カナダのシンガー・ソングライター。アルバータ州マクロードに生まれる。本名ロバータ・ジョーン・アンダーソンRoberta Joan Anderson。自立した女性の生き方が議論され、ポップ・ミュージックとアートの境界が消えた1960年代の時代精神を成熟させたシンガー・ソングライターの代表である。
ミッチェルはまずフォーク・シンガーとしてキャリアをスタートさせるが、彼女自身のパフォーマンスよりはむしろ自作曲が高く評価される。ミッチェルの作品を取り上げたのは、ボブ・ディラン、フェアポート・コンベンション、ジュディ・コリンズJudy Collins(1939― )、ナザレス、ジョニー・キャッシュJohnny Cash(1932―2003)、そしてクロスビー・スティルス・ナッシュ&ヤングなどである。
10代でトロントのフォーク・ソング・クラブで活動を始め、1965年にはアメリカ、デトロイトに拠点を移す。1966年にはニューヨークに移り、リプリーズ・レコードと契約。『ジョニ・ミッチェル』(1968)、全米ヒット・チャート・トップ40入りした『青春の光と影』(1969)をリリース。前者には「イースタン・レイン」「サークル・ゲーム」、後者には「青春の光と影」などのスタンダードになったナンバーが収録されている。続く『レディーズ・オブ・ザ・キャニオン』(1970)、『ブルー』(1971)、『バラにおくる』(1972)と作品を重ねるごとにスケール・アップしていった。
『ブルー』までの作品はギターの変則チューニングを生かしたものや、ダルシマー、ピアノをバックにシンプルに歌われていたが、『バラにおくる』からはジャズの要素が取り入れられ、ミッチェルはサウンドの実験に取り組む。当初はトム・スコットTom Scott(1948― 、サックス)がリーダーを務めるL.A.エクスプレス、次いでウェザー・リポートと、エレクトリック・ジャズ、フュージョン・ミュージックの最先端グループとのコラボレーションを通じて、レベルの高い作品を相次いで発表した。
『コート・アンド・スパーク』(1974)で、それまでのフォーク的な作品にロックン・ロールとジャズを融合することに成功すると、『夏草の誘い』(1975)ではよりフュージョン・ミュージックに接近する。『逃避行』(1976)は、天才ベーシスト、ジャコ・パストリアスをフィーチャーし、ジャズ的な要素を吸収した実験的サウンドを焦点にミッチェルの新しい世界は完成された。ウェザー・リポートの全面的な協力のもとで制作された2枚組アルバム『ドン・ファンのじゃじゃ馬娘』Don Juan's Reckless Daughter(1977)は、前作に第三世界の音楽に対する視点や組曲風の壮大な曲も加わった、ミッチェルの創造力の頂点を示したアルバムである。続いて、ジャズ・ベースの巨人チャールズ・ミンガスの曲にミッチェルが歌詞を付けた『ミンガス』(1979)ではより前衛的なアプローチをみせ、リスナーを驚かせた。この路線の集大成が2枚組ライブ・アルバム『シャドウズ・アンド・ライト』(1980)である。その後、音楽的に新たな展開はないが、質の高いアルバムで存在感を示している。
[中山義雄]
アメリカの女流小説家。11月8日、南部のジョージア州アトランタに生まれ育ち、両親とも南部の歴史に興味をもっていたため、幼いころから南北戦争についてさまざまな挿話を聞いた。スミス・カレッジを中退後、アトランタで数年間新聞記者を勤めたが、足を痛めたため辞め、1926年から10年がかりで南北戦争にまたがるロマンチックな歴史小説『風と共に去りぬ』を書き上げた(1936刊)。旧南部の視点から書かれたこの小説は、爆発的人気を得て、ベストセラーの記録を更新し、発刊当時1日に5万部、半年間に100万部売れたといわれる。37年にはピュリッツァー賞を受け、彼女の存命中に18か国語に訳され、発行部数は800万部を超えた。49年8月16日、アトランタで自動車事故で死亡した。作品は長いあいだこの一冊しか残されていないと思われてきたが、95年に未発表作品、『ロスト・レイセン』(1916)が、知人宅から発見されたことが明らかとなった。
[松山信直]
『R・ハーウェル編、大久保康雄訳『「風と共に去りぬ」の故郷アトランタに抱かれて――マーガレット・ミッチェルの手紙』(1983・三笠書房)』▽『A・エドワーズ著、大久保康雄訳『タラへの道――マーガレット・ミッチェルの生涯』(1986・文芸春秋)』▽『テブラ・フリアー編『ロスト・レイセン』(1996・講談社)』
