イギリスの哲学者。エジンバラに郷紳(ジェントリ)の末子として生まれ、同地の大学を卒業。法律を学び商業にも従事したが、文芸の志強く渡仏。帰国後に主著『人性論』全3巻(1739~1740)を刊行。家庭教師や、遠縁のセント・クレーアJames St. Clair(1688―1762)将軍との知己による軍事への従事、フランス大使代理などの職も経験する。ロック、バークリーとともにイギリス古典経験論を代表し、その掉尾(とうび)を飾る。
ヒュームの哲学は人間学または人間本性の学であるが、それはロックに始まった内在的認識批判の立場と、ニュートン自然学の実験、観察の方法とを結合して、人間本性およびその根本原理と、それに依存する諸学の基礎づけを行うことにあった。人間精神の基本的単位は「印象」と、力と生気においてそれに劣る、印象の再現としての「観念」であり、ヒュームは両者を「知覚」と総称し、その源泉として感覚と反省の別をこれに交差させる。原則として観念はそれに先行する印象を基礎にもつが、印象の原因は未知である。知識は観念の連合から成り立ち、連合原理の解明には、ニュートンの万有引力の法則に比すべき人間本性の根本原則としての三つの自然的関係(類似、接近、因果)と、さらに、想像による前記の自然の結合でなく、空想による任意の比較・結合を許す七つの哲学的関係(類似、同一性、時間・空間関係、量または数と性質の程度、反対、原因と結果)の考察が重要だが、ヒュームの因果批判はとくに著名で重要である。因果関係とは、2対象の接近、継起と恒常的連接に基づき、その必然性は、前記の3契機に由来する習慣から生まれた信念に根ざす主観的な「心の決定」の所産にすぎない。物体的実体も知覚の習慣的結合による集合体であり、外界の連続的実在も対象の同一性も想像の虚構の産物である。
また、バークリーが唯一の実体として認めた精神も「知覚の束」「いくつもの知覚が次々に登場する一種の劇場」にほかならない。したがって、ヒュームの理論哲学は、反面に根強い自然主義を伴いながらも、一種の懐疑主義を帰結し、カントを理性論の独断のまどろみから覚醒(かくせい)させることとなった。『人性論』の2、3巻が情念論、道徳論であることからも明らかなように、実践哲学もヒュームの人間学の重要な対象であった。情念論では、自負、自卑、愛、憎の4基本情念を中心に情念の発生的説明が行われ、道徳論では、道徳的是認・否認が事実や関係に理性的に根づかず、「理性は情念の奴隷」という句が象徴するように、愛憎の変形としての自然な道徳感情に由来すると主張される。だが、彼は社会への有用性という功利主義的尺度を一部とする徳の源泉や「共感」sympathyを道徳的評価の基準にあげ、さらに、感情や共感等の主観的契機を普遍的にする「一般的観点」を不可欠と考えて道徳感覚学派を超えた立場を示す。また、利己心以外に利他心の存在を認めて反ホッブズ的態度を示すが、正義の徳を人為的と考える。
政治・法思想でもヒュームはホッブズ的自然状態やロック的契約説を批判し、社会・国家の自然主義的発生を説く。宗教論では理神論や自然宗教の立場を継承しながらも、宗教の自然史的説明や目的論的神観の批判を試みた。著作に『人間知性・道徳原理の探究』(1748、1751)、『道徳・政治論集』(1741~1742)、『英国史』(1754~1761)、『宗教の自然史』(1755)、遺稿に『自伝』(1777)、『自然宗教についての対話』(1779)などがある。
[杖下隆英 2015年7月21日]
『古賀勝次郎著『ヒューム体系の哲学的基礎』(1994・行人社)』▽『杖下隆英著『ヒューム』(1994・勁草書房)』▽『泉谷周三郎著『ヒューム』(1996・研究社出版/新装版・2014・清水書院)』▽『斎藤繁雄著『ヒューム哲学と「神」の概念』(1997・法政大学出版局)』▽『神野慧一郎著『ヒューム研究』新装版(1998・ミネルヴァ書房)』▽『古賀勝次郎著『ヒューム社会科学の基礎』(1999・行人社)』▽『ジル・ドゥルーズ、木田元・財津理訳『経験論と主体性――ヒュームにおける人間的自然についての試論』(2000・河出書房新社)』▽『神野慧一郎著『我々はなぜ道徳的か――ヒュームの洞察』(2002・勁草書房)』▽『ジル・ドゥルーズ、アンドレ・クレソン著、合田正人訳『ヒューム』(ちくま学芸文庫)』
