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ピューリタン革命 ピューリタンカクメイ

デジタル大辞泉の解説

ピューリタン‐かくめい【ピューリタン革命】

1642年に始まった英国の市民革命。チャールズ1世専制政治に反対したクロムウェルらのピューリタンを中心とする議会派が、1649年に国王を処刑して共和国を樹立。のち、クロムウェルは急進派を弾圧して議会を解散、独裁を行ったが、1658年、その死とともに共和国は崩壊、1660年には王政復古となった。清教徒革命。

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百科事典マイペディアの解説

ピューリタン革命【ピューリタンかくめい】

清教徒革命とも。1640年―1660年にわたるピューリタンを中心とする英国の革命。チャールズ1世のスコットランド失政を契機として,1640年長期議会が召集され,専制責任者の処罰,議会特権の確認,絶対王制の支配機構の打破などの改革が行われた。
→関連項目アイアトンアイルランドイギリスイギリス革命円頂党騎士党権利請願コモンウェルスジェームズ[1世]シドニー市民革命宗教改革ステーショナーズ・カンパニーダッドリーチャールズ[1世]ニューモデル軍ネーズビーの戦バッキンガム公パトニ討論ハムデン非国教徒ピムヒルフィルマーミルトンモンクルパート

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世界大百科事典 第2版の解説

ピューリタンかくめい【ピューリタン革命 Puritan Revolution】

17世紀のイギリスで生じた革命(1640‐60)。その過程でイギリスは一時,君主政が否定され共和政となった。清教徒革命ともいう。
[革命の前提]
 イギリスではチューダー朝最後の君主エリザベス女王の治世までに,農業,毛織物業,貿易などの分野で近代的な発展が着実に進行した。ことに女王が〈中道〉政策をとって英国国教会を確立させ,また基幹産業である毛織物の市場を確保するためにスペインに対抗する政策をとり,1558年来襲したその無敵艦隊を撃退したことによって,国民の間に自信が高まっていた。

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大辞林 第三版の解説

ピューリタンかくめい【ピューリタン革命】

1640~60年にイギリスで起こった革命。チャールズ一世の専制強化をめぐり宮廷と議会の間で内乱となり、ピューリタンを中心とする議会派(地方派)が王を処刑し共和制を施行。クロムウェルの革命独裁を経て、その死後王政が復活。清教徒革命。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

ピューリタン革命
ピューリタンかくめい

清教徒革命」のページをご覧ください。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

ピューリタン革命
ぴゅーりたんかくめい
Puritan Revolution

17世紀のなかば、イギリスに起きた内乱を伴う政治変革(1640~60)。清教徒革命ともいう。なお、わが国では、革命の期間を1642~49年、あるいは、1642~60年とする見方もある。しかし、革命の成果の多くが1640~41年に達成されたこと、1649年の内乱終了後も政治変革が続行されたことを考えるならば、長期議会の開始から王政復古までを革命の期間とみるのが妥当である。[小泉 徹]

原因

革命の原因は複合的なものであったが、直接的には、1630年代のチャールズ1世親政下でのロード、ストラッフォードらによる強権的な政治に国民各層の不満が高まったことにある。ことに船舶税など議会の同意を経ない課税の強行、星室庁および高等宗務官裁判所を通じての政治犯の弾圧などが人々の憤激を買った。しかしその背後には、ますます増大する行政費用をだれが負担するか、また宗教上の問題において最終的決定権をもつのはだれか、といった基本的な問題が横たわっており、それらの問題はすでに1620年代に争点になっていたのである。1621年に始まり1628年の「権利請願」に至る議会における論争がそれを示している。
 ところで、それよりも100年ほど前、ヘンリー8世(在位1509~47)は同様の財政問題に突き当たり、中小地主を中心とする議会の支持を背景として、宗教改革を実行し、修道院の財産を奪って、一時的にせよこの問題を解決していた。しかしその後、チューダー朝の君主は、エリザベス1世も含めてみなこの問題の根本的な対策を怠っていたため、17世紀になると、スチュアート朝の君主は問題の解決を迫られた。彼らは国王の封建的諸権利を盾に財政の立て直しを図ったが、結局その負担を背負うことになったのは、宗教改革の結果、修道院の財産を手に入れて上昇してきた中小地主層ジェントリであった。したがって結果としてみれば、スチュアート朝の国王は王政の最大の支持基盤を自ら掘り崩すことになり、このジェントリの離反こそが、スチュアート朝の命取りになったということができよう。[小泉 徹]

