精選版 日本国語大辞典 「ピカソ」の意味・読み・例文・類語
ピカソ
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スペインの生んだ20世紀最大の芸術家。キュビスム創始の中核となることによって、以後の現代美術のすべてに計り知れないほどの影響をもっただけでなく、初期から晩年に至るまでの制作の各時期に、それぞれきわめて独自な様式と美学を提示し、無数の名作を残している。さらに水彩、素描、版画、舞台装置、タペストリーやステンドグラスの下絵、壁画など驚くべき多面的な活動をし、過去のどのような画家をもはるかにしのぐ作品量(総数は8万点を超えると推定される)を示した点でも破格の存在である。
1881年10月25日、マラガの美術工芸学校の教師ホセ・ルイス・ブラスコを父として生まれる。母はマリア・ピカソ・ロペス。早くから絵を好み、8歳で最初の油彩を描いている。91年、父はコルーニャの美術学校に転勤し、ピカソもこの学校に学び、ついで95年の父のバルセロナ、ラ・ロンハ美術学校への移動とともに彼もここに移り、翌年同校を卒業。98年にはマドリードのサン・フェルナンド・アカデミーに学ぶがまもなく退学した。いわゆるカタルーニャ・ルネサンス、アール・ヌーボーの時期のバルセロナでの青春は、絵画のうえでも、人間形成のうえでも、ピカソにもっとも大きな影響を及ぼしたと思われる。
1900年、ピカソが常連であった「四匹の猫」で最初の個展。この年の暮れ、最初のパリ滞在。翌年、二度目のパリ滞在。それまでロートレック風の主題、技法で歓楽街の女や芸人を描いていたピカソの作風に、この年、新しい明確な特徴が現れる。青を主調とし、貧しい人々、肩をすくめ肩を寄せ合って生きる人々を描く作品群の開始で、01~04年の「青の時代」である。
1904年ピカソは四度目にパリに出て、有名なモンマルトルの集合アトリエ「洗濯船」の住人となり、すでに知り合っていたマックス・ジャコブをはじめ、アポリネール、ドラン、アンドレ・サルモンらとの交友が始まる。そして05年ごろから、青の作風にバラ色やより鮮明な色彩が加わり、人物たちの姿勢にも柔らかさが生まれる。主題的には旅芸人が多く描かれ、「青の時代」と異なり、静かな優しさ、愛がテーマとなる。いわゆる「ばら色の時代」、ときには「サルタンバンクの時代」とよばれる05~06年の作風である。
1906年ごろからイベリア彫刻、アフリカ彫刻の影響がしだいに現れ、06年の夏にスペインの村ゴソルで過ごした時期を契機としてプリミティズムへの転進が始まり、その成果が07年のキュビスム最初ののろし『アビニョンの娘たち』として結晶する。キュビスムの探求は、この年出会ったブラック、のちには同郷の後輩フアン・グリスたちとともに第二次世界大戦前後まで続く。ピカソ自身は参加しなかったが、11年のアンデパンダン展でのキュビストたちのデモンストレーション以来、この新しい美学と手法は現代美術に決定的であった。
キュビスムの手法はその後もとくに1920年代まで断続的に現れるが、1917年にコクトーとともにイタリア旅行をしたこと、ロシア・バレエ団のバレリーナ、オルガ・コクロバに出会ったことが、彼の作品に写実主義的な傾向を生み出させている。18年にはオルガと結婚、そして第一次大戦後の19~24年には「新古典主義の時代」とよばれる作風が生まれる。南フランスでの生活、オルガとの愛、21年の長男ポールの誕生、大戦後の人間性回復を求める一般の人心などが、この新しい作風の背景にある。堂々とした量感を誇る肉体、明確なアングル風の輪郭線、明るい色彩と表情、躍動感などがこの作風の特徴である。