北アイルランドの政治家。イギリス領・北アイルランド和平の立役者で1998年のノーベル平和賞受賞者。北アイルランド・ロンドンデリー生まれ。アイルランド国立大学卒業。イギリス軍、プロテスタント勢力、カトリック勢力が争いを続けている北アイルランドにおいて、1970年、カトリック穏健派、社会民主労働党(SDLP)の創設に参加。1979年党首就任。1983年イギリス下院議員。1980年代後半から、カトリック過激派組織アイルランド共和軍(IRA)の政治組織シン・フェイン党の党首ジェリー・アダムズとひそかに接触を開始。プロテスタント系住民との共存を説いた。1993年にそれが発覚した際には、「テロ組織に手を差し伸べた」として党内外から批判を浴びたが、結果的には、シン・フェイン党をプロテスタント側との和平交渉の席につかせるきっかけをつくった。1998年4月、プロテスタント系最大政党「アルスター統一党」の党首デービッド・トリンブルらとともに北アイルランド和平合意に署名。しかし、心労などで健康を害し、和平合意に基づき発足した北アイルランド自治政府の閣僚には加わらなかった。2001年秋、健康問題を理由に党首を辞任し、2004年2月政界からの引退を表明した。
[尾関航也]
スコットランドの判事、哲学者。家庭教師から教育を受けたのち、科学・哲学・法律などの研究に専念し、『1716年から1728年に至る高等民事裁判所の見事な判例』(1728)によって才能が認められる。1752年にはケームズ卿(きょう)の称号を受け、1763年に高等法院判事となる。アマチュアの農学者としても知られ、自ら庭園を設計。文学が人間の精神内部に引き起こす具体的・生動的イメージ、一種の夢想、有徳の共感的情動などを考究した『批評原論』Elements of Criticism(1762)はドイツ語訳(1763~1766)を含め40以上の版が出版され、アメリカでは19世紀末に至るまで修辞学の教科書として用いられた。
[相沢照明 2015年7月21日]
『William C. LehmannHenry Home, Lord Kames, and the Scottish Enlightenment (1971, Martius Nijhoff, New York)』
イギリスの批評家。スタッフォードシャーの生まれ。ケンブリッジ大学を1904年に退学処分となったあと、第一次世界大戦直前にはベルリンで学んだこともある。08年ロンドンで「詩人クラブ」を、ついで10年ごろから芸術家の小さなサロンをつくり、指導者として影響を及ぼしていたが、大戦勃発(ぼっぱつ)とともに志願入隊して渡仏、17年に戦死した。詩の「イマジズム」運動に加わったことがある。ヒューマニズム、自由主義、ロマン主義に反対して、宗教的態度、古典主義を唱えた。死後出版された『思索集』(1924)によって一躍広く世に知られ、当時の新しい文学運動に理論的根拠を与えた。これと『続思索集』(1955)が彼の全著作である。
[戸田 基]
『長谷川平訳『ヒュマニズムと芸術哲学』(1953・宝文館。原題『思索集』の全訳)』
イギリスの政治家。オックスフォード大学を卒業。1931年保守党下院議員となり、ネビル・チェンバレン首相の秘書などを務めた。1951年父の後を継いで伯爵となって上院入りし、連邦関係相、外相などを歴任。1963年爵位を捨てて首相の座についた。外交は得意であったが、内政、とくに経済問題についての力量に疑問をもたれたまま、1964年の総選挙で敗北、翌1965年ヒースに保守党党首の位置を譲った。1970~1974年のヒース内閣で再度外相を務めたのち、引退した。
[木畑洋一]
18世紀のイギリスを代表するスコットランド出身の哲学者。その多面的な思考活動のうち,従来は,懐疑論に基づく独断的形而上学批判,宗教現象の実証的分析,社会契約説批判,歴史主義的思考態度などの側面がとくに注目されてきたが,最近では,むしろA.スミスやスコットランド啓蒙思想(スコットランド学派)との関連を重視する立場から,近代〈市民社会〉の存立メカニズムを経験科学的に解明した思想家として評価しようとする傾向が有力になっている。
