に画像を塗りつぶし、目や口、衣装の細部を鋭い尖筆(せんぴつ)で掻(か)き落とした陶器をいうが、これに対し前350年ごろ、黒絵式と反対に、図像を赤素地のまま残し、背景を黒で塗りつぶす赤絵式が現れた。赤絵式は細部を筆で描くため、より自由な表現を可能にし、パナテナイアのアンフォーラなどの特殊な陶器を除いては、ほとんどが赤絵式となった。これらアッティカの赤絵式陶器に筆を振るった陶画家は、エウフロニス、ブリュゴス、マクロンら今日名を知られているだけでも二百数十人を数える。またこれら赤絵式陶器とは別に葬祭用の白地陶器レキトスがアッティカを中心に制作された。
 このほか美しい色彩の婦人像タナグラ人形が前4世紀から前3世紀に大量に制作されたが、これらテラコッタの小像は当時の風俗を知るうえで興味深い。[前田正明]
金工
ミケーネ時代の華麗な金製品、印章、杯、象眼(ぞうがん)細工の後を受けて、ギリシア時代になるとブロンズが金工芸の主流を占めるようになり、武器や馬具、壺などの容器、家具、鏡など多方面に使用され、打出し、鋳型、線刻、象眼など多様な技法が駆使された。これらのなかでもとくにドドナ出土の前550年ごろの騎士の小像、フライパン、水差し、兜(かぶと)(以上アテネ国立考古博物館)、グリフォン頭部(オリンピア美術館)、アフロディテとパンの美しい線彫りのある鏡(前4世紀中ごろ・大英博物館)をはじめ、貴金属による装身具など、いずれもギリシア工芸の高い水準を示す。[前田正明]
『沢柳大五郎著『ギリシアの美術』(岩波新書) ▽村田潔編『大系世界の美術5 ギリシア美術』(1976・学習研究社) ▽W・H・シューフハルト著、水田徹訳『西洋美術全史2 ギリシア美術』(1978・グラフィック社) ▽水田徹編『グランド世界美術3 ギリシアとローマの美術』(1975・講談社) ▽村川堅太郎編『世界の文化史蹟3 ギリシアの神殿』(1978・講談社) ▽村田数之亮著『ギリシアの陶器』(1972・中央公論美術出版)』

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世界大百科事典内のギリシア美術の言及

【ローマ美術】より

…本項では,ローマ美術を,古代ローマ人が支配した地域における美術活動と規定することとする。 前5世紀までのローマ美術は,エトルリア美術およびマグナ・グラエキアのギリシア美術の影響を強く受け,いまだ独自性を有しておらず,その活動も活発ではなかった。このような状況をストラボンは,〈昔のローマ人は,美しさに気を配ることはなく,より大きなもの,より必要なものに心を奪われた〉と記している。…

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