改訂新版 世界大百科事典 「ソビエト連邦共産党」の意味・わかりやすい解説
ソビエト連邦共産党 (ソビエトれんぽうきょうさんとう)
Kommunisticheskaya partiya Sovetskogo Soyuza
ロシア革命(十月革命)によって誕生したソ連邦を支配した唯一の政治組織で,事実上の国家機関でもあった。1898年ロシア社会民主労働党として発足,ロシア革命後の1918年ロシア共産党(ボリシェビキ)Rossiiskaya Kommunisticheskaya partiya (bol'shevikov),25年全連邦共産党(ボリシェビキ)Vsesoyuznaya Kommunisticheskaya partiya(bol'shevikov)へと名称が変化し,52年にソ連邦共産党となった(以下,党と略称)。91年8月クーデタの後,書記長ゴルバチョフが解散を勧告,書記長を辞任して,事実上解体した。
組織
党はマルクス・レーニン主義的な社会主義・共産主義の理念にのっとっていた。党の基本目標や任務を定めた文書を〈綱領〉と呼び,1961年採択の〈綱領〉では,ソ連の現状を共産主義社会への前進の段階にあると規定した。しかしブレジネフ期に,〈発達した社会主義〉の段階にあると表現した。ゴルバチョフは86年に〈発達した社会主義の初期段階〉と言ったが,その後は,このような社会主義やそれへの過渡期という概念そのものを否定する考え方が出てきて,90年の党綱領はあらためて〈人道的・民主的社会主義〉をめざす方向に変わった。党員の資格,権利,任務を定めるのは規約であるが,それによると,党は労働者,コルホーズ農民,およびインテリゲンチャの最も意識的な前衛であり,〈社会・政治組織の最高の形態〉であるとし,党員の任務の筆頭に〈共産主義の物質的・技術的基礎の創出のためにたたかうこと〉をあげていた。また77年の憲法第6条では,党は〈社会を指導し,方向づける勢力であり,政治体制・国家機構・社会団体の中核である〉とし,党は〈人民のためにあり,人民に奉仕する〉と規定したが,東欧革命後の90年にこの規定は廃止されるにいたった。
ソ連邦共産党の組織を形づくった理念は,レーニンの《何をなすべきか》(1903)で提起されていた。それによると党は大衆組織とは区別された,少数の職業的革命家の組織と考えられている。ツァーリ政府の弾圧のもとでの革命政党の必要から採用されたこの党の理念は,やがて民主的中央集権制の原則として定式化された。それは,選挙制,報告制と並んで,上級機関の決定が下級機関のそれを拘束するという内容をもち,この原則は党の組織理念となった。
党の最高の意思決定機関は党大会であり,1950年代以降は5年に1度招集された。党大会と党大会の間の期間は,大会により選出された中央委員からなる中央委員会が党の指導を行ったが,実際には中央委員会で選出される政治局politbyuro,および書記局sekretariatと中央委員会機構が党の日常の政治的・組織的業務を担当した。このような構造が成立したのは,ロシア革命後,党が唯一の政権党になってからであって,1919年の第8回党大会は,中央委員会に政治局,組織局および書記局を設け,これら各局が中央委員会の日常活動を行うことを定めた。このうち,とくに政治局は事実上,党・国家の内政・外交にわたる最高決定機構として機能していた。
これに対し書記局は,本来は中央委員会や政治局の補助的機構であったが,22年にスターリンが書記長となると,人事配置,組織指導の権限をたかめた。書記局は中央委員会の各部局の日常的指導や政策決定に重要な役割を果たし,有給の専任職員からなる各級の党機関の統制,人事の指導を行った。その頂点に立つ書記長は,スターリンのような独裁的権限を有した人物も含め,政治局にあって最有力の人物であり,特に政治局員や書記局員などの人事を通じて,ソ連邦の政治体制の中枢に位置していた。さらに中央委員会の各部局は,各省庁や国家委員会その他の国家・社会組織の監督にあたった。これに対し中央委員は,政府・国家機関・社会組織の代表者,地方党組織の指導者などからなり,年2度ほど総会を開いた。