ヒュームはスコットランド南東部ベリクシャーのナインウェルズに生まれた。父親はジェントリー階層に属する弁護士であり,母方の祖父もスコットランド高等法院長の重責をになう法曹であった。1723年からほぼ2年間,エジンバラ大学で古典とともにロックやニュートンの〈新しい学問〉を学ぶ。18歳ころ,おそらく神の存在を因果律によって論証する伝統的立場への深刻な疑問を媒介として〈思想の新情景〉を経験し,以後ヒュームは,ニュートンの自然学とロックの認識論とを主たる導きの糸としながら〈真理への一つの新しい手段〉の探究に着手することになる。その最初の成果が,34年から37年まで滞在したフランスで執筆され,39年と40年とにロンドンで出版された《人間本性論》であった。その後精力的な執筆活動を続け,41年から62年までに,《人間本性論摘要》《道徳・政治論集》《人間知性研究》《政治論叢》《イギリス史》や,〈宗教の自然史〉を含む《小論文四篇》などを次々と刊行,思想家としての地位を不動のものとする。しかしその間,伝統神学に否定的な宗教思想のゆえに,エジンバラ,グラスゴーの両大学から教授就任を拒否され,職業的学者になる機会を失う。46年から48年にかけてセント・クレア(シンクレア)将軍の大陸遠征に随行。52年エジンバラ法曹会図書館司書,63年駐仏大使ハートフォード卿秘書,65年には代理大使を務める。66年ルソーを伴って帰国し保護に努めるが,ルソーから誹謗の張本人と誤解され確執に悩む。67年国務次官の職に就いた後,69年以降はエジンバラに定住,指導的文筆家として満ち足りた晩年を送る。宗教思想上の主著《自然宗教をめぐる対話》が刊行され,ヒュームの思想の全貌が明らかになったのは,死後3年を経た79年のことであった。
こうした経歴の中で形成されたヒュームの思想は多様な主題を扱っており,統一的な理解は必ずしも容易ではない。しかしヒュームが全体として何を意図したかに注目する限り,彼の思想に一貫する関心は比較的明瞭である。人間が営む日常的な経験世界の〈観察〉を通して確実な〈人間性の原理〉を解明し,その〈人間の学〉の上に〈諸学問の完全な体系〉を確立しようとの意図がそれであって,処女作《人間本性論》で宣言されたこの立場こそ,ヒュームの全思考活動を貫く方法であり目的であった。標語〈人間的事象moral subjectsに実験的推論方法experimental method of reasoningを導入する試み〉とともに有名なこうした意図との関連において,ヒュームの思想は包括性,実証性,歴史性の三つの大きな特質をもつことになる。
上にみたように,ヒュームの思想の対象は,所与としての人間が営む経験的世界であった。したがってその思想は,この経験世界を構成する多様な人間的事実,端的に,知性,情念,道徳感情をもち,政治,宗教,学芸を営む全人間的事象を覆う包括性を帯びざるをえない。その意味で,ヒュームの思想の包括性は人間的事象の多様性に対応するものであった。しかも,ヒュームの場合,そうした全人間的事象からの帰納によって導かれる〈人間性の原理〉や〈諸学問の体系〉は,いっさいの抽象的独断や先験的実体化を拒否する実証性をもつことになる。〈経験と観察〉を重視するヒュームにとって,それらの知識は,原理上経験の範囲を超えることはできず,したがってまた経験的事実による検証に耐えうるものでなければならなかったからである。
ヒュームの思想を貫くそうした実証性は,例えば,彼の懐疑論が経験的事実としての人間の可謬性の認識論的反省として成り立ち,それによって,常識的な経験知への信頼の上に習慣的な観念の連合に高い蓋然性を与える視点が導かれ,人間本性に付随する道徳感情に即して道徳の事実学が展開された点からうかがうことができるであろう。しかも,こうした実証性の系として,ヒュームの思想は豊かな歴史性をもつことになる。彼の思想の対象が時間的に限定された所与としての経験世界であった限り,それはまた,人類の多様な経験がいわば重層的に蓄積された歴史世界以外の何物でもなかったからである。ヒュームにおいて,国家の歴史的起源が共通利害の一般的な感情の事実性に求められ,多神教から一神教へと発展した宗教の〈自然史〉が解明され,歴史の動態の中で国家から自立した〈社会civil society〉の運動法則が私的利害を公共善へと媒介する〈共感〉の作用に見いだされている事実は,ヒュームの思想がいかに強く歴史性に貫かれているかを示すものにほかならない。しかも,こうした実証的な歴史的性格のゆえに,ヒュームの思想は,イギリス経験論をロック的な内観の哲学から経験科学の基礎学へと大きく転回させることになった。ヒュームの関心は人間が営む多様な経験的現実の存立構造に向けられていたからであって,〈在るところのもの〉の了解の哲学として一見保守的なヒュームの思想の積極的意義はまさにそこに求められるであろう。ヒュームとA.スミスとの関係が問われるゆえんにほかならない。