ついで1925~32年ごろの作風を「メタモルフォーズの時代」などとよぶ。シュルレアリスムとの接触、ブルトン、エリュアール、ミロたちとの接触によって内面的な世界の表現が、すでにキュビスムによって変形されている形態に、いっそうのゆがみを与える。この時期オルガとの結婚生活が不安定なものとなり、若い愛人マリ・テレーズに出会ったことが、彼の心理状態を屈折させたことも事実である。28年には彫刻家フリオ・ゴンサレスとの出会いから彫刻に興味をもち、裸婦像に動物的形態を接合させた一連の『メタモルフォーズ』と題した彫刻を制作している。
1932~37年には、闘牛、ミノタウロス、両者を接合させた「ミノタウロマキア」などのテーマが多く描かれる。ナチスの台頭によるヨーロッパの不安、故郷スペインでの、やがてゲルニカの爆撃に至る政治的抗争などがその背景になる。36年の人民戦線の勝利のあと、ピカソはマドリードのプラド美術館館長に任命されている。『フランコの夢と嘘(うそ)』の版画連作(1937)、パリ万国博覧会スペイン館のための壁画『ゲルニカ』(1937)がこの「ミノタウロスとゲルニカの時代」を象徴する。
第二次大戦中はパリ、ロワイヤン、そしてパリと居を移し、暗い、なかば軟禁に近い生活のなかで室内や静物を描く。牝牛(めうし)の頭蓋(ずがい)骨の静物がとりわけ象徴的である。1944年のパリ解放後、共産党に入党したピカソは政治的な季節を迎え、「戦争と平和」のテーマへの関心が持続する。51年の『戦争と虐殺』、52年のバローリスの礼拝堂の壁画『戦争と平和』がその決算である。
すでに1940年代なかば過ぎから、ピカソの制作にはしだいに自由な明るさ、遊戯性が現れていたが、50年代以降、晩年の多産な年月となる。版画、陶芸への熱中、マネの『草上の昼食』やベラスケスの『ラス・メニーナス』による翻案の連作、描くとは何かを自問した『画家とモデル』のテーマ、クロード、パロマ、マハたち子供を描く作品など、大量の造形が生み出された。そして73年4月8日、南フランス、ムージャンにおいて91歳の多産な生活は閉じられた。
大量の作品は、世界各地の美術館、個人に所蔵されているが、バルセロナおよびパリのピカソ美術館、「青の時代」の作品の多いモスクワのプーシキン美術館などがその代表的なもの。戯曲『しっぽをつかまれた欲望』(1941)などの著作も残されている。
[中山公男]
『神吉敬三編著『25人の画家19 ピカソ』(1980・講談社)』▽『『アート・ギャラリー12 ピカソ』(1985・集英社)』▽『H・L・ヤッフェ著、高見堅志郎訳『ピカソ』(1965・美術出版社)』▽『P・デカルグ著、中山公男訳『ピカソ――破壊と創造の巨人』(1976・美術出版社)』▽『J・ラミエ著、安東次男訳『ピカソの陶器』(1975・平凡社)』▽『飯田善国著『20世紀思想家文庫5 ピカソ』(1983・岩波書店)』
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1881~1973
スペイン生まれのフランスの画家。パリでブラックとともに立体派の運動を起こす。画風は多彩な発展を示し,両大戦間の時代に超現実主義をとりいれ,「ゲルニカ」などの作品を完成。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
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…美術では,題材つまり描写対象と素材・材料の両面の意味をもつが,ダダ以後,後者の面で既製品を含む異質な素材を導入した立体作品をさす,特殊な用語となった。その先駆は,未来派の彫刻家ボッチョーニが,1911年,多様な素材を合成して〈生の強度〉に迫るべく,毛髪,石膏,ガラス,窓枠を組み合わせた作品をつくり,ピカソがキュビスムの〈パピエ・コレ(貼紙)〉の延長として,12年以後,椅子,コップ,ぼろきれ,針金を使った立体作品を試みたあたりにある。デュシャンは13年以後,量産の日用品を加工も変形もせず作品化する〈レディ・メード〉で,一品制作の手仕事による個性やオリジナリティの表現という,近代芸術の理念にアイロニカルな批判をつきつけ,ピカビアの〈無用な機械〉と名づけた立体や絵画も,機械のメカニズムをとおして人間や芸術を冷笑した。…