各級の党機関は,行政・社会組織を含む党内外の組織に関して自己が指名・推薦の権限を有する職名表およびその職に就く資格をもつ者の表(ノメンクラトゥーラ)を有しており,党という社会組織が国家・社会全般に対する〈指導的役割〉を行使する回路となっていた。党組織の末端に位置するのは企業,施設,軍隊,コルホーズなどに組織される初級党組織であり,3名以上の党員から構成された。14~28歳の男女を組織したコムソモールは党中央委員会が直接指導する党の青年組織であった。また中央委員会はコムソモールを通じてピオネール(団員は10~15歳の少年少女)を指導していた。
党には18歳から加入できるが,コムソモールや党員(3名)の推薦を必要とし,党費を納めなければならない。党員数は1811万8000(1983)で,国内の成人人口の1割に相当した。その構成は職員と労働者がともに43.7%,コルホーズ農民は12.6%であり(1982),一般に教育の高い者ほど入党の比率が高かった。民族構成をみれば,約6割がロシア人であり,ウクライナ人がこれに次いだ。ソ連邦の全15共和国中,ロシア,グルジア,アルメニアの各共和国では党員の住民に占める比率が高かった。
歴史
ボリシェビキの成立
ロシアにおける反体制運動のなかで,マルクス主義的潮流の歴史は1883年,プレハーノフによってスイスで組織された労働解放団にさかのぼることができる。このころからロシア国内でも労働運動が台頭し,19世紀末には各種のサークル,団体が形成され,P.B.ストルーベやレーニンらが中心となり,マルクス主義的サークルが国内でも誕生した。このマルクス主義運動サークルのなかから1898年にソビエト連邦共産党の前身であるロシア社会民主労働党が創立され,ストルーベによる創立宣言が発表された。その後,ロシア・マルクス主義の父とよばれたプレハーノフらは若手のレーニン,マルトフらとともに新聞《イスクラ》に拠って本格的な革命政党の形成をめざし,1903年の第2回党大会以前から合法マルクス主義や経済主義の各潮流と対立関係にあった。しかし,この大会では党規約第1条をめぐって,西ヨーロッパ型の大衆政党を志向するマルトフと,少数の前衛的革命党観を有するレーニンとの間に対立が生じ,前者を支持する少数派(メンシェビキ)と多数派(ボリシェビキ)との分裂が生じた。その後プレハーノフらがメンシェビキを支持したため,レーニンらは《イスクラ》から離れ,《フペリョードVperyod(〈前進〉の意)》紙を創刊し,独自な潮流としてのボリシェビズムができあがる。
社会主義政権の樹立
1905年革命以後にはボリシェビキとメンシェビキの間に合同が試みられたが,12年のプラハ協議会以後,ボリシェビキは基本的には独自の組織として第1次世界大戦と17年の革命を迎えることとなる。この間レーニンら指導部は外国におり,国内のスターリンらの活動家は地下活動を余儀なくされた。17年の二月革命後,カーメネフ,スターリンらは臨時政府を条件付きで支持する方向にあったが,スイスから帰国したレーニンは四月協議会で〈全権力をソビエトに〉のスローガンのもとに,権力奪取を主張し,またトロツキーらのグループも入党した。ジノビエフらの反対論もあったが,10月25日(西暦の11月7日)の武装蜂起により第2回全ロシア・ソビエト大会は全権力を掌握し,左派エス・エル党も加わった形での革命権力が生まれた。18年には,ブレスト講和問題や食糧問題をめぐって左派エス・エル党はボリシェビキ権力と対立したため,ここにボリシェビキの一党制が確立し,反革命軍や外国からの干渉軍との戦いが本格化する戦時共産主義期を迎えた。
レーニンの死の前後