イギリスの生化学者。ロンドン郊外のミッチャムに生まれる。クイーンズ・カレッジ、ケンブリッジ大学で生化学を学び、1951年博士号を取得した。ケンブリッジ大学で助手を務めたのち、1955年エジンバラ大学に招かれ、1961年講師となった。1963年大学を去り、コーンウォール県のボドミンでグリン研究所を設立した。この研究所はミッチェルの個人的な研究所といえるもので、そこで研究生活を続けた。
細胞がいかにして外部からエネルギーを獲得するかについて考察した。細胞のエネルギー代謝にアデノシン三リン酸(ATP)が重要な役割をしていることは知られていたが、そのメカニズムについては解明されていなかった。ミトコンドリアの膜内外で生じる水素イオンの電気化学的勾配(こうばい)がATPの合成の元になるという「化学浸透圧説」を提唱した。1961年にこの説が発表されたときは疑問視する声が大きかったが、やがて実証され、認められるに至った。1978年この業績に対してノーベル化学賞が与えられた。
[編集部]
アメリカの神経病学者。フィラデルフィアの生まれ。1850年ジェファーソン医学校卒業。その後パリへ遊学してベルナールに師事する。帰国後ペンシルベニア大学教授に就任。南北戦争に際してはフィラデルフィアのターナー・レーン病院で多くの神経外傷患者を診療し、1872年に『神経損傷とそれらの結果』を著した。そのほか、灼熱(しゃくねつ)痛、皮膚紅痛症を最初に記載し、神経痛の治療に「ウェア‐ミッチェル法」といわれる療法を創案した。また毒矢や蛇毒の毒性およびモルヒネの生理学的作用を研究し、さらに詩や歴史小説の分野でも優れた天分を発揮した。1901年(明治34)に来日。
[大鳥蘭三郎]
アメリカの経済学者。イリノイ州に生まれ、シカゴ大学で学ぶ。1899年に同大学で博士号を取得したが、その後もさまざまな大学から学位が贈られている。彼は当初、統計局に勤務したが、1900年にシカゴ大学の教員になり、02年にはカリフォルニア大学の経済学教授に就任した。その後、コロンビア大学の教授なども務めている。その間にNBER(全国経済調査会)理事長などの公職に携わり、またアメリカ経済学会の会長などにもなった。彼はアメリカの制度学派の学風を受け継ぎ、景気循環などに関する実証研究の分野でとくに著名な業績を発表している。
[笹原昭五]
『W・C・ミッチェル著、春日井薫訳『景気循環Ⅰ――問題とその設定』(1961・文雅堂書店)』▽『W・C・ミッチェル著、種瀬茂他訳『景気循環』(1972・新評論)』
アメリカ陸軍の戦略爆撃思想の開拓者。フランスに生まれ、1898年アメリカ陸軍志願兵となる。第一次世界大戦に従軍し、ツェッペリン飛行船や、イギリス爆撃機の空襲を見て、帰国後は空軍万能・陸海軍無用論を唱える。1921年にニューヨークで標的艦を爆撃により撃沈し、自説を立証するが、保守的な陸海軍幹部に反対され、軍法会議で有罪となる「ミッチェル将軍反抗事件」を起こした。曲折ののち、1933年に戦略爆撃機の開発が決まって、爆撃機部隊の創設になった。
[青木謙知]
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
アメリカの経済学者。景気循環についての実証的研究を行った。シカゴ大学で経済学者T.ベブレンおよび哲学者J.デューイの影響を受け,コロンビア大学などで経済学を教えた。1920年に全国経済調査会National Bureau of Economic Research(NBER)を組織し,45年までその会長を務めた。また戦時産業局物価部主任(第1次大戦中),フーバー大統領の社会趨勢(すうせい)調査会委員長,全国計画局メンバー(1933),全国資源局メンバー(1934-35)として活躍した。彼の研究の特徴は,多くの経済時系列の動きを検討し,アメリカのみならずヨーロッパ諸国について,景気循環の山と谷の日付けを検討したことにある。しかし,その研究は,T.C.クープマンスによって〈理論なき計測〉という批判を受けた。著書には,《景気循環》(1913),《景気循環--問題とその評価》(1927),A.F.バーンズとの共著《景気循環の計測》(1946)などがある。
執筆者:藤野 正三郎