経過

革命の直接的きっかけは、1637年、チャールズ1世がスコットランドに国教会の祈祷(きとう)書と儀式を押し付けたことにある。スコットランドは当時ピューリタンの一派である長老教会主義を国教としていたためこれに反発し、イングランドとの戦争の準備を始めた。これに対して国王は自ら兵を率いて乗り込もうとしたが失敗し、戦わずして兵を引き揚げた。しかし戦費を補うために議会を開かねばならず、1640年4月、11年ぶりで議会が招集された。ところがこの議会は国王の政策を非難することに終始したため3週間で解散され、「短期議会」とよばれるようになる。その間、戦争準備を整えたスコットランドがイングランド北部に侵入、国王は賠償金の支払いを約束して和平を結び、その財源を得るべく同年11月には、ふたたび議会を招集せざるをえなくなった。「長期議会」とよばれるこの議会はただちに改革に着手し、3年議会法、議会の同意に基づかない課税に反対する法、星室庁および高等宗務官裁判所の廃止法など一連の改革立法を行った。これらの改革は、イギリス人が古来から有してきた神聖不可侵の権利を回復するものとして全会一致で決定されたが、1641年秋、アイルランドでのカトリック教徒の反乱が伝えられると、議会内改革派はよりいっそうの改革を推進するために、国王の悪政を列挙した「大諫議書(かんぎしょ)」を議会に提出した。しかし保守派がこれに反対したため、1641年11月、議会は王党派と議会派に分裂する。これをみた国王は翌年1月、議会に乗り込んでピムら議会派指導者を逮捕しようとしたが失敗し、ロンドンを離れて戦争の準備にとりかかった。こうして同年8月、両派の間で戦闘が開始される。戦闘は各州内部で入り乱れて戦われ、初期は王党派が有利であったが、しだいに訓練を積んだ議会派が巻き返し、1645年、クロムウェルの率いる「新型軍」New Model Armyの活躍によって、議会派はネーズビーNasebyで決定的勝利を収めた。
 しかし勝利を得た議会派内部で、改革の方向をめぐって対立が生じた。国王との和解を望む議会の主流派すなわち長老派と、軍隊の力を背景に徹底抗戦を主張する独立派との対立である。ところが両派の対立、駆け引きのうちに、王党派が反乱を起こし、第二次内乱となった(1648)ため、独立派は最左翼のレベラーズと結んで王党派を破り、政治の主導権を握った。そして実力をもって長老派議員を議会から追放し(プライドの追放、1648年12月)、国王を処刑(1649年1月)して、さらにレベラーズをも弾圧した。しかしこのようにして成立した共和政は強力な支持基盤をもたず、一方で有力ジェントリから見放され、他方で軍隊の圧力に抗しきれず、自己保身に終始した。
 このため独立派の指導者クロムウェルは、1653年4月、実力で議会を解散し、指名制の議会を招集して「聖者」による支配を行おうと試みる。クロムウェル自身は、軍幹部の用意した「統治章典」によって統治すべく「護国卿(きょう)」の地位についた。そして全国を最初11、のちに12の軍管区に分けて、それぞれに軍政官を置いて地方行政を担当させた。しかし、この支配はまったく支持基盤を欠いており、そのうえ軍政官には身分の低い者が多かったので、地方行政は麻痺(まひ)状態に陥った。この権力の空白状態のなかで王党派と議会派との事実上の和解が進行し、王政復古を望む声が高まってくる。1658年クロムウェルが死去すると共和政の存続は絶望的になり、1660年、スコットランド軍およびイングランド軍総司令官モンクが準備を整えて、チャールズ1世の子、チャールズ2世を王位に迎え、ここにピューリタン革命は終息した。[小泉 徹]