このころ党内には単一社会主義政権支持者やブハーリンら左派共産主義者,民主的中央集権派らの分派・グループがあったが,戦時共産主義期の終りの第10回党大会(1921)を前に,〈労働組合論争〉を契機として,三つの分派と多くのグループにまたがる厳しい党内論争が展開された。このためレーニンらは一時的に分派の禁止と党員の除名に関する決議によってこれを抑えるとともに,労働者反対派を公に非難した。以後,党内の分派形成には大幅な制約が課せられた。1921年以後,都市工業と農村との市場的結合を基本とする新経済政策(ネップ)が導入されるが,スターリンが権限を握った党書記局の政治的比重がこの時期を通じて増大し,これを政治的にいかに規制するかは重大な論点であった。レーニンは党中央統制委員会と政府の労農監督人民委員部の合体をはかるが,これは結果的には党と国家の癒着という,一党制国家では不可避な過程をいっそう推進することとなる。レーニンが病に倒れるとジノビエフ,カーメネフ,スターリンとトロツキーとの間に指導権をめぐる対立が生じ,さらに民族問題に関して病気のレーニンが書記長スターリンの解任を要請する事態も生じた。しかし,24年1月レーニンが死ぬまでに,スターリン,ジノビエフらの主流派はトロツキー派を抑え,また少数グループを弾圧した。やがて25年末ジノビエフとスターリンとの間にレーニン主義の解釈や社会主義建設をめぐる対立が生じ,親農民的なブハーリンの支持を得たスターリンに対抗してレニングラード党組織から追放されたジノビエフは,やがてトロツキー派と合同反対派を形成した。しかし,27年末の第15回党大会までにジノビエフは屈服し,トロツキーは29年国外追放となった。
スターリン時代
しかし深刻化した穀物調達危機に直面したスターリンは,ネップの継続を主張するブハーリン,ルイコフ,トムスキーらを右派偏向として党指導部から追放し,非常措置の適用をはかり,ウラル・シベリア方式によって,29年末からは全面的な農業集団化とクラーク(富農)の農村からの追放を行った。この政策と,1928年末からの第1次五ヵ年計画に伴う重工業化とによって,ソ連邦の相貌は一変した。30年の第16回党大会でスターリンら党官僚の政治的勝利は確定した。この間地方の党機関は,抵抗する農民の間で集団化を遂行するため全権代表を派遣して行政的圧力を行使し,国家機関と癒着する傾向を強めた。また党内外での討論や分派は厳禁され,党の性格は大幅に変化した。しかし,コルホーズ農業の失敗に伴って党内外の不満は高まり,32-33年には南部で飢饉が生じた。このためスターリン,カガノビチらはMTS(機械・トラクター・ステーション)政治部を設けてコルホーズにおける党の支配を徹底させる一方,党内での粛清を強化した。また党中央統制委員会(現在は党統制委員会)はこれ以後独立した位置を失った。
34年の第17回党大会時にはスターリンは書記長ではなく,書記となった。しかし,この年の末には有力な党書記のキーロフが殺され(キーロフ暗殺事件),これを契機にスターリンは個人的官房や治安機関を駆使して個人崇拝の傾向を強める。反対派や有力な党員,さらには軍人を粛清し,これらの動きは38年の第3次モスクワ裁判でブハーリンを処刑することで頂点に達した(大粛清)。党史や党の教義も,マルクス=レーニン主義の名のもとに,むしろ権力や支配者を正統化するイデオロギーとなった。スターリン個人に対する崇拝は,国際情勢の複雑化への十分な対応を妨げる結果をも招き,これが独ソ戦緒戦での失敗の一因となる。しかし党は教会や大衆の総力を結集して大祖国戦争(第2次大戦)をのりきった。戦後もジダーノフやマレンコフにより,知識人や党幹部までが粛清されたが,53年のスターリンの死亡により,スターリン時代は終わった。
スターリン批判以後
ベリヤ,マレンコフらのライバルを集団指導部から排除したフルシチョフ第一書記は,56年の第20回党大会の秘密報告でスターリン批判を行い,非スターリン化と民主化,農業問題の解決にのり出した。フルシチョフ時代にはスターリン時代への反省から,党内にも一定の民主化が導入され,(1)集団指導の強調と大衆路線,(2)党大会や中央委員会の定期的開催,(3)さらに60年代初めには党機構の農業・工業への分割と交替制がはかられた。1957年モロトフら旧スターリン主義者を反党グループ事件で解任したフルシチョフは,首相を兼ね,61年には第2次スターリン批判を行うと同時に,新しい綱領で共産主義社会への前進をうたいあげた。しかし農政の失敗などで彼の指導の恣意(しい)性・主観主義を懸念した党幹部たちは,64年10月フルシチョフを解任し,ここに党務をブレジネフ(やがて書記長),首相をコスイギンに分掌させる集団指導体制が成立した。1960年代にはチェコスロバキアにおける改革運動〈プラハの春〉を武力介入で抑えるが(チェコ事件),スターリン復権にはふみきらなかった。