… 20世紀の初頭,印象主義の諸特徴を温存しながらも自然の構造を概念的にとらえようとしたセザンヌの芸術への注目が,パリの若い画家たちの間に急速に高まった。ピカソが1907年に完成した《アビニョンの娘たち》を皮切りに,彼らは事物の細部や情緒的ニュアンスを捨てて,印象派の見失った対象の基本的形態や量感を強調する傾向を強めていった。ピカソとブラックが08年に開始した方法は,セザンヌの〈自然を球,円筒,円錐として処理する〉(エミール・ベルナールあての手紙。…
…ビスカヤ領の主都であった所で,中世カスティリャ王国の国王は,この町にある樫の木の下でビスカヤ領の特権擁護を宣誓した。平穏なこの町が,スペイン内戦でドイツ空軍の爆撃により破壊された(1937年4月26日)悲劇は,ピカソの同名の絵画により知られる。現在は再建され,フランコ体制時代に工業が急激に発展した。…
…彼女は東部の大学を出て,1902年パリに渡り,しばらくあとで同居するようになった女友達兼秘書のアリス・B.トクラスとともに,おもにパリ,第2次大戦後は南仏で一生を過ごし,講演旅行のほかはアメリカに帰ることがなかった。兄リオとともに,当時まだ有名ではなかったセザンヌを収集したのを手はじめに,以後親交のあったピカソに傾倒,彼を中心とするキュビスム(立体派)の諸家やH.マティスの作品などを,当時の誰よりも早く認めて収集した。そうした作品を壁一面に掛けた彼女の家は,長い間パリ在住の前衛芸術家や作家のサロンとなり,彼女の新しいものの見方,機知などが,多くの芸術家を引きつけ,育てた。…
…これらは一様にスペイン文化を評価し,さらに共和国陣営からの見聞であった。詩人ガルシア・ロルカの暗殺に関するセンセーショナルな話題の流布,ピカソの《ゲルニカ》をめぐる神話の創造などもこれにあたる。(5)諸外国の援助が戦いを長期化させた。…
…絵画を例にとれば,宗教画が圧倒的で,神話画は数えるほどしかなく,裸婦像にいたっては,ともに宮廷画家という特殊な立場にいたベラスケスの《鏡を見るビーナス》とゴヤの《裸のマハ》の2枚しか現存しないのである。しかし,こうした非ヨーロッパ的とさえ思える古さが,さまざまな文化原理や様式の混在と同様に,決してマイナス要因のみでないことは,すでに触れた美術現象や巨匠たち,さらにガウディ,ピカソ,ミロ,ダリといった19世紀から20世紀にかけての巨匠たちを想起すれば明らかであろう。文化の外縁性,境界性という情況に由来するさまざまな障害をプラス要因に変え,それらを新生の原理と融合させ,自己の感性に一致した偉大な創造を達成しうるのは天才のみであろう。…
… 18,19世紀を通じて,この対立は古典主義的傾向が起こる際にくりかえされたが,最終的には印象派のように素描をいっさい用いない芸術によって,自然模倣の手段としての素描の価値は失われたということができる。20世紀には,ピカソが素描の再興者であるが,それは自然模倣の手段としてではなく,自己表現の有効な方法としてであった。こののち,一般に芸術家は自己の思想の直截的表現の媒体として,簡素な手法である素材を求める傾向が強く,素描は自己表現のもっとも有効な手法として,予備段階的な制約を超え,独立した価値を主張するようになったといえよう。…
※「ピカソ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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