執筆者:加藤 節
イギリスの批評家。反ロマン主義の姿勢を強固に主張し,保ったことで知られる。1904年ケンブリッジ大学を放校され,独学ののち,カナダやベルギーを放浪。ロンドンに戻って〈詩人クラブ〉を創立するが,09年脱会して文学サロンを開き,イメージの明確な短詩を発表,〈イマジズム〉創始の一端を担う。H.ベルグソンの知遇を得て,彼の哲学を信奉,《形而上学序説》の英訳を出し,またG.ソレルの《暴力論》の英訳も出版。第1次大戦勃発とともにフランス戦線に従軍,17年戦死する。短い生涯を通じて,ロマン主義,ヒューマニズム,自由主義のなまぬるさ,楽観主義に抵抗して,外界との断絶を前提とする宗教的姿勢,古典主義を標榜した。彼の理論ではこうした現実の峻拒が抽象的な芸術衝動と結びつくことになる。著述は死後H.リード編《思索集》(1924)にまとめられた。そこにはW.ウォリンガーの影響が濃いが,T.S.エリオット,エズラ・パウンドらの作品とともに,モダニズム成立のために大きく貢献した。その他の遺文集は《続思索集》(1955)としてまとめられた。
執筆者:出淵 博
イギリスの政治家,社会改革者。1849年ベンガル文官としてインドに渡り,94年まで滞在。この間,収税・農務長官などのインド政庁の要職を歴任するが,植民地行政をめぐりしばしば本国政府の意向と対立した。また婦人の教育問題など社会改革の分野でも幅広い活躍をしたが,政治権力を奪われているかぎり社会改革は徒労という考えから,インド国民会議派の創設と発展に尽力した。
執筆者:四宮 宏貴
イギリスの保守党政治家。1931年下院に入り,37-39年A.N.チェンバレン首相秘書。51年スコットランド相,55年イギリス連邦関係相,60年外相を歴任,63年部分的核実験停止条約に調印した。14代ヒューム伯爵として51年以来上院議員であったが,マクミラン辞職に伴い,63年爵位を返上し下院より首相に就任した。翌年総選挙に敗れて辞任,65年ヒースに党首の座を譲った。
執筆者:池田 清
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1711~76
イギリスの哲学者,歴史家。エディンバラの生まれ。主著は『人性論』『人間悟性論』『イングランド史』など。その哲学はロックの経験論を深め,カントに影響を与えた。
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…また,自動車排気中の汚染物質が太陽光線の作用をうけて生成する白いスモッグをロサンゼルス・スモッグといい,55年の夏には300人以上の死者を出したという。このような大気汚染で問題になるのは粒径が10μm以下の浮遊粒子状物質で,ダスト,ヒューム,ミストに分類される。ダストは固体粒子,ヒュームは凝縮固体粒子,ミストは液体粒子である。…
…1910年代,エズラ・パウンド主唱の下に起こった英米の自由詩運動。1909年3月,反ロマン主義の詩論家T.E.ヒュームは,〈詩人クラブ〉を脱会して,仲間の詩人たちと毎週,ロンドン市内のソーホー地区の安レストランに集まり,フランスの象徴詩や日本の俳句にヒントをえて,イメージを重んじた自由詩の実験を試みた。この集りは1年ほどしかつづかず,彫刻家から社会運動家までを含む広範な社交の集りに変わってしまった。…
…他はイギリス人官吏のリベラルな部分であった。この流れを背景に,A.O.ヒュームら退職官吏,すでにイギリスで活動していたD.ナオロージーらが尽力して創設したのが国民会議派で,前記協議会も86年以降これに統合された。 こうした背景から,初期の国民会議派はきわめて限られた階級・階層の利害を代弁する穏健な組織で,しばしばイギリス統治の安全弁といわれた。…