この間ブレジネフは指導者間の合意を形成しながら,特にデタント(国際緊張緩和)政策を中心に対米協調と経済協力を促進し,これに批判的な対抗者,P.E.シェレストやA.N.シェレーピンを失脚させ,75年にはヘルシンキ会議で第2次大戦後のヨーロッパの国際秩序を安定化させた。さらに〈発達した社会主義〉と全人民国家建設(全人民国家論)をめざしたブレジネフ憲法(1977)を公布した。また77年ブレジネフはソ連邦最高ソビエト幹部会議長ポドゴルヌイN.V.Podgornyi(1903-83)を失脚させてその地位につき,チェルネンコKonstantin Ustinovich Chernenko(1911-85)を政治局員に登用し,また80年コスイギン首相の死後はチーホノフNikolai Aleksandrovich Tikhonov(1905-97)を首相にするなど,ブレジネフの個人的権威は高まり,82年のスースロフの死去でこの傾向はいっそう強められた。しかし経済成長は止まり,また1979年末のアフガニスタン侵攻や戦略兵器制限交渉の棚上げにより対米関係が冷却化し,また〈連帯〉をめぐるポーランドにおける諸事件などで,労働者の前衛という党の正当性の根拠が問われる事態となった。1982年11月のブレジネフの死後,アンドロポフYurii Vladimirovich Andropov(1914-84)が党書記長となり,その病死により,84年チェルネンコが後を継いだ。
ペレストロイカ
1985年3月,チェルネンコの死後ゴルバチョフが党書記長となり,リガチョフ(党),N.I.ルイシコフ(首相),シェワルナゼ(外相)といった指導部が成立した。86年には第26回党大会でフルシチョフ時代の党綱領を改め,また〈ペレストロイカ(根本的改革)〉を打ち出し,改革の意志を明確にするとともに,〈グラスノスチ(公開性)〉の政策をとりはじめた。87年1月には政治改革を課題とするようになり,また〈歴史の見直し〉により,スターリンおよびブレジネフ時代への批判的立場を明確にさせた。とくに87年末にはエリツィンなどが急進的改革を要求し,いったん左遷された。88年6月に47年ぶりに第19回党協議会が開かれ,政治改革をいっそう明確な方針として提示し,またブハーリンらの死後の名誉回復など歴史の見直しを行った。政治改革では〈党と国家の分離〉が中心となった。また89年の人民代議員大会選挙では,急進的改革派として87年10月にリガチョフを批判して左遷されたエリツィンなど改革派が選挙で大勝した。
解党へ
1989年末の東欧革命は,国内での民族紛争,各国の主権化とともに,共産党のイデオロギー的・組織的解体を促した。ゴルバチョフは90年2月に一党制の放棄と大統領制の導入など,法治国家体制の強化を図ろうとしたが,逆に連邦制のもとでの主権共和国の台頭に脅かされた。90年6月の党大会では,共産党をより人道的に,かつ連邦制を考慮した仕組みに変えようとしたものの成功せず,91年8月,連邦維持派というべきヤナーエフ,クリュチコフらの〈国家非常事態委員会〉のクーデタ(8月クーデタ)が生じ,これが失敗したのち,ゴルバチョフは書記長を辞任して共産党の解散を勧告し,党は事実上解党した。ちなみに,エリツィン・ロシア政権は国家党としての共産党を禁止するが(1991年7月,11月),その後旧共産党系グループは,92年の憲法裁判所判決で結社の自由が認められてから,エリツィン政権への反対派としてロシア連邦共産党(1993年発足,党首ジュガノフ)をはじめ共産党グループを再建している。
なお,ソ連共産党の国際的な諸問題との関連については〈共産党〉〈コミンテルン〉などの項目を,また国内の諸問題との具体的なかかわりについては,まず〈ソビエト連邦〉の項目を,それぞれ参照されたい。
執筆者:下斗米 伸夫
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報