結果

王政復古の結果、共和政は終わりを告げたが、ピューリタン革命がすべて失敗に帰したわけではない。長期議会の初期に可決された改革立法の多くがそのまま認められ、イギリスの国制のなかに定着したからである。また宗教問題においても寛容の原則が認められ、しだいにイギリス社会に定着してゆく。また革命中に王党派から没収されて第三者の手に渡った土地も、ほとんどそのまま第三者のもとに残された。
 ピューリタン革命の全体像については今日さまざまな解釈がある。当時実際に戦った人々の意識のうえでは、それはカトリック反動を阻止するピューリタンの正義の戦いであった。しかし革命の主要な課題は宗教問題にとどまらなかった。ホイッグ史観に代表される19世紀の歴史学は、この革命を、国王の圧政に抵抗した議会が、ついに自らの権利を守り、輝かしいイギリス議会政治の基礎を固めたものと考えた。しかし革命の全期間を通じて、議会が主導権を握っていたのはわずかな時間にすぎない。また、この革命は新興の市民階級が封建的諸勢力を打倒した市民革命であるという見方もある。しかしだれが市民階級でだれが封建的勢力なのか、17世紀の世界のなかでそれを区別するのは困難である。またこの革命は17世紀中葉にヨーロッパ全域に現れた一連の内乱、「ルネサンス国家の危機」の一現象であるとする見解もある。しかしこの説明だけでは、なぜイギリスにおいてだけ「危機」がこのような経過をたどったのかは説明できない。
 このように多様な解釈のなかにあっても、いくつかの点は一致して認められている。すなわち、国王の封建的諸権利とそれに伴う機構が廃止された結果、イギリスでは事実上排他的所有権が確立し、農業の分野における資本主義の発展を、促進したとはいえないまでも、それを阻止する要因が除去されたということである。そして、その恩恵を被ったのがジェントリを中心とする土地所有者階層で、彼らこそが近代イギリス社会の担い手となったということである。したがってピューリタン革命は、結果として近代イギリス社会の一つの起点を形づくったということができるであろう。(書籍版 1988年)[小泉 徹]
『浜林正夫著『増補版イギリス市民革命史』(1971・未来社) ▽今井宏著『イギリス革命の政治過程』(1984・未来社) ▽R・C・リチャードソン著、今井宏訳『イギリス革命論争史』(1979・刀水書房)』

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世界大百科事典内のピューリタン革命の言及

【イギリス】より

…それ以前のイギリスは,ユーラシア大陸の辺境に位置した後進的な存在にすぎず,大陸諸国の圧力のもとで国民国家としての自立の道を模索していた。17世紀のイギリス革命(ピューリタン革命名誉革命)を契機にして,イギリスはそれまでの大陸諸国に〈学ぶ〉立場から,模範として〈学ばれる〉立場に変わった。日本がイギリスとの本格的な交渉を開始した時点が,ビクトリア女王のもとでイギリスが最も隆盛を謳歌した時期であったことが,日本のイギリス像に影を落としつづけたといえよう。…

【エリザベス時代】より

…彼と同時代またはその後の劇作家には,風刺喜劇の型を確立したベン・ジョンソン,ロンドンの民情を背景にメロドラマを多作したトマス・デッカー,高揚された詩的表現を用いて迫力に富む流血悲劇を作り上げたジョン・ウェブスター,冷徹皮肉な人間性の観察者トマス・ミドルトン,純化された情念の輝きを耽美的に追求したジョン・フォードなどがいる。彼らの作品は移り変わる観客の嗜好と人気の波にもまれつつ,時に10に及ぶ数の劇場で上演され続けたが,ピューリタン革命勃発後の1642年にロンドン中の劇場が閉鎖されることになって,エリザベス朝演劇はその幕を閉じた。なお,こうした大衆演劇とは別に,おもに宮廷や貴族の邸宅でしばしば上演された仮面劇もまた,この時代に完成を見たもう一つの演劇的ジャンルとして,無視することはできない。…