…多くの場合,大陸合理論と呼ばれる思想潮流との対照において用いられる哲学史上の用語。通常は,とくにロック,G.バークリー,D.ヒュームの3人によって展開されたイギリス哲学の主流的傾向をさすものと理解されている。通説としてのイギリス経験論のこうした系譜を初めて定式化したのは,いわゆる常識哲学の主導者T.リードの《コモン・センスの諸原理に基づく人間精神の探究》(1764)とされているが,それを,近代哲学史の基本的な構図の中に定着させたのは,19世紀後半以降のドイツの哲学史家,とりわけ新カント学派に属する哲学史家たちであった。…
…われわれが経験の中に見いだすことができることは,事象Aが起こった,そしてそれにひき続いて,事象Bが起こった,ということのみである。そこでヒュームは,因果関係から〈ひき起こす〉とか〈力〉とかいう概念を排除し,それは〈恒常的連接〉という関係にほかならないとした。すなわち,事象Aと事象Bの間には因果関係がある,ということは,事象Aが起こればつねにそれに伴って事象Bも起こる,ということにほかならない,というのである。…
…近世においては,ルネサンスの豊かな思想的混乱の中で懐疑思想も復活し,伝統的な思想や信仰を批判する立場からも,逆にそれを擁護する立場からもさまざまなニュアンスの懐疑論が主張されたが,その中でもモンテーニュのそれはたんに否定的なものにとどまらず生を享受する術となっている点で,またパスカルのそれはキリスト教擁護の武器として展開されているにもかかわらず作者の意図を越えて人間精神の否定性の深淵を垣間見させてくれる点でそれぞれ注目に値する。なおD.ヒュームはしばしば懐疑論者のうちに数えられ,彼に刺激を受けたカントについても懐疑論との関係で論じられることもある。不可知論【塩川 徹也】。…
…しかし,他方で彼は精神を唯一の実体と認め,しかも究極的にはそれを神と考えて被造物によって知覚されていないときの観念の原型を神の心の中に永遠に存在するとみる,新プラトン派的な万有在神論の一面をも見せた。バークリーに続くヒュームは,心の対象を知覚と命名し,それを印象と観念とに二分したが,前者は外的感覚から得られた直接の与件であり,後者は記憶,想像におけるその再生であるが,さらに,前者から直接的にか,後者から間接的に心の中に生じるのが反省の印象だとする。観念と印象との差は力と生気の点で後者が前者にまさることに求められる。…
…観念連合説の古典的形態は古くから見られるが,顕著な代表例は近代イギリス経験論で,ホッブズ,ロックらにも発見される。しかし,たとえば,ロックなどのまだ消極的な傾向とは別に,観念連合に積極的な意義を与えたのはヒュームである。彼は観念間の関係として三つの自然的関係,すなわち,類似,接近,因果を考える。…
…啓蒙の認識論のスタンダードを定めたといってもよいロックの経験論から,さらには自然科学的説明方式の力により全面的に依拠したドルバックらの唯物論,人間機械論の哲学にいたるまで,この動向をぬきにしては考えられない。ロックの経験論は,イギリスでは,ヒュームの懐疑論にまで徹底され,またフランスに移植されてコンディヤックの感覚論を生む。ロックやコンディヤックにおいて,エピクロス,ストアの哲学から中世の唯名論を通じて受け伝えられた記号学ないし記号論の発想には,その後今日に通じる新たな展開をみせていることをはじめ,多くの注目すべき点がある。…
…われわれの認識の対象は知覚的現れ,すなわち〈現象〉の範囲に限られるとする哲学的立場。ヒュームにおいて一つの明確な哲学的主張となって現れ,現代の経験主義に受け継がれている。実在論が意識から超越した実在を認めるのに対し,現象主義は意識内在主義の立場を取り,世界および自我を〈知覚現象の束〉として説明する。…
…彼はこれを立法の原理とすることによって,従来の政治が曖昧な基礎にもとづく立法に依拠していたのをただそうとしたのである。〈功利utility〉という語はすでにヒュームの《人間本性論》(1739‐40)で用いられており,幸福(快楽)をもたらす行為が善で不幸(苦痛)をもたらす行為が悪だとする考えは,常識のなかには存在していたといえるが,ベンサムはそれを学問的な原理に高めようとしたのである。そして〈最大多数の最大幸福〉という原理は,個人の利害と一般の利害とを合致させることをめざしている。…