アメリカの陸軍少将。空軍創設に力を注いだ先駆者の一人で,第1次世界大戦直後に陸軍,海軍に対する航空戦力の優位と,陸軍,海軍から空軍の独立を主張し,戦略爆撃を提唱した。フランスのニース生れ。1898年陸軍に志願し米西戦争に従軍。1909年陸軍指揮幕僚学校を卒業。15年飛行技術を修得し,第1次大戦中は在フランスのアメリカ陸軍航空部隊指揮官(パイロット)として功績を立てる。21年陸軍航空隊副司令,同年,艦艇を爆撃によって撃沈できることを実験により証明した。陸軍,海軍に分かれていた航空部隊を空軍として統一することを主張し,陸海軍の政策を激しく批判した。これにより告発され,25年軍法会議で停職5年の有罪判決を受け,26年退役した。以降,講演,著作等によって彼の理論の実現に向け活動を続けた。
執筆者:田尻 正司
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
イギリスの生物化学者.1942年ケンブリッジ大学を卒業後,同大学の生物化学部の研究員になり,1951年学位を取得.同大学に務めた後,1955年エジンバラ大学に移り,1962年同大学の教授(Reader)になった.健康を害してしばらく研究から遠ざかっていたが,1964年兄や友人とともにGlynn Research 社を起こし,研究部長を務めて同社の研究所を運営.細胞内のミトコンドリアあるいは葉緑体内でのATP合成機構を研究し,生体膜を介した水素イオン濃度勾配が原動力となるという化学浸透圧理論を提唱した.生物エネルギー変換に関する業績で,1978年ノーベル化学賞を受賞した.
出典 森北出版「化学辞典(第2版)」化学辞典 第2版について 情報
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報
…すなわち景気循環とは,生産物,資金,労働の3市場における物価,利子率,賃金率という価格変数のインフレ率,および産出量,資金量,雇用量という数量変数の成長率に,ほぼ同時的に現れる循環的変動状況であり,それにはある程度安定した1年以上の周期がある(藤野,1965)。これに対してバーンズA.F.BurnsとW.C.ミッチェルは,1947年に次のように定義している。景気循環は,主として私的企業により,その活動を組織する国々での全体としての経済活動にみられる変動の一つの型である。…
…その先行―遅行関係を使って,先行的に動く経済量の動きから,それに遅れて動く他の経済量の動きを予測するいき方で,それは原則的に短期予測の手法である。この予測手法はW.C.ミッチェル,バーンズArthur Frank Burnsらアメリカ制度学派の人たちを中心に,その研究が進められてきた。 ここで使われる経済量間の先行―遅行関係は,一つずつの経済量の間の時間的前後関係の代りに,それぞれ複数経済量から成る先行グループ―遅行グループといった,異なった経済量グループ間の時間的前後関係をとることもできる。…
…これに加えて,ソーシャル・ダーウィニズムの社会観やプラグマティズムの認識論の影響もあって,アメリカに特有のインスティチューショナリズムつまり制度主義の経済学派が成立したわけである。その先史としては,R.T.イリーやJ.B.クラークといったドイツ歴史学派の洗礼を受けた経済学者の仕事を挙げることができるが,制度学派を確立したのはT.ベブレン,J.R.コモンズそしてW.C.ミッチェルである。この3者の間にも多くの理論的および思想的な違いがあるが,おおまかにくくれば,功利主義的な快苦の心理法則にもとづく個人主義的社会観にかえて,政治的,社会的そして文化的な諸要因との深いつながりのもとに創造され進化していくものとして経済制度をとらえる観点を採用するところに,制度学派の本質がある。…
…第1次大戦における航空機の活躍に関心をもったイギリスは,資源と予算の効率的使用をも考慮して,18年4月,第3の軍種として空軍を独立させ,敵領土攻撃のための爆撃機と国土防衛のための戦闘機の整備を推進した。1920年代イタリアのG.ドゥエやアメリカのW.ミッチェルなどが,大型爆撃機で敵の軍事,工業,政治の中心を反復爆撃することにより軍需生産を崩壊させ,国民の抗戦意志を挫折させることが可能であり,航空戦力が戦争の勝敗を決定するという空軍万能論を展開した。第1次大戦以来の作戦教訓,航空兵器の進歩は空軍万能論と相まち,従来の陸・海軍支援(協同)作戦とともに独立して行う戦略航空作戦思想を定着させ,逐次イタリア,カナダ,ドイツ(1935年再軍備時)などが空軍を独立させた。…
※「ミッチェル」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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