【ジェントルマン】より

… ジェントリーの勃興については,学説上二つの対立する主張がある。一つは,宗教改革からピューリタン革命に至る1世紀間には,おりからのインフレによって,伝統的な固定地代を徴収する貴族が没落したのに対し,競争地代を徴収し,毛織物その他のマニュファクチュア経営,石炭業などをも展開した資本家的なジェントリーが急速に勃興したというR.H.トーニーの主張である。これに対して,そのような事実は存在せず,貴族であれ,ジェントリーであれ,宮廷内に官職を確保しえた一族つまり〈宮廷派〉は勃興し,それができなかった一族〈カントリー派〉は没落を余儀なくされたとするH.R.トレバー・ローパーの学説が対立,〈ジェントリー論争〉の名を与えられている。…

【大英帝国】より

…カリブ海の西インド諸島でも,バルバドスなどに早くから拠点が築かれた。しかし,〈旧帝国〉の枠組みが確立したのは,ピューリタン革命期で,クロムウェルによるアイルランド征服,ジャマイカ占領,東インド会社改組などがなされたうえ,重商主義的植民地政策の基礎をなす航海法の体系も整備された。王政復古(1660)後,3度にわたる対オランダ戦争に勝利したイギリスは,名誉革命以後,ファルツ(アウクスブルク同盟)戦争,スペイン継承戦争,オーストリア継承戦争,七年戦争という四つの対フランス戦争を通じて北アメリカの東半部,アイルランド全域等からなる〈旧帝国〉を完成する。…

【チャールズ[1世]】より

…ピューリタン革命で処刑された,イギリス・スチュアート朝の国王。在位1625‐49年。…

【土地改革】より

…なお,日本については〈農地改革〉,東欧諸国については各国名の項目,発展途上地域については〈ラテン・アメリカ〉などの項目を参照されたい。
【イギリス,フランス,ドイツ】

[イギリス・ピューリタン革命の土地改革]
 17世紀中葉に,絶対王政を廃絶した勢力の議会的重商主義といわれる諸政策の一環としてなされた。15世紀以来の賦役の金納化,商人的新地主層の進出,独立自営農民の成立,共同体の解体傾向などによって,イギリスの農奴制は事実上崩れていたが,この線を延ばして近代的大土地所有と資本家的大借地農の形成をもたらす政策がとられた。…

【ピューリタン】より

…ニューイングランドでは祖国イングランドで達成できなかった改革の理想を〈神政政治〉として実現しようとした。 しかしイングランドではチャールズ1世の即位後ピューリタンに対する弾圧は激化し,ついに40年長期議会召集を機にピューリタン派が多数を占めた議会と国王とが衝突,ピューリタン革命が起こった。43年からウェストミンスター教会会議が開かれ国教会を長老教会体制に改革する計画が進められたが,戦争の推移の中で独立派が優勢となり,49年チャールズ王を処刑しO.クロムウェルによる独立派主流の共和政が敷かれた。…

【マグナ・カルタ】より

…むしろ中世末から16世紀いっぱいまではマグナ・カルタは現実政治でほとんど何の役割も演じていない。イギリス立憲政治の発展にとって決定的な時期は,ピューリタン革命と名誉革命とで特徴づけられる17世紀である。マグナ・カルタが今日のように立憲政治の礎としての意義をもたされるのは,この時期にスチュアート朝の専制政治と戦った人々がみずからの主張のよりどころをここに求めたことから始まる。…

※「ピューリタン革命」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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