…心が固有の精神現象であるなら,その成立ちや機能を改めて考える必要があり,17世紀後半からの哲学者でこの問題に専念した人は多い。心を〈どんな字も書かれていず,どんな観念もない白紙(タブラ・ラサtabula rasa)〉にたとえた経験論のロック,心ないし自我を〈観念の束〉とみなした連合論のD.ヒューム,あらゆる精神活動を〈変形された感覚〉にすぎないと断じた感覚論のコンディヤックらが有名で,こういう流れのなかからしだいに〈心の学〉すなわち心理学が生まれた。ただし,19世紀末までの心理学はすべて〈意識の学〉で,心の全体を意識現象と等価とみなして疑わなかった。…
… 近世においては,例えばデカルトは,想像力による数学的命題の証明を否認しながらも,それが純粋知性の洞察を形象的に直観化してくれるところから,想像力を知性の不可欠な補助手段とみなしている(《省察録》)。D.ヒュームも,〈想像のほとばしりほど理性にとって危険なものはない〉としながら,他方では〈想像力の一般的でより確定した特質〉が悟性にほかならないともいっている(《人性論》)。これらには,ともに,想像力に含まれる矛盾した諸契機を調停しようとする努力が見られる。…
…なお,〈である〉と〈べし〉の区別はしばしば〈存在〉と当為の区別として表現されるが,この場合の〈であるsein,is〉は存在ではなく特定の判断様相を表現しており,〈である〉判断は狭義の存在判断(〈黒い白鳥が存在する〉)だけでなく,全称判断(〈すべての白鳥は白い〉)や単称判断(〈この白鳥は白い〉)も含む以上,当為に〈存在〉を対置する用語法は不正確であり,避けたほうがよい。 方法二元論の基本的発想は古代ギリシアのソフィストにおけるノモス(人為的秩序)とフュシス(自然)との区別の内にすでに見られるが,当為判断が〈である〉判断から論理的に演繹しうるかという問いを明示的に提起した最初の重要な哲学者はヒュームである。しかし,ヒューム自身が方法二元論にくみしているか否かはヒューム解釈上論争がある。…
… 人間的諸事象の探求は,もちろん古くから行われたが,西欧近世になって自然科学が発展するとともに,とくに18世紀のイギリスやフランスで,自然科学の方法を人間的諸事象にも適用して探求することが試みられるようになった。たとえばD.ヒュームは,旧来の道徳哲学moral philosophyに代わって,モラルの領域(社会を含む人間の諸活動)に自然科学の方法を適用する〈人間の学science of man〉を主張し,あるいはサン・シモンは,生理学と心理学を基礎に人間精神の進歩の歴史(社会理論)を探求する〈人間科学〉を構想した。このころにはすでに,ルネサンス以来の〈人文学humanities〉の継承発展のなかで,文献学(言語学)や心理学や民族誌的な研究も発展するとともに,市民社会の〈解剖学〉としての経済学もその探求領域を確立していたが,生物学,生理学,解剖学,医学などの発展とあいまって,〈人間〉を対象とする諸科学の総合としての人間科学の確立への関心がいっそう高まった。…
…18世紀イギリスを代表する哲学者D.ヒュームの主著。《人性論》とも訳される。…
…このように,民主主義を統治の一形式ととらえ,しかもそれを否定的にしか評価しないという考え方は,その後近代にいたるまで,ヨーロッパ各国の統治構造が例外なく王政的ないし貴族制的であった事実と対応して,少なくとも18世紀末まで,ほとんど揺るぎのない共通の了解であった。たとえば,18世紀中ごろにD.ヒュームが,統治の基礎を無定見な人民の同意に求めることは,結局,専制への道を開くと論じ,またモンテスキューが,民主主義を作動させる原動力は人民の徳性にあると論じながら,しかもそうした徳性は少なくとも同時代には存在しないと判断したことなどは,いずれもこうした了解の例証にすぎない。今日みられるように,民主主義がプラスの価値として自明化したのは,19世紀中を通じて戦われた,それまで政治の世界から排除されてきた民衆による権力参加,または権力奪取の激烈な運動と,その帰結である20世紀前半における各国での普通選挙制実現以後のことである。…
※「ヒューム」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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